連絡先をタップすると、いつもより早く五条さんは出た。すぐ飛んでくる軽薄な言葉に影響されることはもう無い。

『なまえのことでしょ』
「はい。やはり聞いていた話と大分違いますね。15回の任務を終えて彼女の実力は高く見積もっても準2級程度。正月に夜蛾学長が見た1級を一撃で祓うことは、現状不可能です」
『だよねー。あの時だけ運良く術式発動させたってことかな。再現性が低くて困るね』
「五条さんの目で見えないのですか」
『流石に発動してないモノは見えない。もう少し様子見てみて。その後は準2級で頑張ってもらうか補助監督に回ってもらう』
「わかりました」
『このまま見てて術式出ると思う?』
「さあ。同じ状態の術師に会ったことがないので、何とも言えませんね」
『オマエが、絶対私が発現させます!って言ってくれるキャラなら僕の負担も減るし、呪術師界のゴミ全部焼くも楽なんだけどなー』
「バラエティ番組みたいに言わないでください。改革とやらはご自分でどうぞ。何度も言いますが私には関係のない話ですから。それでは」

通話を終えて、ため息が出た。
近接攻撃のベースはフィジカル、次に術式だ。並外れて術式が良くない限り、術師本人が非力なら近接戦闘で役に立たない。現に術式無しでもフィジカルが飛び抜けている虎杖君は即戦力になった。
みょうじさんは呪力強化でそこそこ動ける。短期間での成長は目覚ましいが、呪霊や呪詛師も同じく呪力で身体能力を強化してくる。結論として術式が未だ判明しない彼女に強みは何もない。それに何より彼女にはきっと足りない。高専の頃の私にも足りなかったアレが。

▼ ▼

今日の任務先は高専最寄り駅から電車で20分の、街のど真ん中にあるビル。近くには駅ビルやオフィス街があるので、平日の昼間でも人の往来が激しい。
この7階建てのビルは、3階までは持ち主が経営する店舗。残りの上階は賃貸オフィスで、本日は全員に退去してもらった。
先日、このビルの2階にあるカフェに1級呪霊が出現し、数人の客と従業員が死亡した。依頼を受けたのは七海さん単独だったが見学ということで私も同行を許可された。
「1級はソレ未満と比べて狡猾さ、強さが段違いです。見学でも一切気を抜かないように」
「了解しました」
今回の呪霊は特殊で、なぜか現場になったカフェから出てこないらしい。
階段を上がり、現場の入り口に立つ。ドアの前には生き残った客たちが逃げるときに蹴飛ばした観葉植物の土や植木鉢の破片が散らばっていて、それを囲うように張られていた立ち入り禁止のテープが潜り、七海さんはゆっくりドアを開けた。

暗闇と一緒に呪霊のプレッシャーが漏れ出てくる。黒くて、重苦しく足がもつれそうになり、寒気が背筋に走る。
事件を発見した“窓”がすぐに警察に申し入れ、カフェに入ることを禁じたので死体がそのまま残されていた。血や内臓の臭いが前の千葉の廃ビル任務とは段違いにひどく、胃の中の物がせり上がって来るのをこらえた。
中は薄ぼんやりと明るく、目が慣れるに従い内装が見えてきた。壊れた椅子やテーブルが転がり、食器が割れて床に散乱し、血と食事が混ざって床にこびりついていた。外から見ると店には大きなガラス窓があったのに、室内はカーテンがかかっているような明るさだ。
その原因は窓にべったりとへばりついている呪霊だ。今まで見た呪霊と違って具体的な形ではなく、うじゃうじゃと触手のようなモノをくねらせ蠢いている様子は、アメーバに似ている。中央に人間の顔があり、時折、横ではなく縦についた口から歯ぎしりの音がした。……アレが1級。

「あれ、クリティカル作れますか……?」
拡大と縮小を繰り返す不定形。七海さんは鉈を握り直した。
「少し時間はかかりますが問題ありません。ここで見学していてください」
1歩下がるよう促された時、後ろで物音がした。音の方角に目を凝らすと半開きのドアが見える。控室かトイレかは分からないが、明らかに何かが動いた音だった。
「……私が行きます」
「…………任務内容と呪霊の数が違うという場合があります。倒せないと思ったら必ず引いてください。一旦撤退という手もあります。呪霊ではなく逃げ遅れた生存者の可能性も忘れずに」
「了解しました」
七海さんの気を散らさないように、物音の方は私が早く始末をつけないといけない。
1級呪霊に背を向けるのはかなりの度胸が必要だった。あのアメーバの腕がヒョイと伸びて来て首でも掴まれたら終わりだ。でも今は七海さんが切ってくれるから大丈夫、大丈夫、と頭の中で何度も言い聞かせて、努めて冷静に後ろを向き、急いでドアの隙間に滑り込んだ。
中は控室だった。小窓しかないのでさっきより暗い。ロッカーが並んでいて、フロアより物が散乱していない。つまり呪霊はフロアで生まれ、こちらには来ていないのか?スマホの明かりで照らしても暗い。壁伝いにしらみつぶしに探索しようかと考えていると、ガタンとまた大きな音がして、今度はうめき声が聞こえた。

「誰かいますか!」
返事をするようにうめき声がした。ドアには鍵がついていたので念の為に施錠し、壁に片手をついて慎重に部屋の中を進んで行くと、ソファや冷蔵庫があった。そしてソファの足にコツンと私の靴があたった瞬間、大きな音がしてうめき声が間近で響いた。
驚いて振り返ると、ソファの影にエプロン姿の女の子が猿ぐつわを噛まされて転がされていた。急いで紐を解くと、女の子は声を上げて泣き始める。その途端、一際大きな音がしてドミノ倒しのようにロッカーが倒れ、誰かが部屋の中を走り始めた。女の子の肩がビクリと震えて「アイツだ。アイツだ!助けて!」と叫び、泣き声は半狂乱の悲鳴になる。
「また戻ってくるから待っててください!」

足音を追いかける。ロッカー倒して足止めのつもりだろうが、このくらいなら簡単に飛び越えられる。しかし、このくらいの知恵があっても襲ってこないということは、相手は人か?ロッカーを乗り越えた先、さっき施錠したドアの前で黒い塊が必死にドアノブを折りそうな勢いで揺らしている。施錠しておいてよかった。そのまま思いっきり後ろから拳を振るうが、すんでの所でドアが開いて黒い塊は外に出て、私は空ぶってつんのめる。まずい、黒い塊が何かは分からないが、七海さんの戦闘の邪魔になるのは確か!
フロアはさっきと違って、かなり明るくなっていた。窓を覆っていた呪霊が半分以下に切り崩されていたのだ。太陽光が差し込む中で見えたのは、部屋を飛び出した黒い塊が人間の男で、そいつがナイフらしき刃物を持っていることだった。

七海さんが振り返る。
男は七海さんに突撃した。確実に、刺すという意思を持って突撃した。その向こうで呪霊が変化する。触手が人の手になり、無数の手が七海さんの左腕を掴む。1級のパワーは凄まじく、七海さんでも振り払うのに時間がかかっている。ダメだ。人間の方は絶対に私が押さえないとダメだ。リーチが足りず、ほぼ倒れ込むように伸ばした手で、男の足首をつかんだ。
「七海さんはそっちを!」
思いきり男を引き寄せた瞬間、男から窓にへばりつく1級と同じあのぞっとする呪力を感じた。それに一瞬体がこわばった隙をつかれて男が刃物で切りつけてくるが、床に伏せたことで頬を浅く切られた程度で済んだ。男の足が暴れて、私の肺を肋骨ごと踏み潰そうとする。こいつ呪力強化をちょっとかじってる。ひるむな。考えるな。とにかく男は私が倒さないとダメだ。男の膝を蹴り、床に転がし、殺す勢いで拳を思いっきり鳩尾に入れた時だった。

ばちゅん。

まるで水風船が弾けたような音がして、七海さんが応戦していた1級呪霊が弾け飛ぶ。飛び散った血肉は部屋に広がり、すぐに煤のようになって跡形もなく消えていく。七海さんが、祓った。のか?いや、こんな弾けさせるような術式ではないはず。まるで内部から爆弾で吹っ飛ばしたみたいな。
状況の把握ができずにいると、突然肩に焼けるような鋭い痛みが走った。男がナイフを私の肩に突き立ててきて、そのまま肘に向かって肉を裂いていく。激痛を通り越して頭がしびれた。このナイフ、多分呪具だ。痛みが普段と段違いだ。
男の表情は憎悪で歪んでいた。目は血走り、歯を食いしばり隙間から泡を漏らし、むき出しにした歯を縁取る唇は限界まで引き伸ばされたゴムのように今にも千切れそうだった。男の腹にもう1発入れようとした時、男が消えた。
七海さんがものすごい勢いで投げた椅子が男の頭を直撃し、男は仰け反って倒れるとそのまま動かなくなったからだ。

「そのままで。止血します」
腕に刺さって宙ぶらりんになっていたナイフを七海さんは抜いてくれると、上着を脱ぎ、裂いた袖で私の腕の止血してくれつつ、もう片方の手で補助監督さんに連絡した。
「任務完了しました。呪詛師1名確保、術師負傷1名、車を2台お願いします」
「……奥に女性店員さんが1人捕まってました」
「追加です。女性店員らしき人物が1名発見されました。3台お願いします」
淡々と告げると七海さんは通話を切る。
「すぐにピックアップをしてもらうので、じっとしていてください。出血で気絶しないように体力の温存を」
顔を上げて、初めて七海さんの眼鏡がないことに気がついた。顔が血で汚れているから戦闘中に取ったのだろう。初めて見た顔はあの学生時代の写真とそっくりで、そして眉を顰め苦々しい顔をしていた。すみません。任せてもらったのに失敗しました。
圧迫止血のために肩を抱く手はとても力強く、強い怒りを感じた。

▼ ▼

「これ七海の背広?」
血みどろになった七海さんの上着の袖をゴミ入れに投げ入れながら家入さんはそう尋ねてきた。
「そうです」
「起きるな。血が減ってるんだから」
送迎車に乗ってる間も七海さんの肩を抱く力は一切抜けず、一言も発せず、眉間の皺は深くなるばかりでマジでキレていた。高専についたら抱えられて家入さんの所に運ばれ、私をベッドに下ろすとどこかに行ってしまった。え?もう上がったのかな?帰った?お礼を言ってない……。私は今、点滴を刺されてベッドに寝かされている。今晩は泊まりだ。

「や〜。なまえ、大丈夫?」
のんびりと弾むような軽快な声が部屋に響く。げえ五条さん。元気ないときに相手があまりできない人だ。五条さんはコンビニの新発売フラッペを飲みながらゴミ入れを見て、家入さんと同じく「これ七海の上着じゃん!」と指差して笑った。
「七海の上着こんなになってんの初めて見た。なまえ、愛されてるねえ」
「冗談やめてくださいよ………これどこのブランドですか……七海さんのスーツ代……私の給料から引いてください……」
家入さんは血みどろの袖をつまんでくるりと回すと、またゴミ入れに投げ込んだ。
「七海の体格なら吊るしじゃなくてフルオーダーだろ」
「フルオーダー!?」
「そりゃね。僕らの体格で既製品着こなすのは無理だよ。でもアイツの性格上、任務用をそんな高い所にオーダー出さないと思うな。セミオーダーじゃない?」
「い、いくらですか……」
「気にしなくていいよ。七海も気にしてない」
五条さんは空になった容器をゴミ入れに続けて入れると、じゃ、僕も行ってくるとUターンして出ていった。
待って、僕もってどこへ。七海さんの居場所を聞きたくて引き留めようと起き上がると、家入さんにベッドに沈められた。意外と力技だったことにビビってしまって、これ以上なにか言う度胸はない。失くなった血が早く作られるように念じながら目を閉じた。

2019-08-29
2023-07-30加筆修正
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