教員・事務員・出入りの呪術師の半数以上がインフルエンザにやられたせいで、学長の声が空席だらけの部屋に響く。最初の頃は送迎する補助監督から流行り始めたのではないかと真面目に会議の議題になっていたが、これだけやられると感染元を探る意味もなくなり議題から外れた。それよりこの人数でわざわざ会議する必要あったのかな。
「手洗いに勝るものなし。各自、確実に実施すること。悟は買い食いが多いから気をつけろ」
「僕は無限はってるから大丈夫でーす。飛沫感染は防ぎやすくていいね。空気感染だとこうはいかないから」
「ウィルスを全部弾いてるわけではないんですか?」
伊地知は毎年しっかり健康管理をしているせいか、人と接点が多い割にインフルエンザに罹らない。その代わり小さい風邪にはよく罹るようで、今日もマスクで眼鏡が曇っている。
「それやると免疫力がどんどん下がるからね」
「前から思ってたんだが、悟の無限に張り付いてるウィルスや飛沫はどう処理してるんだ?外でちゃんと捨ててるだろうな?」
学長は見た目通り僕が入学した頃から、風邪はおろかインフルエンザに罹った所なんて見たことがない。
「散歩から帰ってきた犬に、足拭いたか?みたいな聞き方ですね。ちゃんと高専に戻る前に解いてるから、テキトーにその辺りにまとめて落ちてますよ」
「車内で無限解いてないですよね?」
「それ僕もやられんじゃん。それよりさ、問題なのはどう考えても人手不足でしょ」
「最初に罹ったやつらがそろそろ復帰する。それまでは罹ってないメンバーで凌ぐ」
「なら僕に何件か回してくださいよ。動いてる術師は繁忙期レベル超えてるじゃないですか。なまえ先輩や七海、倒れますよ」
「明日から病み上がりの呪術師が戻ってくるから、二人は明日からたっぷり休暇だ。今のお前の本分は教職だからあまり入れたくない。しっかりやれ」
たっぷりとか言って突然任務入ってくるからな。まあ学長が決めたスケジュールじゃないから、これ以上言っても解決にはならない。学長も内心は反対だろうし。上のヤツらは単純に仕事が多いだけだと思ってんだろうな。働くことを忘れたおじいちゃん達はだめだね。限界まで回されてる二人は疲労を顔に出さない上に、任務を捌くの上手いから問題が表面化しないのがまた。他の術師だとパンクしてるっつーの。
「伊地知、のど飴ちょうだい」
「いいですけど苦いヤツしか持ってませんよ。もうカツアゲされるの嫌なので」
「自分用とは別に僕用を持っといてくれればいいじゃん。え?何?伊地知、僕のこと嫌いなの?」
「私が悪いみたいな空気を作らないでください……」
ウソつけ持ってんだろ、ジャンプしてみろよと飴カツしてしていると、背中に何かが飛び込んできた。
「わ!!すいません!」
振り返ると新田さんだった。息が切れて汗だくになり、明らかに何かありましたという焦りの表情を浮かべていた。これはドアの目の前に立ってた僕が悪いね。
「わーー!五条さんマジいいところに!来てください!」
「え、なになに」
「なまえさんが帰りの車の中で突然ぶっ倒れて!」
「あら〜。まいったね、今どこ」
「外に付けてる車の中っす!」
「分かった。学長、僕もう今日の授業終わったんで、このまま上がります。お先に〜」
職員室の窓から下へのルートをショートカットしたら、新田さんのスゲェ!って声と伊地知と学長のため息が聞こえた。伊地知、後でトローチ奪う。


「うわ、呪力がすっからかんだ」
後部座席に座り、窓に寄りかかっていた先輩は僕の声に反応してうっすら目を開けたが視線は安定せず、僕が握った手を少し握り返した。
「うん、僕だよ」
安心したのかまた目を閉じてしまう。完全に脱力していて、深い眠りに入ってしまった。呪力切れすると気絶みたいに寝るタイプ、恵もそうだけどなまえ先輩もなんだよな。手を頬に当てると気持ちがいいのか珍しくすり寄ってきた。うわ可愛い。
「他の人もどんどん倒れてるんで、とうとうなまえさんも……」
「いや。ただの呪力切れだろうね。この人頑丈だからインフル罹ったところ見たことないし。ほらほら新田さん、そんな顔しない。気にしなくていいよ。僕達はそれが仕事だし、なまえ先輩に振られた今日の任務は終わりでしょ」
「はい、終わった途端にぱたっと」
「じゃあやっぱり計画的ぶっ倒れだから気にしないでいいよ。先輩、明日から休暇だし。連れ帰ってきてくれてありがとう」
「なまえさんを家まで送るんで、五条さん案内してもらってもいいですか?」
「勿論、運転よろしくね」
先輩の肩を抱いてこちらに引き寄せ、汗で額に張り付いた前髪をはらってやると汗が伝った。ハンカチを額にのせて膝を貸すと、寝息が服越しにあたってこそばゆい。
「五条さん、いい旦那さんになりそうっすね」
「え!?わかる!?」
「なりますよー、絶対。ハンカチ持ってる男性はポイント高いっす」
「じゃあ3枚くらい持っとこうかな」
「いやそれはただのヤバい人なんで……」
新田さんからタブレットを借りて任務一覧を見ると、緊急性が高いもの、級数が高いものが優先して先輩や七海に振られていた。先輩の今日の任務は都内の一般的なビルが3件と、少し離れた墓場が1件。
「今日は墓の任務が最後?」
「そうっす。それまではお元気でしたよ」
ならここでイレギュラーがあったかな。1級1体に手こずったとは思えないけど、実際現場行ったら窓が分からなかっただけで5体いたとかあるから。
明日以降のスケジュールは学長の言った通り、先輩も七海も空白だが、先輩の方が休暇が長い。多分学長が手配したな。七海に「疲労で倒れたことにしろ。休暇が延びる」とLINEを送ると即レスで「検討します」と返事が来た。いつもなら「そうですか」とか「了解です」と流すのに、これは七海もかなりギリギリだ。食いつきの良さに思わず笑ってしまった。

ガンガン飛ばしてくれる新田さんの運転のおかげで、先輩の家にはすぐに着いた。先輩を抱え出して背負うと、体重以上にやたら重い。体に武器仕込んでるな。
「じゃあ後は僕が連れて帰るから、新田さんも手洗いうがいしてね」
「あざーす!お大事に!」
構築術師はブラフの張り方が多種多様だ。ナイフを持っておいて相手の死角から別の武器を構築すれば、恵みたいな術式に思考を誘導できる。ナイフを量産すれば物を複製できる術式にも見せられる。術師の腕がいいほど構築術師という単純な正解にたどり着かせることは難しく、その分アドバンテージもデカい。けど、どんなブラフを張るにしても、呪具を手元に予め持っておかないと正解にたどり着かせるのが早くなってしまうから先輩は武器を必ず1個は持っている。

合鍵で部屋に入ると、今朝は急いで出たのかマグカップがシンクに置かれていて、部屋着は椅子に大雑把に畳んで掛けられ、ベッドも整っていなかった。
計画的に呪力をギリギリまで使うつもりが、イレギュラーが起きて完全に0にしたんだろうな。最初から完全に0にしてぶっ倒れる前提なら、誰が部屋に来てもいいように片付けてから先輩は部屋を出る。
ベッドに寝かせて上着を脱がせると、案の定、分割された槍が背中のホルスターに入っていった。ホルスターのベルトを解いてやると、息が楽になったのか寝息が深くなった。全身の汗がひどく、服がじっとりと湿っている。これは着替えさせてやらなきゃね。僕いい後輩だな〜、すでに告白済みの男が介抱して、着替えまでさせて何もしないってありえる?ありえるんだなGLGでGSG(グッドソウルガイ)の僕なら。それに他にさせられるヤツいないでしょ。僕を差し置いてそんなヤツ出てきたら、流石に先輩の1番の男は僕だってわかっててもめちゃくちゃ妬くわ。
服を脱がせると触り心地のいい肌がずるりと出てくる。下着は……替えると後で先輩が気まずいって顔するからやめておこう。レンチンおしぼりで体を拭いてやると、背中に見たことがない傷跡が増えていた。傷の数を全部知っているわけではないが、夏に一緒に寝ていると背中を見ることは多々あって把握している。新しい傷は背中の真ん中に切り傷、肩に刺し傷。
つるつるとした傷跡を指先でなぞってみた。色々と思うことはある。けれど同じ仕事をやっている者として、思ったことを口に出す気はない。先輩は体に傷ができることは、歩けば靴の底がすり減ることと同じだと思っている。だから僕がこの傷を見て思うことは励ましでも、労りでも、同情でも、侮りでもない。けれど口にすれば相手にとってどこかにその言葉は入る。その齟齬が発生するのは避けたい。いくら僕を理解してくれている先輩でもだ。
いつか必ずなまえ先輩の縛りを解いて、その隣を掴む。でもそれは先輩が形だけではなく、心から縛りを解きたいと望まなければ意味がない。そうじゃないと、僕が何をやっても届きゃしない。最悪、逆効果にもなり得る。それが僕が親友や生徒達から学んだこと。なまえ先輩だけは間違えないと決めている。だから今この思っている言葉を伝えない選択の様に、慎重にやりたい所は誰になんて言われたって丁寧にやるし、やらなくて良いところは好き勝手にやる。今こうやって、僕が泊まる時に使うスウェットを先輩に着せて、ぶかぶかになってんの可愛いなとかやることとか。

そういえば寝顔みるの、1ヶ月ぶりか。
高専1年のまだ無限による識別ができなかった頃、結構キツい風邪をひいた。体が成長するに連れて風邪をひくことは無くなっていたから、まさか高専入って風邪で寝込むことはないと思っていたので、朝起きて体が馬鹿みたいに重かったときは一瞬何が起きてんのか分からなかった。傑は単独遠方任務に行ったし、硝子は風邪は専門外だからと近寄らず、体が丈夫にできてるから風邪はもらわないと言う先輩に2日間面倒見てもらった。まぁ見させたって言い方のほうが正しいね。あの頃の僕、硝子に先輩を取られまいと必死だったから。
風邪引いて気弱になるって程ガキでもなかったが、頭が痛くて夜中起きたら、先輩がベッドサイドの椅子に座って眠る姿が目に入ってきた時は気分がよかった。あのせいで僕は先輩と寝るのに固執し始めた感あるな。先輩が丈夫な理由もあの頃は知らなかったから、気楽なもんだったし。

あの時の先輩の真似して、救急箱から持ってきた冷えピタを張ってやり、抱き寄せて脇の下に体温計を突っ込んだら微熱。やっぱり呪力切れのみかな。拭きそこねた耳についている泥をこすってやると、眉間にシワが寄る。あ、起きる。
「……五条?」
「うん僕だよ。ここ先輩の家ね」
先輩は天井を見上げて、何度か瞬きすると「あーーー」と呻いた。
「ごめん。ミスった」
「何があったの」
「1級が墓を管理してるお寺の鳥居にぶつかって、折れた鳥居が本堂に倒れそうだったから構築術で作った鉄で支えたら……呪力切れた」
「あー、なるほどね……。まあ、生きて帰って来てくれたから何も言わないよ」
「ちょっと怒ってない?」
「怒ってませーん。ウソ、呆れてはいる。土木工事は業者に任せなよ。すぐそういうことする」
「こんな寒い時期に、穴が空いたら大変だからさ……」
まだキツいんだろう。声はどんどん小さくなり、先輩のまぶたが重くなってきた。
「今何時……」
「んー、17時半」
「悪い五条」
「なに?」
「………暇……?」
「そう聞かれて、僕が時間作らなかったことないでしょ」
「………今日はちょっと、そばにいてほしい」
うわ……。今のグッと来た。申し訳無さそうに絞り出した声が、めちゃくちゃ求められてんだなって感じがしていい。先輩がこんなこと言うの、4年に1回あるかないかだ。疲れで自制がきかない時だけ。
「いいよ。今日は泊まっていく」
そう答えると先輩はまた眠ろうとしたので、2時間経ったら起こすからね!と肩を揺すると指をひらひらさせて眠りに落ちた。まぁ、2時間経ったら起きて動けるくらいには回復するでしょ。そしたら食事させて、たっぷり休ませよう。
冷蔵庫をあけると米・塩・味噌しかなかった。戦国時代の台所かよ。ちょっと買い出し言ってくる、と耳の側で言うとむず痒いのか、ぶるっと震えたのが面白い。黒いアイマスク姿でこの辺り歩くとご近所から変な噂立てられそうだから、サングラスに変えて先輩にアイマスクつけてみたら意外と似合う。このままにして行こう。
さてそしたら、僕が風邪引いてた時、先輩が刑務所映画か何かの真似して食事持ってきてくれる度に「お楽しみの時間だよ!」って言って笑わせてくれたの、再現してやるかな。

2020-02-05 お題作品
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