様々な夕飯の匂いが漂う時間。
温かい湿度を連れてほのかに香る出汁の匂いに足が止まった。
心惹かれたわけではない。
匂いの元が無人のはずの自宅だからである。
加湿器に出汁を入れ、強モードにしてから部屋を出ないかぎり、1人で住んでいる家からこんな匂いはしない。恐る恐る自宅の鍵を回すとドアが開かなかった。中から「いま開けるよー」と声がして、鍵がまた回転する。元々鍵が開いてたようだ。中にいる存在の強さを考えると、空き巣が危険だからちゃんと締めてほしい。

「おかえり。僕にする、それとも僕にする?」
「ご飯を」
「はいはい僕ね」
ドアが開いたと同時に飛んで来た青い目のウィンクは、北海道の端からとんぼ返りして来た疲れた体に効いた。私はアイマスク姿の方はカッコよくて、何もつけてない姿の方は可愛いと思っているのだけど、五条は何もつけずにキメ顔を作る。これは言わないでおこう。アイマスクを絶対外してくれなくなる。
シューズボックス上の鍵置きに今日の仕事を失った私の鍵を置こうとすると、すでに1本入っていた。五条の持ち物になった私の部屋の合鍵。これは私が家にいる時にだけ使ってくれと言っているのに守られたことがない。けど、夕飯があるのには助かったので今日は怒れないな。
疲れから知らない店に入るのは億劫で、知ってる店を考えながら歩いていたら外の匂いで満足して家に着いたから。

コンロの上には、久しぶりに大きな鍋がとろ火にかけられて乗っている。
「鍋料理?」 
「いや、おでんだよ。急に食べたくなってさ。外食しようかと思ったんだけど、自分で作らないと納得しないものってあるよね」
「……いや、特にないですね」
「料理できない人はこれだから」
「料理できる人はこれだから」
私だってカレーやチャーハンは作れる。けど私の腕前ではその道のプロが作った方が美味しいので、自分で作らないと納得できないものはない。
着替えてリビングに戻ると、狭いキッチンで五条は味をみて、鍋を持ち上げた。
「ほい、じゃあテーブルの真ん中あけて」
五条が持ってきた大鍋が一気にダイニングテーブルの中央を占領した。
蓋を開けると、大根、厚揚げ、こんにゃく、たまご、椎茸、巾着、牛すじ、ちくわぶ、じゃがいも、そして見慣れない小さなさつま揚げのようなもの。
それらが見えない仕切りがあるように、自分の陣地からはみでないように並んでいた。具材の並べ方の綺麗さに、五条の育ちの良さが出てるなぁ。
「朝から作ったけど、僕のマル秘テクで味はガッツリしみてるから」
「朝からウチにいたんかい」
「まあまあ、これ食べてみてよ。1番時間をかけたからさぁ」
串に刺さった牛すじを指さされる。お先にいただくと五条の言う通り、しっかり出汁が染み込んでいて、普通なら一晩必要なコクだ。とても朝から作ったとは思えない。
「肉が口の中でほろりと崩れる……。煮詰めたとは思えない味の濃縮……牛肉の点滴……」
「なまえ先輩、食レポレベルが上がったね」
「ありがとう。美味しい」
「どうも。やーしかし、牛すじがおでんに入ってると先輩のおでんって感じだね」
五条は冷蔵庫からオレンジジュースを2缶取り出し、お互い牛すじをつまみながら乾杯した。

▼ ▼

懐かしい記憶だ。
高専の冬は厳しい。高い山のてっぺんにあるのですぐに冷え込み、雪が雨くらい気軽に降る。そんな時、体は温かい食べ物を求める。夏なら冷たいものが欲しくなればアイスで満足だけど、冬はとにかく温かくてコンビニのレジ横にあるタイプのものが食べたくてしょうがない。けどわざわざ下山するのはキツい。
そんな冬、歌姫先輩との雑談電話でおでんの話題が出た。
『おでんは牛すじと大根でしょ』
おでんに牛すじ……?
私の地元にはなかったが、歌姫先輩の地元ではメジャーな具らしい。
そこから地域ごとのおでんの違いについて調べると、味や具の違いがざくざく出て来た。
ベース違いによる汁の色、練り物派、タコ・牛すじ派、海鮮派、モツ入り派、関東・関西ですじが異なる、ちくわぶの素性などなど。
家のおでんは関西のおでんに近いのに牛すじは入ってなかったな、と実家のおでんを思い出す。

積もるおでん欲。
そして私はおでんを作ることにした。幸い簡単なキッチンは部屋についているし、おでんは下ごしらえが大変だが、基本切る作業がメインで、刃物の扱いは得意だから丁寧にやれば料理経験が乏しくても大丈夫。最難関の味は、実家でも使っていたおでんの素を使えば問題ない。保存も空っぽの冷蔵庫へ鍋ごと入れればいい。
そうして高専の1年目の冬を、私はおでんと乗り越えた。


「なんかなまえ先輩の部屋、いい匂いしねえ?」
2年目の冬。後輩の五条が私の部屋に来て、敏感に出汁の匂いを察知した。その言葉を聞いて気がついた。体格のいい成長期男子に見つかればおでんはすぐに消える。
だが見つからないと確信していた。おでんは冷蔵庫に入れる前に粗熱を取るため、今お風呂場に置いている(1番寒い場所がここだった)。
別に隠しているわけじゃないが、運良くそこに置いた。そして五条は絶対に私の部屋で風呂場に入らない。1度開けたときに「なんか女子の匂いがする……」とよく分からないことを言って、その後ドアさえ開けない。
インスタント味噌汁の匂いかな。そう適当にごまかすと、俺も飲むと五条が立った。その足音を聞きながら雑誌をめくった時、ギッ、と嫌な音がした。あのドアの音は、風呂場のドア。

「なまえ先輩がおでん作ってる!!!密造おでんじゃん!!」
大声は寮に響いた。おでん作りに合法も非合法もない。しかし五条の声で瞬く間に集まった傑と硝子ちゃん、そして五条に密造おでんは食べられた。
私は「後輩達の空腹に同意していたのに部屋でおでん食べていた罪」によって後輩達におでんを作る社会奉仕を命じられた。今考えると、みんな部屋に冷凍肉まんやあんまんなど備蓄していたのに、なぜ私だけ罪に問われたんだ?密造中華まん罪じゃないか??
おでんはその後、進化を遂げた。
育ちや好みの違う4人が集まって、最初はたまご、こんにゃく、大根、牛すじしか入ってなかったのに、五条が巾着、硝子ちゃんが椎茸、傑がじゃがいもを入れた。出汁は相変わらず顆粒おでんの素に頼っていたが、現在2人で食べるようになってからは、おでんの出汁は五条が調合して作っている。

▼ ▼

「最初牛すじ入ってて、おでんって一瞬分からなかったよね」
「東京も牛すじ入れないんだっけ?」
「文化的にはそうらしいね、僕の実家でも入ってなかったし。でも最近は入れる所も増えたよ」
「確かに……。このさつま揚げなに?」
「これね。中にチーズ入ってるの。この前、硝子と伊地知と行った居酒屋でつまみで出てさ。入れたら美味いかなって」
「……美味しい。五条が作るおでんは濃いよね。好き」
五条のおでんは甘辛い関東味だ。甘狂人だけど、料理においてイカれたものは絶対に出さないし、味覚が鋭敏なので何を作ってもとにかく美味しい。
「僕は先輩が作ってくれた色が薄いおでんが好きだよ。甘さがちょっと違う。出汁かな」
「あれは全て市販のおでんの粉の力だよ。買っておこうか?」
「えー、僕みたいに愛情こめて出汁から作って」
「永遠に同じ味に辿り着かないよ。私は五条が作るのが好きだから、これがいいなあ。お礼に去年サイズが足りなくて寒そうにしてた羽毛布団、今年は大きいの買ったからそれ出す」
「僕、今日は泊まるって言ってないけど」
「泊まって行きなよ」
「なまえ先輩がそこまで言うならしょうがないね」

青い目が細まり、湯気で白い髪が少し下がる。五条はオレンジジュースを飲み干すと、追加、と言って席を立った。
五条の機嫌が飛び抜けて良さそうに見えるときは、本当にいいか、真逆の気持ちを抑えようとしているかのどちらか。歳を重ねる程、五条は感情を露わにしなくなった。
味の染みたじゃがいもを割る。付き合いが長く、大切にしたい相手ほど、慣れに甘えず重要な部分で雑に扱わない。これが今の気持ちだと彼は言っていた。
繁忙期は終わり、教師の五条の手が空いた休みの日。それなのにまる1日私の家に籠ったのは、本当に機嫌が良くておでんを作ってくれたのか、何かがダルくなって逃げて来たか。今までどちらもあった。
「なまえ先輩も飲む?」
「私はお茶淹れようかな」
「僕の分も淹れて」
「もちろん」
今日がどっちなのかは、ベッドの中で五条を温めてから聞こう。

2020/12/02
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