※「09.過去を夢に見る」と「かなたの彼女」を読んでから読まれるのがおすすめです。









懲戒処分報告書

■内容
他呪術師に対する暴力行為、及び無断外泊 他

■被処分学生 
東京都立呪術高等専門学校所属
4年 みょうじ なまえ 準1級呪術師

■事件概要
上記生徒は2008年1月18日、公益社団法人××霊園にて被害者と任務で組み、任務遂行後、被害者へ暴力行為を働いた後、逃走。事件から1週間後に自身の意思により帰校。

■処分内容 
停学 1週間 


▼ ▼


「転送のテストしたいから手伝って」
五条悟がみょうじなまえの部屋を尋ねて来たのは夜中の4時だった。揺り起こされたみょうじは顔を洗い、制服に着替え、五条が持ってきたジャンパーに袖を通す。
非常識な時間の訪問に対しみょうじが何も言わなかったのは、順従する気はないが常識は知っている後輩が、こんな夜中にお願い事をするのはただの我儘ではないと理解していたからだ。4時まで部屋に居座るのと、寝ている人間を4時に起こすのは五条の中で大きな差があった。
「転送陣はどこで組むの」
「ここ」
「転送先は?」
「ついてからのお楽しみ」
するすると五条の指先が転送陣を床に記す。みょうじが次に目を開くと、朝焼けの下に立っていた。まだはっきりしない頭に入って来る、時折輝いて揺れる水面、潮の香り、漣の音、そんな情報が意識を覚醒させて行く。完全に起きた時、隣に降り立った五条は笑った。
「停学解禁オメデト」
「ありがとね」
お互い海を眺めていた。だから表情は分からない。けれど五条もみょうじも小さく笑っていた。


「4年のこの時期に停学食らうとか馬鹿でしょ」
「そうだねぇ」
砂浜から陸に向かって歩き、道路との境界にできたコンクリートの縁に2人は座り込んだ。海風は強かったが、無限の中では問題なかった。
「なんで呪術師ボコったの。いなくなった1週間も、停学中の1週間もどこ行ってたの」
五条は停学の理由は夜蛾より聞かされていたが、その事件の発端になった原因は教えてもらえなかった。
そしてみょうじは停学期間中、私用の携帯を自室の机上に置き去りにして学内から姿を消した。目立つ所に置いたのは、家入や五条への連絡しても意味がないという無言の知らせだった。
五条は最初の数日ほどは夏油の件の影響で血眼になってみょうじを探したが、夜蛾に止められた。1週間すれば帰ってくるから黙って待っててやれ、大事な用事で居ないだけだと言われたからだ。
それからは毎晩、みょうじが帰ってきていないかベッドを覗き込み、やっとその姿を見つけたのが今日だった。転送術の練習など真っ赤な嘘で、誰からも邪魔をされずに今回の経緯を聞き出すための転送術だった。
「先に聞きたいんだけどいい?」
「俺の質問に答えてくれるならね」
「天内理子の死亡を私に隠していたのは、悟の気遣い?」
みょうじの視線は海に向かっていた。五条から見た彼女の顔は、ひどく穏やかだった。

星漿体 天内理子。

五条にとっても、彼女の任務は思い出して良い気持ちになるものではなかった。
今ふたりを取り囲む無限。強すぎる潮風だけを弾いて、外気や潮の香り、弱い風は通しているこの無限を操れるようになった覚醒の契機にして、親友を失う誘因になった任務。
「俺と、傑と、関係した教師全員で決めた」
「最初に言い出したのは?」
「……俺と傑」
「……ごめんな、気を使わせて」
みょうじの視線は、未だ海だった。
「知ったのは、本当に偶然だったんだ。組んだ呪術師が、過去に天元様の護衛を担ってた血筋の人間でね。知らなかったよ。いや、予想はしてた。星漿体は複数人いる。ここまでは予想してた。事故や病気、自殺や暗殺に備えて何人かはいるだろうって。けど、その複数人いる星漿体の中で、誰が天元様と同化するのがいいかを熱く語るやつがいるとは思ってなかった。だから黒井や天内は死んでよかったって言われて、驚いた。自分が、あんな感情的に人を殴れる人間だってことに」
みょうじはたどたどしく語った。穏やかな顔で、暗い海を見ていた。
「殴れるんだと分かった時、後はもうその場を離れてた。2人の報告書と、それから高専が行った事後処理の書類を照らし合わせて、盤星教を知った。優等生やっててよかったよ。書類閲覧の権限、高くしてもらえたから」
みょうじは立ち上がると、無限を抜けた。海風は彼女の髪をひどく乱す。五条は無限の大きさを変えるか一瞬考えて、そのままの大きさを保った。彼女が無限から出たのには、理由があると思ったから。寒さで震える自分の指を下ろした。
「あんないい子が、なんで未来を奪われて、あんな奴らに殺されなきゃいけないんだ。あんな汚い奴らに死体でさえ指1本触れさせたくなかった。私の手で殺してやりたかったよ、盤星教」
言葉の端々は風に持っていかれる。けれど、1番聞き逃がせないところは、しっかりとすくい上げられた。五条が立ち上がって1歩踏み出すとみょうじもまた1歩前に進んだ。五条はこの時やっと、自分が無意識に自分へ嘘をついたことに気がついた。みょうじが無限を抜けたのを見た時、夏油傑を新宿の雑踏の中に放ったあの時に近い心境にいた、と。五条の指が、冷気をある程度遮断してるここで寒さで震えるわけがないのだ。
「天内の死体に誰が触ったなんて、報告書には書いてない」
「うん。書いてなかった」
「……傑に会ったな?」
風が強くなり、みょうじはまた1歩、海に近づいた。
「これもまた偶然だよ。暗殺の依頼主は……盤星教の園田っていうんだけど、情報を探ったらずるずると盤星教のその後が出てきた。盤星教 時と器の会は解体されて、新しい宗教になってた。呪術師界にマークされたから解体しただけの居抜き感丸出しでね。上は変わらずにのうのうと生きてるだろうって行ってみたら、そこのトップが傑になってて、教えてくれたよ」
全部ね。
みょうじの声が荒々しい潮風の中、くっきりと聞こえた。振り返った彼女の眼は、海のように真っ暗で穏やかだった。
みょうじという人間が、こんなに負の感情を露わにすることは今まで1度もなかった。五条はまた自分が駄々をこねて、みょうじから状況を聞き出して、お互い愚痴を言い合って終わりだと思っていたのに。
「皆の気持ちはわかる。私は天内に入れ込み過ぎた。私が2人の逃走を手引する可能性があったからだろうね。だから海外派遣任務なんて突っ込まれて、日本から出された。その後の皆の気持ちもわかる。私だって、2人の立場なら、あの2人の死を教えなかったかもしれない」
暗暗たる話し方、変わらない表情。五条はみょうじから目が離せなかった。
似ているのだ。振り返れば、アイツがおかしくなったのはあの時だったかもしれない。そう思っては何度も追想した、親友のいた日々の再上映を見ている気分だった。
「……たまに自分が、曖昧になる。……傑の気持ちがわかる。私は傑みたいに理想なんて大きなものないけど、全く知らない他人を守り続けるより、近くの大切な人のために生きると決めておけばよかった。そしたら、もっと前に動けてた。理子ちゃんも、黒井さんも、死ななかったかもしれない」
風が強く吹き抜けて、みょうじの顔を隠す。
五条は、みょうじなまえにとって今日の夜は呪術師としての岐路だと痛感した。痛感したが。

「行くなよ」
出た言葉はひどく短かった。
「俺を置いて行くな。約束しただろ。先輩が勝手にどっか行ったら、どうにかする」
「どうって、どうなの」
「考えられるすべての手を使って止める。今度はそうする」
五条は夏油を失ったあの日と同じ、混乱、驚き、恐怖、悲しみ、怒り、すべてが混ぜあった言語化できないもの、彼が現代最強の呪術師になっても乗り越えられなかった壁の前にまた立たされていた。しかし今度の五条は、目の前の人間を止めることに微塵も迷いがない。足1本折ってでも止めるつもりだった。
「行かないよ」
どす黒い返事を予想していた五条の指先から力が抜ける。そのくらい、みょうじの声はさっきまでの雰囲気が抜けていた。
「悟と約束してなくても、行かなかった。……この選択は悟がいたからできた。悟がいなかったら、まったく違う方に行ってたかもしれないね。悟がそばにいてくれて本当によかった。3年間、ありがとう。ごめん」
みょうじは笑い、また海に視線を戻した。
五条は術式を組みかけてた手を下ろすと、無限を解いた。立ち上がり、乾いた砂浜を歩くと、踏まれた砂は荒っぽい音を立てた。
「なまえ先輩」
振り向いたみょうじに五条は手をのばすと、思いっきり突き飛ばした。みょうじは突然のことで全く防御はできなかったものの既の所で受け身を取るが、五条に下半身にのしかかられて、起き上がる事は不可能だった。
「あぶなっ!」
「無限はってたから怪我はしねーよ。あのさ、感謝してんなら高専でたら結婚して」
「え……、今言う?」
「別に突然のことじゃない。俺の中ではしっかり順序だってんの。うんざりしてるって顔に書いてあんだよ。このままだといつか先輩は飲まれる。俺がいない方向に飲まれる。だからもっと縛っておきたいの。なに?ブサ専?違うでしょ?超イケメンだし、稼ぎはいいし、性格もいい。家はめんどくさいけどなんとかするから問題ない。何より、俺には先輩が必要だし、先輩にも俺が必要でしょ」
みょうじは次の言葉を発するのに少し時間が必要だった。五条という後輩は好いた人間には男女構わず甘える人間で、そして自分はその中で1番距離の近かった異性だった。だからたまに恋愛感情を向けられているなと思ったことはあったが、ここは狭い世界だ。選択肢があまりにも少ない中で、偶然近くにいたから選ばれただけ。もはや錯覚に近い。そして、恋愛の面倒事を狭い世界でこじらせるデメリットを五条が考えないわけがない。だからそう、もしあっても告白くらいまでだと、心配しなくてもいいと結論づけたのに、結婚まで飛躍するとは思っていなかった。だから予想を大きく越えてきた後輩をどう落ち着けるか考える時間が必要だった。
「もう苦しいんだろ。このイカれた世界は、上も下も、超いいやつも、全然知らないやつも、ただのクソも、全員死ぬ可能性がある。けど俺は死なない。最強だから。だから、先輩は俺を1番にすれば楽になるよ。どいつもこいつも信用ならない世界だけど、俺だけは絶対に信用していい」
他人からすれば、脅しのような告白に過ぎない。けれどみょうじには頭を殴られたような衝撃だった。

みょうじは家族に望まれてこの世界に入った。人より秀でた力を持ち、それで人を助け、家族の期待に応えられるのは、課せられた呪縛が気にならないほどに嬉しかった。やりがいもあった。
しかし階級と任務の難易度が上がるにつれて、人に対して優先度というものがつくようになった。
優先度のせいで誰かが死ぬ度に、彼女の心の底には、いつまで経っても消えない吹き溜まりのような黒いものが残りつづける。なぜあの人を、なぜ先輩を、なぜ後輩を、そんな想いが消えることなく、染み付いて離れない。
その大きな恨みにも似たものと、折り合いをつけて生きて行かなければいけないことは分かっている。第一線で活躍する呪術師達は誰だってそうしているだろう。自分もできるはずだと信じていた。
しかしその自信は、学年が上がるにつれて失われていく。灰原でぐらつき、夏油でヒビが入り、五条との約束で修復したようにみえて、とうとう天内の死を知った時に壊れた。
残り少ない自分の大切な人、例えば、庵、家入、そして五条、彼らに優先度をつけられたときに、自分はまたそれに従えるだろうか?従わないだろう。呪術師であることもきっと放棄する。もう無理だ。もう従えない。それが自己の破滅につながってもだ。なぜなら結果は同じだから。
在学中に折りあいをつけて過ごせたのは、本当に五条という精神的支柱の存在が大きかった。呪術師であろうとした自分の精神を延命してくれたのは、まぎれもなく五条がそばにいてくれたからだ。だから、“ありがとう”であり、“さようなら”だった。

けれど今、五条を絶対に置いてはいけないと、みょうじは思った。自分の辛さなど捨て置いて、意地でも、しがみついてでも、いくら地獄を見ても、この世界に五条を1人置いていけないと再確認した。五条悟は死なないと言った。明日も明後日も、50年後も生きている。そんな彼を置いてはいけない。
自分は必ず生きている、という言葉は今のみょうじなまえに対して救い以外のなんでもなかった。死にかけていた精神が、再び生き返る気がした。誓いをもう1度立て直す。
「悟、ありがとう」
「おう」
「じゃあ、結婚できないな」
「なんでだよ!」
「呪術師でいたいからなぁ」
「はぁ!?なんなの?嫌いなの、俺のこと」
「好きだよ。大好きだよ。けど恋愛や結婚したいわけじゃないんだ。けど、同じくらい大切にしたい。分かってもらえるかなぁ」
「わかんねぇ」
「だよね。でも他の誰かと付き合うこともないから」
「説明は?」
「いつかね」
脱力した五条も砂浜に転がった。無限の上にいるせいで、砂はつかない。五条には追及する力は無かった。
「……停学くらってた1週間はどこ行ってたの」
「理子ちゃんと黒井さんの墓参りと遺品整理」
「なるほど」
五条は手を伸ばしてみょうじの手を握った。みょうじも握り返して空を眺めた。美しい夜明けだった。

2020-01-02
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