どちらのか分からない汗がシャワーに流された。
シャワージェルからは甘い匂いがしたけど、今はその香りが邪魔だ。そんな思考を冥さんに勘づかれたのか、後ろから抱きしめられる。
「後でまたしてあげるから、そんな顔しなくていいよ」
「鏡がないのによくわかりましたね」
「フフフ。付き合いの長さかな」
彼女は笑うと、きれいに整えている爪先で私の耳の縁をなぞった。背骨が痺れる。同じ性別なのに、こんなにも柔らかさや膨らみが違うのだなぁ。羨ましさはとっくの昔にどこかに行ってしまって、彼女の姿を見ても綺麗だという感情以外出てこない。冥さんがねじって後ろにあげていた髪をおろす。まるでカーテンみたいに長い髪が広がった。
「髪に時間がかかるから、先に寝てて」
言われるままバスルームから出てもベッドでの記憶が体に残っていて、頭のてっぺんから足先までふわふわと夢見心地でドアの段差につまずく。
肌を整え、髪を乾かし、ホテルのナイトウェアを着て、くしゃくしゃになってしまったベッドに潜り込むと、シーツにじんわりと残る温かさに体の力が抜けた。

まどろみの中、自分と違う感触に目が覚める。寝返りをうって擦り寄ると小さく笑い声がした。
「なまえは本当に好きだね」
ナイトウェアは脱がされて、下着だけにされていた。すべすべした冥さんの肌と触れ合うのはびっくりするくらい気持ちがいいと同時に安心するけど、それ以外はすっぽり記憶が抜けてしまう。触れ合った体温は覚えていても、時計を見たはずなのに何時何分にベッドに押し倒されたか記憶がない。脳に流し込むように囁かれた言葉は覚えてないのに、耳に入ってきた空気の感触だけはいつまでも残って、おかげでイヤホンが使えなくなった。
「可愛いよ」
冥さんは私を抱き寄せて頭を撫でてくれた。

故郷で冥さんに助けられ、高専に入ってからは冥さんの背中を追い続けた。
実力がない相手=金にならない相手。そんな人間には興味がない冥さんから、任務の同行者として初めて声をかけられたときは呪術師として認められたと嬉しかったし、程なくして同行者として固定指名してくれるようになった。
そして高専を卒業して少し経った頃、フリーの呪術師になることを誘われた。なると即答したが、その時すでにフリーだった冥さんにとって、大きな事件があった。
冥さんがタダ働きをさせられたのだ。
とあるクソ準2級呪術師から依頼された1級1体の祓除依頼が、蓋を開けたら1級3体に呪詛師までいたのだ。冥さんは帰って来て追加分の報酬を請求したが、呪霊2体と呪詛師の報酬は払わないとクソアホ依頼主は突っぱねた。要は依頼に無いものを勝手に祓除したのだから関係ない、と。
それを聞いて私は腸が煮えくり返り、勝手に高専の内部書類を調べた。クソアホボンクラ依頼主が言ってきたことはやはり嘘で、未確認2体と呪詛師は最初から情報に上がっていた。冥さんを故意に危険に晒した。
冥さんに損をさせる、自分は利益を得る。こういう人間は、古い体質の業界には春の野の石をひっくり返したら出てくる虫くらいいる。きっとこれからも、こういうことは出てくる。
その事件により私はフリーになるのはやめて、高専所属のまま1級に上がった。このポジションなら冥さんに渡る情報の閲覧・指摘もできるからだ。こういう情報を得るのは1級でもフリーになってしまうとかなり難しい。多少悪いこともしなければならないが、冥さんに害を加えようとするヤツらの思惑を考えれば天秤にかける気にもならなかった。頭のおかしい呪術師から冥さんの命とお金と時間を守る。
これが私の冥さんとの付き合いだ。

こうやって私と冥さんの関係を彼女の胸の中で振り返ってみたが、一体どこで冥さんは私を抱けると思ったんだという疑問への答えは全く見つからなかった。
私は冥さんが大好きで尊敬しているが、異性に向けるような性的な愛ではなかった。でも冥さんが望むならなんだってするし、何者にでもなる。また愛の詩を作ってしまった。このまま詩集でも出せそうだ。愛は人を印税収入者にしてしまうのだな。
話を戻そう。
冥さんは昔から人柄も余裕も雰囲気も、何も変わらない。
もしかして私と会う前から同性のパートナーがいたけど別れてしまって、コイツでいいかなと選ばれたとか?それならすごく納得がいくし、いくらでも使ってくださいだが、元パートナーの正気を疑う。冥さん以上の人なんていないぞこの世界。別れた人、世捨て人にでもなるつもりか?
そんなことを考えている間もずっと耳に吹き込まれていた鼓膜を緩ませるような冥さんの寝息に、とうとう意識がもっていかれる。

次に目を開けたときは5時間経っていて、ベッドには私しかいなかった。そしてベッドサイトには、眠ったときには無かった炭酸水のボトルと、走り書きのメモが残されていた。
『任務があるから先に出る』
メモを握りしめて転がった1人きりのベッドは広い。こんなことになる前は冥さんから連絡が来るだけで嬉しかったのに。連絡が来なくても「それが普通」で寂しさなんて全然感じなかったのに。欲、やばいな。自分、まずいな。
とりあえずベッドから起き上がり、書き置きメモを財布にしまったところで強い空腹に気がついた。そういえばまともな食事は昨日の昼に食べたきりだ。外に出るために顔を洗おうと洗面台に向かうと、私の化粧ポーチの横に見慣れないリップがある。……これ、冥さんが使ってるのだ。落ち着いたブラウンのリップ。しかも未使用。
忘れていったのかな。冥さんはあまり物を持ち歩かないから替えは多分持ってないだろう。新品を出したなら、なおさら。連絡しようとスマホを取りにベッドサイドへ戻ると、タイミング良く着信があった。表示された名前に驚く。久しぶりだ。出ると電話の向こうで深い溜息があった。

『姉様を見送らずに惰眠を貪るなんて……協力者はもっとしっかりすべきです』
「う、憂くん」
もう1度深い溜息をつかれる。
『姉様からモーニングコールをするように頼まれたので電話しました。チェックアウトは十1時だと伝えてほしいと』
「あー……ありがとう。冥さんから連絡あったの何時?」
『8時です。アナタが疲れているので、ギリギリまで寝かせてほしいという姉さまからの配慮ですよ』
「ありがたき幸せ……ね、憂くん暇?」
『姉様の件ですか?』
「そうです」
『聞きます』
「冥さんってつきあってた人いた?」
『僕が知る限りではいないですね。姉様が意図的に隠していたら別ですけど』
「なるほど……」

ある日、突然現場で、午後から雨らしいよという気軽さで紹介された冥さんの弟、憂くん。
冥さんを超尊敬で超大好きという私達は瞬時に協力者として結託し、連絡先を交換し、お互いが持っている(ちゃんと冥さんに許可を得て撮影した)写真の数々をシェアして、その後も定期的に情報を交換している。
そして憂くんは、私と冥さんがこういう関係になったことを知っている。というか冥さんがディズニーシーで買った耳を憂くんに見せて、なぜシーに行ったのか、なぜ私と行ったのか等、どんどん聞いたらどんどん答えてくれたらしい。耳つき冥さんの写真は協力者としてきちんとシェアしたので憂くんから来たのは怒りの連絡ではなく、こういう関係になったなら姉様の汚点にならないようしっかりしろという脅しだった。というか私やっぱりあの時、抱かれてるのでは……?隠さなくていいんですか?と思ったけど、憂くん見た目よりずっと大人だもんな。
ちなみに憂くんの年齢をおおざっぱにしか私が知らないように、憂くんもまた私の事は名前と階級と、冥さんが憂くんに教えた事しか知らない。なぜならお互いがお互いには興味がないからである。これを東堂くん(彼からも冥さんの情報を得ている)に言ったら「同担拒否じゃないのか」と驚かれた。冥さんは素晴らしいので担になってしまうのは人間として抗えないのだから、拒否もへったくれもない。酸素を吸う権利なんてもので揉めないのと同じだ。

『なにかあったんですか?姉様に愛されておきながら、不安を抱えることなんて無いですよね』
「ないですけど……不安というよりは疑問……?」
昨晩も考えていた疑問を憂くんに話すと彼は、ふむ、と可愛らしい声を出した。
『……姉様は結構前から、アナタの事を可愛がってましたよ』
「え!?なに!?その話もっと聞きたい」
『その前に確認ですけど、写真を送るので見てください。恐らく覚えがあるでしょう』
送られて来たのは男性のお見合い写真をスマホで撮ったものだった。この写真には確かに見覚えがある。
「いつだったかな……結構前に学長に見合いしてみるか?って聞かれて見せられて、それからなんにも無かったお見合いの相手の写真だ」
『やはりですね。姉様が前にコレを見ていて、お見合いですかと尋ねたら自分のじゃないと。“可愛がっている後輩への見合い写真だけど、こんなのに私との時間を取られるのはもったいないな”と』
「え」
『当時はよく意味が分かりませんでしたけど、やっと納得がいきました』
「……え?」
『しっかりしてください!』

血筋を重視する家系が多い呪術師界において、お見合いはよくある話だ。比例して責任がある地位の人はお見合い相手の紹介をせがまれることが多い。
だから学長にお見合いの話をされたときは、断りにくい人に紹介を頼まれたんだろうなと。学長にはお世話になってるから、ノルマ消化に1件引き受けて、会う約束をしたのだが全然話が進まず、学長に聞いたら「色々あって立ち消えた」と。え、冥さん。“色々”って冥さんなの?脳みそぶっ飛びそう。

『しっかりしてますか』
「してないです……あ……頭おかしくなる前に……冥さんに伝えておいてほしい……新品のリップ忘れてるって……」
『それは姉様からのプレゼントです』
「なんで知ってるの」
『勘違いしてたら教えておいてと頼まれました。流石姉様、全てを把握していらっしゃる』
ううーー好き。汚い私の断末魔が部屋に響いた。

▼ ▼

呪霊の首元へ斧を切り込むとやっと攻撃が通った。ガードへ呪力を回し尽くす戦法はたしかに面倒。烏を使うほどでもないが、何回か空振りが続いた。最近、呪霊のレベルが上がっていると報告が来ていたが本当のようだ。こちらを見て戦い方を変える相手が増えたな。
武器の汚れを拭って時間を確認する。想定より体力も時間も軽く終わっていた。時間も良い頃だし普段ならここで切り上げるが今日はもう1件行こう。予定を開けて、依頼を渋っている客を何人かせっつきたい。
なまえを抱くようになってから分かったことだが、あの子と寝た後は体の調子がいい。コンスタントに調子は整えているがあの子を抱くと更に良くなる。嬉しい誤算だった。なにより気分がとてもいい。比例して仕事の回りが良くなり金が生まれる。あの子を愛し、運用するようになってから1体いくら金が生まれたか。確認する度に頬が緩むよ。
私にしかない、そして私だけが引き出せる、あの子と私と金のシナジー。私の恋人であり、人的資産だ。そして愛情投資は互いの人的資本を増大させる。
ふっと、今日のベッドの中でのなまえを思い出す。頬が紅潮するのが分かる。あぁ、湧くね。
「どのくらい伸ばせるか、楽しみだよ」

2020-03-07
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