最初に話を聞いたのはいつだったか。10年くらい前だったかもしれない。暑い夏の日の任務帰りに車内で制汗シートを冥さんへ勧めると、歌姫も和装で大変だねと言いながら緩められた彼女の首元に、シンプルなネックレスがあった。彼女の目の色と同じ綺麗な石だった。任務着にアクセサリーを合わせない人だったので、珍しくてつい見つめてしまうと、冥さんは私の視線に気がついて、後輩が初任給でプレゼントしてくれたんだ。と笑った。

それからも時々、冥さんの手元には後輩からもらったというものがあった。ボールペン、ハンカチ、キーケース、手袋、マフラー。それなりに値の張るブランド品を随分貢いでくる後輩だなと思っていたが、ある日冥さんの手帳から1枚の写真が落ちた。現像した紙の写真なんて久々に見た。端は所々めくれ、傷み、彼女が長いこと所有していたことがうかがえる。ポニーテールに髪を結っていた頃の冥さんの側に、嬉しそうに笑っているどこかの一般校の制服を着た女子学生が写っている。
「昔の写真だけど、可愛いだろう?私の後輩」
いつもより柔らかい声で冥さんはそう話すと、大切そうに写真を手帳に挟み込んだ。
てっきり後輩は男だと思っていたので、驚いてその時は何も言えなかったし、あんないつもとは違う甘さを含んだ笑みは初めてみた。
そうか。あの時の女子学生ってなまえだったのね。今やっと繋がった。なまえと知り合ったのは、あの子が高専を出て、あの写真とはだいぶ見た目が変わったあとだったから。

冥さんになまえを引き渡して居酒屋を出る。冥さん、いつからそういう好きだったか知らないけれど、なまえ、知ってる?冥さんのスマホ、なまえの写真かなり入ってるのよ。





事後だ。
今日は完璧に事後だと記憶がある。居酒屋でちゃんぽんして足もとが完全におぼつかなくなって、会計をする冥さんの腰に抱きつき、地に降り立ち、タクシーに乗った。
後部座席でどこかに電話をかける冥さんに頭を撫でられ、膝枕されて、甘やかしてもらって、気分がよかった。許されたと思った。

なので目的地なんて考えてなかった。
次に気がついたら、たくさんの枕があるムスク系の匂いが香るふわふわとしたベッドの上に寝ていた。髪を後ろで全て緩く束ねた冥さんが、隣に寝ている。耳たぶを軽く噛まれて、勝手に震えた肩を抱き寄せられる。
「今回はきちんと覚えておくんだよ」
冥さんは脳の中に流し込むように囁いた。あとはもう、ちゃんと記憶あります。


「お互い任務までまだ時間があるね。欲しいものがあるんだが、つきあってくれるかな」
11時を過ぎて太陽は昇りきり、ほとんどの店が開店し始める時間にホテルを出た。土曜日の大通りは歩行者天国となり、買い物を楽しむ人で賑わっていた。今日は確か冥さんが1級任務、私は昨日1級をやったから今日は確か2級だ……そう……。
記憶が曖昧なのでスマホで任務スケジュールを確認すると、1級をやったのは一昨日、2級をやったのは昨日。今日は準1級案件を3つだった。脳が溶けてる。
「どこ……行くんですか?」
「近くだから歩いていこう。10分もかからないよ」
かすれた喉を咳払いで調整して、冥さんの後について歩く。カツカツと響く彼女のヒール音が心地よかった。
振り返ったホテルはあまりにも高く、てっぺんはもう少し離れないと見えそうに無い。

冥さんはお金以外のしがらみを持たない人なので、正直ここ最近のやりとりは冗談だと思っていた。昔から真顔で冗談を言う人だし、意外と悪ノリもノリノリだ。だから今回のもと思っていたが、流石にここまでお金をかけられると本当だとわかる。

冥さんは昨日、言った。
私自身に価値を見出し、お金と絡ませていない。つまり私はお金でしか動かない冥さんの中で、特別なしがらみになった。
毎月誰かの訃報が届く世界で、冥さんが1級術師として長生きできるのは単純に彼女が実力者であるという点はもちろん、その身軽さにある。
しがらみがないから、責任や信念、感情に振り回されない。家柄や地位、立場。普通の呪術師には捨て置けないものが、極限の瞬間に思考を妨げない。だから死戦をゆらりとくぐり抜けられる。
大好きな冥さんに受け入れてもらえたのに……いや、こういう受け入れ方を望んでいたわけではないのだが、チョコレートを買いに行ったらガーナにいたような、ぶっ飛んだジャンプを得たが……嬉しくないわけがない。私は冥さんの特別なのだ。嬉しい。心から嬉しいはずなのに、この胸の中の不安はなんだ?昨日まではなかった、重たい霧のような不安。

「どうしたの。今日はやけに距離があるね」
「え、いや」
「いつもみたいに側においで」
きゅっと結ばれた手にひどく安心する。冥さんが私を助けてくれた時もそうだった。今でも覚えてる。そしてこれからもずっと忘れない。


たどり着いた店は外観が板チョコみたいだが、店名を見て飛び上がりそうになった。めちゃくちゃ高いジュエリー店だ。冥さんはコンビニに入るかのように一切減速せずに入店すると、迎え入れたスタッフへ名刺を1枚渡した。
「頼んでたものを見たいんだが」
「承知いたしました。こちらでお待ちください」
通された個室はシャンデリアが吊るされ、細かな刺繍が施されたクッションが置かれたソファがあり、コンビニに行くような服ではとてもいられないところだった。任務着をあまりカジュアル過ぎないデザインにした、過去の自分に心から感謝した。ウェルカムドリンクで出されたガラスの薄いグラスの中の飲み物は甘い。普通のお茶じゃない。ジュエリー店でウェルカムドリンクが出る時点で普通ではないが。
「お待たせいたしました」
さっきとは違う女性のスタッフが持ってきたのは、2つのリングだった。上品なダイヤが輝いて、リングはゴールドの細身、冥さんの指にとても似合うだろう。……2つ……?
「昔たくさんプレゼントをもらったからね。今日の記念も込めて、お揃いの物を持つのも悪くないだろう?」
「え……!?ああ……!?む、無理です!」
「何故?」
「いや、」
値段が、という話はここではダメだ。こんな高級ジュエリー店で冥さんの顔に泥をぬれるか。
「に、し、仕事で絶対に傷つけるから、つけてられませんよ……!」
耳打ちすると冥さんは頷く。
「……なるほど」
「……ね、ネックレスとかどうですかね」
「そうなると君に昔もらったのを外さないといけないから。それは名残惜しい。ピアスやイヤリングもそう考えると、常につけておくのは難しいかな。気が散って怪我でもされたら大変だからね」
「ですよね。だからアクセサリーは……」
「ブレスレットはいかがでしょうか?」

カウンターの向こうから、私たちのやり取りを静かに見守っていたスタッフがそっと囁いた。
「手首で動いてしまうよね」
「はい、一般的なチェーンのものですと動いてしまいますが、指輪のようにしっかりと手首にあったサイズに調整できるものがございます。ご覧になりませんか?」
「お願いしようかな」
スタッフ……有能すぎる……。しばらくして目の前に置かれたのは、たしかにチェーンではなく、大きな指輪のような継ぎ目も付け方もよくわからない美しいブレスレットだった。
「こちらは専用のドライバーで留め金を外し、腕に装着します。しっかりと固定するので日常生活で外れることはほぼないでしょう」

冥さんはゴールドのブレスレットを手に取ると、指で表面を撫でた。
「付け方を教えてもらってもいいかな。なまえ、腕を貸して」
冥さんはドライバーを持つと器用にネジを外す。あっという間にブレスレットは私の手首に収まった。
「いいね。手首の動きは悪くない?」
「大丈夫です」
「サイズも合ってる。これなら任務にも支障はないだろう」
ペアで頂こう。そう告げるとスタッフは冥さんが指定したサイズを取りに行ってしまった。
「え!?これ、めちゃくちゃに高いですよね!?私が冥さんにあげたのと桁が1個違うんですけど!?」
「うん。だから本当はダイヤをつけてるつもりだったけど、なまえが引いてしまいそうだからプレーンなデザインにしたよ」
彼女の目がゆっくりと弧を描く。
「フフ、いい加減わかるだろう。譲歩しているんだから、喜んで受け取って欲しいな」
戻ってきたスタッフにそっと運ばれて来たブレスレットを、おっかなびっくりドライバーで傷をつけないように慎重に冥さんの手首にはめた。カチリと音がして、白くて綺麗な手首に輝くブレスレットは、まるで前から冥さんの一部だったかのようにしっくりと馴染んでいた。
「お揃いだね」
私の手と彼女の手にある金の輪。お揃い。嬉しそうな冥さんの顔。
ああ、やっとわかった。胸の重たい霧の正体が。



店を出て任務先に向かうために冥さんとタクシーに乗り込むと、もう時間は13時を回っていた。
「私のこといつから…こう…あれ……許して…くれてたんですか…」
歯切れの悪い質問に、冥さんは頬杖をついた腕から見えるブレスレットを眺めながら呟いた。
「さあ。いつかは忘れてしまった。けど、確信があるからといって成功するわけではないからね。つい踏み込みすぎて可愛い後輩に逃げられたくないから、時期を窺ってはいたよ」
そこの通りでお願いできるかな。
タクシーの運転手さんに声をかけると、新幹線に乗り換える冥さんは下車した。コツン、コツン、ヒールの音が響く。
「それが気になりすぎて、怪我しないようにね」
そっと指が優しく頬を撫でて、軽く手を振ると彼女は行ってしまった。1人になった後部座席は広く、寂しさが漂う。深く腰をかけて、彼女がいた場所を視界から外した。


冥さん。
罪悪感、屈辱感、孤独感、正義感。人が捨てられない物を、金という尺度ひとつで捨てられる人。金は自ら動かない。命がない。安全なところでただ静かに積み上がる数字だ。
その彼女の尺度に私というものが混じる。これは論ずるまでもなく余計なものだ。貴女の足に絡まり、死を呼び寄せるしがらみ。

純粋な告白ではなく、恋人という雇用契約を持ちかければよかった。叶わないと思って踏み込みすぎたのは私だ。最悪で絶望の未来を呼び寄せる、柔らかく幸せな夢を現実にしたのは、私だ。
冥さん。好きだ。大好きだ、愛してる。はじめての恋。叶った片思い。それを破壊することが貴女を更なる強者に押し上げるための踏み台になるなら、私はいつだって死ねる。

もう誰も愛さないで欲しい。愛情なんて面倒なしがらみだと知って欲しい。金という尺度でだけ生きて。長く生きて。体に傷を負う痛みも、心をすり潰す苦しみも、全てに無縁で、この世界で貴女だけは幸せでいてほしい。
私の願いは、ただ貴女1人の幸せだ。呪術界の、非術師の、日本の未来の、世界の未来の。全部知らない。ただ貴女の幸せだけを願ってる。


手首に回るブレスレットを撫でる。冥さんの手のように冷たかった。
燦々と輝く太陽を浴びて、抜けるような青空をタクシーの窓から眺めた。空は晴れているが秋の表情にすっかり変わっている。10月半ばのことだった。

2019-11-19
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