肩につかまってください。
指示された通り七海さんの肩に手を置くと、ぐっと体が浮上する。しがみついた肩も首も、しっかりと柔らかな筋肉がついていた。七海さんは川から上がり、私を下ろすと木にかけていた上着からスマホと財布を抜いて私に着るように促してきた。

「いえ、七海さんが着てください」
「全身ずぶ濡れなのに上着だけ乾いている男なんて不審者でしょう。貴女が着ていた方がまだ察しがつきます」
「…………りょ、了解です。ありがとうございます」
この前とは違う上着も当たり前だがサイズが大きく、袖から手は出ない。しかし曲げるのもたくし上げるのも、シワをつけることになるので申し訳なく、腕は通さず肩に引っかけた。
「助けていただいてありがとうございました……七海さんはなぜここに?」
「……貴女は特殊な昇級をしているので、2級にあげる前に単独任務をこなせるか確認しておきたいと、学長から監視役として派遣されました」
「い、いつから」
「入山から。まだ当分準2級でしょうね。地形を見るのは重要ですが、そこは私の指導不足です」
「いえいえいえ、七海さんの指導は最高なんです。私が失敗しただけです」
「……ところで、携帯は無事ですか」
ポケットに入れていたスマホの電源を入れたが無反応。画面の中に水が入って、傾けるとゆっくりと水が動いていく。水没という範囲を超えたもんな。七海さんは私の顔を見て全てを察したのか、1泊しましょう。と呟いた。
「任務大丈夫ですか?」
「私もみょうじさんも明日は何も入っていません。それに服を乾かさないとタクシーにさえ乗れませんしね。この辺でホテルを見ませんでしたか?ここは電波が不安定で、今はネット検索もままならない」
「遠目で確認しただけですけど……近くにリゾートホテルみたいなのがありました」
「場所はすぐですか?」
「はい。私が入ってきたコースを下山してすぐの坂の上にあります。とりあえず下りてみます?」
「そうですね、行きましょう」

下山してホテルに続く坂を登る。車で来ることしか想定されてない道だ。見上げると首が痛くなりそうなヤシの木が等間隔に並び、白いレンガの塀がその外側を囲う。
振り返れば静かな田舎の風景が広がる。遠くにポツンとある焼肉屋の看板が眩しい。それにしても運がよかった。タクシーの運転手さん曰く、ここは大きな市同士をつなぐ道で何もないらしいから。
頂上まで登りきると海が見えた。夜でなければ青い海が広がり、景色がいいだろう。辿り着いたホテルは青白くライトアップされており、わざとらしいほどに装飾過多な白亜の外観はこの町にとても不似合いだった。まるでテーマパークの城のように闇夜に佇んでいる。
「独特な雰囲気のホテルですね」
「……えぇ」
隣でホテルを眺めていたはずの七海さんは、いつのまにか眉間を押さえて下を向いていた。いつもきちんと整えられている前髪が、泳いだせいでパサリと額に落ちた。
「……………これはラブホですね」
「ラブホ……」
確かにラブリーなホテルだ。リゾート風とラブリーさが絶妙に噛み合わなくて異質さを放っているけど。
「ラブホテルですよ」
「ラブホテル!?」
「初めて見たのですか」
「いやありますけど、七海さんがラブホテルをラブホって略すとは思ってなくて!?」
またため息をつかれ、七海さんは何てこと無さそうに自動ドアの向こうに行ってしまった。な、な、七海さんと……1泊。ラブホで1泊。あ、部屋2つ取ればいいのか。問題なし!

▲ ▲

『あの術式だとちょーっと話が変わるよね。なまえは外に出していいタイプじゃない。呪詛師なら金積んででも殺しの依頼出すよ』
「同感です。術式がバレれば戦闘でも真っ先に狙われるでしょう」
『タイミング見て前線に出るのは勧めないって言うつもりだけど、聞いてくれるかな』
「……珍しいですね。そういうことを五条さんが言うのは」
『そりゃね。生徒は育てるけど、なまえは生徒じゃないし。生徒と違って鍛え上げる時間もない。呪術師として食べていける素養はあるけど、他の準2級クラスが任務に出て負う以上のリスクを背負ってる。人材不足の解消しか頭にないバーゲンセール対象品以外は、前線はやめろって言うでしょ』
七海もそう思うだろ?
五条は今までとは違うニュアンスをその一言に含ませて七海に尋ねた。
「そうですね。その通りです」
『出番なんじゃない?』
「……なんの話ですか?」
『オマエ意外とわかりやすいよね。びっくりしたわ。まあ高専は女子少なかったからな〜。おっと噂をすればなまえから伊地知へ電話かかってきたから頑張ってね』

七海はみょうじ監視の待機時間にかかって来た電話を思い出す。
みょうじの術式なら、あのツギハギ呪霊の邪悪な術式も一気に祓うことが可能だろう。ただ彼女は弱い。もしもアレに出会ってしまったら真っ先に殺される。だけど彼女は出会うかも分からない「もしも」を警戒して任務に出ないことを許容するタイプではない。
けれど「もしも」に会ってしまったら。
実際に会った七海だからこそ、その可能性を捨て置けない。今までいなかった、特級クラスの呪霊と手を組む呪詛師の存在も確認されている。もう過去を元にした予測は役に立たない。
七海は視線を下に向けると、狭いエレベーターの中で自分の上着を着ているみょうじの頼りない肩を見た。高専にもこのくらいの体格の子供はいる。けれど、子供よりひどく頼りなく見えてしまう。その理由が自分の中に芽生えた、後輩への気遣い以外のもののせいであることは、七海本人もここ数日で自覚していた。

▼ ▼

「七海さんの上着、すごくいい匂いしますけど何かつけてます?」
「……特になにも。柔軟剤でしょう」
嗅いだことのない、いい匂いが上着からする。汗かかないようにしないと。
すっかり忘れていたが今日は花火が上がる。エレベーターに乗ったら地響きのような音がホテル全体を通して伝わって来て思い出した。デート、花火、ホテルのストレートコースにおあつらえ向きなこのホテルは、海が見えづらい端の1室以外は満室だった。
1室。七海さんと、ひと晩。
心臓がバクバクしてきた。いや七海さんだから大丈夫。顔がド級に好みであることを忘れて任務に鍛錬に励んできた時間を思い出すんだ。私がどんなに動揺しても、七海さんの「おやすみなさい」の一言で本日終了。大丈夫。ラブホ女子会とかあるし、今日はラブホ呪術師会だし。

入った部屋は想像していたより、いい意味で普通だった。もっとピンクに赤とか盛り上げるのに全力の内装を想像していたが、全体的にブラウンでまとめられたヨーロピアンテイストの装いはシティホテルに近い。かなり大きなベッドに、ぎりぎり2人が座れる小さめソファとテレビ。ベッドの真上に飾られている前衛的な絵画。その下へ七海さんの代わりに上着の下に背負っていた鉈を置くと、勝手に人の武器をインテリアにしないでくださいと注意された。
机の上にある分厚い本がふと目に入る。宿泊約款かと思いきや、ホテルの提供するレンタル品と食事のメニューだった。内容を確認すると驚くほど充実している。

「思っていた以上にレンタル品が充実していますね」
「絵本が……ありますね……。絵本という名の特殊な……?」
「……最近は一般のホテル代わりに、子連れも泊まると聞いたことがあります。それ用でしょう」
「ラブホにこどもを……」
「どこも不景気ですからね。客層を絞るのにも限界があります。高専時代に任務で行ったことがありますが、こんな賑やかな場所じゃなかった」
「未成年をラブホに!?いいんですか!?」
「当時の私も同じ質問をしました」

七海さんは先に下のショップで買い物やレンタルした靴乾燥機を使いたいと言うので、私が先にシャワーを浴びた。申し訳なくて爆速で上がった。……下着はドライヤーでなんとかなったが、乾燥機に入れた服はまだ時間がかかりそうだ。タオル置き場にはLサイズとMサイズのバスローブが吊るしてある。これかな。これしかないな。コスプレ衣装を借りる手もあったが、1番肌を隠せる衣装が巫女さんだった。ネタをこすり過ぎみたいで嫌だ。
「バスローブしか着るものがないので、これでそっち行ってもいいですか」
脱衣所から首だけ出して尋ねると、ソファでファミレス並みに豊富なフードメニューを見ていた七海さんは顔をあげた。
「構いませんよ、私も着ますから」
バスローブ姿は恥ずかしいな……いや、よく考えたらノースリーブの任務着の方が露出多いから、恥ずかしがることはない。

シャワーからすぐに上がってきた七海さんと夕食を頼む。七海さんはグルメなので、ずっと何を頼むか考えていたらしい。程なくして来た料理は熱々で美味しかった。舌が肥えている七海さんも「これ、ただ解凍しただけの料理ではありませんね」と評価した。すごいなここ。
テレビではローカルニュースのちびっ子相撲大会が流れている。ラブホテルで、あまり広くないソファにバスローブで2人並んで座っていても、食事とローカルニュースがあれば気分はもう定食屋のカウンターだ。任務帰りに2人で食事に行っていた習慣がここで活きてきた。だから七海さんの髪が高専の頃に近いダウンスタイルになっていても、私の心音は穏やかだ。穏やかでいて。
しかし問題は寝る場所である。

「私はソファで寝るので、七海さんがベッド使ってください」
「逆でしょう。私がソファで寝ます」
「無理ですよ。すごくはみ出ますよ。私なら足まで入りますし」
「……………わかりました」
「あ!いや、やっぱり2人でベッドに寝ましょう。私がソファで寝たら、夜中私をベッドに運んで代わりにソファで寝る人だとわかっていますよ!」
目を完全にそらされた。やっぱりだ。そういう人なんだよ。
しぶしぶとベッドに向かった七海さんと一緒に、ふんだんにあった枕とクッションでお互いの間に防波堤を作りベッドを2等分した。これでもキングサイズベッドなら楽々寝返りは打てるし、パーソナルスペースも確保できる。
時計を見るとまだ22時だったが、もうかなり眠い。あくびを噛み殺し、部屋に置いてあった観光雑誌を眺めたが長くは続かなかった。ベッドサイドに置くと七海さんも読んでいる新聞を畳んだ。
「もう寝ましょうか」
「そうですね。電気落としますね」
2人で掛け布団を被り、私は照明スイッチに手を伸ばす。印刷がかすれていてよく読めないが、1番大きいのがメイン照明だろう。
「明日は6時に起きて空港に向かいます」
「了解しました。あとすみません。電気のスイッチと思ったら間違ってベッド回しました」
「さっさと止めてください」
「本当にすみません」
出たてのSiriより会話が単調だ。流石に同じベッドで寝るのは緊張してしまう。

「みょうじさん。起きていますか」
体は疲れているのに脳が興奮してなかなか眠れない。何度か寝返りを打つと、七海さんの声がした。
「はい、まだ」
「少し話をしてもいいですか」
「全然寝つけないのでぜひ」
「では、貴女は私のことをどういう人間だと思いますか」
……えっ、クイズ……?査定……?面談……?視線を向けても布の防波堤しか見えない。
「…………すごく頭がよくて理性的で、理想の上司みたいな人だと思ってます。私情は挟まず任務をこなされますし、教え方もすごく分かりやすくて助かります。尊敬してます。私も七海さんみたいになりたいです」
「……そうですか」
フゥーといつもの長いため息が聞こえた。お世辞なしの直球で答えてこれは心にくるものがある。
「みょうじさんの思う私は、随分立派ですね」
「実際そうですから」
「私は尊敬に値する人間ではありません」
暗闇にぽつんと七海さんの声が響いた。もし七海さんがそんな人間なら、わざわざ残業帰りに私を見舞わないし、あんな顔して言いづらいことを忠告してくれないし、上着も貸してくれない。
「私は看過できないクソみたいなことが嫌で、呪術師を勝手に辞めて、勝手に戻ってきた。生き甲斐なんてものは求めていないと思っていましたが、本当は必要だった。自分のことをきちんと理解できていなかった。感情的なのに理性的でいようと努めている。そんなちぐはぐな人間です。だからこれから伝えることは、貴女が思う私が言うとすれば突拍子もないことだと思いますが、私はさっき述べたような人間だと理解してください。そうすれば少しは納得をしてもらえるはずです」
胃が重くなる。強くなったら組ませてくださいと大口叩いて昨日の今日でこれだから……。口論は避けたいが、だからといって辞められない。強張った体で次の言葉を待った。
「私と結婚してください」

2019-09-27
2023-07-30修正加筆
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