一般的な高校の寮は、基本的に学校教育の延長である。
よくあるシステムとして、同級生と同室で、学年が上がると個室がもらえる。スケジュールにも決まりがあって、風呂や食事、自由時間なども指定されている。上級生は下級生に指導を行い、得た礼節と責任に比例して自由を手にしていくシステムが多いが、呪術高等専門学校は違う。
この寮は教育の延長ではなく、全国から集まった学生に対しての住居手当のようなものである。部屋は最初から個室で、学年が上がっても変更はない。部屋の割り当ても規則性がなく、上下左右空き部屋の生徒もいれば、埋まっていた学生もいる。生活スケジュールの決まりもない。上級生からの指導もない。極めて自由な寮である。だから入寮式もなければ、退寮式もないし、途中入学生や遅れて来た新入生などもいて、降って湧いたように新しい学生が入って来るのだ。


「七海、見て」
3月最後の日の早朝。送迎車の中で七海と灰原が補助監督を待っていると、灰原は隣に座る七海に声をかけた。朝の山頂はまだ気温が低く、目的地まで眠ろうとしていた七海は刺すような隙間風と友人の肩を揺らす振動で目を覚ます。七海が寮を見ると、彼の部屋の真上の窓に見慣れない姿がある。朝霧と眠たい目では誰かまでは判別がつかない。
「みょうじさんだよ」
「はあ?」
突然の入寮にも驚いたが、まさかみょうじが自分の部屋の真上に来ると考えていなかった。みょうじは家入の隣という予想は外れ、結果は家入と階は同じだが、かなり離れている。
灰原は車の窓ガラスを全て下げる。七海は耳を塞ぐ。補助監督が資料を忘れて取りに戻っていてよかった。
「みょうじさん!!」
窓越かつ、150mほどの距離があるのに灰原の声が通って、みょうじは窓を空けて灰原に手を振り返した。
「七海も振ってあげなよ。席変わる?」
「いい……メールをしておく」
「あ、五条さんもいる」
七海が窓に顔を近づけようとした途端、書類を忘れていた補助監督が走り込んできて車を出す。
引っ越しの手伝いかな、と灰原が呟いた。
あの五条さんが?七海は思ったが口には出さなかった。
五条は最近少し変わった。七海達を煽り、馬鹿にする言動が激減し、アドバイスや褒めに該当する言葉が増えた。
「夏油の真似でもしてんのかな。似てないけど」と家入はそれを見て言う。
以前の彼なら新入生の引っ越しを手伝うなんてしないし、手伝いでなかったとしても新入生に興味を持って部屋まで入ることなんてまず無い。七海は携帯を出し、入寮を歓迎する言葉を書いてみょうじに送った。

繁忙期は今年も早かった。
学生達は朝早くに出て行き、夜遅くに戻る。1年ずっと忙しかった去年ほどではないが、例年より繁忙期はハードになるだろうと教員は言う。自分達が入ってから1年次以外はずっと「今年は忙しい」と言われ、毎年事件が起こり、いつになったら落ち着いた時期が来るのか。それはきっと来ないと七海は考えている。
夏油が抜けた穴は大きく、振り分けられる任務数は増えるばかりだ。これを普通と認識できるようになるのが、今年の課題だと理解していた。


夜更けに寮へ戻ってくると、七海と灰原の部屋のドアノブには、青い艶々した紙袋がかけられていた。
「何かな」
「みょうじさんから入寮の挨拶らしい。メールに書いてあった」
「伊地知に続き、みょうじさんもちゃんとしてるなあ。僕なんてお米持って来たもんね。……あ!デパートのクッキーだ!七海、一緒に食べない?」
「わかった。コーヒーを持ってそっちに行きます」
明日の朝は今日ほど早く出なくてもいい。七海は自室のコーヒーを切らしていたから、談話室へもらいに行くと、家入がソファで雑誌のページの端を折っている姿があった。
「お疲れ。なまえちゃん来たよ」
「お疲れ様です。……今は部屋に?」
「うん、もう寝たよ。今朝着いて、日用品の買い物に連れて行こうとしたら五条までついて来て。あの子が東京に詳しくないのが面白かったみたいで、観光で連れ回してさ」
「止めてくださいよ」
「五条が聞くわけないじゃん。……七海ため息デカすぎでしょ。繁忙期辛いよね」
気持ちが一切含まれていない労りを受け、七海はインスタントコーヒーの瓶を取り、荷物を下ろすために自室に戻った。電気をつけると闇しかなかった部屋に、家具が戻って来たかのように一気に姿を現した。
備え付けの家具を私物の家具と差し替えるほど凝り性の生徒もいれば、ほとんど物を置かない生徒もいる。
七海はちょうど中間だった。
棚から溢れた私物の本を床に積み上げるのが性にあわず、本棚を置き、あとは寝具を好みのものに買い変えただけ。机上も片付いており、使わないものは全てダンボールにまとめてクローゼットに入れてある。
七海は寝起きにしか見上げない天井を眺める。
天井1枚挟んで、みょうじがいる。七海は記憶の中の彼女を思い出した。あの子柄で、細い腕の、自分とは真逆の存在がこれから2年は自分の上にいる。そう思うと不用意に天井を見上げるのは少し憚られる気さえした。
手に持っていた紙袋が音をたてる。中身を確認して笑みが溢れた。そのクッキーはクリスマスに駅でみょうじに会った際に、自分が勧めたもののひとつだった。

▼ ▼

学内で会えるだろうからと、クッキーへのお礼をメールしなかったことを七海は現在悔いている。みょうじが入寮して3週間も経つが、全く会えていないのだ。1度だけその姿を見たが、ふらふらと寮の階段を昇る後ろ姿だった。入学したての任務後は、疲労で何よりさっさと寝たかった自分を思いだして、とても声はかけられなかった。
今はすべての学生が不在がちで、みょうじも現場に即投入された。唯一の日曜は体を休めたり、自主トレに行ったり、家入に連れ出されていたりで全く捕まらない。一方で彼女も七海に挨拶をしようと他の学生に居場所を尋ねたり、七海の部屋を訪れたこともあるらしいのだが、そういう時に限って七海は早寝していたり、休日も任務だったり、外出していたりで会えない。
「七海を探していた」という伝言だけが耳に溜まっていく。

今日も会えなかった。七海はベッドから壁に貼ったカレンダーを見た。明日は金曜で、週が開ければもう5月が見えてくる。メールで今更お礼を言うのはおかしい。メールで待ち合わせまでして言うのはもっとおかしい。メールを返すタイミングを失い、入学前のやりとりが嘘のように4月に入ってから2人は一切メールをしなかった。
七海は急に臆病になった気がしたが、彼にとってそれはしっくりくる感情ではなかった。彼女のことを考えると、胸に突然できた穴に形の違うパーツを詰め込まれて隙間があるような、おさまりの悪い感覚がする。
窓から見ている景色は同じなのに、お互い顔さえまだ見ていない。声も聞いていない。上にいるはずなのに、本当にいるのか不安なほど音がしない。
『もう分からないことがあれば、家入さんに聞くだろう。休みも一緒に出かけているらしいから。五条さんも面倒を見ていると聞いた。教育係なんて、私でなくても』
いい。とまでは言い切れない。
窓の外の暗い森と、夜間は消えることのない石灯籠の明かりを眺めていると、ガラスの中の自分と目が合う。眉間に皺が寄っていた。いつも無意識にそうなっているから自分では気にしないが、灰原は4月に入ってずっと皺が寄っていると言う。
それを思い出した時、聞き慣れた足音が大きく響く。
「みょうじ!」
上から微かに、彼女の名前を呼ぶ声がする。それが五条の声だと分かった時、胸の隙間がねじれたような感覚がして、七海は眉を顰めて布団をかぶった。そうするともう何の音も聞こえなかった。

▼ ▼

翌朝は日差しが強く、照らされた地面は白く発光しているようで、七海は外に出ると目を細めた。指示された送迎車まで進む道は日陰ひとつ無く、目がくらむほど全てが輝き、睡眠不足のせいもあって長く深いため息が出た。
今日は灰原と別任務で、学校と病院の間に挟まれたビルにできた呪いの群れを祓除する。日に日に群れの数は増えるものの、級数が低いのとビルの解体予定に余裕があったので、時間はかかるが緊急性は低いと判断されて優先度が下がっていたものだった。
昨日見た資料には電気が止められている旨が書かれていたので、9階建てのビルなのにエレベーターが使えないことに追加でため息をつきながら送迎車のドアを開けると、先客がいた。
「七海さん?」
外の日差しから車内の暗さに目が慣れるまでの、視界が悪くなる一瞬。聞きたかった声がした。
その姿が見える。
後部座席の奥に座り、大きな目で七海を見ている。一般校の薄い夏服でも、厚すぎる冬のコートでもなく、高専の黒い制服を着たみょうじは少し髪が短くなっていた。七海はその姿を見てひどく眉を顰めた。灰原と一緒に安全な方へ導こうと決めたのに、いざみょうじが自分と同じ制服を着たという視覚的な情報は、想像よりずっと七海の神経を刺激したが、七海は努めて平坦に朝の挨拶をして車に乗り込んだ。

クッキーのお礼や学内のこと、任務のこと、授業のこと。ぽつぽつと話しているうちに盛り上がり、みょうじはよく笑い、よく話した。親交のない人間とは必要以上に話さず、会話も広げない七海だが、メールによってできた下地のおかげでみょうじとは灰原と同じように話した。ここ3週間の生活を楽しそうに伝えるみょうじの表情を眺めていると、七海は胸にあった隙間が無くなっているのに気がついた。きっと彼女にお礼が言えないことへの不安や焦りだったと彼が結論づけた時、車は現場についた。

現場の周囲は養生シートで囲まれており、帳は不要だった。9階建てのビルはすでにガラスが取り外されており、見た目も中身も巣のようになっている。2人が車から降りると、上空からの落下物を避けるために補助監督を乗せた車は一旦現場を離れた。ビルの入り口に向かいながら、七海はみょうじを見下ろした。みょうじの手には七海が持つような細長いバッグがあり、武器を持たせるという彼女の育成方針を思い出す。
七海がみょうじに武器について尋ねると、彼女がバッグから出したのは思ってもみないものだった。全長は七海の鉈より少し短く、握りやすそうな木の棒の先に、ナイフのような鋭利な刃が固定してある。打製石斧によく似ていた。
「てっきり貴女はあの包丁を武器にすると思っていました」
「あれ本当にただの壊れた包丁なんですよ。これはさきっぽの刃物がすごい呪具らしくて。私はリーチがないですし、刀や槍は持て余すだろうから、遠心力に頼れって作ってもらいました」
「……先に聞いておきますが、みょうじさんの術式は?」
「他者を攻撃しようとしている敵へ私が攻撃すると、通常威力の数倍のダメージが与えられる術式です。あと、1度呪力や残穢に触れた相手を探知できます」
「随分リスキーな能力と便利なものを使えますね」
「本当は2つを合わせて全然違う使い方をするんですけど、私はコントロールが下手で別々に発現してるみたいなんです。七海さんは?」
「今から見せます」
建物に入る。内装の解体はすでに行われており、剥き出しのコンクリートの床と壁が広がり、どこもかしこも白い粉でざらつき、歩くたびに粉は舞って、制服が白くくすむ。七海は肩にかけていたバッグから鉈を出し、準備運動がてら大きく振ると、ぺちょりと水っぽい音が2人の背後からした。
髪の長い女と蛙と犬を足したような呪霊が姿を現す。
下がって、という七海の声で、みょうじは七海の後ろに入る。入学したてだが、動きはいい。これもまた杞憂だったと七海は術式を発動して、目の前の呪霊の腰あたりを一刀両断した。
かっこいい……と呟いたみょうじの声にどう返していいか分からず、聞こえなかったフリをして七海は淡々と自分の術式の説明をした。
「術式の開示については習いましたか」
「まだです!」
「……今、私が自分の術式をみょうじさんに説明したように、敵に術式を“開示”することで手の内を曝す縛りを作り、術式効果の底上げができます。知性のある敵ならミスリードを誘える場合もあります。ただ、みょうじさんの術式は開示すると貴女を先に倒そうと敵が動く可能性が上がるだけなので、開示との相性はかなり悪いですね」
「相手が開示してきた時は耳をふさいだりして、聞かないほうがいいんですか?」
「聞けば攻守の指針になりますから、得は多いです。ただ言語を操り、術式を持つ呪霊は準1級以上。呪詛師は級数で括れない場合が多い。今のみょうじさんは撤退の参考のために聞いた方がいいでしょうね」
七海の話が終わると、タイミング良くさっきと同じ水音が今度は6つ続いた。
「私が囮をやりますから、みょうじさんは術式を使ってください。辛くなったら言って。外に出します。あと、現場では事前の情報と呪霊の強さが違うこともあるので、けして気は抜かないでください」
「は、はい!!」


呪霊は98体で終わりだった。
切りよく100体が良かったと言うのが灰原だろうし、それなら95体で良かったと言うのが七海だ。
みょうじならどうだと言うと、そんなことは考えられないくらい疲れ切っていた。数は30あたりから数えなくなった。9階建ての階段を何度も行き来して呪霊をつぶしていく。先行してくれた七海に飛びかかってきた呪霊を叩き潰し、また走る。逃げた呪霊を術式で探知するのも平行して行う。手斧を握る手は疲労で肩から小刻みに震えていたし、1歩歩くと汗が2滴落ちる。入学して今までで1番ハードな任務だったと、みょうじは息も切れぎれに七海に説明した。
「七海さん…す、ごいですね……」
「2年も先輩ですからね」
階段を降りながら外を見ると、夕日が空を赤く染めていた。七海もみょうじも武器をバッグに戻し、迎えに来てくれた車に乗り込むと、みょうじは大きく息をついた。
「みょうじさん、手を見せて」
「えっ」
「掌、血が滲んでいるでしょう」
今まで気がついていなかったのか、みょうじは自分の掌を見て、あ、と声を上げた。手斧を振り回し、攻撃の反動や握り込んだ力で手の皮は剥け、血と汗が混ざって真っ赤になっていた。七海は車内に積んである救急箱で手際良く処置を終えた。
「私も1年の時はよくこうなりました。慣れるまでは武器にグリップみたいなものを巻くといいでしょう。痛みがあると武器を握る力が確実に落ちて、攻撃威力も半減します」
「ありがとうございます……」
「……よく動けていましたが、誰かが囮になって初めて成立する術式ですから、単独で無理しないでください」

みょうじは七海に任務の感想や質問を懸命に言語化しようとしたが、呪力消費の疲れと眠気に負けてどんどん呂律が回らなくなって行く。「かみました。ごめんなさい」が3回出たところで「後で聞くから帰りは寝てください」と七海がみょうじの言葉を遮ると、しばらくの沈黙のあと、みょうじはすぐに眠りに落ちてしまった。
「懐かしいですねえ。この時期」
補助監督が笑った。1年が疲労で寝入ってしまうのはよくある話だ。七海も帰りの車内で意識を失うように眠り、よく起された。
『術式のカウンターが入れば2級程度も倒せる。だがカウンターがなければ、3級くらいか……』
七海はみょうじの実力を測りながら、彼女の膝のあたりを眺めていた。なんとなく顔を見るのは気が引けたのだ。

高専についてもみょうじは眠ったままだった。
何度か揺さぶっても、声をかけても起きない。次の送迎があるので……と気まずそうに急かす補助監督は悪くない。そしてみょうじも悪くない。入学してすぐの学生に98体の呪霊を倒す任務の同行をさせたのが悪い。
七海は肩を組んでみょうじを車から出すと、どう抱き上げたらいいか散々迷って、背負いあげた。立ち上がった瞬間にその軽さに驚いて、構えていた力が変に抜けて転びそうになる。みょうじの体が1度背中でバウンドして、反射的に彼女が七海の首にしがみつく。怪我した灰原を背負ったときと全く違い、コンクリートの粉っぽさにまぎれて甘いような爽やかなような、肺に残らない匂いがした。頑丈な制服越しの体は、柔らかくて細い。七海はみょうじを背負ったまま1歩ずつ歩きながら、足がどんどん沼にはまっていくような気分だった。

「また寝てんのかみょうじ」
声の方向を向くと、ジュースの缶を持った五条がいた。その缶は投げられ、弧を描いてゴミ箱に入った。
「こいつどこでも寝てるよな」
「呪力消費にまだ不慣れなんですよ」
「あーそっか。この前、談話室で硝子と喋ってたら突然電池切れたみたいに寝てさ、俺が部屋に連れて行ったし。昨日なんて部屋に間に合わなかったのか床に落ちてたぞ。七海、疲れてんだろ。俺が連れて行こうか」
「……いえ、結構です」
そ、じゃあな。五条は粘る気もなく軽く流して、去って行った。
七海は背中のみょうじを背負い直す。無くなったはず胸の隙間が音をたてて戻って来て、潤いのないパーツがねじ込まれたように胸が痛み、苦しさが襲う。
七海にとってこの感情は、縁がないものだった。
例えば、人間がこの感情を向けやすい「才能」というものに対して、七海は無いものは無いと理解していた。それに才能以外のことは、思考して積み重ね、感情に振り回されずに地道に力を尽くせば、環境という自分ではどうにもならないことに左右されない限りはどうにかなる、と考えている。だからその感情を持つ必要も機会もなかった。特に持って生まれた術式が力の8割と言われる世界で、最強と呼ばれる上級生の存在はこの考えに拍車をかけさせた。
だから深く考えたことのなかった感情を、この時初めて解った。胸にあるこのよくわからない痛みは“嫉妬”だった。

七海はみょうじを部屋まで送る気はなかった。人の部屋に許可なく入るのは失礼だと思っていたからだ。しかし五条の言葉で彼はみょうじの部屋まで彼女を連れて行き、ベッドに降ろして、そこで正気に戻った。彼女は今コンクリートの粉まみれで、ベッドに降ろしてはいけなかった。起こすべきだった。でも起きないだろう。何かかけてやりたいが、ベッドの端にある真新しいブランケットを彼女にかけるわけにもいかない。制服を脱がすのはもっといけない。混乱した結果、彼は自室から自分が使っていないブランケットを持って来てみょうじにかけた。その行動をしている間に段々頭がクールダウンして、全てを終わらせ自室に戻ると、七海は頭を抱えて長い溜息をついた。

2020-11-08
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