貴女が磨いてくれた靴が、
貴女の血で濡れている。


「七海さん!」
自分の名前を呼ぶ声に目が覚める。目の前を、白いものが跳ねていた。ぼんやりとした頭が覚醒すると同時に彼女の手だと分かる。胸の中にあったものが無くなり、そこだけ穴が空いたような気分だった。彼女は起き上がると、ベッド脇のランプをつけて私に手を伸ばす。
彼女の縁をかがる赤い光が、ランプの暖光か、彼女の血なのか。私を見下ろしている彼女が、生きているのか、死んでいるのか。
彼女の手が、私の額に触れた。なら彼女は生きている。夢なら私に触れる前に彼女は死んでしまうから。

「やっぱり!汗すごいですよ!」
体温の低い手が、私の額から頬、首に流れた。言われてやっと自分の寝間着が汗に濡れていることに気がつく。ベッドを離れて戻ってきた彼女は、水の入ったグラスとタオルを私に渡した。
「……ありがとうございます」
「まだちょっと寝ぼけてますよね。魘されてましたし、大丈夫ですか?」
「ええ……。シャワーを浴びてから寝なおします。気にせずに、どうぞ」
バスルームへ向かい、汗を吸った寝間着を洗濯機に入れる。手早くシャワーを浴びてベッドに戻ると、彼女はランプをつけたまま、目を閉じて横になっていた。空けてもらった自分のスペースに体を滑り込ませ、ランプを消す直前に、彼女の腕に薄っすら残った傷が目に入る。私が初めて彼女の術式の正しい使い方を見た任務で、彼女が受けた傷だ。
仰向けになって天井を見つめる。胸の空洞がどうにもいつまでも残っている。

「みょうじさん」
「……はい」
「私は貴女を、抱きしめて寝ていたりしますか」
「……結構ありますね」
「……すみません」
「全然いいですよ」
彼女が私の汗を拭ってくれた肌の感触を思い出して目を閉じる。夢の中の血に濡れた革靴を忘れようと思うが、上手くいかない。彼女の方を見ると、彼女もまた私を見ていて目が合う。お互い小さく笑ってしまった。
「みょうじさん、手をいいですか」
「……どうぞ」
彼女の手を握る。温かい。大丈夫だ。この家に、彼女に危害を及ぼすものは無い。上手く眠られれば、ここまで心穏やかなものは無いのに。
もう夢を見たくなかった。彼女が死ぬ夢を、ここ毎晩見ている。

▼ ▼

「家入さん、お菓子いりませんか」
「いる。こんなにどうしたんだ」
「下のコンビニがワゴンセールやってて、買い込んで来ました」
「あぁ、あそこ定期的にやるよな」

麓近くにあるコンビニは高専の生徒や職員がよく出入りしているが、辺鄙な所にあるせいでその分一般客が来ないので、よく賞味期限が近くなったものをワゴンセールしている。
コンビニの品揃えはその地域を表すらしいが、確かにその通りで、麓のコンビニはお惣菜やお弁当が他のコンビニのより少なく、缶詰やレトルト、調味料、生活用品、文房具などが多種多様に置かれていて、特にお菓子は新発売のものがよく入っている。
よく潰れないなあと思っていたが、出入りの業者が限られる高専には無い購買部の代わりかもしれない。呪術師はマイノリティだが社会基盤だし、警察や病院の一部からは知られてる。
周囲に何もない高専側がコンビニの建設を依頼し、コンビニ側も社会貢献的な意味合いで応じたのかもしれないなあ、と、コンビニ帰りに麓から続く長過ぎる階段を上りながら、頭が暇すぎてこんなことを延々と考えていた。

家入さんは重たくなっているコンビニの袋から、スルメ、チーズ鱈、ジャーキーなどをさらって行った。
「家入さん、もしかしてここで飲んでます……?」
「就業時間は飲んでない。それに酒が無くてもこういうつまみ系が好きなんだ。お礼といってはなんだが、今日はちゃんと挽いた豆のコーヒーがあるから飲んでいけ」
家入さんは、部屋の奥にあるキッチンでコーヒーを淹れてくれた。家入さんはだいたい医務室か解剖室のどちらかにいて、医務室にいる時の家入さんは“元気で話しかけても大丈夫な時”だ。解剖作業が無いのに解剖室にいる時は、だいたい2、3徹夜明けで、仕事はするけど体を休めたいので籠もっている時だ。
「隈が少し濃いですけど、大丈夫ですか」
コーヒーのいい匂いと一緒に戻ってきた家入さんは、コーヒーのマグカップを私に渡しながら笑った。
「夫婦だな。七海と全く同じことを言う」
「七海さん、ここに来たんですか。怪我ですか?」
「いや。ちょっと廊下で雑談程度に体調相談があっただけだ。そうだな……みょうじから見て、最近七海はどうだ」
「えっ?そ、そうですね……」
「そんなに深刻に考えなくていい。相談の程度は、口内炎ができたくらいのものだ」
家入さんは、私のより数倍濃いコーヒーを一気に飲み干す。口内炎程度?口内炎ならいいのかな……いや、七海さんが体調を崩し気味っていうのがわりと珍しいことのような気がする。
「普段の様子は変わらないです……ね。気になることといえば、寝てる時に、たまに魘されてるくらいでしょうか」
「いつぐらいから?」
「気づいたのは1週間くらい前です。もっと前から起きてるのかもしれませんけど、私も寝てしまってるので」
「そうか。じゃあ、ちょうど指輪を買いに行った頃からか」
「あ!そうです!!」
「七海が買うのを一旦保留にしたんだってな」

そうだ。そう、結婚指輪を買いに行った日の夜。私はそれが気になってなかなか眠れずにいて、魘されてる七海さんに気がついた。
結婚指輪は手に入れるのに時間がかかるらしい。基本は店頭でサンプルを見ての取り寄せで、さらに刻印まですれば、手元に来るのにそこそこ長い時間がかかる。けれど七海さんの知り合いのジュエリーショップが、今月いっぱいは刻印を入れても2、3日で手に入る結婚指輪キャンペーンを始めたので見に行った。けれど、指輪は買わなかった。気に入ったものが見つかったんだけども。

「七海が買わなかった理由は聞いたか?」
「いえ。考えたいとしか。……七海さんオシャレですからね〜……デザインが気に入らなかったのかな……」
あと1歩で決定!って所までは、七海さんも乗り気に見えたんだけど。すぱっと「もう少し、考えさせてもらってもいいですか」と言い切られてしまっては、押し切って買うわけにもいかない。
「みょうじは指輪欲しかったか?」
「そりゃ欲しいですよ!なんというか、結婚は……私の夢だったので。呪いのせいできっと1人で生きていくんだろうなと思ってて、七海さんと成り行きとはいえ結婚して……最初は実感なかったんですけど、今は結婚できてすごくよかったと思ってるので」
「そうか」
家入さんは小さく笑う。穏やかな表情は、七海さんの健康を通し、私達のことを思ってくれているのが伝わってきた。
「え、この質問なにかあります?もしかして七海さん、結婚指輪欲しくなくなったとか、結婚しんどいとか言ってました…?」
「まさか、全く。七海は指輪を欲しがっているし、みょうじとの結婚も勿論楽しんでると言っていた。七海だから嘘はないと思う」
「……買いに行ったジュエリーショップが、1級呪術師じゃないと見えないクラスで呪われてたとかじゃないですよね……?」
家入さんは吹き出して、声を出して笑った後、私を見て微笑んだ。なんというか、さっきとは違って不思議な笑顔だった。家入さんが影のある美人だからこういう笑い方になってしまうのだろうか。
「みょうじがそんな感じなら、そのうち七海の体調も良くなるよ」

コーヒーをご馳走になって部屋の外へ出る。
そうか。七海さん、指輪欲しいのか。ならなんで買うのをやめてしまったんだろう。廊下の開いた窓から、夏が過ぎ去って少し冷たくなった風が吹いてきた。
最近忙しくなって曜日でしか日々を捉えていないので、スマホでカレンダーを確認する。あと5日で10月は終わろうとしていた。

▼ ▼

悪夢で医者を頼るのは違うと解っている。
普通の悪夢なら今まで何度も見てきた。だがこんなに短期間で同じ内容、臭いや体温まで鮮明に見るのは初めてだった。明らかに精神状態が反映された悪夢は、耐えるか、精神状態の問題になる大元を処理するか、緩和策を生み出すかしかない。
家入さんに廊下ですれ違ったので、雑談がてら相談してみると、彼女は濃くなった目の下の隈をこすって、長い髪を指先で遊んだ。

「悪夢を見始めた時期は?」
「わかりません。曖昧で。記憶に残り始めたのはここ1週間ほどでしょうか」
「なら、ここ1、2週間でみょうじに怪我や死を暗示するようなことはなかったか?任務以外でもいい」
「……ありません」
みょうじさんがもう前線に出ないことを、私は知っている。彼女の呪物を通した索敵と術師・呪霊への攻撃は非常に成果が上がっており、呪術界側も彼女を失うのは損失になるという意識が高まってきた。だからイレギュラーが起きない限り、彼女は任務で死ぬことはない。私はそれを知っているのに、この悪夢を見ている。
「じゃあなんでもいい。良い記憶でも、悪い記憶でも、最近あの子について強く何か感じた事や、特別なイベントがなかったか?新生活でなんでも新しいことばかりだろうが、1番頭に残っていることはなんだ」
彼女との生活を思い出す。大半は良い記憶ばかりだ。あの人との生活は、食くらいしかプライベートの楽しみがなかった私の生活を、ひどく人間らしく過ごし甲斐のあるものにしてくれていた……が。
「……彼女と結婚指輪を買いに行きました」
家入さんの視線が、私の何もない左手に行く。
「けれど買いませんでした」
「なんでだ?」
「欲しかったんです。しかし、何故か買うのを少し考えたくて」
そうだ。理由が思い出せない。私は何故買わなかったのか。彼女も乗り気で、店で楽しそうに選んでいたのに。私も勿論買うつもりだった。気に入ったデザインもあった。なのに、私は、何故。
家入さんは深く長く息を吐いて、私に向かって薄く笑った。
「七海は今まで、みょうじ以外と付き合ったことあるか?」
「……ありません。好きな女性もいませんでしたし、そんな暇もなかった」
「そうか。……七海、恋愛っていうのは、自我の自己破壊を経て、恋人と新たな自分を生み出すことだ。夢は多分、その辺りが終われば収まる」



先週末の家入さんの話を、寝起きに思い出した。
背面テーブルに置いていたホットコーヒーは、もう冷めてしまっている。こんな時間では景色を見る楽しみもない。
23時22分。予定なら後20分程で新幹線は東京駅に到着する。自宅に戻れるのは1時過ぎくらいだろうか。昔なら任務先で1泊していただろうに、今は無理をしてでも帰りたい。自宅のベッド以外ではあの悪夢を見ない。恐らく彼女と眠ることがトリガーになっているのだろうが、それでも彼女の横で眠りたいと思ってしまうのだ。夜中目が覚めると、悪夢でまた汗だくでベッドに横たわっている。その時、隣で眠る彼女は、必ず私の手を握ってくれている。その姿を見るたびに、愛おしくて堪らない。

新幹線を降り、人混みをすり抜ける中で、顔や服に血糊をつけた2人組の子供とすれ違った。明日はそういえばハロウィンか……結婚指輪のキャンペーンも明日で終わる。明日は昼から任務で、みょうじさんはいつもどおり朝から仕事だろう。私は何故、あの時、指輪を買わなかったのだろうか。
タクシー乗り場へ向かいながら、みょうじさんへ帰宅時間の連絡を入れるが既読はつかない。気にせず寝ていて欲しいと頼んでいたので安心した。タクシーに乗り込み、自宅住所を告げて、煙草臭いシートへ背中を預けた時、ふっと視線の端に何かが輝いた。それはガードレールに寄りかかっていた女性の指にあった、婚約指輪だった。大粒のダイヤが、車の光に当てられて一瞬輝いたのだ。

――何故私は忘れていたのだろう。まるで録画映像を見ているかの様に鮮明に、指輪を買わなかった理由を思い出した。
店には私に合うサイズの指輪もあり、みょうじさんのサイズも勿論あった。後は刻印を入れるかどうか考えるだけという時、みょうじさんの隣にいた男性が、ダイヤが輝く婚約指輪の入ったケースを、泣きそうな顔で持っていたのを私達は見た。みょうじさんはそれを見て「お相手さんが大好きなんですね」と呟いたのだ。
そうだ。望ましい結婚というのは、愛から始まるものだろう。
私は、彼女を死なせたくなくて、人生に口を出すために彼女にプロポーズした。愛情はそこにあった。間違いはない。ただ、私はそこに条件をつけていたのだ。

「いつか他に結婚したい人ができたら、その人の所へ行ってもらって構いません」と。
愛情と同じ様にその気持ちに嘘はなかった。なのに、私は彼女に永遠を誓わせる指輪を持たせようとしている。そんな私にこの権利はあるのか?
結婚の理由は彼女を死なせたくないだったのに。今は死どころか、私が彼女を手放せなくなっている。他の人間へなんて渡せるとはとても思えない。彼女から、私へ。主語がすり替わり、己の大きすぎるエゴを知る。指輪を買ってしまえば、その感情を肯定することになる。あの時、指輪を買うのを先送りした違和感の答えが、やっと解った。

気がつくとタクシーはマンションの前に着いていた。
タクシーを降り、重たい足取りで玄関ドアを開けると、電気がついておらず安心した。今、私は酷い顔をしているだろう。リビングの壁にあるベッドに視線をやると、小さくブランケットが上下している。息をついて、脱いだジャケットを静かにハンガーにかけようとした。
「七海さん」
振り返ると、彼女が起き上がっていた。
「……おかえりなさい。お疲れ様です」
「……はい。起こしましたか」
「いや、起きてようと思って、ちょっと居眠りしちゃったんです」
ベッドサイドランプを彼女がつける。彼女の体半分が赤く染まる。少し、首筋が冷たくなる感覚がした。
「……七海さん、あのですね……ちょっと手をいいですか」
「……はい?」

彼女の側に腰掛け、言われるままに左手を出すと、ちょっとあっち向いててください。と彼女は言う。突然の意図の分からないお願いに困惑したが、私のエゴによる彼女への罪悪感が素直にその言葉に従わせた。暫くして、左手の薬指に冷たい金属の感触がした。
驚いて手を見ると、そこにあったのは指輪だった。あの日、ジュエリーショップで一緒に選んだもの。リングの太さや、形を、彼女が細部まで見てくれた、私も気に入っていたデザイン。
「な、なんでこれを……」
「私が欲しかったからです。キャンペーン、明日までだったんで。勝手してすみません」
そう言って、彼女は笑う。楽しそうに、朗らかに。私の考えなど全く知らないから。
「やっぱりダメでした?」
そんなことは無い。私もこれが良かった。ただ。
「貴女は――」
私が貴女を手離す気を失くす最後のラインを、何故貴女の手で超えさせてしまったのだ。
唇が震える。部屋の電気がついていなくてよかった。表情の細部を、みょうじさんに見られなくてよかった。私は多分今、歓喜で震えているから。後悔はしていない。貴女を手に入れた過程を後悔していない。ただ、これ以上進むことを恐れていた。自我の自己破壊。家入さんの言葉を思い出す。私は今きっと、彼女にプロポーズした時の私を破壊したのだ。

「貴女の分を、私へ」
彼女の私の物よりひと回り小さい指輪を受け取り、彼女の指に通す。私の指先は最初は震えていたが、彼女の左手の薬指に指輪が収まる頃には、もう震えは止まっていた。

2020-09-06
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