山の上の高専から、麓まで続く階段の中腹にソレはいた。日陰は等間隔に並ぶ鳥居のみ。茹だるような暑さの中、見たことのない少女がひどく鈍く階段を上って来ている。
着ている制服は高専のものではないし、この辺りで見かけたこともない。隣の灰原の話が止まったので、幻でもない。去年の高専結界をくぐり抜けた侵入者のせいで、更に厳しくなった警戒の下に?

「抜かなくても」
「抜いておかなくていい理由が無いでしょう」
鉈をバッグから出して1度振ると、少女の動きがぴたりと止まり、左右を見回し階段の中央から端に避けた。まずは形通りの人間かどうかから判断をしなければならない。
「意識のある人間の反応ですね」
「七海に驚いた普通の女の子だよ。呪霊はあんな動きしない。迷ったのかな?」
「……迷って来れる所じゃない」
高専結界が隠す事に特化していても、呪いが見える人間なら辿り着ける所には存在している。しかし、迷って入る可能性は限りなく0に近い。それに入って来たとしても、麓からは頂上が全く見えないあの階段を上ろうとは思わないだろう。少女の細い手足にはどう見てもそんな体力はなさそうだ。
「僕が声かけてくるから、七海サポートよろしく」
「……分かりました」

軽い足取りで灰原は降りていくと少女の前で止まり、暫くしてこちらへ手招きをする。私は階段を降りて2人の側を通り過ぎ、少女の背後を取った。
「この子、学校見学に来て、麓で補助監督さんに車から降ろしてもらって、ここまで上って来たんだって」
「……降ろしてもらった?」
ちらりと私を見た彼女は軽く会釈をしたが、その表情は明らかに怯えていた。
白い半袖ブラウスに紺色のスカートとローファー。腕には同じ色のバッグ。学校見学なら、わざわざ制服で来ている理由も納得できるが。
「その、補助監督さん?に、駅から高専まで送迎してもらいまして。でも階段の下まで来た時に、急に引き返して誰かを乗せるって話になって。私は車酔いをしたので、降ろしてもらったんです……」
少女の声は、今にも倒れそうだった。
「……ここの見学は初めてですか」
「はい。でも、こちらにいる夜蛾先生が家に来てくれて、何度かお話ししたことがあります」
彼女はバッグから名刺を出して、私に向けた。載っている名前も肩書きも間違いなく夜蛾先生で、名刺は端が折れて擦り切れており、昨日今日のものではない。
「あの……何かヤバいことしに来たとか、そういうわけじゃなくて。ホントに来年ここに入る予定で、学校を見に来ただけなんです」

彼女は身を守るようにバッグを胸の前に抱えると、更に階段の端に寄る。ローファーの踵が階段の側壁とぶつかる音がした。怯えの元である鉈をしまうか一瞬考えたが、こうなってしまってはもうあまり関係ないだろう。
……車酔いをしていると言った通り、顔色も確かに悪い。整った顔立ちの大きな目は表情が読みやすく、心底困り果てている様子だった。
素人の動き。疲れのせいか時々揺れる声。怯えながらもこちらへの礼儀は忘れない仕草。ここまで普通の少女が高専に侵入した敵だったら、もう私達の手には負えないレベルの手練れの呪詛師か呪霊だ。
「七海、上まで連れて行ってあげようよ」
「……新幹線に間に合いませんよ。着く頃には店は閉まってます」
「いいさ。それに七海だって、そう思ってるだろう?」
……久しぶりの遠方任務なのに、出る直前に五条さんに麓のコンビニまでパシらされて新幹線を1本逃し、更に1本逃すとは。夜にしか開かないという和菓子屋の土産を夏油さんへ買うと張り切っていたのは、彼の方なのに。
「あと倍歩いたら、上に着くから頑張って!」
「ば、倍……!?」
彼女は明らかに動揺したが、ふらつく足取りでまた階段を上り始めた。
「僕は2年の灰原。キミは?」
彼女は立ち止まると「みょうじです!中3です!」と頭を下げ、下にいる私にも振り返って頭を下げた。体育会系の臭いがする。
「七海です」
「2つ上なんですね。……すみません。おふたりとも、出かけられる予定だったんですよね……」
「構いません。新幹線を逃すより、貴女をほったらかして出る方が後味が悪いので」
「もしかして任務ですか?」
「……聞いてるんですか」
「基本、カリキュラムみたいなのは、夜蛾先生、から」
彼女の顔色は土色から赤く変わり、息も上がり始めた。暑さが堪えたのだろう。話すために横に並んだが、影を作ってやるために2段下がって元の距離に戻る。
口ぶりからして非術師家系か呪術師界と疎遠になった家だろう。しかし夜蛾先生が何度か会いに行っていたというのが気にかかる。
「術式などを理解していますか?」
「はい、少しだけ。家は誰も呪術師がいないので、ゼロから勉強してます」
「気を使わず前を見て上がってください」
ちらちらとこちらに視線を寄越すので、疲労で上がらなくなっている足ではそのうち転ぶだろう。横に並び直した方がいいだろうか。……いや、やめておこう。日陰を作ったら、足取りが少しマシだ。
それにしても暑い。今年は異常気象と呼ばれるような暑さで、季節の変化はすぐに一般人へ影響し呪いを生む。更に昨年に起きた災害も掛け合わさり、今年何件祓ったかもう数えるのをやめた。いつになったら収まるのか。

階段へ落ちる汗を眺めていると突然彼女が止まった。バッグを開き、雫の滴るミネラルウォーターを取り出す。
「飲みますか?まだ開けてないヤツです」
「……気持ちだけ受け取っておきます」
彼女は疲れきった表情で笑い、また上を目指す。本当は飲みたかったが彼女が安全な存在である事が証明できていない以上、警戒は解けない。階段を見上げると、先を行っていた灰原が戻って来た。
「みょうじさん!キミが来てること、夜蛾先生に電話で伝えといてもいい?」
「ぜ!!ひーー!!お願いします!」
彼は基本的に声が大きいので気づいていないが、私達と彼の間には近くない距離があり、この距離で話すことは彼女の体力を削る。
……確かに確認をするのがいいだろう。灰原が携帯を出す。すると、ポケットからビニール袋が落ちて風に舞って彼女の足元に落ちた。
「あ!ゴメンね!」
「大丈夫です、拾いますよ」
落ちたのは写真だった。任務先で聞き取り調査をする対象の顔写真。写真を拾うために屈んだ彼女を横目で見ながら、私は鉈をしまおうかとバッグを肩から下ろした時、頬が焼けた感覚がした。反射的に頬に手が行くと同時に強烈な悪寒が背筋を走る。
突然だった。なんの前触れもなく、強力な呪力がすぐ側にあった。
出所は探す必要もない。
今、目の前にいる彼女だった。

「な……!?」
写真を拾ったその手から、禍々しい呪力を突然放出した。やはり敵だったかと解ってももう遅い。
しかし、何故このタイミングで?今起きたアクションは離れていた灰原が戻って来た、しかない。私達2人を同時に射程圏内に収めるためか?
灰原の術式では彼女は射程圏外。一方、このタイミングを待っていたなら、あの呪力を纏った拳なら、直線上の灰原に致命傷を与えるくらい容易。
圧倒的な力の差を、考えなくても肌で理解する。その代わり私の攻撃が通るかは分からない。けれど、それでも。灰原を射線から外さねばならない。悪寒とプレッシャーで震える体を無理やり捻る。筋肉が切れる、軋む、痛みが走る、食いしばった歯が音を立てる。いつもの動きは全くできないが、鉈をできる限り加速させて吹き飛ばすために彼女の脇腹に向けて鉈を振りきろうとした時だった。
彼女と目が合う。その表情は、敵意や狂気、愉悦などではなく。私や灰原と同じ困惑と恐怖だった。

「ダメです!」

彼女は叫び、空いている左手で私を押した。重心と呪力を右腕へ乗せていたので、突然の衝撃を受けきれず階段脇の藪に突っ込んだ。口に入った草を吐き出し、体勢を戻し、彼女へ向き直った瞬間、斬撃が真横を通り過ぎた。衝撃が音と共に斜め後ろの巨木に衝突する。そして放射状に飛び散った血が私の顔を濡らした。
その血は、私のではない。
写真を掴んでいた腕の、肘から下が無くなった彼女のものだった。

「七海!まだ続いてる!」

灰原の声が響く。斬撃は私の方だけではなく、灰原の肩も切りつけていた。彼の前の石段には大きな亀裂と彼の血が飛んでいる。
「分かってます!」
未だ強力な呪力を放出し続ける彼女の腕に向けて鉈を振り下ろすが、突如現れたものに弾かれる。
姿を現したのは、彼女の腕を取り巻く呪力を起点として湧いた異形の手。その手には指が12本生えていて、腐ったような色をして酒臭かった。術式を使用し、クリティカルを叩き込んだのに手応えがない。
以前、同じ感覚を経験した。五条さんとの手合わせ。圧倒的格上の呪力によるガード。
「あぐ、ぁっ」
喉から捻り出す様な痛みに耐える彼女の声。彼女の右腕が異形の手に掴まれて徐々に捻れていく。骨の上の肉だけがゆっくりと捻れ、うねりは大きくなり、絞られた血と肉が切断面から溢れて地面に落ちる。
風と呪力の流れが変化し、彼女をねじ切ろうとしている手が膨れた。斬撃の前に感じたヒヤリとした感覚。またアレが来る。次でやらないと間に合わない。全滅だ。
力を振り絞り、鉈を振りかぶった時、攻撃を受けて動けなかった灰原が急に視界に入ってきた。
「――灰原!?」
彼は斬られた肩を押さえながら、彼女の足元にあった血まみれの写真を拾い上げると、思いきり引きちぎった。

衝撃音がした。
潮が引く様に、広がっていた圧倒的な呪力放出が止まる。そして先程までの風ひとつ吹かない炎天下の日差しや蝉の声が蘇る。体への重みも無くなり、寒気もしない。嘘のように全ての感覚が元に戻る。

「大丈夫ですか!」
力を失い、重力に引かれ倒れた彼女を抱える。数分前は赤かった顔色は、真っ白になっていた。
「家入さんと先生呼んでくる!」
階段をかけあがって行く彼を追って、彼女を背負って行こうとしたが体に力が入らない。
彼女は右腕の肘から下が無くなり、そこから血がとめどなく溢れていた。彼女を横にして止血のために腕をハンカチで縛り上げると、彼女は私の腹に顔を埋めて絶叫した。痛みで足をもがき、靴が地面に落ちる。地面と皮膚が擦れて血が出る。左肘が地面にぶつかり、何度も跳ねる。私には足を押さえてやる力も残っておらず、痛みで暴れる上半身を抱き込んで左腕を守ってやることしかできなかった。
「大丈夫です。腕をちゃんと治せる人がすぐに来ますから、安心してください」
彼女は目を強く瞑り、脂汗をかき、荒く早い呼吸を続ける。暫くして痛みを処理できたのか、ショックで鈍くなったのか、強張っていた表情が緩む。うっすらと彼女は目を開けた。
「痛みは?」
「よく分からなく、なってきて。眠気が、急に。これ死、ぬ感じですか?」
「……いえ。多分呪力が無くなっているだけです。体が疲れたんでしょう」
「ななみ、さん?」
「……はい」
「怪我、ないですか」
「……お陰様で無事です。灰原も」
「良かった。すみません、ねま……」
言い切る前に彼女の全身が弛緩した。呪力消費と理解していたが、あまりにも突然だったので肝が冷え、息と心臓の動きを確認する。動いている。生きている。

私はやっとまともに息ができた。
あの呪力放出はどう考えても彼女のではない。私を藪の方へ押した時のが彼女の呪力だ。そして自分のガードに使う呪力まで、私を押すパワーへ回したのだろう。
私の頭から滴って来た汗が、顔についていた彼女の血と混じり、彼女の頬へ落ちる。拭ってやりたかったが、ハンカチは彼女の肘にある。蝉の声がやけに遠くに感じた。
上から夜蛾先生と夏油さんが走ってくる姿が見える。安堵と同時に、不快な感覚が胸に渦巻く。
また善人がこの世界に入って来た。クソだ。
そう思いながら散らばった彼女の荷物を眺めると、半分程開いたバッグの隙間から銀色に輝くモノが見えた。目を凝らす。それは、どこの家庭にもある包丁だった。

2020-08-28
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