医務室に戻ると、そこにいたのは夏油さんだけだった。
「見つかったかい?」
「ありました」
「良かった。もしなかったら、硝子のを貸そうかと話していたんだ」


あの後、すぐに夜蛾先生と夏油さんが駆けつけてくれて、2人に家入さんの治療が入った。
その辺は明日。今日は手が回らない。そう言って家入さんが指をさした場所は、私が止血で暴れさせて庇いきれなかった所だった。似たような怪我なんてしょっちゅうするのに、彼女の肌をどす黒く染める怪我は随分痛々しく見えた。
踵、肘、膝。変色し、血が滲むそこへガーゼを貼り付けながら、私はみょうじさんの靴が片方無いことに気がついた。
手が空いてから日の落ちかけていた階段へ戻り、血の跡を目印に探すと、靴は私が突き飛ばされた藪の中に転がっていた。私のより縦も横も小さい。平均的な女子のサイズなのだろうが、手に持ってみると軽さも相まって、幼児が履いているミニチュアの様な靴よりも遥かに遠い存在に思えた。


戻った医務室には先程までいた2人と家入さんはおらず、夏油さんが床に点々と落ちている血をモップで拭いていた。固まりかけた血が擦られて、伸びて、跡形もなく消えていく。
「灰原となまえちゃんなら入院部屋に移動したよ。灰原はピンピンしてるけど、念の為ね」
私の考えを先読みしたように夏油さんは言った。
「夜蛾先生は?」
「なまえちゃんの家族へ連絡を入れに。泊めることになりそうだから」
「……そうですか」
室内は血の臭いが酷く、窓を開けた。外は相変わらず無風で空気の循環はできそうにないが、閉め切っているよりはマシだ。
「掃除、代わります」
夏油さんはモップバケツの赤い水を流しへ捨てながら、首を横に振った。
「七海はあの子の術式が何か知っているかい?」
「……いえ、何も知りません」
「夜蛾先生から聞いたんだが、敵術師の呪力や術式の範囲下にあった物……例えば呪いの媒介や呪物、術式で作成したもの、術式の攻撃を受けている人、呪力を込めた武器。そういう“物”を足がかりに、“敵本体”と“なまえちゃん本人”の間にパイプみたいなものを通して、相手との距離を無視し、索敵と攻撃を行える術式だそうだ」
「……十六六指呪法に近いですね」
「確かに。遠縁にいたのかな。彼女は私達と同じ非術師家系らしい」

私達は座学でネタの上がっている術式を知識として学ぶ。頭に入れているだけで相手の術式の検討、攻撃の可能性、防御手段の推察など、幅広く活用できるからだ。
十六六指呪法は残穢から術式の持ち主を探知し、距離を無視しどこまでも相手を追跡・攻撃する呪法。確かにあれは古くに途絶えた術式に分類されていた。
「今回は灰原が落とした写真を触ったことで術式が発動し、そして逆に敵に攻撃をされたと先生は言っていた」
「私達の討伐対象は、呪詛返しができたということですか?」
「そこはまだ分からない。そうかもしれないし、単純に彼女の術式はパイプを通した時点で相互干渉が可能になる特性があるのかもしれない。詳しくはまだ分からないけど、どちらにしろ2人がここまでやられているのだから2級の任務としては荷が重すぎる。現場で会敵しなくてよかった。任務は悟が引き継いだよ。だから安心して休め」
制服も早く洗った方がいい。そう言われてやっと、血の臭いの元が部屋ではなく、彼女の止血をした時に染み込んだ自分の制服だと気がついた。

私達が現場で会っていたら死んでいた。
夏油さんは直接言わなかったが、そういうことなのだろう。
自室に戻ると、アドレナリンのせいか感じなかった呪力と体力消費による疲労が一気に来た。しかしベッドに入っても、体は疲れて動けないのに、頭だけは冴えて眠れない。視界に入った机の上を見る。彼女のバッグがある部屋は、他人の部屋のようだった。

見る気はなかったが、見てしまったからには目はつぶれない。
夜蛾先生に彼女が抱えられて行った後、彼女の荷物を回収した。バッグから飛び出た包丁を拾い上げると、それはどこの家庭にもありそうな万能包丁だった。ただ違ったのは、切っ先が不格好に折れており、残った刃先は全て乱雑に潰されていた。これでは何も切れないだろう。私のような術式を使うタイプの武器かとも思ったが、夏油さんの話によれば恐らくこれは術式に必要ない。
疲れた体を無理やり起こし、ベッドから降りる。長い溜息が出た。

▼ ▼

「お、目ぇ覚めた」
うっすらとした消毒液の臭い、少し低い室温、なじみのないブランケットの肌触り。
保健室のベッドの上かと思ってまどろんでいたが、聞いたことない女の子の声に目が覚めた。目の前にはテレビでしか見たことのない竿縁天井。声の方へ向くと、黒髪のボブヘアの女の子が、普通とは逆向きで椅子の背を抱き込むように椅子に座り、こちらを覗き込んでいた。大きな黒い目は視線が合うと優しく笑った。
「制服、洗ったから私の服貸したけど、サイズ合ってるよね?」
「あ、はい……」
「よかった。ここみんなデカイからサイズ無くてさ。右手はどう?」
着ていた制服はどこかへ行き、黒い無地のパンツとTシャツを着ていて、右腕は何の話か分からなかった。けれど右手を動かすと、言われた通り軽いしびれがある。
「動きが悪いのはすぐ元に戻るよ。吹き飛んだのによく痛みで気絶しなかったね」
吹き飛んだ右手。そう言われて、脳の奥から滲み出るように記憶が戻って来た。
「腕が、治ってる……」
「私が治しました〜」
彼女はへらりと笑うと「膝とか肘は明日ね。今日は疲れてもう無理」と、持っていた炭酸水のペットボトルの蓋を緩めながら呟いた。空気の抜ける音がやけに大きく聞こえて、それがまるで合図みたいに次々記憶が溢れて来る。
久しぶりの乗り物酔い。映画のセットみたいな階段を上っていて出会った背の高い高校生ふたり。のびやかで元気な声。写真に宿っていた呪力にふれた途端に弾けた手。右腕丸ごとねじ切られそうになった恐怖。助かったときの気温の変化。自分を抱えてくれた体温の高い誰かのこと。
けれど、足の甲から足首、肘に膝、いろんな所に念入りに貼られているガーゼの下の怪我を、いつ負ったのか分からない。痛みについては右腕しか記憶がなかった。

「お姉さんは……その、治す術式なんですか」
「術式っていうか、治療は呪力操作の部類で反転術式って言うんだよ。できる奴はヒョイッてできる。できない奴はいくらやっても無理。センスだね。あ、私、家入硝子。3年」
「みょうじなまえです。中3です」
「お姉さんって呼び方、可愛いからそのままでもいいよ」

食べる?と差し出されたガムをもらい、口に入れると、噛むたびに血の味がしてくる。知らない怪我をいっぱいしてるみたいだ。自覚してしまうと、次々体のあちこちが火傷したみたいにひりつく。けれど全部ガーゼに覆われていて、怪我の様子は分からなかった。助かった。見たらもっと痛く感じそうだから。
「私を助けてくれた……名前が思い出せないんですが……黒髪のすごく元気な人と、茶髪の落ち着いた人は無事ですか?」
「灰原と七海ね。灰原は1つ挟んで隣の部屋で寝てるけど元気。傷も問題なく完治。七海は元々ほとんど無傷。どっちも無事だよ」
家入さんは視線をテレビに向けた。ベッドの向かい側にある小型テレビには野球中継が映っていて、打ったのか歓声が聞こえる。家入さんは頬杖をついてダルそうに眺めているが、視線は真剣だった。
「みょうじさんは、野球好き?」
「そうですねぇ……見るよりやる方が好きですね」
「あ、そっちなんだ。私はね、興味なかったけど、好きな人が野球好きだから見てるの」
「え!?いいですねえ!!」
「でしょ。でさぁ、こんな普通の会話した後に同級生の死体が上がるみたいな世界だけど、やっていけそう?」
家入さんはポケットから四角いものを取り出した。ガムかと思ったらタバコで、指先で箱をくるくると回して遊ぶ。表情はさっきと同じ笑顔のままだった。
「やります」
「即答かよ。キマってるね」
彼女は声を上げて笑うと頭を撫でてくれた。歯並びのいい白い歯が綺麗だった。家入さんは椅子から立つと、封を緩めただけの炭酸水をくれた。
「じゃあ、私は部屋に戻るけど大丈夫?」
「大丈夫です。腕もありがとうございました」
「こんなの入学したらしょっちゅうだから、気にしなくていいよ。またね、おやすみ」

1人になった静かな部屋に、また誰か打ったのか歓声が響く。チャンネルを替えると、いつも見ているバラエティ番組をやっていた。今が何時か、なんとなく理解できた。
先週自宅で家族と見た番組を、今週は右腕が飛んで、治って、全然知らない部屋で1人で見てるのは不思議な気分だ。右手が無くなって治ったなんて嘘みたいだが、右手の爪の長さが左より5mmほど短いのが証拠だった。
……この時間なら、夜でもまだ早い方だ。灰原さんも起きてるかもしれない。お礼を言いに行くためベッドから降りようとして見つけたのは、自分の靴ではなく白いスリッパだった。そういえば靴もバッグも無い。制服が洗われてるらしいから、まとめて回収されたかな。
バッグの中身を思い出しながらスリッパに足を入れて立った途端、足の裏を爆破されたような痛みが走った。比喩だが、けして誇張じゃない。あまりの痛みに驚いてベッドに飛び込んだ。足の裏の感触は、まるで傷んでぶよぶよと熟れた林檎のようだった。踵から広がった痛みに腰の力が抜けてしまう。歩くどころか立つのも無理で、足を引っ張り上げるとスリッパに血の跡が見える。傷口が開いたのか。……何で踵までこんな怪我をしてるんだろう。
包帯を替えたいけどモノがない。探しに行きたいけど歩けない。八方塞がりだった。せめてシーツを汚さないように足だけ外に投げ出してベッドに転がると、ノックの音がした。助かった。きっと家入さんだ。返事をすると、入って来たのは予想してなかった人だった。

「な、七海さん……!?」
部屋に入ってきた七海さんは、昼に見た制服姿ではなく、少し緩めのTシャツに黒いジャージ姿だった。
「バッグと靴を持ってきました」
そう言った彼の手には、回収されたと思っていたふたつがあった。
「昼間は助けてもらってありがとうございました……!」
「気にしないで下さい。私は何もできていないので」
七海さんはベッドサイドに来ると、バッグをベッドに、靴を床に置いた後、私を見下ろした。
「足、血がまた出ていますね」
座っているせいで元々ある身長差がさらに生まれてしまい、彼の視線がどこにあるか分からない。七海さんは部屋の端にある戸棚に向かうと、そこから包帯とガーゼを取り出した。そして家入さんが座っていた椅子を正しい向きに変えて座り「足、触りますよ」と言うと私の足を持ち上げて、彼の膝に乗せた。
「じ、自分で巻けるので大丈夫です!」
「足は無理でしょう。気にせず任せて下さい。それよりバッグの中身で失くしたものがないか確認をお願いします」
七海さんはそう言いながら、手早く血の染みた包帯をほどき、床に落とした。途端に彼の眉間の皺がキツくなる。グロいですよね。

いたたまれない気持ちを押さえつけ、渡されたバッグを開く。中身は元々そんなに無い。身分証明のための生徒手帳、財布、未開封のミネラルウォーター、ポーチ、それからお守り。全て出してベッドの上に広げると、七海さんはガーゼを替えて包帯を巻き直す手を止め、ベッドの上をじっと見つめた。七海さんの視線の先にあったのは、お守りだった。そうか。普通の人にはただの壊れた包丁だ。
「何故そんなものを?」
「……お守りみたいなものです。人に見られると大変なんで、スカーフに包んでたんですけど解けちゃったんですね」
そう答えると、彼は眉間の皺はそのままに、そうですか、と呟いた。
「隠すなら完璧に包んだほうがいい。警察に見つかったら、面倒ですから」
七海さんは視線を私の足に戻し、手慣れた様子で包帯を巻いてくれた。
こいつヤバいなと思われただろうな……。仕方がない……けれどこれは手放せない。この学校に入るなら、絶対に持っておこうと決めたものだから。スカーフでキツく包み直し、荷物を全てバッグに戻すと、七海さんの手当てもちょうど終わった。
「足首を動かしてみて下さい。締め付けがキツくないですか」
「大丈夫です、ありがとうございます。助かりました……全然歩けなかったんで」
「包帯はガーゼの保護程度の役割なので、歩くのは控えて下さい。明日には全部家入さんが治してくれますから」

七海さんは余った包帯を巻き上げ、血だらけのガーゼと包帯をゴミ箱に捨てると、椅子に座り直し、ぼんやりとバラエティ番組を眺めた。私は何を話していいか分からず、テレビを見るしかなかった。番組はコマーシャルに切り替わり、水しぶきが飛び散る。青空の下に現れたのは、さっき家入さんがくれた新発売の炭酸水だった。
「あの炭酸、家入さんがくれたんですけど、この辺りに売ってるんですか?」
「……下のコンビニにあります」
はずまない……会話……。重苦しい……沈黙……。いやダメだ。違う。会話を弾ませられない私がダメだ。でも全然ネタがない。七海さんの顔をこっそり盗み見ると、なぜか眉間の皺が一層深くなり、とうとう俯いてしまった。ブチ切れている。この人ブチ切れている。そうだ、あの事件の原因は分からないけど、実行犯が私なのは間違いない。灰原さん怪我させた上に、七海さんを藪に突き飛ばし、グロテスクな傷口を見せ、状況が分からないのでただ謝罪と感謝を述べる。もはや狂人に近い。これはキレられても仕方がない。七海さんが俯いた視線の先には、青筋の浮き上がった拳があった。え……?今やられる……?

ガタンと大きく椅子が揺れて、七海さんは立ち上がると私の前に立った。さっきより圧が数倍凄まじく、見下ろされるプレッシャーがすごい。
「みょうじさん」
私はかすれて裏返った返事を声帯から漏らした。青筋の消えない拳を七海さんはポケットに突っ込む。制裁か??ですよね??勝手に口角が上がり、顔が引きつる。そして音もなくポケットから出てきた手に握られていたのは、メモ紙だった。
私の罪の数でもメモられたのだろうか。恐る恐る受け取って開くと、あったのは11個の数字の並び。自分でも引くほど罪が多い。……いや……違う。ハイフンが入っている。電話番号だコレ。筆跡は流れるようだが読みやすい。
「だ、ど、どなたの……?」
「私のです。今晩はまともに歩けないでしょうから、何か困ったらすぐに連絡して下さい」
……もしかして七海さんは、怒っていない……?
理解が上手くできずにいると、七海さんが私の目の前に屈んだ。初めて目線があった。初めて顔をちゃんと見れた。さらさらとした色素の薄い髪、綺麗な目の色、皺の無くなった眉間。
「バッグに入っていた水、もらってもいいですか」
言われるままバッグから水を取り出して渡すと、七海さんは丁寧にお礼を言って部屋を出てった。


昼間、あの時階段で水を受け取らなかったことを気にしてくれていたのだろうか。
もう1度ベッドに倒れ込む。反動が体に伝わる。スプリングは少し弱っていて、それだけここが使われてるんだなぁ。家入さんみたいな人がいれば、死なない限りずっと呪霊を倒し続けることができる。手に持っていた紙が、くしゃりと音を立てた。
七海さんは親切だな。……あと、顔が………大変……かっこいい………。でも私の印象最悪だな。眉間の皺がずっと半端なかったもんなぁ。普通の学校で、普通に知り合いたかった。……いや……もうない世界を夢想するのはやめよう。

照明とテレビを消し、手を伸ばしたついでに家入さんがくれたペットボトルを取る。待てよ……この足でトイレ……?ベッドサイドに置いた七海さんの電話番号が目に入る。……水は飲まずにベッドに潜り込んだ。ふと目に入った腕に巻かれた包帯が、足に巻かれた包帯と同じ感覚で巻かれていることに気がつく。
ひりひりと痛む全身は、さっきより楽になっていた。

2020-09-18
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