※名前付きのモブが出ます



眠っている時に、私は必ず右に寝返りをうつ癖がある。
大学にいた頃、家へ帰るのが面倒で研究室のソファで寝ていてついた癖だ。ベッドにしていた長い革製のソファは研究室の端にあり、隣にドアがあった。だからドアの開閉音から逃げるためにドアの方へ足を向けて横になると、体の右側に背もたれが来る。座席と背もたれの境界にねじ込むようにしっかり体を入れる。そして右に寝返りをうち続ければ背もたれの方に回転して、絶対にソファから落ちることはない。

ぼんやりと意識が上がってくるけど、天井にあるいつものくすんだ蛍光灯が見えない。誰か毛布でもかけてくれたのかな。仰向けになっている。危険だ。
右に寝返りをうつと、じわじわと背もたれから熱が伝わってくる。温かい。座席も柔らかい気がする。ソファは皮が所々剥がれて、黄色いウレタンが飛び出てへたり、腰のあたりにいつもスプリングの存在を感じて外に飛び出してこないかとひやひやするが、今日はそんな感触もしない。温かい背もたれに体を押しつける。心地良いし、なんだか肌ざわりも香りもいいし、しかも音がする。

とく、とく、とく、等間隔にきざまれる音がまた眠りを誘うので、深い方へ落ちそうになった時、音が早くなった。なんだろうこれ。壁時計の電池が切れそうになって、秒針が止まりかけているのだろうか。疑問が眠気を押しやり音の元を探りたくてさらに背もたれに身を寄せると、動いた。背もたれが回転したのだ。目を開けても暗いだけで、反射的に背もたれにしがみつこうとすると、その腕を掴まれた。

「え」
「寝ぼけてます?」
「………………ますね?」
「……寒いならかけるものを増やしますが」
背もたれだと思っていたのは、横に寝ていた七海さんの背中だった。
その背中は鍛えあげられ、体幹もしっかりしているのでまさに壁のようだ。私が全力でぶつかったら私だけ反動でダメージを負うだろう。だから寝ぼけて背もたれと間違うのは仕方ない。仕方ない?仕方ないなぁ。
「寒くないです………寝ぼけて勘違いしました……起こしました?」
「いえ。起きて朝食を作ろうか悩んでいました。今日はお互い休みですし、起きるのには早いかと」
そうだ、家だった。しかも有給。今でも寝ぼけるとたまに大学と家を間違えるし、講義に遅刻する夢もみる。
七海さん越しに目覚まし時計を見ると、7時45分を指していた。平日にこれだけ寝られたら嬉しいが、休日ならもう少し寝ていたいライン。秒針の動きを追っていると、また眠くなってきた。
七海さんはスマホを目覚ましにしない。寝るときにスマホをそばに置きたくないらしい。
枕に頭を預けると、体の向きを変えた七海さんと向かい合って目があう。
「七海さん、今日は隈が薄いですね。触ってもいいですか?」
頷いてくれたので目の下をさすってみると、いつもより涙袋のあたりの体温が高い。その気づきは、私を夢の余韻からひっぱりあげた。
「会社員の頃から染み付いたように取れなくて。最近よく眠れるので、そのせいでしょうね」
七海さんは髪が伸びて、使うジェルの量が増えたからヘアスタイルはますます乱れることが無くなった。だからこうやって髪を下ろして表情を緩ませ、顔に落ちる影もないと昼間よりとても幼く見える。いや、やっとこれで平均的な27歳かな。スーツの七海さんはもっと年上に見えるから。さらさらした髪が枕に散らばり、レースカーテンの隙間から入ってきた光でゴールド、ベージュ、キャメル、様々な色に見えた。
「もうひと眠りして、今日をどうするか相談しましょう」
七海さんが私の手を握る。
その掌は前まで肉刺が何度もつぶれて固く、少し乾燥していた。
最近七海さんはこまめに手にヴァセリンを塗っている。冬が近づくと乾燥するのかなと思っていたが、それを五条さんに見られて「ほら見て!なまえと手を繋いだ時に、やだ!カサカサ!!って言われないためだよ」と揶揄われた時、七海さんは思いきり額に青筋を浮かべたけど否定しなかった。
七海さんの手は、前より柔らかくなった。もうあのカサつきを今は全く感じない。今の肌触りも好きだけど、カサついた手も好きだ。欲張りだな自分。


温かい熱と匂いの中でまた眠りに落ちようとしていたとき、遠いのに確実に目を覚まさせる音がして、反射的に体が起き上がる。
「……すみません……私のスマホです」
計画していた有給日の朝。こんな時の着信は緊急の任務しかない。ベッドから飛び降りて自室においていたスマホを握ると、表示された名前は予想していた誰でもなくてぎょっとした。房北。房北準1級術師。

『朝早くにごめんねみょうじさん。今通勤中かな?』

恐る恐る出てみると、好青年風の爽やかすぎる声。紛れもなく京都の房北術師だ。
「おはようございます房北さん……今日は有給を取ってるんです」
『そうなの!?悪かった。でも好都合だ。今日仕事で東京にいて、東京観光に付き合ってほしくてさ』
「は、はぁ……?」
『夜蛾学長に上手く言ってみょうじさんのスケジュールを融通しようと思ってたんだけど、助かったよ。あの人怖いからさ。今日は何時から暇?』
「暇ではないですね」
『そうなんだ?急だったもんね。仕方ないか。明日は仕事?』
「ええ、はい」
『なら明日融通してもらうから、明日は俺と東京観光ってことで。いいかな?』

軽快なテンポで会話は進むのに、できあがるのは私にしか聞こえてない不協和音だ。
よくないよと言いたいのをぐっと飲み込んで「業務次第ですね、今すごく忙しいので」と、遠回しに“無理”を伝えるが。
『なら午後から休みを取ろうよ。大丈夫!俺から口添えするから。また明日連絡するね!』
無視されて切られた。強い。
社会人は大変だ。学生の頃は、無理ですね・違いますね・遠慮しますね。で振り切れたことができなくなる。チームの仕事なのできっぱりと断ると回り回って誰かが損をする。

房北準1級術師とは京都出張で出会った。
実力はあるけど、やたらべたべた距離が近く、あまり私と気が合わない人だった。出張最終日に京都観光に誘われたが、運良く京都の学生さんが先に誘ってくれていて一緒に出かけることはなかった。
その後東京に帰って、彼は女性の術師や補助監督と遊びたがると一部に有名だと新田ちゃんに教えてもらった。
“一部”なのは、決まって彼が声をかけるのが“非術師家系や自分より小さい家系出身”かつ“自分より等級が低いか補助監督”の女性に限定しているから。この条件をクリアしない相手の前では、とても紳士で常識的な術師として振る舞うらしい。
「条件を常に守るのは、その女性が騒ぎ立てても揉み消せるからっスよ。マジでクソ術師っス。絶対ふたりっきりなっちゃ駄目っスよ」
そう新田ちゃんは怒っていた。しかも学生にも声をかけるらしい。
私と房北さんは歳が1番近いし会ったこともあるから今回声がかかったんだろうけど、断れば新田ちゃんや野薔薇ちゃんへ行きそうだ。新田ちゃんは……わからないけど、野薔薇ちゃんは絶対断るだろう。けど断ってもし将来、任務で組むことになったら。現場でふたりのサポートをワザとしないで死なない程度に痛い目に合わせる、なんて彼と組んだ経験から簡単に想像できた。
普通の会社とか組織なら彼の様な人は相手にしないのが1番だが、命の駆け引きがある現場で連携に影響がありそうなことはなるべく避けさせたい。
……やめよ。明日考えよう。今日はせっかくの有給だ。出そうなため息を飲み込んで部屋を出ると、七海さんがドアの前に立っていた。

「急ぎの任務でしたか」
「いや……その……房北準1級術師を知ってます?」
「京都の術師ですね」
七海さんは……信じてくれるだろうか。いや1級の七海さんに房北さんがまともなフリをしてないわけがない。恐る恐る話を続けていくと、七海さんは細かく相槌を打ちながら最後まで聞いてくれたが、そうでしたか、と言うとベッドのあるリビングに戻ってしまった。やっぱり信じられないよなあ。房北さん、京都では準1級以下の術師の相談役もしていると聞いた。相当信頼を勝ち取っているはず……。適当にスカイツリーとか東京タワーとか、東京都庁第一本庁舎とか、サンシャイン60とかにでも行くかなぁ。
私もベッドに入ろうとリビングに続くと、七海さんは今度は自分のスマホを持って立っていた。
「私が話をつけるので、明日は行かなくていいです」
七海さんは電話をかけ始める。……話をつける……話をつける!?……誰に!?休み取らせないように学長とか??
「おはようございます房北さん。七海です。はい、ご無沙汰しております。先程みょうじ術師に電話された件について少し伺いたくて」
直球房北さんだった。
信じてくれたことに嬉しさはあるが、それを上回る心配が気持ちをかき消す。房北さんは面倒な人だ。七海さんに迷惑がかかる。こうなったら東京の展望台全部行くみたいなダルい観光コースに付き合わせてやろうと両手を振ったが、七海さんは頷き、通話をスピーカーに切り替えた。違う。

『お久しぶりです!先程の件ですか……あの、七海さんは彼女とどういうご関係でしたっけ?』
「私は彼女の教育係です」
『そうだったんですね。失礼しました。もしかしておふたりは一緒の所に?彼女は休暇と聞いていましたが、俺をかわすためにみょうじさんに気を使わせてしまったでしょうか。俺、嫌われてました?』
爽やかな笑い声が聞こえる。いや本当に休暇だっての。
「いえ。みょうじさんは本日有給を取られています。間違いありません。ですが状況を偶然耳にして連絡しました」
『お休みなのにおふたりでいるとは、随分教育熱心なんですね。俺はただみょうじさんに東京観光に付き合ってもらうだけですよ。今日の休暇は七海さんに関係あるかもしれませんが、流石に明日の休暇は無関係でしょう』
「ええ。ですが私は教育係ですから。指導相手が業務に専念できるようにバックアップする義務があります。みょうじさんは溜まった業務がありますので貴方のために休暇は取れません」
『そうなんですか。困ったな。そしたら、次の有給の時に付き合ってもらうようにします。それなら教育係の七海さんにも問題ないですよね?』
「そうですね、それはご尤も。なら言い方を変えます。私の妻を個人的な事情に巻き込まないで下さい」
会話が途切れた。
微かに、え、と小さな声が聞こえた後、街の喧騒だけが拾われる。
「貴方の噂はいくつか聞いています。女性職員に対し、かなり無茶な依頼をしているようですね。事実なら問題かと。なので、今後一切私の妻を含め、補助監督、術師等への私的な依頼は控えて下さい。次に確認が取れたらそれ相応の所に私が報告しますので。それでは」
七海さんは返事を聞く前に通話を切り、長く深いため息をつくと無言になったスマホをソファに放った。

どぅわ〜……。かっこいい……。

「有給で隣に七海さんがいるって時点で……察して欲しかった……」
「勿論察してたでしょうよ。ただ彼は非術師家系を軽んじています。だから痛い所をつかれて、上級術師へのゴマすりよりもプライドが勝った。今付き合っていたとしても、自分が勝てると自信があったのでしょうね」
ベッドに腰かけた七海さんの隣へ座ると、彼は自分の目頭を強く摘んだ。確かにすごく眉間の皺が深い。
「引きましたか」
「真逆ですよ!ありがとうございました」
「当然のことをしただけです」
「でもありがとうございます。私じゃ波風を立てない様にしか言えませんし、結局観光に付き合ってました」
「……性別や等級の違いでお互い世界が違うでしょう。特に呪術師界は女性への風当たりが強い。無理や我慢を強いられる時はあるでしょうが、そういう時は相談してください。ひとりで耐えることはありません。私も何かあればなまえさんに話しますから。…………貴女と、学生の頃に会わなくてよかった」
珍しく話が飛躍した。聞き返すと無意識だったのか、きまりが悪そうに七海さんは眉を顰める。
「あの頃の私は、かなり今より気が短かったですし、余裕もなかったので。猪野君は流せますが、他を流すのは無理です」
「え……マジにです?」
「どれが?」
「かなり今より気が短かったって所」
「マジですよ。社会に出て、いろいろ理解して、だいぶ変わりました」
……それは理解なのだろうか。社会にでて、ただ心が摩耗してしまったのではないのだろうか。だって七海さんはいい人過ぎて苦労しているから。もっと尖ったままだったら、もっと七海さんは……。
「なまえさん。こういうことは初めてですか」
「こういうことって」
「誰かにこうやって言い寄られることです」
「……多分……?」
「クソが」
今まで聞いた中でも、かなり熱が入ったクソだった。

「本屋に行きたいです」
唐突にこぼれたように七海さんは言う。レースカーテンから漏れた光が、床に長い影を作った。
「なまえさんと本屋へ行き、欲しかった本を買って、食事もして、映画も見たいです。なまえさんはしたいことはありますか?」
「出かけるのは私もそれがいいです。あと……七海さんがこの前作ってくれた、パプリカとちぎったソーセージが入ったスープが飲みたいです」
「切ったのではなく、ちぎったのがいいのですか」
「ちぎったのがいいです」
「分かりました。今から作ります。夜には食べ頃になりますから、なまえさんは外出の準備を」
そう言って七海さんはキッチンに向かって行った。心なしか、いつもよりその足取りは早く見えた。

2020-11-27
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