鍵が開く音が好きだ。
ホテルも自宅も、私と同じ鍵を持っているのは冥さんだけだから。
鍵が開く音がしたのでキッチンから顔を出すと、お泊り用のボストンバッグを持った冥さんがいた。颯爽とキッチンに入ってくる姿には任務を終えた疲れは全く無い。
「いい匂いがするね。また何か増えた?」
「蒸篭とアルミのフライパンとチーズ降ろし買いました」
「フフッ。もう店並じゃないか」

今日は月末の情報共有会である。私の1級昇級後、以前より冥さんとの任務が少なくなったが、その代わり私単独で仕入れる情報が増えた。メールで連絡していたけど顔見て話す方が効率的だし、私の料理の腕も上がったので2年ほど前から憂くんも交えて、ホテルや私の自宅で情報の共有を定期的に行っている。
冥さんが美味しかったと言う料理の再現をいくつもしているうちに、必要にかられて買った道具が次々増えて行く。最終的には鮨を握れるようになりたいな。
「これ差し入れ。一緒に飲もう」
テーブルに置かれた紙袋から出てきたのはワイン2本に瓶入りのジュースが1本。ジュースは憂くん用だが、とうの本人である彼の姿が見えない。
「憂くんは欠席ですか?」
「いや。任務へ同行させなかったからこちらへ直行する予定だよ。もう少しすれば来るだろう」
「任務は秋葉原だったんですよね。人の量は大丈夫でしたか」
「いつもよりは混んでいたけど予想よりは少なかったかな」

ここ数年、渋谷周りはハロウィンが近づくと仮装した人でごった返すようになった。今日はハロウィン当日の最大ピーク日。ただのお祭り騒ぎならいいのだが治安が悪化している。渋谷ハロウィンがこのまま定番になれば、感情が蓄積してこの時期お決まりの渋谷ハロウィン怨恨産任務みたいなものが将来的に生まれるだろう。その前に規制が入ってくれればいいのだけど。
ふと、コートを脱ごうとする冥さんのポケットから白い何かが今にも落ちそうに飛び出ているのに気づいた。
「冥さん、ポケットから何か落ちそうです」
「ん?……あぁ。ここに来る途中で貰ったんだ」
それは1枚の小さな紙だった。冥さんは取るとくるくると指で遊び、最後は人差し指と中指の間で挟んだ。かっこいい。こんな持ち方してサマになるの冥さんかヒソカだけである。
「道で何枚か写真を撮られてね。モデルをやらないかと誘われたんだ」
スカウトマンの名刺を見せてもらえば、それは正式な名刺ではなく名刺サイズの紙切れだった。英語のサインとインスタのアカウント名が走り書きされており、検索してみると紙に書かれた名前通りのユーザー名がひっかかる。投稿されていたのは百貨店に軒を連ねる有名ブランドの撮影現場やオフィスの風景、そして時々ビーチとコーヒー、家族の写真。アカウントのアイコンになっている男性の顔写真を冥さんに見せると、軽く頷いた。

「自己紹介欄にはキャスティングディレクターと」
「成程ね。肉体美をテーマにモデルを探していると言っていた」
「道を歩いていただけの冥さんの体を、服の上から見抜くとは……流石ワールドワイドプロ。モデルの仕事は受けないんですか?」
「私が着るのはこういう服らしいよ」
冥さんのスマホに表示されていたのは、布を纏った女性だった。
下着姿の女性の体を包みながらも、少しもその肉体を隠さず、それでいながら引き立たせ、ニュアンスのみを添える羽衣のような透けた布。上品なレースの装飾、なびき方も計算されたベール。衣装としてはすごく綺麗だ。肉体美をテーマにモデルを探す理由がよく解った。
「受けてもいい?」
確実に冥さんに似合う。キャスティングディレクターに脳内全員スタンディングオベーション。昔の私だったら冥さんがやると言ったら飛び上がらんばかりに喜んだだろう。昔の私だったら。
「いや。……やっぱりダメです」
「何故?」
「すっけすけじゃないですか……全部見えちゃう……」
冥さんは一瞬間を開けて、声を出して笑った。きれいにツボに入った時やボロ儲けが出た時の笑い方。ひとしきり笑い、しっとりとした親指で私の唇を撫でた。ぬるりと入ってきた舌は熱くも冷たくもなく、私と同じ体温だった。長い舌が歯列をなぞり、舌をなぶり、絡め取り、上顎をくすぐってくる。気まぐれに中で遊んでいるが私の心臓はその舌先ひとつで止まりそうだ。しばらくして大きく水音を立て舌が去って行き、帰り着いた先の口角が高く上がった。
「恋人がそう言ってくれるなら、そうしようかな」
「そうしてください……」
「なまえは私のことで悩むと、口を真一文字に結ぶ癖があるね」
「えぇ!?い、いつから?」
「昔から。さて、初心なのも唆るけど、私は恋人からのお返しがそろそろ欲しい。私からキスしてばかりじゃないか」
冥さんは前屈みになり、編まれた前髪が私の左耳をくすぐる。長い睫毛に覆われた瞳の中の私は間抜けで追い詰められた顔をしていた。
顎を上げ、唇を合わせてみる。さっきは無かった余裕が今度は指の先ほどはあるせいで急に五感が冴え渡る。フルーツと花の合わさった微かなフローラルな匂い。唇の柔らかさ、吐息の音。舌を差し込もうとするとつるりとした歯に阻まれてしまう。驚いて引っ込めたら冥さんの喉が震えた。遊ばれている。もう1度試そうと背伸びをしたら彼女の口が大きく開いて、長い舌が私の舌を引っ張りだして中へ導いてくれた。中は、さっきまでの舌の温度が嘘みたいに熱い。柔く歯で舌を食まれると視界が震える。さらに奥へ入り込もうとした時、インターホンが鳴った。
「憂憂かな。明日の夜にまた頼むよ」
冥さんは私の頬を撫でると、何事もなかったように玄関へ迎えに行く。
一気に力が抜けてよろめいて、後ろにあった冷蔵庫に体を支えてもらった。

……。

…………。

や。

やっっっっっっっっっっっべ〜〜〜〜〜〜〜。

1級呪霊と殺り合うよりハードで心臓潰れそうなのに、今ならどんな任務だって受けられそうな真逆の感覚が体の中で渦巻いている。どこかの国では恋の感覚を「胃の中に蝶がいる」と表わすらしい。たしかにそうだ。はたはたと飛ぶ蝶の羽先が、腹の中をくすぐるような気分。蝶が百頭くらいいるけど。
息を深く吸った所で、スマホが鳴った。
発信者は顔見知りの補助監督。あー……さっきの考えが本当になりそうだ。繁忙期が終わったこの時期に、非番の呪術師に電話が来るのは大体緊急の大物任務である。通話ボタンをタップして出ると、荒い息遣いが聞こえた。

『お、お休みの所申し訳ありません。急ぎの任務要請があります、今どちらに?』
「お疲れさまです。自宅です」
『渋谷で任務に当たって頂きたいのですが、そちらに冥冥呪術師は?』
視線とハンドサインを冥さんに送ると冥さんは指先で丸を作り、憂くんは苦い顔をして渋々といった様子でお泊りリュックを下ろした。
「私用で一緒にいます。どちらも今から出られますよ。冥冥呪術師への共有のため、電話をスピーカーに切り替えます」
『助かります。では状況説明に入ります。渋谷にて“一般人のみが閉じ込められる帳”が発生しました。範囲は東急百貨店東急東横店を中心に半径400メートル。“帳”に閉じ込められた一般人が「五条悟をつれてこい」と訴えており、中で何かしら起きているようです』
「……非術師が五条さんを?」
「非術師はメッセンジャー兼、人質というとこかな。相手の検討は?」
『五条呪術師を指名した存在は判明していません。ただ、先月に高専であった交流会襲撃時に呪詛師によって降ろされた“帳”と、今回のものに類似点が多く、同一犯という方向で動いています。また特級呪霊の気配もありますので五条呪術師単独での事態の収拾を進めますが、他の呪術師の方々にも“帳”外にて一般人救助のための支援をお願いしたいです』
「了解です。配置は単独ですか?班ですか?」
『待機中は班で動いて頂きます。メンバーは後ほどご連絡します。ただ補助監督の人手が足りていないため、初動は班長のみにメンバーをご連絡いたします。一旦おふたりは冥冥呪術師を班長として、急ぎ青山霊園で待機をしてください』

通話はすぐに切れた。後半はかなり駆け足で、だいぶ現場が切羽詰まっているのが窺える。ハロウィン当日の渋谷、一体何人が“帳”の中に閉じ込められているのか。
急いで身支度を整えてリビングに戻ると、班編成が冥さんへ送られて来ていた。まだ私達の名前は入っていないがどうやら1級呪術師が2級以下の学生を1名引率する形だ。
「禪院のトップと真希さん、日下部さんとパンダくん、単独行動で狗巻くん……。今年の東京校の1年って3人いましたけど編成に入るんでしょうか。そうだと私たちは別班ですね」
「そうだね……虎杖君と伏黒君、釘崎さんというのだけど、今日、彼らに任務は入ってる?」
「……なさそうです」
任務スケジュールを見てみるが3人の名前はなかった。虎杖くん……?最近どこかで聞いたな。冥さんが五条さんに頼まれて推薦した子とは聞いていたが、それ以外に誰かから聞いたような……。
「なら私達は分かれる前提で動いた方が良さそうだ」
「姉様、なまえさん。タクシーが来ました。1階へ」
私が冥さんに送った“任務に出ますか”のハンドサインを読んでいた憂くんは、すでにタクシーを呼んでくれていた。
「憂憂。予定外で悪いけども、ついて来てくれるかな?」
「勿論です! 姉様となら何処へでも」
冥さんの手が憂くんの肩に乗る。憂くんは頬を染めて、2人は見つめあっていた。羨ましくない。さっき冥さん成分補充したし。羨ましくなど……。

▼ ▼

20時25分。
夜の青山霊園。
一般人にはあまり馴染みがなく、呪術師にはコンビニほど身近な場所にやってきたのは、高専の制服にパーカーをカスタマイズした少年だった。軽快な足取りでこちらに寄ってくると、よろしくお願いします! と霊園には場違いな明るい声が響く。
「虎杖君、よろしくね」という冥さんの声かけで彼が虎杖くんだと理解した。
軽くお互いの自己紹介と、詳しいことは知らされずにやってきた彼への現状説明を済ませると、虎杖くんは芳しくない状況に声を上げたが姉弟愛のオーラを食らって静まった。わかる。

「みょうじさん、なんで目頭押さえてんの?」
「心の事情……。ところで虎杖くんは私とどこかで会ったことありませんか?」
「いやー……無いと思う。俺結構、人の顔覚えるし」
「ちなみに攻撃スタイルは?」
「殴る蹴る」
「……ああ! 思い出した。近接が強い東京校の1年生で格闘センス抜群。フィジカルピカイチ。黒閃も出し、今も昔も波に乗っている常に最高を更新し続ける男」
「なにそれ誰評価!?」
「東堂くんですよ。同じ中学出身で親友とはすごいですね。マイノリティな世界なので高専に来る前から呪術師の友人がいるなんてあまり無いですよ」
そう言うと一瞬明るくなった虎杖くんの顔からすぐに笑顔が消え失せる。汗までかいて、明らかに顔色まで悪くなってきた。どうした。今から渋谷に行くんだぞ。
「……みょうじさんって東堂と仲いいの?」
「仲良いというほどでは。情報交換仲間というところかな」
「あの……東堂が言ったことウソだから……」
信じて……と虎杖くんは手を合わせて頭を下げてくる。腰から深く背中が曲がり、合わせた手の指先は白くなっている。
「え?どこから」
「全部」
「この前、大親友のオマエ、パスタ作った俺。って話してくれたんですけど」
「それも嘘……」
「……東堂くんはなんでそんな嘘を……?」
「東堂の中ではホントらしい……」

あまりの虎杖くんの必死さと噛み合わない会話に怖くなってきた。え。なに?東堂くん、自前の術式以外に何かそういうヤバいもの持ってるのか?
「2人共、盛り上がっている所悪いけど、行き先変更だ。明治神宮前駅に渋谷と同様の“帳”が降りた。私と虎杖君はそちらへ向かう。なまえは渋谷PARCO前で一旦待機」
「やっぱり別班になりますか……じゃあ、お気をつけて」
「なまえもね。怪我せずに帰っておいで」
走るよ、と冥さんの声で3人は明治神宮前駅に向かって走り出し、すぐに姿は見えなくなった。東堂くんの話が嘘だったとしても能力評価には間違いは無いだろう。それに評価と多少違っても、冥さんがいるから大丈夫。
久しぶりの大掛かりな任務である。去年のクリスマスはなかった一般人が大量にいるので、そこがしんどいかもしれないな。今の所“帳”内では呪霊が人を襲っている様子は無いらしいが、人質を兼ねている様子からすれば、そのうち始まることは明らかだ。
目的地に向かって走りだすと“帳”の降りた方向から歩いて来た女性とすれ違う。その不安そうな表情は消えそうで消えない、故郷の記憶の中にもあった。
やはり、守るべきものは少ない方がいい。
2020-08-25
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