※夏油過去捏造


のりたまをお弁当にかけるたびに思い出す男の子がいる。

小学生の頃の同級生の夏油傑くん。
彼との出会いは、クラス替えをして初めての学級会だった。
男子1人、女子1人、学級委員長を決めろと言われて、女子は推薦が無く、私はくじに運悪くあたった。
男子の方はワイワイと教室の半分を占領し、夏油だろ。傑しかいないだろと声を上げて、勝手に黒板に書いた「夏油」の下に正の文字が次々続いた。
毎年毎学期、嫌々くじを引いてきたので、初めて推薦される人を見た。どんな子なんだろうと様子を伺うと、男子の集団に囲まれ1人座って微笑んでいる子がいた。つやつやした黒髪が耳の下まで伸びている、男子にしては髪の長い子だった。
うまく説明できないが、ひと目みてわかった。周りの男子とは違う、落ち着きのある子だった。

初めて直接話したのは、その学級会の数日後にあった歓迎遠足だった。
学級委員長は遠足の目的地に向かうバスで、クラスの人数がたりているか数えて担任に報告する役目があり、夏油くんと私は担任の後ろの席に座った。
私はその日初めて乗り物酔いを体験した。車には強い方だったのに、その日は突然、車に酔ったのだ。担任がパーマをかけて来ていて、そのパーマ液の臭いのせいかもしれないし、遠足に浮足立って睡眠不足だったせいかもしれない。理由はわからないけど生まれて初めてで、そして最後の乗り物酔いだった。
体がどんどん冷たくなって、視界がぐらぐら回り、吐きそうなくらい気持ち悪い。サービスエリアのトイレ休憩で1度吐いたが、吐き気は全く収まらなかった。震える足でトイレ休憩から戻ってきた女子を数えて、担任に報告して席に戻った。仲のいい子は後ろの席だし、担任はぼんやりした人だったので、私の体調不良は誰も気がつかなかった。体調不良が気持ちの落ち込みに拍車をかけ、暗い気分で俯いていると、温かい手に肩を掴まれた。
「大丈夫?」
窓際に座っていた夏油くんだった。彼はリュックから水筒を出すと、大きなカップいっぱいに氷入りの麦茶をついで差し出してきた。
「氷を食べるといいよ。少しスッキリするから」
夏油くんの声はとても落ち着いていて、私の目を見てにっこり笑った。まるでいつも通ってる、小児科の先生みたいだった。

現地に到着しても私はバスから降りたくなかった。足元はぐらつくし歩くだけでも吐きそうだったが、夏油くんが外に出た方が良いと言うので、肩を貸してもらって外に出た。
遠足先は山で、彼は私を他の生徒の騒がしい声がしない、静かでよく風が通るベンチへ連れていくと下敷きで仰いで扇いでくれた。
「あの道路は事故が多いから」
「……道がうねってるの?」
「……そうだね。気分が良くなったらお弁当にしようか。なにか食べたほうが良い」
あまり食欲はなかったが、夏油くんが言うなら間違い無いだろうと感じた。私はお弁当を開けて、一緒に入っていたのりたまの封を切った。
ご飯にかけようとしたとき、夏油くんがじっとこちらを見た。
「それなに?薬?」
「え、のりたま」
「のりたま?」
夏油くんのお弁当のご飯は真っ白だった。
彼の家はおかずがあるのにご飯に何かをかける事は禁止されていて、ふりかけをご飯にかけたことが無いという。厳しい家だなと思ったが、夏油くんのお弁当はデパートで買うような花の形に切られた人参や蓮根、お上品なサイズの焼き鮭、切れ目が入ったウィンナーなどが彩りよく詰められていた。
いま考えれば彼の家はお金持ちだったのだろう。白ご飯によく合うおかずがきちんと入っていたのだが、当時の私には夏油くんの何もかかっていないご飯が何より可哀想にみえて、のりたまを半分、彼のご飯にかけた。
彼はのりたまご飯を食べて、美味しいと呟いた。気を使うような笑みではない本当の笑顔を見たのは、その時だった。


小学校は給食だったので、次に彼とお弁当を食べる機会があったのは夏休みに入った7月の終わりだった。
学級委員長は夏休みに植物と動物の世話をする、当番日が1日だけあった。
それは1999年の7月の終わりの日。ノストラダムスの大予言が終わる日だった。
数々のオカルト番組や子供の噂でネタにされ、もちろん私も心の底から信じていた。
朝から雲ひとつない青空を、何かがいつ降ってきてもいいようにずっと睨んでいた。

学校に着くと集合場所の倉庫前に夏油くんはすでに来ていて、先生から割り当てられた場所で必要な道具がそれぞれに配られた。私たちはじょうろと野菜の入ったビニール袋を受け取り、花壇に水をやり、動物のエサ箱の野菜を黙々と取り替えた。
夏油くんは誰とも仲良くなかったけど、悪くもなかった。
夏油くんはクラスでも特別だれかのグループには入っておらず、誘われれば遊ぶけど、何も無ければ教室で本を読んでいるような子だった。けれど勉強もスポーツも人一倍できたから、みんなの憧れだった。小学生というのは幼いながらも敏感で、誰も彼の友達になれないと察していたのだ。だから私も彼に気軽に話しかけられなかった。
作業は午前中で終わり、準備していたお弁当を持って他の当番の子供たちも集まる校庭に行った。しかし当番は縦割りなので、学年の違う生徒と交流する度胸はなく、私は夏油くんと2人だけで体育倉庫の影でお弁当をひろげたが、なかなか箸を持つ気にならなかった。
私の心はノストラダムスの大予言で浮ついていた。いつ何が起きてもいいようにずっと空を睨んでいると、夏油くんに肩を叩かれた。
「見て」
彼の、あの上品なお弁当のご飯に、のりたまがかかっていたのだ。
「母に話したら、お弁当の時は良いってかけてくれたんだ」
驚いた。彼は私と分けたのりたまのことを覚えていたのだ。クラスで誰ともなじまない、大人びたあの夏油くんは、きっとすぐに私とのりたまのことなど忘れてしまうと思っていたから。
「私、のりたま持ってきたよ。夏油くんの分も」
私だけが覚えているものと、思っていたから。
彼は私の持つ2袋ののりたまを見て、きまり悪そうに微笑んだ。
「……ゴメン」
「いいよ。夏油くん、のりたま、また半分こしよう」
この時私は1.5袋ののりたまご飯を初めてたべた。1袋よりおいしかったことを覚えているが、味の記憶はもう無い。
「……夏油くんはノストラダムスの大予言って知ってる?」
「知ってる。……そうか。今日が7月の終わりだね」
「夏油くんは信じてないでしょ」
彼は空を見上げて、そうだなぁ、とぽつりと漏らした。
「信じていないけれど、みんな死んでしまうのは悲しいから、予言は当たらないほうが良いな」
そう言って、初めて会った時より結べるほどの長さになった黒髪を夏油くんは結び直して、拳を2つこちらに向けた。
「何?」
「これ見える?」
開かれた右手には何もなかった。
「ううん」
「じゃあこっちは?」
開かれた左手には、黒い靄が見えた。
「なんか黒いの見える」
「そっか」
彼は立ち上がって手についた砂をはらうように手をたたき、私を見下ろした。夏油くんの黒い髪と青い空のコントラストは、今でもはっきり覚えている。
「予言はやっぱり外れてくれた方がいいな。2学期もみょうじさんと会いたいから」
夏油くんはそう言って笑った。気を使うような笑い方だった。



「なので、私はのりたま2袋、お弁当にかけてるの」
「夏油くんめっちゃいい子じゃん、感動した」
友人から、なぜのりたまを2袋も毎日お弁当にかけるのか、と聞かれてあらためて思い出した。
1.5袋の贅沢の味を覚えてから、私は高校に上がってお昼がお弁当になって、のりたまを毎日2袋持ち込んでいる。
「遠足で命より大切な氷を、仲良くもない同級生にあげるなんて聖人じゃん」
「わかる。今思い出しても夏油くんは周りよりあたま2つ飛び抜けて大人だった」
「なに?寺の子?」
「……そういえばそういう話、したことなかったな」
「今どうしてんの夏油くん」
「んーー……わからない」
「分からないことばっかりじゃん」
「だって私、中学から女子校行ったし」
「えーー。絶対そんなすごい子なら、めっちゃいいところ行ってそうだね。いいな。私もそんな恋したかったわ」
「恋じゃないよ。好きではなかった」
「マジか?」
「うん。なんか、恋するのも気が引けるくらいの子で、そんな気にならなかった」
「……小学生を気後れさせる子供ってどんな子供なの……」
見たかったなあ、と友人は呟き、リプトンの紅茶を飲み終えると、バッグからリボンのかかった大きな袋を取り出した。
「誕生日おめでと。中身は業務用のりたまと、なまえの好きそうなストラップ」
「ありがと〜。ストラップ、バッグにつけるね」
「携帯用なんだけどさ。まだ携帯買ってもらえないの?誕プレでダメそう?」
「ダメそう。来年大学入ったらって言われた……来年もまだあるかな……この前見せた、あの黄色の携帯がいいんだよね……」
「どうだろ。別の黄色がでるんじゃない?のりたまご飯食べて頑張れ」



夏油くん。どうしているのかな。
空を見上げる時に思い出す子もまた夏油くんだった。
年が記憶の中の私達から離れるにつれ、当時分からなかったことが、少しずつ分かるようになってくる。
彼は同い年の私たちと比べてとても大人びていた。氷の件は勿論のこと、1番そう思わされたのは、ノストラダムスの大予言の日だ。
私は自分や家族が死んでしまうことを恐れていたが、彼は世界中のみんなのことを想っていた。それに気がつくのに10年近くかかってしまったけれど。
一体、彼は何者だったんだろうか。小学生にしては達観した物腰、面倒見のよさ、記憶にうっすらと残る穏やかな笑顔。本当に寺とか教会とか、そういうところの子だったのかも。彼の名前の寺も教会も、この街には無いけど。

夕日で空が赤く染まっているのを、ぼんやりと眺めた。早く家に帰ろう。今日は誕生日ご飯だ。
前を見て1歩踏み出した時、つま先から氷水に浸かったような寒気が走った。息がつまり、心臓が凍えそうな悪寒。かすかに香る近くの家の金木犀の匂いがかき消えた。いつもの通学路が、まるで異世界になったような気味の悪さに包まれている。ぐらりと視界が揺れて、胃酸がせり上がって喉が焼けるような感覚。前後左右の景色が、セットの絵になり果てた張りぼての無味無臭の世界。異様な雰囲気に飲み込まれながらも、息の仕方を取り戻した時、足元に延びる影が、2つになっていることに気がついた。
違う。目の前に、男が立っていた。上下黒い服を着た、髪の長い男が立っていた。

「みょうじさん、久しぶり」

男の口から私の名前が呼ばれるまで、誰だか全く分からなかった。そのくらい彼の姿は変わっていた。
私と同じくらいだった手足も身長も、大人の男のように伸び切っていた。背は見上げる程に高く、体は厚く、高校生にしてはひどく鍛えられていたが、彼が夏油傑と理解した時、とても安堵した。
突然目の前に現れた男が、もう何年も会っていなかった同級生だったということではなく、彼が中身にあった体を手に入れたのことに対する安堵だった。記憶の中の彼を思い出すたびに、それがずっと気がかりで、違和感があった。とても大人びていた彼には、あの小学生の姿は不似合いで、そのうち記憶の中で別の姿かたちへ変わってしまう気がしたから。今、目の前にいる彼は、あの彼の内面と、ぴったり外見が一致していた。
「元気そうでよかった」
「ホント、久しぶり……。夏油くんは元気にしてた?」
「ああ」
柔らかな笑い方は、記憶の中で薄れかけていたものに違いなかった。顔から幼さが抜けて変わってしまっていても、あの日の夏油くんのままだった。
「いま、どうしてるの?なんでここに」
「今は遠くの高校に通ってるよ。今日はちょっと実家に用事があってね」
「えー……家、この辺なんだ。……身長何センチ?」
「180…くらいかな」
「おっきー!」
思わず笑ってしまうと、夏油くんもまた笑った。やっと結べるくらいだった髪は、今は肩の下に流れて、後ろは軽くお団子に結われていた。
「みょうじさんは変わらないね」
「夏油くんも体大きくなったけど、変わらないね」
「……どの辺が?」
「笑顔とか、雰囲気とか」
そうか。と小さく呟いて夏油くんは私の前に拳を突き出して、右手を開いた。
「これ見える?」
「……体育倉庫の横でしたやつ?」
「ああ。したね」
「見えない」
「こっちは?」
左手を開くと、黒い靄がまた吹き出てくる。けれどあの時より、それには形があった。
「なにこれ、トカゲ?手品グッズ?」
私の答えに彼は目を見開くと、大きな声を上げて笑って、急に私を抱きしめた。腕は太くて熱くて、私のとは全然違った。驚いて固まってしまったが、不思議と嫌じゃなかった。
「ありがとう」
嬉しいよ、とささやくと彼は体を離した。
「え?夏油くん、泣いてる?」
夏油くんは小さく鼻をすすると、目尻を親指で拭った。鼻は少し赤く、うっすらと顔全体が蒸気していた。
「うん。感動してね。……今日はちょっと急ぎだから、また後日連絡するよ」
何か紙をもらってもいいかな。と彼が言うので、ルーズリーフを1枚渡すと、綺麗な角張った文字で電話番号とメールアドレスを書いてくれた。
「私、まだ携帯もってないけど」
「大丈夫。1番に登録してもらえると嬉しいな。……みょうじさんは黄色が好き?」
「え、うん。好き。よく分かったね」
夏油くんは俯いてまた笑うと、赤く染まる世界の中へ歩いて行ってしまった。
彼の後ろ姿が消えるころ、異世界に迷い込んだような不快さが消え失せているのに気がついた。
戻ってきた匂いの中に、どうしてか金木犀に混じり生臭い血の香りがした。

2019-10-26
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