※渋谷後という設定(本誌派の方はお察しください)



そばにあった熱が外へ出ていく。
胸でとまっていた掛け布団が、七海の肩までかけられた。
熱があった場所に七海の手が無意識に伸びると、あやすように手の甲が撫でられる。
ほどなくして始まるお湯が湧く音、コーヒーの香り、卵をとく音、食器の擦れ合い。
朝食作りは毎週交代である。
みょうじが当番の週の七海は、みょうじが起きた時に半覚醒し、朝食ができあがるまでの様子を微睡みの中で感じるのが好きだ。一般的な子供より少し早く親元を離れ、それから先はもう誰かが朝食を作ってくれる生活とは無縁だと思っていたし、同時に自分が作った朝食を誰かに食べさせる日が来るとも思っていなかった。
冷蔵庫が開く。食材が取り出される。カサカサとビニールが擦れる音がした。

その途端、七海の目が開いた。時計が指しているのはまだ6時15分。
もう朝から寝起きにNY株価もモーニングサテライトも見なくていい生活なので、起床時刻まであと30分ある。ベッドから起き上がると普段なら洗面台に向かうが、まっすぐキッチンに向かった。
ニュースを見ながら、真っ赤なホットサンドメーカーを操作していたみょうじは、七海の姿を見て目を丸くする。
「おはようございます?あれ?今日、急ぎでしたか?」
「おはようございます。いえ、昨晩聞けなかったので」
「え?はい」
「なまえさんはご飯派というのは本当ですか?」

▼  ▼

いつも決めた時間に起きてくるのに、今日の七海さんは珍しく起床時間より早く起きて、顔も洗わずにキッチンに来た。
そして突然のご飯派への言及を終えると、私の返事を待たずに微かに眉を顰めて洗面台に行き、いつものしゃっきりした顔になって戻って来た。
さっきのは、あの七海さんが寝ぼけて起こした、かなり貴重な出来事だったと思いきや、彼は2人分のコーヒーを淹れなおしながら話を続けた。

ご飯派への言及は、明太子の缶詰が始まりだった。
昨日は七海さんと猪野さんがペア任務で、現場近くの商店街が物産展をやっていたらしい。
「あ、これ、なまえちゃんが食べたいって言ってたヤツだ。もう食べました?」
そう言って猪野さんが、売り出されていた明太子の缶詰を七海さんに教えた。
そこで私が前に「パン派かご飯派なら、ご飯派」と猪野さんに言ったのが七海さんに知られてしまった。
その後、追加任務が発生し、七海さんがここに帰ってきたのは私が寝落ちした多分2時以降。昨晩は会話できていない。キッチンに置かれていたお土産っぽい「明太子の缶詰」は、何だろうと思っていたがそういうことだった。

「どっちかと聞かれたらご飯派かなぁって感じで、強い好き嫌いは無いんですよ」
七海さんと暮らすようになって、毎朝パンだ。七海さんがパン好きなので、キッチンには冷凍も含めパンの買い置きが多い。夕食もパンの状況に合わせておかずを作ったりするので、パンを食べる機会がとても多くなった。
「本当ですか?」
毎朝目尻を緩ませて作った朝食を食べてくれる姿が、今日ばかりは初めて出会ったときのように隙がない。私が深く頷くと、ハムとレタス多めのホットサンドを置き、七海さんはコーヒーを飲んだ。
「……心配なんですよ。この家は私が暮らしていたままですし、私の生活スタイルもほとんど変わっていない。貴女ばかりが変わって、無理をさせてないか」
テレビからは私たちの間を縫うようにニュースが今日の天気を告げる。朝は曇っているけど、昼からよく晴れて、過ごしやすい1日になると流れてくる。
「……私、東京に出てきてから、あんまりちゃんと生活をしてなくて」
持っていたカップを下ろすと、七海さんもカップを置く。ながらで聞いてくれていいのに。
「呪いが見えるようになってからは、人から離れて1人で生きて行く方法を探して、高校・大学と進んで、院ではずっと研究してました。だから、食事とか身の回りのことを気にしてられなくて。ご飯派だったのも、好きじゃなくて単純にお腹に溜まりやすいからです。衣食住の充実に目を向ける余裕ができるのは、1人で生きる生活を確立した後と思ってたので、だから強い好みがまだほとんどなくて……七海さんも私のアパート見た時、びっくりしてましたよね」

大学から徒歩5分。部屋の中は研究資料を入れる倉庫と化していた。資料の類いを捨てたら家具と呼べるものは最低限で、それも貰い物や機能性だけで選んだため統一感はない。部屋を彩るインテリアはひとつもなかった。唯一それに近いものといえば、大学のイベントで当たった、真っ赤なホットサンドメーカーだけ。
だから学生時代の教科書や資料を捨ててしまった後に部屋に残ったものは、「人を避けて生きるしかもう手がない」という思考で頭がいっぱいだった、学生時代の必死さを表すかのように段ボールひとつに収まった。
「七海さんと過ごすようになって急に生活が充実して。パンがこんなに美味しいとか、ちゃんとベッドで眠る心地よさとか、タオルってこんなに種類があるんだとか……。だから無理なんてとんでもないです。毎日楽しいですよ」
「……他人事とは思えませんね」
「そうですか?」
「私も会社員時代はなまえさんと似たようなものでしたから。1人で生きようと足掻くほど1人では生きていけないと分かり、せめて無縁でいるためには、頼りになるのは金だけだという結果に辿り着きました」
「ですよねぇ。私もどれだけ研究成果で当てて稼ぐか考えてました」
七海さんは小さく微笑むと、コーヒーを飲んだ。
「安心しました。……なら、この家に“貴女と選んだもの”が増えて欲しいので、リビングの冬用ラグを一緒に選んでもらえますか」
「もちろんです!今日ちょっと早くあがりましょうか?」
「そうですね。お願いします。……私も早く任務を片付けて来ますので、もう出ます。ご馳走様でした」


同居するにあたり必要なものは、同居開始直後に京都出張に私が行ったのもあって、七海さんがすべて揃えてくれた。
とりあえず、と渡されたスリッパも枕も、自室用のカーペットもカーテンも家具も、自分で選ぶより数倍センスが良かったのでそのまま使っていた。
だから私が七海さんよりいいものを選べるかは、全く自信がない。通勤時間にスマホでインテリアサイトをいくつも見て回っていると、メッセージアプリに七海さんから「予習は不要です」の一言がついた待ち合わせ場所の連絡が来る。バレていた。

▼  ▼

早めに仕事を終えて、七海さんが自宅の家具を買い揃えるときに使ったインテリアショップに向かった。入ったそばから、グリーン系と木の匂いが混ざったいい香りがする。商品のひとつひとつが余裕をもって陳列されている。店の余白は商品の値段と比例するのが都会あるある。
七海さんに連れられて来たラグコーナーには、今まで見たラグの量を遥かに超える数が並んでいる。どこにでも合いそうな無地単色から、子供部屋に良さそうなカラフルなもの、北欧デザイン、ヨーロピアン……さまざまなものが巻かれたり、広げられたりして展示されている。
「……今はたしか茶色ですよね」
「ええ。麻とウールのものです」
ソファと対になっているローテーブルの下にひかれているラグは、確かに毛足が短く、さらりとした触り心地は湿度を溜め込まず夏向きだ。
「去年の冬はどうされたんですか?」
「去年も一昨年もその前も、買おうと思っている間に季節が終わりました」
多忙あるあるだった。

手分けして片っ端から触ったり、調べたり、店員さんの知識も借りたり、実際にお店の家具の下へ敷いてもらったりして候補を絞る。最初はラグごとの違いが分からなかったが、七海さんや店員さんに教えてもらうと、編み方や機械織り、手織り、素材で全然違うことが分かる。物選びの楽しさって、こういうことなのか。

平日の夕方はお客さんも少なくて、ゆっくり選ぶことができた。一生分のラグを触った気がする。
最終的に3枚に絞った。しっかり柄は入っているが、主張はおとなしめの北欧デザインのブルーのラグ。次はフォークロア調でニュアンス程度に柄が入ったグレーのラグ。最後は2つとは毛の質感が全く違う、絨毯のようなブラックグレーのラグ。
どれも良い。値段もサイズも大差なく「こうなってくると後は好みですね」と店員さんはにこやかに話す。
七海さんは3枚の手触りをもう1度確認し、少し間を開けて語りかけて来た。
「けして押しつけるわけではないですが、なまえさんに選んでもらってもいいですか」
朝の七海さんの言葉を思い出す。私はラグと七海さんを交互に見て、どれを買うか決めた。

配達の手続きをして店を出る。金曜の帰宅ラッシュは、家に帰る人、遊びに出る人、飲みに行く人で溢れかえり、いつもより賑やかだった。
「なまえさんは青いラグにすると思っていました」
「確かに、あれ持って来たの私ですもんね」
ブルーは私が、ブラックグレーは七海さんが持ってきた。決まったグレーのラグは、店員さんが選んでくれたもの。
「貴女のアパートに敷かれていたカーペットは、青かったので」
「あー……あれ、特に思い入れあるわけじゃないんですよ。卒業した先輩が捨てるの面倒だからくれたやつで。傷防止に敷いてただけです」
「先輩とは男性ですか」
「えっ!?女性ですよ!!……まさかこんな直で切り込まれるとは……」
「そうですね。もうその辺りの遠慮は不要だと判断しています」
七海さんからいつもの長い溜息がでたけど、見上げた顔つきは穏やかだった。ちょっと前はメガネをかけられると全然表情がつかめなかったが、今は5割は分かる。……3……いや、5割。
「なら、決め手になったのは?」
「七海さんが奥のラグを見てる時に、店員さんがあのグレーのラグが敷かれてる写真をいくつか見せてくれたんですよね。そこに写ってた家具が七海さんの髪色に似てて、七海さんがこのラグの上に座ってたら、すごく合うな……。ん……?でもソファの下にラグがあるんで……。七海さん……ラグが届いたら、1回直に座ってもらっていいですか」
そういうと七海さんは吹き出した。私も笑ってしまう。ラグと七海さんの髪色というそこだけが強烈に残って、ソファの下にラグを敷くことを忘れていた。大丈夫。ソファの色とも合う。
「わかりました。あとひとつ買い足したいものがあるので、付き合ってもらっていいですか」
「もちろんです!」
横を歩く七海さんを見上げて、視線を落とし、何もない彼の右手をみる。なんだか猛烈に手を繋ぎたい気持ちになった。繋げないが。いま足りないのが日本の大通りで手を繋ぐ度胸なのか、七海さんと手を繋ぐ恥じらいを捨てる思い切りなのか。1年後はつなげるか?3年後なら?
わからないけど、約3ヶ月前は全然わからなかった七海さんのメガネ越しの表情が今は5割わかるのだ。いつか10割わかる日が来るし、手だって繋ぎたい時につなげる様になりたい。


インテリアショップからすぐのショッピングビル。エスカレーターで10階へ上がると、見えてきたお店のロゴは記憶にあった。七海さんの家に来て最初にもらった枕のラッピングに載っていたロゴだ。
「なまえさんの枕とセットだったナイトウェアがあったじゃないですか」
「あのツルツルさらさらのすごく着心地がいいやつですね」
「はい。私もあれに似たものが欲しくて。検討はついていますので、すぐに終わります」
「了解です。私も自分の見てますね」
男女両方の品を置いているがスペースを左右で区切っているようで、男性は左へ、女性は右へ入っていく。
キャンペーンか何かで枕とナイトウェアがセットになっていて、自分じゃまずこんなの見つける時点から難しいナイトウェアは、質の良さ、着心地のよさ、乾きの良さで着倒している。
店内を見回すと種類がいくつかあるようで、今着てるものの厚手が欲しくて店員さんに尋ねると「もしかして、あのスーツの方が旦那様ですか?」と、会計中の七海さんについて尋ねられた。
「そうです。買ってきてくれて」
「旦那様、すごく印象的なお客様だったので覚えています!30分くらいずっとナイトウェアの色や形で悩まれていて。奥様へのプレゼントだと伺ってましたので、すごく愛されてるんだなって思ってたんですよ!」
直球はもちろんくるものがあるけど、こんな変化球を。体の中に心臓が自由に動けるスペースがあれば、四方八方に転げ回っている。そのくらい耳や頬が熱くなるのが分かる。
店員さんに、新作のナイトウェアを旦那様と見て行きませんか、と微笑まれる。七海さんが戻ってくる。すみません。私も多分買います。

2020-10-24
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