五条悟が夏油傑に言われた寮室に行くと呻くような返事があった。

ドアを開けると生徒がひとり、椅子に腰掛けている。こんばんはとつぶやいて五条にむけた顔は今にも死にそうな顔色で、額に貼っているガーゼは血でぬめり、両手は包帯でまかれ白い布でつられている。
頬には脂汗がにじみ、どんな鈍感な人間でもひと目で無事ではないことはすぐにわかりそうなものだが、五条は目の前の生徒の具合などどうでもよかった。彼の意識はこの部屋に不似合いな、床に転がっている1級呪具に向かっていた。

夏油がメールで伝えて来たのは「悟が気になっていた人物にやっとあえるよ」ということだけだった。
「傑から聞いてきたんだけど」
「ああ、キミが悟くんね。そこにキミにも貸してた…あれがあるから代わりに……あれだ……頭が痛くてまわらない……とにかくアレが今日までだから、代わりに返却頼まれてくれないかな」
「指示語多すぎ。おじいちゃん、徘徊はだめでしょ。女子の部屋だよ」
「いやさ……」
へらりと笑う男は、額から流れてきた血のせいで口元が笑っている以外表情が読めない。五条は部屋の中を見回し、廊下に出て左右を確かめる。
「みょうじなまえって人知らない?」
「私だけど」
「は?」
パンツスタイル、さらにだいぶ余裕のある制服のせいで体のラインは見えないし、声は痛みで低く、髪の毛はショートに乱雑に切られていて性別の判断がつかなかった。五条が近くまで行って顔を覗き込むと、薄っすらと目が開く。
男にしてはつややかな唇、細い首、大きい目、華奢な骨格。ああそうか。こいつ女なのか。
『なまえ先輩から借りたのさ』
『先輩は構築術師でね。面白いものをたくさん作っているんだ。呪具の修理もできるから、悟も困ったら頼んでみるといい』
五条は夏油の言葉を思い出す。
「これ作ったから、そうなったの?」
足元に転がる刀を持ち上げると、目の前のなまえ先輩≠ヘ深く長くため息をついた。
「いや。作ってない。発掘された時に折れていたのをくっつけただけ。そんなのまだ作れないよ……くっつけるだけでこんなに反動くるなんて」
「だよね。マゾ?」
「いや。でもまあ、納期忘れてた自分への戒めになったよ」
部屋にかけられたカレンダーには、今日の日付に五条家の人間の名前と「刀1本:修理」というメモが殴り書きされていた。
「なにやってんの」
「ピンク・フロイドのアルバムのジャケット狂気のコスプレ」
何バカなことやってるの、という意味だったのだが、思わず五条は腹を抱えて笑ってしまった。バカだ。この先輩。マジモンのバカだ。

みょうじなんて家、聞いたことがない。つまり呪術界で権力のない家系の彼女は御三家に言われて修理させられている。カレンダーには他にもいくつか刀や槍、短刀などが日付の下に書かれているし、並ぶのは有名な名前ばかりだ。部屋の端に封のされた長ものがいくつかある。
自分の身を削ってまで依頼を遂行する姿は、愚か、哀れ、不憫、どの言葉も、五条が彼女に向けて抱いた感情として適切ではなかった。もう少しで答えがでそうな、そんな中のギャグは滑りすぎて逆に面白かった。

つられてみょうじなまえも笑ってしまう。
悟、という名前とその風貌から、やっと彼が五条の人間だと気がついた。自分の腕は、単純なヒビから刀を直した反動で複雑骨折までいっている。1級の呪具の修復なんて実力がまだ足りない構築術師させたらどうなるなんて理解しているくせに、簡単に依頼をしてくる家の人間とここで会うめぐり合わせ。重傷の自分を目の前にして大笑いする五条の恐ろしさに笑うしかなかった。

お互い思っていることは、こいつイカれているな、ということだった。

▼ ▼

「真希ちゃん直ったよ」
「お、サンキュ」
「2級は3ヶ所ヒビ入り、1級は欠けてた。もっと定期的にメンテだしたほうがいいよ。ここぞという時に折れたら大変だからね」
真希ちゃんは直した刀を抜くと、落ちていた竹を蹴り上げて空中で3つに切ってみせた。拍手をすると照れくさそうに笑う。
「なまえさんもこのぐらいできんだろ」
「いや無理無理。刀とかめったに使わないしね。じゃ、またなんかあったら、お気軽に」
「あ、なまえさん今晩ヒマ?」
「いや、ヒマ…じゃないな」
「そっか。金曜だもんな。どっか出かけんのか?」
「一応それを考えてる。成功するかは別として」
「あー……悟か。……私らで足止めしようか」
「できるの?!」
「今日は全員任務がないから、寮にいろいろ持ち込んで遊ぶ予定なんだよ。悟、呼べば喜んで来るだろ」
「それは絶対に来る。助かる」
「完璧に一晩足止めできるかはわかんねえけど」
今日は中学の頃の友人と飲みの約束を入れているのだ。だが友人と飲みに行こうとすると一言も臭わせなくても五条にばれて、ありえないほど近くてものすごくうるさくなる。
友達と飲むなら僕といこうよ。可愛い後輩でしょ。友達と僕どっちが大事なの。あーあー…僕最強だけど天と地がひっくり返って明日いなくなったら、なまえ先輩は後悔するんだろうなー。そんなセリフで攻めてくる。
すれ違いざまに綺麗にした髪を乱すし、車のキー隠すし、たまったもんじゃない。毎回遅刻させられる。

「頼みます。お礼は美味しいお菓子買ってきます」
「ん。欲しいもん、あとでラインしとくわ」
真希ちゃん、真希さま、真希殿だ。その後ウキウキで定時まで過ごすと、これまた生徒に誘われたのが嬉しいのか、ウキウキでジュースやらお菓子の入った袋を持って寮に向かう五条の姿が窓から見えた(仕事中に買い出しに行ったのか)。これは今回は楽ちんだな。私服に着替えて、無くなっていない車の鍵を取る。すべてがうまく行っていると思っていた。

▼ ▼

《うまく行ってる。悟はしゃぎすぎてウザい。野薔薇とスマブラやってる。野薔薇クソ強い》

〈ありがとう。そしてこっちは騙された。合コンだった〉

《頑張れ。悟よりいい男に出会え》

〈そういうアレはない〉

真希ちゃんから来たラインを素早く返す。友人と気楽な飲み会かと思いきや、騙されてまさかの合コンだった。
ストレス発散できるとわくわくしてきたのに別のストレスがかかってしまうな、とガッカリしていたが、相手の男性グループも面倒な人はおらず和やかな飲み会だ。それに別業界の話を聞くのも、それはそれで楽しい。たまには一般的な業種の話を聞いておかないと感覚がバグる。
そう思って2時間が過ぎた頃、ラインの通知音が鳴った。話が弾んでいたので1度なら後回しにしようと思ったが、続けて何度も鳴る。急な任務だろうか。通知画面を見ると真希ちゃんだった。

《悪い、さっきなまえさんとのトーク画面、ちらっと悟に見られた》

《今の所動きない》

《ちょっと出てくるって行って出ていった》

《悪い》

《そっち行くかも》

2分おきに来ていたメッセージ。頬がひきつる。いやいや。……いやいや、この場所ホントに言ってないし、メモも残していない。もちろん真希ちゃんにも言ってない。
酒が回ってきたのか、頭が少し重い。そうだ酒が回ってきたのだ。いや違うわ。今日は車で来てるから酒のんでないわ。目頭をつまんでいると、また軽快な通知音がする。悟が帰ってきた。という連絡であることを祈りながら画面を見ると五条悟=B

《楽しい?》

あーーー。
こういう感じになるのか〜〜。
すぐさまラインを送る。
〈友達との飲みの予定は五条より先!ホント!〉
事実しか書いてないのに言い訳っぽく見えるのはなぜだろう。というか今日そもそも五条と何も約束していないし、誘いを断ってもいない。すぐに既読がついたが全く連絡がない。怖いな。いやマジで怖いな。
「なまえ、なんか通知すごいけど、どうかしたの?」
「ちょ、ちょっと、ご、ご……ゴールデン……愛犬のゴールデンレトリバーが出産したから電話してくる」
「え?!大変じゃん!言っといで!」
友達に謝りトイレに駆け込み、細切れのメッセージを送る。
〈先約なので〉
〈友達は私に会うために埼玉から来てくれてるから〉
〈中学からの大切な友達〉
程なくして全てに既読がついたあと、やっときた返信。

《へー》

頭を抱える。
待って。私はそもそも何に怯え、なぜこんなに必死に打ったのか。
……そうだ。学生の頃の五条は夏油くんと喧嘩し、部屋に転がり込んできては愚痴り、私が出ていこうとすれば追いかけてきて羽交い締めにして愚痴り、成長すれば今度は五条曰く老害達の愚痴を聞かされ、無言の圧で自宅に居座られて来た。そうか。私は五条が不機嫌なのが苦手なのか。黒閃のように瞬いてつながった思考回路、天啓のような閃きが生まれる。すっきりはしたが状況は良くはならない。
席に戻ると、友人達が心配そうにこちらを見上げる。
「大丈夫?」
「最高に安産だった」
「よかったー。あのさ、今2軒目行こうっていう話ししてるんだけど、なまえもいくでしょ」

「ごめんね。なまえはちょっと行けないんだ」

背後の圧がすごい。
足元を見ると、1度もみたことない白いスニーカーに白いパンツが見えた。振り返ると、髪の毛をおろし、サングラスを手に持ち、暴力的なまでに綺麗な顔を晒して、五条悟がそこに立っていた。友人が、うわっと声を上げる。顔綺麗でしょ。そうだね、顔は文句なしにいいよね。
「こんばんは。僕、心配で迎えにきちゃった」
きちゃった。にハートが付きそうな甘ったるい声で五条が笑う。
ちょっと用事があるんで、ここで失礼させてもらいますね。そう言って、私のジャケットを五条がハンガーから下ろし、勝手に会話がすすみ、気がついたら居酒屋の外に出ていた。白Tシャツ、白のデニムパンツ、白のスニーカーに黒いブルゾン。いつも暗色の服ばっかり着るから完璧に見逃していた。繋がれた手に力が入る。
「奥から2番目の男、絶対狙ってた」
「……どうやってここ突き止めたの」
「呪力たどった。いいから車出して、空気が良くない」
ずるずるとコインパーキングまで引きずられて、バッグから車のキーをひっぱり出されて勝手に刺される。いわれるまま車を出すと、高専に帰るよ。と、助手席でなっがい足を組んで五条は腕組みした。
「家に帰りたいんですが」
「ダメ。野薔薇とスマブラ決着つける約束してるからソレ終わらさないと。あとなまえの土日はもらう。今後3ヶ月。ちなみに僕かなまえが任務の時は振替で翌週に持ち越しね」
「え〜〜〜??」
自分でさえどこから出たのかわからない裏返った変な声が車内にこだまする。それ1年くらいになるじゃん。まあ喧嘩にならないだけ私達は大人になった。わかった……と返事を絞り出すが五条はまだ腹を立ているようで、なっがい両足を私の太ももにのせて、ドアにもたれ、こちらを向いて座り直す。絶対その姿勢辛いだろ。シートベルトしてくれ。
「あのさぁ、結構腹立ってるんだよ。マジで」
このままでは運転できないのでアクセルペダルから足を外し、五条の方をちらりと見ると、ちゃんとこっち見て。と不機嫌な声が飛んでくる。こんなにこじれたのいつ以来か。無意識にため息が出た途端、胸ぐらを掴まれる。

「ここまで来て僕を選ばないの、絶対に許さねぇから」

ちょうど向かいの車のヘッドライトがついた。光に照らされた五条の顔は怒っていると思ったが、全く違った。俯いて、唇を噛み締めていた。

五条、と声をかけようとした瞬間、顔面に痛みが走る。いった。痛い。
顔をおさえた時にはもう五条はいなくなっていて、シャツに血が落ちる。なんなんだ。これ鼻血か?いや唇が切れてる。運転代行サイト……探そ。アルコールでこの怪我を消毒しよう。もう飲まないと帰れない。

まさかそっち。勝手に遊びに行ったことではなく、合コンの方が問題だったのか。何も起きないって、なぜ信じてくれないのだ。
そして20代の前半で特別な感情を含んだやり取りは終わり、今の私たちの関係はただのじゃれあいだと思っていた。だってもう、その言葉に五条は情愛の念を込めていないと思っていたから。

2019.07.08
修正 2019.12.09
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