柔能く剛を制す。しなやかさは、強く硬い攻撃を受け流し、戦いに勝利する。近接戦闘において、この言葉は真理であり基本だ。
パワーと同じくらい、しなやかさは重要だ。
しかし、強く硬い攻撃がしなやかに襲いかかってくる場合はどうすればいいのだろうか。

「あ、ついた」
「えっ」
私の蹴りを右腕で薙ぎ払い、そのまま左手で首を狙って来た五条の動きがぴたりと止り、私のかかとを指差す。薙ぎ払われた反動で着地した右足が、確かに縁を踏んでいた。
たたみ8畳の中から出るか、ダウンを取られたら負けの、術式使用不可近接稽古3本勝負は私の負けで終わった。
「僕の勝ち。今度の飯は先輩のおごりで」
「次、暇いつ?」
「明日か明後日」
「行きたい店、六本木だったよね。明日はハロウィンだからやめとこう。混む」
「了解。じゃ、店は予約しとくよ」
今年に入って5勝7敗。これで8敗目だ。
スピードなら私の方が1歩先。素のパワーも私が上。でも呪力総量は彼が上なので、それが乗るとパワーはひっくり返される。

さらに彼は、呪力の流れを見るのがとにかく上手い。体に呪力を流しているから、殴るなら腕へ、蹴るなら足へ、ガードするならその場所へ呪力を集める。それを無意識でやって1人前。近接専門なら、その先を行かなければならない。
対五条の場合はパワー負けしているので、フェイントを多く仕込んだ戦い方がメインになってくるのだが、呪力量、体の動き、息の吸い方、視線。様々な要素を絡め、仕込みに仕込んだフェイントでも、五条の六眼と彼自身の格闘センスの前では、ほとんどが見抜かれる。
裏を返せば、いくつかはすり抜ける。攻撃数とフェイントのラッシュで圧倒するしかない。これが私の彼に勝つ戦法になる。学生時代はこれで勝ち越しできたが、私の成長速度より彼のセンスの伸びが凄まじく、ここ数年はずっと負け越しだ。

「なまえ先輩とやると着替え要るなぁ」
「毎回クーラーつけてやろうって言って忘れちゃうね」
「ねー。でもま、つけても大差ないでしょ」
五条が手を差し出してくれたので借りると、引っ張り上げられた流れのまま抱きしめられる。
「汗びしょびしょなんですけど……」
「知ってる。僕もヤバい」
「そうじゃなくて……シャワー行こう。汗が目にしみる」
「まだお昼なのになまえ先輩ったらダイタン……」
「このノリは今しんどい」
稽古の内容を思い出し、体の疲労を照らし合わせる。弱くなってはいないはず。
この前の任務は、呪力回復が追いついてない状態でのイレギュラーだったとはいえ、死にかけるほど負けたのは結構ショックだった。けど、こういう手痛い負けの時が伸び時だ。やっぱり五条にもう1本頼もうとした時、珍しい人が部屋を訪ねて来た。

「七海くん、久しぶり」
真夏でさえシャツのボタンを1番上までかっちり閉める七海くんは、私達に向かって軽く会釈した。
「お久しぶりです。新年会ぶりでしょうか」
「多分ね。元気してた?」
「そこの人のせいで無理させられましたが、問題なく」
「そこの人ってなんだよ。オマエが来るの珍しいね。どうした?」
「みょうじさんに用があって。私に振られた任務地がみょうじさんの任務地と被っていたので、よければ任務交換をと」
「どの案件?」
提案されたのは来週頭の大分の案件だった。繁忙期は過ぎたものの、今年は地方でも上級呪霊の発見が続いてる。宿儺の共振か、いままで上級呪霊を取り込んでいた存在がいなくなったせいか。原因を探るためには、もう何年か観測がいるだろう。
スマホでスケジュール確認をしようとすると、汗で画面が滑る。この前も血で滑ったから、スマホってこういう時不便だな。指紋が溶けるとかも無い話ではないので、今度出るホームボタン無しの機種へは乗り換えやめておこう。
「なら代わりに土曜の大阪案件もらおうか。女子大の案件だし」
「助かります」
「交換の申請は私がしておくね。大阪でなにか食べたいものある?」
七海くんとお土産の話をしていると、後ろで黙ってスマホをいじっていた五条が声をあげた
「先輩の予定に載ってないけど、大阪の前日は修理した呪具納品で青森じゃない?」
「そうそう」
「なら僕が大阪行くよ。この前日は兵庫だから」
「いやだめでしょ」
「なんで?イケメンすぎて女子大でフェス起きるから?」
「起きんわ。大阪案件は時間帯指定が夜だよ。2日も学校空けることになる。1年は虎杖くん復帰でやっと3人そろったんだから、授業しなきゃ」
「大丈夫だって」
おかしいな。五条は任務関係のこういうやり取りは好まない。さらに派遣先として多い大阪の任務なんて好きじゃないはず。
スマホに落としていた視線を五条に向けると「行くって」とやはり引いてくれない。
「ダメ。五条の本業は先生でしょ。ちゃんと1日でも多く、1年生のこと見なきゃ駄目だよ」
断りの意思も込めてしっかり念を押すと、五条は急にこっちに頭を下げてきた。どうした。なんだ。五条が大きく瞬きをするから、睫毛で風が起きそう。うわ顔がいい。思考に無理やり顔情報をねじ込まれて、口にキスされた。

▼ ▼

「怒って欲しくて絡んだんだけど、思いっきり引いた顔して出ていかれるとは思わなかった」
「不快な目にあったら、まず問題から離れるというのは常識的な対応かと」
「僕のキスが不快なワケないだろ。出品確認された時点で、評価委員が泣きながら満場一致で毎年モンドセレクション金賞受賞だよ」
「あの銀賞より金賞が遥かに多い賞を?」
喉乾いたから自販機行こうぜ。奢ってやる、と五条さんは部屋を出る。140円くらいでこの人に付き合うのは割に合わないのだが。

この2人の関係は、驚くほど学生時代から変わっていない。
高専に入学したての頃、私はみょうじさんを避けていた。今でこそ慣れたが、学生の私は五条さんが苦手だった。イカれた世界の中でもフィクションの様な規格外の強さを持ち、性格も同様。軽薄で口が悪く、人への敬意を持ち合わせておらず、人を躊躇なく扱き下ろしたかと思えば、翌日は手放しで褒めて来る。こちらの考えが全く及ばない気まぐれさ。私達後輩は彼に振り回されっぱなしだった。だからそんな五条さんが好いている人というのは、同じ様にイカれている人だと思い、避けていた。
しかし談話室での振る舞いや、人からの話を聞くたびにどうも違う。素行があまりに普通で、どちらかと言えば常識がありそうに感じた。

結果、彼女は普通に話が通じる、まともな先輩だった。
当時五条さんに悩まされていた私は、あの人の不条理かつ理不尽な言動を受け流せるようになるため、みょうじさんの思考の真似を試みたことがあったが、3日と持たなかった。五条さんの相手をするためには、自分が変わるより、みょうじさんを味方に付けた方が良いという結論に至った。

私はあの頃、2人は付き合っていると思っていたが、灰原は真逆のことを考えていた。
そういう話を好み、またストレートに聞けた灰原は真偽の程を確かめたがり、五条さんに尋ね、付き合っていると返答されたが、それ以外の先輩は付き合っていないと言う。どちらが本当か分からないでいると、タイミング良く、私がみょうじさんの任務に同行することになった。
本人の口から付き合っていないと聞いた時、私は少し落胆した。この人が五条さんを抑えててくれれば、まともな人間性が少しは身につくのではないかと考えていたからだ。
でもいつかは、2人は本当にそうなるだろうと感じていた。真似して3日と持たなかった彼女の五条さんへの対応は、10代の鈍感な私でも理解できるほどに愛情を感じた。
しかし私が呪術界へ戻って来ても、2人は結婚どころか、交際もしていなかった。


「七海。結婚禁止なのに、合コンに行く人間の気持ち分かる?」
「気持ち云々ではなく、単純に数合わせでは?」
「そうなの〜?」
五条さんは空を仰ぎ、コーラとお茶を買うと私に向かってお茶を投げ、自販機前の椅子に腰かける。私は自販機横の柱へ寄りかかる。昔から風通りが良く、五条さんに自販機前に呼び出されるたびに、私はここを定位置とした。
「突然合コン行くし、死にかけるしで、僕も焦ってるのかな」
「……なぜこんな話を私に?」
「なまえ先輩の縛り知ってて、呪術界の面倒な柵が無くて、社会経験あって、合コン行ったことありそうで、先輩特権で絡めるから」
「……合コンは1度しか行ったことありませんよ」
「あんのかよ」
「ええ。アナタみたいな迷惑なパワハラで、数合わせで。仕事があったので30分で帰りましたが」
「え、女の子、可哀想……」
「……みょうじさんの縛りは、結婚禁止というよりは血を絶やすために他の家との間に子を作ってはいけない、という縛りでしょう」
「そう。でも、古い縛りだからね。縛りの秘伝のタレ時間が長すぎて、先輩の親でさえ縛りの概要を全ては追えてない。だから感情変化による呪力の揺らぎをトリガーにしてる説が1番ありえるから、安全のために結婚禁止にしてるって話」
「聞くたびに思いますけど、気の長い縛りですね」
「ねー。縛り考案者は、自分達を呪詛師堕ちさせた奴の一族が生きてる間に、完全に術式継承した子が生まれると思ったんだろうね」


呪術師の血筋には、個人とは無関係の過去の後始末を生まれながらに任される人間がいる。彼女もまたその一人だ。
復讐と力の証明のための縛りだったのに、復讐対象がいなくなった現代に発動してしまった。結果できたのは、1人の不自由な呪術師の女性。そして彼女は、先祖の願いどおり呪術界に“みょうじ”の成果を残している。
多分、五条さんならこの縛りを切れるだろう。けれど今でも切っておらず、みょうじさんに任せている。
この状況を知った時、私の中でこの人の印象は少し変化した。だから、万人にとは言わない。せめて周囲の人間にだけでいい。ギリギリまで、人をおちょくるような態度を改めて欲しいと思う。けれどその度に、学生時代に聞いたみょうじさんの言葉が頭をよぎる。
「あんなになんでもできる悟が、態度まで良かったら終わりだ。みんなに好き勝手使われて、短命になってしまう」
五条さんと一緒にいて疲れませんか、とみょうじさんへ尋ねた時の彼女の返事。聞いた時はピンと来なかったが、社会や呪術師界の思惑に触れる歳になって、理解ができた。

「それにしても、なぜみょうじさんに怒って欲しかったんですか」
「僕くらいになるとさ、年寄りに罵声を浴びせられることは山程あっても、叱ってくれる人はいなくなるんだよね。だからたまーに、僕のこと本気で思ってくれてる人に、叱ってもらいたくなるわけ」
「そういうのは私がいない時にやってください」

ため息が出た。じゃれあいのような稚拙な愛情確認の裏にある、超長期戦の駆け引き。自分なら御免だ。こんな恋愛。……そもそも、これは恋愛なのか。今年の新年会で、五条さんとはどうですかと尋ねた時のみょうじさんの言葉を思い出す。
「“五条悟”のことを考えると、もう彼は私以外の誰かと結婚しなきゃいけない歳だよね。でも彼に対して、五条家の人は言えない。だから言うなら私が適任なんだろうけど、でもそうすると“悟”を傷つけてしまう」
五条さんはみょうじさんに傍にいてもらえるための手段を探していて、みょうじさんは五条さんが傷つかない方法を探してる。
だからお互いが無理に動かない。だから延々と動けない。

これからどうなるかは分からないが、私としては2人に上手く行ってもらいたい。できればなるべく早く、私を巻き込まない方法で。そうすれば五条さんの人当たりも、もう少しまともになるだろう。みょうじさんには悪いが、このまま五条さんを、せめて私がリタイアするまでよろしくお願いしたい。

2020-08-16
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