手と目は、痛みがなかっただろう。
そう家入さんに言われて、血だらけの手を見て頷いた。確かに痛みはなかった。
「傷口に反転術式を妨げる術と一緒に、鎮痛と止血をする術がかかっていた。器用だな」
「なんでそんな……」
「相手に治療と交換に条件を飲ませるためだろうな。そのためには死なれたら困るだろう。最近ニュースでよくやってる、パソコンを遠隔ロックして中のデータや情報を人質に金銭を請求する詐欺があったが、それと似たようなものだ」
「なら、私の居場所があっちにバレてるってことですかね」
「それは大丈夫だよ」

振り返ると五条さんがいた。フルーツの入った籠を私の前に置くと、お見舞い。と笑った。
「この短期間で腕刺されたり、川に落ちたり、風邪で寝込んだり、手を切断されたり大変だよね」
「今回は痛くなかったのでマシでした」
「そういう問題?」
五条さんはフルーツの籠から林檎を取ると、皮を剥いて自分で食べた。
「七海からさっき報告が入ってね。なまえを攻撃した呪詛師の動向がつかめたよ。どうやら呪詛師が数人集まって、なまえのことをつきとめようとしてたみたいだね」
「……早かったですよね」
「まーね。これは僕も意外だった。早々に腕のいいヤツ引いたかな……」

呪いの媒介に使われた物を通しての呪詛師の殺害。
この仕事を始めるとき、学長と約束したことがあった。媒介を用いる呪詛師には私の術式は脅威だから、半端に呪詛師を攻撃して生かしてしまうと、そこから足がついて私を探しにくる。絶対に見つけた呪詛師は殺せ、と。そしてその約束は今まで確実に守ってきた。なのに、どこで。

「じゃあ、今回祓った媒介は、みょうじを釣るために呪術師界にわざと呪詛師が回収させたものだったのか?」
「だろうね。でも攻撃してきた呪詛師は、なまえの居場所の感知と半殺しを依頼されてて、なまえの名前はおろか高専にいることも知らなかったんだよね。呪詛返しは成功したけど、位置情報は天元様の結界のおかげであっちには行ってないし、名前はそもそも知られてないから、今後何もしなければなまえが特定されることはないでしょ。七海が尋問したし、嘘はないと思うよ」
「七海さん尋問得意なんですか?」
「いや、なまえをやられた七海が生半可な尋問しないでしょって話。相手もう死んでるんじゃない?」
曖昧に笑うしかなかった。回復阻害してくる呪詛師相手に七海さんが無事だったということだけは確認できてよかった。
「で、次はなまえの今後の身の振り方考えないとね」
「……ですね」

呪詛師界隈に標的にされたら、存在を確信される前に、この仕事は辞める。これもこの仕事に就く時に言われたことだ。
七海さんは私が呪術師を続けるのに反対だった。術式が限定的に尖って強力で、私自身は弱すぎる、と。呪力による防御、応戦できる格闘技術。すべてが足りないと完璧に言いきられ、内勤への配置転換を強く勧められた。でも天元様の高専結界の中で呪術師の仕事ができる環境と任務を与えられたことで、七海さんも安心してくれたのに。まさかこんなに早く。

「事務職も人手足りないから大歓迎。伊地知もなまえの報告書はわかりやすいって言ってたから、事務職適正高いよ」
「……七海さんと相談してみます」
「それがいい。何が今のなまえの1番なのか、よく考えてね」

じゃあ、僕はそろそろ仕事に戻ろうかな、と五条さんはバナナを持って立ち上がる。フルーツの盛り合わせは、もう何かのドライフルーツしか入ってない。
「もしかしてこれ、私宛のお見舞いの品じゃない……?」
「え、お見舞いだけど?僕が買ったから食べたけど」
「えぇ……?」


▼ ▼


『駅についたのですぐにそちらに戻ります』

夜が明けたころ、七海さんからやっと返信が来た。
家入さんから許可をもらって自室に戻り、壁の側に寄せられたぐしゃぐしゃの結婚祝いを持ち上げる。中から小さな破片が触れ合う音がした。猪野さんに申し訳ないことをしてしまったな……。
部屋の真ん中には黒いものが広がっていて、近づいて見ると自分の血の染みだった。戸棚には媒介の品がずらりとならんでいる。1番手前の、次に祓う予定だった壺を取る。
とある家の住人が全員なんの跡形もなく消え去り、中を調査した所、この壺の周りにおびただしい残穢が発見されたので回収されたもの。
完治してないので手の感覚はまだ鈍いが、震えてはいなかった。恐れはない。自分は呪術師として、まだ全然、やれる。やれるのだ。

「まだやるのですか」

振り返ると七海さんがいた。今朝、一緒に家を出たときと同じ様子でそこに立っていた。

「おかえりなさい……すみません」
「謝ることではありません。貴女はなにも悪くない」
七海さんは私の手から壺を取ると、棚に戻した。
「呪詛返しの呪詛師がもう貴女に危害を加えることはありません。依頼した呪詛師達は京都にいるようなので、そちらの担当呪術師達に引き継ぎました」
部屋の端にあるソファに座るよう促され、ふたりで腰を下ろし、七海さんはジャケットを脱いで私の肩にかけてくれた。服に血がついてるのでと断ろうとしたが、気にしないで着ててください、と言われてしまう。
七海さんはよくこうしてくれる。普段の何もしてない私は冷え性で手足が冷たいから、常に私は寒がっていると思ってるのかもしれない。
「呪術師をやめたいですか?」
七海さんの言葉に驚いた。疑問ではなく断定で来ると思っていたから。無意識に掴んだ任務着から、血の臭いがする。
「……やめるべきだと思っています。約束していたことですし」
「踏ん切りがつきませんか」
「いや!数日経てば決められると思うので!大丈夫です!今はちょっと、最後の、心の整理というか……」
「……こちらを見てもらってもいいですか」
七海さんの方を向くと、眼鏡を外してくれた。七海さんの手が伸びてきて、私の目尻や頬をこする。パラパラと乾いた血が落ちていった。
「前に、呪術師になった理由を話してくれましたね」


私が中学生の頃、祖父が死んだ。
それを機に呪いが見えるようになったけど、他の人に見えないものが見えると言えば、どうなるかは理解していた。信頼していた両親に話すにも、きっかけは家族を大切にしてくれていた祖父の死なんて言えず、だから誰にも相談できず、ふさぎ込むようになっていった。
そんな私を励まそうとしてくれたのは、幼馴染のお姉さんだった。
私の状況を母から聞いたお姉さんは、時間を作って私を訪ねてくれた。幼い頃から何でも相談していた家族同然の彼女になら、コレを話しても信じてくれるかもしれない。そんな希望を持って彼女と会って、愕然とした。

私が普段から見かける呪いとは比べ物にならないものが、彼女の背中にいた。何かは未だに分からない。人間のようにも、ヤギのようにも、全く違うものにも見えるソレは、彼女の肩に両手を乗せると、上半身だけの自分の体をブランコのように揺らしていた。
ソレを見た途端、悪寒と吐き気で立っていられなくなった。数日寝込み、あまりの恐怖に私はお姉さんと直接会えなくなった。けれど彼女はいつもどおり元気だったし、ソレが彼女に何かしているようにも見えなかった。きっと見える人間にだけ害があるのだろうと思っていた。

それから、そう。あの日はお姉さんの姿が夕方なのによく見えたから覚えてる。初めてアレを見たときから1ヶ月ほどが過ぎて、日が落ちるのが遅くなった夏のことだった。
学校からの帰宅途中に声をかけられて見上げると、お姉さんが自宅の2階の窓から手を振っていた。その日は部活がなくて、高校から早く帰れたのだと笑っていた。
そんなよくある会話を久しぶりにして、お姉さんが「またね」と手を振る。なにも特別なことはなかった。なのに後ろからアレの手が出てきて、お姉さんの頭を掴んで、1周ぐるりと回した。
何が起きたか理解できたのは、鈍い音がして、お姉さんの死体が私の目の前に落ちてきた時だった。
アレは最初に見たときと何も変わっていなかった。ただ手をかける先を失って、ゆらゆらとカーテンレールにぶら下がっていた。


だから、アレみたいなのから、これから会う誰かを守るために呪術師になったんです。

そう、七海さんに話した。何度目かのペア任務の帰り道で七海さんに尋ねられて。あの日はひどい有様で、私は七海さんの指導をことごとく動きに反映できず、全身擦り傷だらけだった。反省代わりに、初心を思い出せという意味だと思っていたけど。

「覚えててくれたんですか」
「当たり前です。貴女は、今後会う誰かのために呪術師を続けると言った。だから今度は誰かではなく、私のために呪術師を辞めてください」
七海さんの手が、私の両肩にかかる。
「そうすれば、いつか辞めたことを悔いた時、貴女自身ではなく、私を責めることができるでしょう」
「せ、責めないですよ!」
「誰を?」
「七海さん、を!」
「貴女を、です。なら、私のために辞めたことを忘れないでください」

声が出なかった。なんと言っていいか分からなかったのだ。馬鹿な顔をしていると感じたが、急にぐしゃっと視界が歪んで、怪我のせいかと思ったが、自分が泣いているせいだとわかったのは七海さんが涙を拭ってくれたからだ。

「……違うんです。私は……そんな……」

そんな七海さんが思うような献身は無い。七海さんに背負ってもらうものじゃない。こんなの、意地みたいなものだ。
自分にアレを祓う力があると分かったとき、お姉さんのことを悔いた。そしてお姉さんの様に死んでいく人間は山程いると知って、もう見たくない、だから助けたい。
けど虎杖くんや野薔薇ちゃんと同じ訓練をしても、身につかない。吐くほど走り込もうが、激痛に泣くほど鍛えようが、七海さんの言うとおり、ピークを過ぎている。
もっと早くに呪術師になりたかった。すべてが遅かった。
けれど認めたくなかった。お姉さんを過去に戻って助けられないように、どうやっても肉体にも取り戻せない時間あるのだと分かっても、それに抗いたかった。低級呪霊でもなんでもいい、とにかく祓い続けたかった。
弱いんだから、前線に出てれば近い未来に死ぬだろう。でもあんなのが毎日生まれては人を殺す世界で、祓える私がなにもしないのには耐えられなかった。私の大切なお姉さんを殺したように、アイツらは誰かの大切な人を殺す。そしていつか、また私の大切な人も殺す。なら先に私がアイツらを殺す。
でも、今の私の大切な人は。

『何が今のなまえの1番なのか、よく考えなよ』

五条さんが言ってたことが理解できる。
私を大切にしてくれる七海さんのために長生きするか、七海さんの気持ちを無視して近い未来に死ぬか。

七海さんに抱きついた。私が抱きついても全然軸が動かない、この世で1番大切な人。じわじわ七海さんのシャツに吸い込まれていく涙が目の中に残っていた血と合わさって、シャツにピンク色のシミを作った。謝ると強く抱きしめ返された。
1日でも長くいきて、七海さんのそばにいよう。私がすべきことは、それなのだ。



「東南アジアは好きですか」
「マレーシアとかですか?行ったことないですし、あまりよくわからないですけど」
「物価が安くて、食事も美味しいらしいですよ」
「……移住するんですか?」
「将来的に。貴女が嫌でなければ。ポーランドも検討したんですが、ポーランド語は習得に時間がかかりそうなので」
「いや、呪術師界は七海さんのこと離さないでしょう」
「私みたいな呪術師が前線で働ける時間は短いのですよ。これからは私も長く生きたいですから」

2020-04-02
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