「声がおかしくないですか?」
朝食の時に七海さんの言葉をちゃんと受け取っていればよかった。
そう言われれば喉に違和感があるような気がしたが、水を飲むとすぐに落ち着いた。念の為に伊地知さんに、私の声は変ですか?と尋ねたら「普段と違うってことですか?それならいつもと同じですけど、それともみょうじさんの声への感想を求められてるんですか?」と怯えた顔で見られた。五条さんの送迎後でセンシティブになっている人に気遣いの足りない質問だった。

だからなにも問題ないだろうと思っていたが、昼が近くなるにつれて体がどんどん重くなる。疲れ、睡眠不足、呪力消費、いくつか理由を探してみたけど、それより大きな大きな苦痛がやってきた。唾液を飲み込むのでさえ辛いほどに喉が痛い。残暑がまだ厳しいのに背筋が寒い。股関節や腕を曲げるのも億劫。紛れもない風邪だ。滴る汗を拭いながら、水分補給だけはしないとダメだと体を奮い立たせ、ポカリを買うために自販機に向かう途中ですれ違った1年生の皆が、私の顔を見て立ち止まった。
「うわ、なまえさん顔真っ赤だよ」
「風邪?足元フラフラじゃない!肩、貸すから。もしかしてポカリ買いに行くの?」
「俺買ってくるわ」
「家入さん今日は1日いますよ。早く診てもらった方がいいです」
お礼も言えないほどに喉が痛くてたまらない。ぼってりと喉奥に何かが居座っているような感覚と、悪寒で頭がくらくらした。3人に連れられて家入さんの所に行くと、彼女はすぐに私の喉を触った。
「39度はあるな。喉の腫れもひどい。扁桃腺炎だろうから検査をして点滴をする。そこに寝かせてくれ」

「熱だしたの高校生ぶりです……」
「なら高熱は辛いね。最近忙しかったから疲れが溜まってたんだろう。呪力の消費は疲れと体の抵抗力を下げる。点滴は痛くない?」
「……大丈夫です」
「2本打つ。1本目が終わったらアラームが鳴るから気にせず寝てていいよ。ポカリはベッドサイドに置いておく。今のキツい症状は、点滴が終われば少しは楽になるだろう。ここでできるのは軽めの処置だけだから、動けるようになったら病院にいくんだよ。おやすみ」
カーテンが閉められて、天井と清潔な白い寝具だけのはずなのに、黒い靄のようなものが視界の上にあって、目の前がゆっくりとまわる。目をつぶると眼球とまぶたの温度差を感じた。早く寝てしまおう。点滴が終わって動けるようになったら、一目散に家に帰りたい。けれど今ベッドが1つしかない。扁桃腺炎って移るのだろうか。ならここに泊まったほうがいいかな。まとまらない考えは節々の痛みでさらに散らかっていった。

目が覚めると点滴パックは変わっていて、半分がなくなっていた。一体どれくらい眠っていたか検討がつかないけど、左腕は点滴のせいで水につけたように冷たくなっていた。鼻の奥から上がってくる点滴特有の臭いに吐き気がするけど、薬が効いているのか喉の痛みは軽減され、熱も下がったようだ。
体を起こすと、白ばかりだったベッドにベージュの布が広がっている。なんだろうこれ。寒気で丸まっていたのを見かねて、家入さんがかけてくれたのだろうか。よくみるとそれは寝具ではなく、スーツのジャケットだった。
「……七海さんのに似てる…」
「私のですから」
「うわぁ!」
カーテンが引かれて姿を見せたのは七海さんだった。腕まくりしたシャツ、肩にはいつもの鉈のホルダーをかけていたが、きっちり整えている髪は乱れ、ネクタイは失くなっていた。
「え……今日任務で……あ……ぁーー……」
「喉が限界でしょう」
指で丸を作ると、七海さんはため息をついて私をベッドに寝かせ、タオルケットとジャケットをかけなおしてくれた。横になると急に疲れが押し寄せる。熱と痛みで消費した体力がすぐに戻るわけもなく、喉の痛みは唾液を飲み込める程度には押さえられたが、普通に話すのは無理だった。
「家入さんから連絡をもらって来ました。任務はもう完了してますよ」
「はやい」
「そんなに難しい任務でもなかったので。調子はどうですか。熱はだいぶ抑えられていますけど、関節痛と喉がまだみたいですね」
「はい」
「……点滴が終わるまでまだ1時間ほどあるので寝てください」
「了解」
「……」
ため息が聞こえた。返事は3、4文字が限界である。
「朝の時点で休ませておけば良かった」
七海さんの手が冷たくなった腕をさすってくれる。温かくて、大きくて、硬い手のひらが好きだ。

七海さんは指導担当をしてくれていた時からよくこちらを見てくれた。攻撃を受けていない肩甲骨が痛いと言えば、昨日カウンターで受けた胸部への打撃の痛みがそちらに響いてるんでしょうとか、戦闘中に七海さんが見てなかったコースで受けたダメージのはずなのに、怪我の具合を尋ねられたりした。
「すみません」
「すこし喋れるようになりましたね」
「はい」
「……謝ることじゃありません。誰もが通る道ですから。でも貴女が元気でないと私も気が気じゃないので、ゆっくり休んで良くなってください。食欲はありますか」
「あります」
「喉は固形物は通りそうですか」
「あんまり」
「帰ったらお粥でも作ります」
「マジです?」
「マジですよ。貴女が来てくれる前は1人だったんですから、そのくらいの料理はできます」
七海さんは私の額と両目の上に、空いていた右手をのせて視界を塞いだ。
アルコールと点滴ばかりの匂いの中に、ふわっと七海さんの香りがした。熱はまだあるし、喉も腫れていて、筋肉も痛いけれど安心した。もう大丈夫だと思うと、ふっと引きずり込まれるような睡魔が襲ってくる。温かくて、大きくて、硬い手のひらが好きだ。

「七海聞いたよ〜、電話受けて1級を30分もかからず討伐したんだって?」
「……相性が良かったのと、制限を解いただけです」
「またまた〜、お前がそうやってなまえの目を塞いでるとアレだね。鶏おとなしくさせてるみたいだね」
「妻の具合に影響するので、出て行ってもらっていいですか五条さん」

2019-12-29
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