深夜0時過ぎ。
山頂の高専に比べると、下は蒸したような熱気に包まれていた。高専からの階段を降りきると、近くには街灯ひとつない。
舗装された道路と青々とした緑の境界を、青臭さの濃度で理解する。遠くに見える明かりの中で、一際大きく近いコンビニは灯台のようだった。
店に入ると珍しく高専関係者じゃないお客さんがいた。作業服姿の男性達は、コーヒー片手にパンやおにぎりを買っている。この辺りで工事でもやるのかな。

残業組のグループチャットへ「コンビニに来ましたけど買うものありますか」と送ると、軽快な音を立てて答えが上がってくる。新発売のおつまみチーズ、ピノ、バニラアイス。既読は4人ついているが、返事はこれ以上なさそうだ。
言われたものをカゴに入れて行く。硝子ちゃんのチーズ、学長のピノ。伊地知くんのバニラアイスはダッツでいいだろう。明らかに疲れているから差し入れで。お高いアイスコーナーの冷凍庫を開けて手を伸ばすと、顔の横からぬっと出て来た長い手が、ダッツのバニラと新味をつかんで私のカゴに入れた。

「なまえ先輩、新味でしょ?」
「よく分かったね。いつもは別の食べてるのに」
「昨日CMガン見してたからね。後輩歴10年超えのベテラン後輩なら分かるよ」
振り返ると、アイマスク姿の五条が歯を見せて笑っていた。
「五条は挟まってるやつ……このキャラメル味?」
「よくわかってるぅ」
冷やかすように言うと、流れるような動作でそばのドリンクコーナーからアイスココアをカゴに入れた。私も栄養ドリンクを1本取り、顔が半分寝ている店員さんに会計をしてもらうと、五条は私の手から袋を攫って外に出た。
「コンビニ来る前、どこにいたの?」
「ちょうど僕も下にいてね、考え事したくて少し手前でタクシーを降りたの」
外に出ると、空間が少しズレたような微かな風を感じる。額から吹き出た汗を拭うと、さっきと同じ手が今度はハンカチを差し出してきた。受け取ると五条は私の空いている手を握った。
「全然汗かいてないのに、なんで頭だけかいてるの」
「武器庫にずっといたから全身汗だくだよ。手だけ乾いてるのは、降りてくる前に洗ったからね」
「なるほど。あ、ここ痛いと胃が悪いんだって」
五条は私の親指と人差し指の間に、ぐっと力を入れてきた。
「い……たくない!」
「健康〜」

深夜の道路を大の大人が少し騒がしくしても、誰にも迷惑はかからない。そのくらいこの辺りは人がいない。
だから滅多に車が通らない道にトラックが走って来たのには驚いた。すれ違うと程なくして停まり、作業員が次々と降りてきた。さっきの人たちもあそこの工事だったのかな。
「コンビニの先にあるガードレール。全部張り替えるんだって」
「あそこかぁ。だいぶ錆ついてたもんね」
「僕らが学生の頃からあったからね」
「懐かしいな」
「なんか思い出あった?」
「散歩の時間のやつ」
そういうと、五条は飲んでいたアイスココアを少し吹き出したので、ハンカチを返した。

▲ ▲

3年の夏のことだった。
夕方、談話室に行くと珍しく1人で傑がソファに座っていた。
いや違う。こちらに背を向けたソファから白い毛が少しだけはみ出てクーラーの風にあたって揺れている。傑は私に気がつくと、目を細めた。
「先輩、悟を散歩につれて行ってくれませんか」
傑がそう言うと、相当悪い姿勢で座っているのだろう悟は「あ?」と吐き出したような柄の悪い声を上げた。
「悟は1日3回、散歩がいるんですよ」
「なるほどですね。朝、昼、晩ということですか」
「晩の散歩は19時頃に」
「うるせ〜!!!散れ散れ!!」
案の定、悟は怒鳴り散らし、私達は2階へ逃げた。傑は笑いながらも大きくため息をつき、伸びをした。
「朝は普通だったんですが、午後から何故か機嫌が悪くて。しまいには15時頃から授業をサボってどこかへ行きましたし」
「硝子ちゃんも知らない?」
「えぇ。でも先輩に怒ってることは確かです。何かありましたか」
「いや……今日はまだ顔も見てないから怒らせようがない」
悟は相手によって怒り方を変える。傑が相手の場合は、傑を煽って怒らせて喧嘩するのに、私に怒ってる場合は顔を合わせず無視をする。ただ、そういう場合は傑か硝子ちゃんが怒った理由を大体知っているから対処できるのだけども。
今日はまだ完璧にシカトを決め込まれていないので、本気でキレてるわけじゃない。何かしたかな……でも朝から私は任務でいなかった。いや何もしてないから怒ったのかな。
理由が分かったら連絡をすると傑に約束し、自室に戻って窓から寮を出る。そもそも私が1階に行ったのは、スーパーへ買い物に行くためだったのだけど、また談話室をつっきって玄関に向かうのは気が引けた。

高専の正面階段を降り、コンビニの前を通り過ぎ、スーパーは更に20分ほど歩いた先になる。道は緩やかな長いカーブになっており、それを越えて直線道路に入ると、やっと一般人の姿が見えてくる。それまでは下は道路、上は空、左右は林だ。
ただ歩くだけの道は暇で暇でしょうがなく、色々なことが頭を過る。今日の任務の反省。明日の任務の検討。スーパーで買うもの。朝の任務先ですれ違った子供が歌っていたメジャーな替え歌の、正しい歌詞がもう替え歌に乗っ取られて分からないこと。
来週、みんなで遊びに行く海では何をしようか。
今1番アツい話題がこれである。8月に入ってすぐ、1・2・3年で海に行くことになった。繁忙期があけて娯楽に飢えている私達は、海水浴客ですし詰めの海でもカレンダーに丸をつけるくらいに待ち遠しい予定だった。
始まりは今年の新入生の灰原くんが、傑に海に行きたいと言ったことである。じゃあ歓迎会も兼ねて行こうかと、今月の頭から任務日程をすり合わせ、根回しして、全員が休みをもぎ取った。
先週は硝子ちゃんの水着を見に行った。
私は見るつもりが買った。
絶対焼かないとうたう日焼け止め。
買った。
夏の海しか絶対に出番がないイルカの巨大浮き輪。
買った。
更に海の家で焼きそばを楽しむために、2週間も麺を断っている。
思考を散らかしながら、宛もなくドラクエのマップを歩いているような代わり映えのしないカーブを曲がると、林に向かって立つガードレールに寄りかかる人の姿を見つけた。見間違いかと疑った。談話室で暴れていた悟だ。

「俺の散歩の時間だけど?」

語尾上げまくりのキレまくりである。
サングラスの隙間から見えた目は、黒いレンズの落とす影を物ともせず青さがはっきりと分かった。
高専からここに来るまでの道は正面階段を降りるか、車両用の坂を降りるかの2パターンあるが、どちらを使ってもコンビニからこの道に来るのは1パターンしかない。道のり・速さ・時間の問題のように、後から出た悟が私に追いつくポイントは必ず発生するのに、それはなかった。
「無下限呪術による短距離の瞬間移動。完成したんだよ」
聞かずとも回答をくれた悟はガードレールを降りると歩き出した。
2歩先を行き、距離を詰めようとすると彼もまた早くなる。止まってみると、4歩行って止まった。私が黙っていると、耐えかねたのか振り返った。怒るとシカトするけど、彼自身はシカトされるのが苦手なのはよく知っている。
「なんで海外任務の日付、黙ってたんだよ」
隠しもしない苛立ちが声に乗ってくる。
海外任務。9月から行ってくれと学長から頼まれている案件。歴史の混乱の影で海外に流出した日本の呪具を回収し、修理して持ち帰る任務。修理して使えるものもあれば、使えないものもあり、現場で取捨選択するために私がアサインされた。確かに今年あるとは悟にもみんなにも言っていたけど、まだ確定じゃないので9月からとは伝えてなかった。しかし、この話がなんで今?
「私の任務、予定では9月からだけど……?」
「はあ?8月1日からだろ」
「誰から聞いたの」
「昼に夜蛾先生と学長が話してんの聞いた」

えっ。
最新情報じゃん。
現地の呪術師とのスケジュールの都合で、出発が早まる可能性があるから早めに準備をと言われて、渡航の用意はもう終えている。8月1日から出てくれって言われたら、でれるっちゃでられる。けどそうなると、海に行けない。
最近、悟が夜に部屋に遊びに来た時は、何をするか、何を持ち込もうか、花火したいだとか、専ら海の話ばかりしていたのに。そうか。だから怒ってたのか。
「え?……今知ったの?」 
突然のことに、私の口から出たのはマジか……というぼやきだけで、俯いた私を見た悟の声はトーンが全く変わっていた。
「海で使うクーラーボックス買いに、スーパーに行こうとしてたし……」
距離を取っていた悟が近づいてきて、私の顔を覗き込む。……悟って気まずい時こんな顔するんだ。約1年一緒に過ごして、初めて見た顔をしていた。
学長からも担任からも連絡はまだ無いけど、たぶん私の8月分の任務を調整中なのだろう。いつだって全部整ってから連絡は来るから。
「ごめん……」
「いいよ、早く分かってよかった。ありがと」
「……クーラーボックス買い行こ。俺らで使うから」

スーパーに向かってまた歩き出す。イルカの浮き輪、悟に預けないとな。花火は傑かな。日焼け止めは海外でも使える。買っていたものを預ける先を考えていると、二の腕の袖を引かれた。
「海の写真、これで撮って送る」
悟の手にあったのは、初めて見る青い携帯だった。まだ保護ビニールが貼られっぱなしの新品のボタンを荒っぽく操作したら、私の携帯が鳴った。
「今こっちのメアドからメール送った。今度からそのメアドと番号に連絡して」
「私用の携帯?」
「そ。2年になってから任務のメールも電話も大量に来るんだよ。分けないとなまえ先輩からの連絡、絶対見逃す」
「そんなに寂しいとは」
「好かれてんだよ自覚しろ」
来年また、海に行こうぜ。そう言う悟の声色は落胆しながらも夢のある話だった。

▲ ▲

ガードレールの撤去が始まったのか、聞き慣れない金属音が響いてくる。振り返ると工事現場のライトが灯っていて、真っ暗な階段のこちらと、明かりの多いあちらの差が際立った。
「なまえ先輩、アイス溶けるよ」
前を向きなおすと、五条の姿が闇に溶けていた。
自販機がなくなる。通っていた道が石畳からアスファルトになる。ガードレールが新しくなる。代謝のように劣化と入れ替えをくり返す街並みで、見慣れた景色が変わっていくことは仕方のないことだが、少しさびしい。口に出して語らないだけで、もう会えない人の思い出がその中にあるから。
「五条の私用携帯ってその後全然見なかったけど、どうなったの」
「先輩が海外に行った後、任務中に壊れた」
「だから途中からいつものメアドから連絡来たんだ」
「そうそう、懐かしいね。あの頃は僕も必死だったなぁ」
「なにが?」
そう尋ねると、何も?と明らかに含ませて五条は笑い、まあ今もだけど。と楽しそうに独りごちた。
「五条。来年は海に行こうか。生徒みんな連れて」
「いいね。硝子や伊地知も連れて行こう」
闇夜に私達の笑い声が響いた。スケジュールの先に丸をつけて行きたいのだ。その日に自分が到達する可能性を考えずに。

2020-09-25
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