綿密にミーティングを重ねて業務を洗い出し、絶対に慌てなくて良いスケジュールを作っても、年末はどうしても駆け足になる。
寒気をため込んだ肉厚な灰色の雲の下、控えの送迎車5台の洗車を終えて事務室に戻ると、無人の室内でストーブが橙の炎を燃やしていた。エアコンはあるが、出入りの多い事務室の熱はすぐ逃げるので、ストーブが欠かせない。壁にはり出されているすでにズレたスケジュール表を見ながらストーブの前に座り、手をかざす。
水と同じ冷たさになり、ひりつく指先にハンドクリームを塗り込もうとしたが、かじかんだ指で引き出しを開く気にならず、目を閉じる。全身が上から押さえつけられているみたいだ。疲れた。
年末年始、暦、四季。すべて生きる人間の決め事で、本来はただ連続する時の流れでしかない無常を術師になって何度も感じる。
しかし人間だからこそ、12月と聞くとなぜか物悲しい気持ちになって、元旦と聞くとなんとなくそわそわする。術師としては繁忙期ではないが、高専に所属していると繁忙期だ。年末年始は気持ちも仕事も急かされる。けど、この空気は好きだ。
体がゆるやかに熱を取り戻して来た時、目の前が陰った。

「なまえ先輩〜。ハンドクリーム出し過ぎちゃった、もらって〜」
驚いてパイプ椅子ごと体が揺れて、派手な音が出た。ハンドクリームを手に出した五条が目の前に立っていた。洗車をすっぽかし、3時間前に探し回った時は影も形もなかったのに。返事を待たず、五条は私の手にハンドクリームを塗りつける。いやなすりつける。
「ボディタッチが上手い女子みたいなことするな。しかもこれ……私のハンドクリームを勝手に出し過ぎるなよ……ちゃんと五条は塗った?」
五条の手にはさっき諦めたハンドクリーム。引き出しを開ける音がしなかったので、一体いつから持っていたのか。
「いや、これしたかっただけで僕の手は一切荒れてないし。無限があるから」
そう言いつつ、五条は手に残ったハンドクリームを無限にすり込む。無限を保湿するな。きっちりと塗り込んだ手を差し出して来たので、五条の手の下に私の手を差し出すと、無限が解除され、ぺろりと薄い膜の形になったハンドクリームが空中でリリースされる。

「それにしても、この今五条がしたこれ、名前ほしいな」
「なに?」
「ハンドクリームもらって〜ってやつ」
「ハンドクリーム譲渡会」
「それで行こう」
「会話投げすぎでしょ。誘ったくせに」
「いやあまりにもしっくり来たから。……話が逸れてた。洗車の集まりサボるなよ。学長怒ってたよ。五条の代わりにパンダくんが手伝ってくれたからよかったものの」
「年末に親子の交流を提供できてよかったじゃん」
「きれいな言い訳を……」
五条は伊地知くんの椅子を転がしてくると、ストーブを挟んで向かいに座った。長い足は容易に私のテリトリーを侵し、五条の両脛が揺れて、私の両脛の外側へメトロノームのようにぶつかってくる。無音のふれあいは一種のマッサージのようで、すこし心地よい。
エアコンの風で揺れる1枚だけになったカレンダーを眺めると、あと2週間と少しで今年も終わりだ。今年も早かったな。
「今年は……初詣行けるかなあ」
「行けんじゃない?今年は年末に任務はないでしょ」
クリスマスもまだなのに、気が早いねと五条は首をかしげた。

術師の年末年始予定は真っ二つに割れる。血筋と術式が直結するため、平成においてもしっかりと硬い家文化が根づいた術師は少なくない。なので、実家に戻らなきゃいけないので任務を入れないでくれ派と、実家に顔を出したくないから任務を入れてくれ派で割れる。非術師家系は逆に家族と疎遠になった者が多いため、どちらでもいいか、年末くらいゆっくり過ごしたい派で割れる。私も学生の頃は実家に帰っていたが、今は帰れたら帰るくらいのスタンスで、任務があれば入るし、なければ初詣に行くくらいだ。
「先輩は行けたら何神頼みする?かわいい僕との幸せな新年?」
「世界平和と健康」
「医者が無病息災祈るようなもんじゃん」
「夢だよ夢。五条は?」
「うーん。僕は生徒の健康と上層部の不健康かな」
「実質私と同じじゃないか」
「そうそう」
五条はひとしきり笑うと、うつむいてスマホをいじりだす。今の機種は古くて五条の手には随分小さい。新しいのに買い替えたらと何度か促したが、ポケットにしっかり収まるからこのサイズがいいらしい。
「この神社の、元旦限定のおしるこが美味しいらしいんだよね」
突き出されたスマホの画面。古びた鳥居と狛犬が座る神社の外観は、このあたりでは見たことがない。どこだ?画面をスクロールすると、出てきた住所は近畿地方。
「遠いし、これ車で行くやつ。私もお神酒を飲みたいから嫌だよ」
「なら硝子も誘おう」
「運転できない人が1人増えるだけでは……」
五条は免許をもってるのだけど、自宅のどこかにあるといって不携帯のため運転させられない。硝子ちゃんは運転してくれるが、お酒を我慢させるのは酷だ。

窓からの景色が白く霞む。雪がまた降ってきた。
「僕、なまえ先輩の車でないと出たくないなあ」
冬の季節なのに、初詣は人の生であふれている。いつもの都会の人混みと違い、喜びとプラスのエネルギーにあふれている。だから1年に1回くらいは、あぁいう人々を見ておかないと足元がぐらつく気がするのだ。私みたいな死体や血だらけの現場や、どうしようもない人間を見て、立場が曖昧になっている術師は。五条はそうはならないだろうけど、でも暖かい景色を一緒に見て欲しいと思う。
そして、先程からやまない脛のぶつけ合いが、長距離運転を渋る気持ちをあやすように取り払っていく。
「じゃあ31日の夜から、3人で行こうか。戻って来たら都内も行こうね」
五条の口角がぐっと上がる。私の車も洗車して片付けないとな……。温まった手をこすると、多すぎたハンドクリームが浸透せずにべたついていた。
「ハンドクリーム譲渡会」
そう伝えると、五条は両手をこちらへ差し出した。
両足と同じく簡単にストーブを超えて来る。ハンドクリームを彼の指の先、股、手の甲へ塗りこんでいく。私より関節ひとつ大きい手だ。呪具の扱いがあるから、私の方が肉刺だらけで掌は硬いけども。
五条の指は関節の存在がしっかりとありながらも、長い指に形のいい爪。太さも、肉付きもそれなりにある。全身のバランスから計算された、この形が最高の比率だといわんばかりの手だ。形が整っている、という言葉が似合う。確かに乾燥も荒れもひとつもない。
じっとその指先をみつめる。この指先ひとつで山を削り、地を割り、肉を裂く。それが私に向けられていることは、存外心地よかった。

「先輩、ハンドクリームの塗り方がエッチなんだけど……さとる、期待してもいいの?」
「そうだねエッチエッチ」

2020-12-19 冬シリーズ
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