「猪野?」

深夜、静寂。
街灯の下、目出し帽の男がスーツ姿の男と向かい合う。

サラリーマン狩りだ。

反射的にスマホの110に指が伸びたとき目出し帽の男が出した声が、長いこと聞いていない友達の声に似ていて彼の名前を呼んでしまった。

「えっ……みょうじ?」

目出し帽の男がこちらを向く。ずるりと黒いそれを取ると、本当に猪野がいた。
「え。ホントに、猪野?琢真?猪野琢真?」
「みょうじ、なんでここにいんの」
「そうだよね。ヤバいよね……。警察ついていくから自首……」
「違う違う違う!オマエの考えてることと120パー違うから!」
「猪野君、お知り合いですか」
サラリーマンが猪野に声をかける。え、知り合い?知り合い狙おうとしたの?
「怨恨……?」
「ちっげーから!七海サン!すみません今日は俺ここで上がります!」


ちょっとこい!と猪野は私の手をひっぱった。
街灯の下で見えた顔は中学の時と変わっていない。……ちょっと大人っぽくなってたけど。手が大きく分厚くなってた。手首がまるっとつかまれてる。食べるに困ってそうではないけれど。

「生活苦?怨恨?やめなよ」
「違ぇからマジで。……前……つっても中学の時、覚えてる?みょうじには言ったろ、アレ絡み。あの人は俺の先輩サン。仕事で来てたの」
「マジィ?」
「軽くね?」
「猪野の真似」
「……みょうじこそなんでここいんの。上京?旅行じゃないよな」
「そう。大学こっちにして上京したの。今日はバイト帰り」
「こんな遅くまでやってんの」
「ううん。いつもは全然違うとこで、もっと早く帰ってるんだけど。こっちにあるお店にヘルプ行ったら、初めて来た所で帰り道、迷っちゃったんだよね」
「家どこ?」
最寄り駅を言うと猪野は、遠いな。とつぶやいた。

「バイクで送ってやるから、俺の家行こうぜ」
そう言われて10分ほどでたどり着いた猪野の家はアパートだった。
どこにでもあるような2階建てで、コピペしたようなベランダが並ぶ真夜中でも分かるボロめのアパート。やたら足音が響く階段を上る途中で、アレが俺のバイクね、カッコいいだろ、と下を指差したけど暗いので黒い塊にしか見えなかった。
猪野が手前から2番目のドアに鍵を突っ込んであけると、解錠の音は意外にも上品だった。よく見ると壁や手すりはヒビが入ったり錆びているのにドアは新品でつやつやと輝いて、こういうアパートにありがちなドアノブでも横長のハンドルでもなく、縦長の高そうな取手がついていた。
「入って」
「外で待ってるよ?」
「いいから」
猪野が突然距離を詰める。左右にどんなヤツ住んでるか知らないから!あぶねぇだろ!と耳元でささやかれ、言われたことを理解するのが数テンポ遅れた。吐息がこそばゆくて体が震えた。

部屋の中は外観から想像できないほど綺麗だった。ワックスのかかった傷ひとつないフローリングにキッチンは黒のモダンなデザインで、壁も合わせたクロスが貼ってある。内装もキレイだが部屋も片付いている。
「ひとり暮らし?」
「おぉ」
キッチンペーパーとラップ、アルミホイルをきちんと立てて整理してるひとり暮らしの男、初めてみた。私の視線で分かったのか猪野はにんまり笑った。
「キレイ好きなの。美化委員だったろ」
「あれはサボりでしょ。……あんまりお金ないの?」
「いや、同世代と比べたらもらってる方。なんで?」
「アパートぼろぼろじゃん」
「部屋ん中はキレイだろ」
「リノベしただけでしょ。それに、高いマンション住んでみたいって言ってたし」
「……このアパートさ、まぁなんつーか、出るのよ」
猪野は冷蔵庫を開けると水とお茶どっちがいいと聞いてきたので、水と答えると英語のラベルがついた青いボトルを投げてきた。
「それ、ウマいんだって」
買っといて飲んだこと無いの。
「出るなら住んじゃだめでしょ」
「だよな。俺もプライベートまでこんな所いたくねえってパスするつもりだったんだけど、俺が見学に来た時、大家のおばあさんがここにたった1人で住んでてさ。人が入らねぇのは出るせいなのにアパートが古いからって勘違いしてて、借金までしてここリノベしたんだよ。そんな話し聞かされたら入るしかねぇじゃん。ま、住めば都ってヤツ?外ボロいけど住みやすいぜ。俺が祓ってるから人も入ってきたし、家賃も格安だし。コンロの口がもうひとつあれば言うことねぇんだけど」
猪野はよく見るラベルのペットボトルのお茶を一気飲みした。
「……っぽい」
「なんだよそれ」
「猪野っぽい」
猪野は笑って、持ってきたヘルメットの頑丈そうな方を私へ投げて、よっしゃ行くぞと腕まくりした。

▼ ▼

中学1年の時に同クラになって、背の順が隣だった。確か、猪野がどこの小学校かと話しかけて来たのが始まりで仲良くなった。
でも長い時間べったり話すわけじゃなくて、1日1回、お互いが自分の机の側を通ったらちょっかいかけて話す感じ。
女子でいざこざが起きたら、何があったか猪野が聞けるのが私。体育でマラソンをゴールして、みんながゴールするまで喋ってようと私が探す相手が猪野。
3年間、一緒のクラスだった。
おちゃらけてるけどデリカシーが無いってわけじゃない。勉強もスポーツもできた。でもクラスの中心じゃなかった。今考えると上手いバランスの所に猪野はいた。そういえばちょっとモテてた。
ある日突然別グループの子がやけに話しかけてきて、押しの強い子で困ってた私を猪野が連れ出してくれて、なんだったんだろうねと2人で首をかしげてたら、後でその子が猪野を好きだったと知るみたいな。
とにかく、中学で1番仲が良かった男子は?と聞かれたら、猪野だ。
それでも猪野の秘密を知ったのは、3年になってからだったけど。

3年になって、バレー部の最後の試合が近い夏の日だった。
一緒に部活に行く友達のホームルームが終わるのを廊下で待ってたら、ロッカーの上に置いていたユニフォーム入りのバッグが窓の外に落ちた。窓から見下ろすと、木の上に乗っていた。木が普通に生えてたら滑って落ちてくれるのに、てっぺんが平に刈り込まれていてまったく落ちる様子がない。
血の気が引いて体が一瞬にして寒くなった。どうやっても取れない。長い棒で突く?そんな棒は無い。先生に言う?コーチに話が行く。
その時のバレー部はレギュラー争いですっごくピリピリしてた。コーチは鬼みたいに厳しくて、ちょっとでも下手するとすぐにレギュラーから外される。そんな中でユニフォームを木の上に落としましたなんて知られたら絶対レギュラーから外されるし、そもそもユニフォームが無いまま部活に行っても外される。終わった。頭の中でもうダメの4文字がぐるぐる回って、何も考えられなくなった時だった。

「みょうじ?どうした?」

振り返ると猪野がいた。
混乱した私は無言で窓の外を指差した。猪野はそれをみると、すげえとこ落ちてる!と笑ったが、私の顔を見てすぐにバツが悪そうな顔をした。

「何が入ってんの」
「ユニ……フォーム……」
「は!?レギュラーだろ」
「外される……」
「わかった、泣くなって!な?」
「泣いてない……」
猪野は、んー、とか、あー、とか唸って「なんとかするから、ちょっとまってろ、な。心配しなくていいから。俺にまかせろ」と言うと、辺りを見回し、廊下のゴミ箱から黒いゴミ袋を引っ張りだして走って行った。もしかしてゴミ袋を下から投げてバッグに当てる?投げて飛ぶほど中身は入ってない。窓からバッグを見ていると、突然、風もないのに木が揺れた。あっと思った瞬間、バッグが透明な何かとぶつかったみたいに弾かれて、地面に落ちた。

猪野はバッグをつかむと走って戻ってきてくれた。
逆の手には穴がふたつ開けられたさっきの黒いゴミ袋。猪野の髪や肩には消しゴムのカスやホコリがたくさんついてた。

その後、猪野にしつこく聞いたら、しぶしぶと「霊みたいなモンが見えて、超能力みたいなことができる」と話してくれた。別に信じなくていいからな、と猪野は言ったけど私は信じた。あのバッグを落とした時に起きた何かは超能力でもないと無理だ。そして猪野は中学を卒業したら、その力で霊みたいなものを処理する仕事につくため進学すると言って、本当に卒業式を最後に私の住む街からいなくなった。

▼ ▼

荷物になったみたいな気分で乗っていればいいと言われ、バイクの後ろに跨る。思っていたより振動はなく、バイクはするりと道路を走りだした。スピードが出てくると体が浮きそうになって、目の前の背中にしがみつくと猪野から変な声がでた。
「そういえば脇、弱かったね?」
「ちげーよ……いややっぱそれでいい。お姫サマ、乗り心地はどうスか」
「良いぞ〜。バイクよくわからないけどカッコいい」
「だろ?なあ、いつから東京いんの」
「2年くらい前」
東京に来て、駅から1歩踏み出した時に、あぁこの街のどこかに猪野がいるんだろうなって考えた。でも雑踏の中に入るとあまりの人の多さに、きっと会えはしないな、とすぐに理解したけど。
「みょうじはタンデムはじめて?」
「はじめて」
「俺も」
「事故るなよ」
「ねぇよ」
お互いの近況について話していると、すぐに私のマンションの近くについた。そこのコンビニでいいよ、と言ったが、マンションの前まで送ると猪野が譲らないので家の前まで送ってもらうと、いいトコ住んでんじゃん!とバイクから降りた猪野が肩パンしてきた。私のマンションが見たかったんかい。
「今日はありがと」
「おう、あのさ。……連絡先交換しとこうぜ」
「なんで」
「なんでって……まあ……その。………東京は怖いトコロ……だから?」
思わず吹き出して、お母さんかよ!と言ってしまうと、猪野は赤くなってオマエなあ!と声を大きくしたが、結局ふたりして笑ってしまった。
ちょっとだけ不安だった。猪野、身長のびたし、顔は変わらないと思ってたけど明るい所で見たらなんかしゅっとしてて、受け答えも話すことも、私より先に社会に出たせいか頼りになりますって感じになって。もう私とバカなこと話してくれないのかなと思ったから。

「目出し帽をニット帽代わりに被ってる人がいるから、たしかに怖い所だね」
「これは仕事でいるから被ってんの」
「………仕事で目出し帽を…?」
「マジ違うからその目やめろ」
連絡先を交換すると猪野はバイクに戻り、エンジンをかけると私の方を見た。
「他に後ろに乗ってくれる相手いねぇから、ソレ持ってて」
そう言って夜に消えていった。

バイクは黒、頭のてっぺんからつま先まで黒、帽子からぴょこぴょこはみ出した髪も黒。いま私の手の中にあるメットだけがキレイな青なのに、これ置いていくなよな。職質に気をつけてとメッセージを送って、私はマンションの中へ戻った。

2020-04-12
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