※時系列は「楽に死ねないね」→「前日譚」→「冥さんが大好きな冥さんの後輩01」になります



――お疲れ。怪我は無かったかい?それはよかった。いつもは私と組んでくれる呪術師がいるんだけど、今日はタイミングが悪くて合わなくてね。……ああ、君はなまえの後輩なのか。あ、伊地知君、車、出してもらっていいよ。

――フフッ。いや、君の話す彼女と私が知る彼女とでは、かなり印象が違うから面白くてね。そうだね、彼女は普段あまりよく話す方じゃない。……そんなことがあったんだ。私は彼女の高専での暮らしにはあまり詳しくないから。

――沢山エピソードがあるんだね。楽しい話が聞けてよかったよ。得したね。また組むことがあればよろしく。ん?その口ぶりだと、私となまえがずっと組んでるから、私との任務を受けてくれたのかな?……なまえは私の話をよくしているみたいだね。そんな風に君に話していたとは。もしかして、君はなまえが好きなのかな?……フフ。いや、素直だなと思って。言わないさ。そうだね、付き合っている相手はいないよ、彼女。好きな男もいないと聞いてる。最近彼女、元気がないの?……へぇ、いいんじゃないかな。

なまえに個人任務が入り、私との共同任務がキャンセルになった結果、代わりに入ったのは彼女の後輩だった。
彼によるとなまえは最近元気がないらしく、心配した彼はなまえを食事に誘おうと思っていると相談してきた。後押しが欲しそうな表情は赤く染まっている。話しぶりも雰囲気も、この業界には珍しい明朗快活な子だ。望み通り背中を押してあげると彼はまるで初めてスマホを操作するように恐る恐る電話をかける。しかし通話は1分も持たなかった。
今は誰にも会えそうにないので無理と、断られたらしい。
後輩君は怯んでしまい当たり障りのない会話をして通話を終える。可哀想に。また誘いなよ、と声をかけるが力なく笑うだけだった。
車内は無言のまま行く。さっきまで薄く微笑んでいた伊地知君の頬には汗が浮かんでいた。うん、居心地悪いよね。
暫くすると今度は私に着信が入った。表示された名前は“みょうじなまえ”。
出てみると緊張した声で「お暇な時に1時間ほどお茶しませんか」と彼女は誘ってきた。随分他人行儀で会ったばかりの頃を思い出す。しかしこの子、今日は私と彼が組んでることを知らないな。
明後日の午後なら良いと返事をすれば、待ち合わせ場所は後ほど連絡すると手短に通話は切れる。これだけの会話では自分をフッた人間が今隣にいる人間を誘ったとは気づくわけもなく、後輩君は心ここにあらずといった様子で外を見ている。その姿は先月末に会ったきりのなまえに似ていた。

先月、彼女は1級に昇級した。
彼女の術式は私と比べてかなり戦闘向きだ。早い段階から1級へ上がる素質もあった。
しかし彼女は任務で私と組み、私が個人で受けている依頼にも同行してもらうため2級であり続けてくれた。1級が2級を同行者として指名するのは1級権限として通りやすいし、準1級になると人数が一気に減るからスケジュールが早々に埋められる。だから彼女が1級に上がると今日のようなことになる。それを以前から伝えていたのにね。強制する権利も契約もないので、上がられたら仕方がない。だからそういうことなんだろう。
彼女は誰が見ても明白に態度や言葉で私が好きだと表しながらも、目を離すとこうやって矛盾した行動を時々起こす。可愛い憂憂のように従順でいてくれればどれほど良いか。けれど隣の後輩君をフッて私との予定を入れたことはひどく気分がいい。なまえは私との任務や依頼を受けるためにこんな過程を何度も経て、私はその結果を享受してきた。それを考えると自然と口角が上がった。

▼ ▼

冥さんとの待ち合わせ時刻の1時間も前にカフェについてしまった。
指定したのは日差しがよく差し込み、外からも中からもお互いの様子がよく分かるカフェ。運良く窓際に通されたので見つけやすいだろう。ここを選んだのは前に任務までの時間つぶしで入って、冥さんがケーキもコーヒーも美味しいと言っていたから。これがなければ私は店ひとつ選ぶのであと1週間はかかっていた。
店員さんから受け取ったメニュー表を開こうとしたが、指が震えて上手くいかない。緊張のせいだが、怪しい薬を使ってるやつがいますと通報されそう。開かん。無理だ。紅茶のストレートなら絶対あると思って頼めば、茶葉の種類を伝えられた。クリステニングブレンド?あまり難しいことを言わないで欲しい。今IQ2くらいしかない。乾かした草をお湯に浸して茶色くなったヤツください。
なんと答えたか瞬時に忘れてしまったが店員さんは笑顔で席を離れていった。IQ2でもオーダーは通る。
今日は冥さんに、伝えきれていなかった1級昇級の理由を話す。1級に上がらないのは長く暗黙の了解だった。けれど上がった。理由は、いま冥さんのために私ができる1番のことは昇級だったから。
1級昇級合格の連絡をもらった日、私はすぐに冥さんの元に走った。もっと冥さんの役に立てると足取りは軽かった。しかし彼女の前に立った時、口から出たのは音のない空気だけ。
冥さんが向けて来た、今まで見たことのないほどの冷ややかで真っ黒な眼差しに、声帯を震わすことさえできなかった。学生時代に運悪く特級呪霊に遭遇し、死にかけた時より足がすくむ。全身の毛が逆立つ感覚、瞬きひとつできない、粘膜という粘膜が乾き、指先が冷たくなっていく。ただ彼女は私を見下ろして立っている。それだけなのに、だ。

「推薦者は誰?」

前髪が揺れ、冥さんの顔がすべて隠れて視線が去った。だけど動けなかった。重くて引きつりそうな圧倒的なプレッシャーで皮膚の表面が焼けるように痛む。五条さんと日下部さんと告げたが、口が動いた感覚はない。
「五条君は意外だったな」
そう返事があった。次に気がついた時、私は頭を下げて何もない地面を見ていた。
彼女はもうどこかに行ってしまって姿は無い。でも頭を上げられない。心臓の音の速さと、額から流れた汗が地面に落ちて黒いシミができる速さが同じで、息が深くできず、浅く繰り返して必死で酸素を取り込む。思考から何もかも消え去って、ただあの光も温度もない眼差しだけが頭の中で渦巻いていた。
わかっていた。1級に上がることは冥さんを裏切る。でも大丈夫だと。もっと役に立てるから、冥さんは褒めてくれると信じていた。
けれど、あの有無を言わせぬ眼差し。
脳を埋め尽くす絶望を克服したときには、日付の月が変わっていた。


ことり、と音がして、我に返った。
目の前にはフルーツケーキと紅茶のストレートが置かれていた。
IQ2で頼むとフルーツケーキまでオーダーするらしい。美味しそうだが冥さんが来る前に本格的にお茶するわけにもいかないし、そもそも胃に入りそうにない。紅茶をひとくち含む。最近何を食べてもろくに味がしなかった。目を閉じて、茶葉の香りと味わいを感じる。味がする。匂いもわかる。心がやっと落ち着いて、指先の震えも治まって来た。よし、いいぞ。目を開くと、テーブルを挟んだ向かい側に目が覚めるほどの美人がいた。

「美味しそうだね」

光の加減で水色にも見える白いロングヘア、髪と同じ色のハリのある生地のノースリーブブラウスに、サックスブルーのストレートパンツ。その美しさに見惚れて動作が遅れる。言われたことを理解し、頷いた後に冥さんだと気がついた。いつもの任務着で来ると思っていたので、こんな姿を全く予想してなかった。いつも纏めている白い髪が、彼女の動きに一瞬遅れてゆらりと動く。
「め、冥さん。ど、どうぞ」
「何を?」
「ケーキを」
「いいの?」
「入らないので」
「そう。ありがとう」
「早かったですね」
「ここに来る前に他の店に寄ろうと思っていたんだけど、姿が見えたから」
冥さんはケーキの皿を引き寄せると、コーヒーを頼んだ。
「冷めるよ」

視線で私に紅茶を飲むことを促す。もう1度口に含む。
普段はあまりみることのない、つるりとした白い肩を見つめる。冥さんの視線が怖くていつものように目を合わせられない。指先がまた震えてきた。彼女の口角が少し上がるのが視界の端に映る。
「今日呼び出したのは、先月の昇級の件かな」
「は、はい」
「なまえが私と組むと決めた時、ひとつ約束をしたよね」
「……冥さんからの依頼を、貸しと思わない」
「そう。それだけさ。だから君はあの日謝ったけど、昇級を私に詫びる必要はひとつもないんだよ。遅くなったけど、昇級おめでとう。待遇も給与も段違いだ」
「……冥さんは、私が私のために昇級したと思ってるんですか?」
「違うの?」
噛み合わなさは私を別方向に焦らせ、緊張と打ち消し合い、心が一気に平坦になった。
そうだ。私自身もずれていた。私が何より1番恐れているのは、冥さんのあの視線でも、冥さんに嫌われることでもない。冥さんの役に立てないことだ。
「理由は――」

1ヶ月前にあった、冥さんが単独で受けた依頼だ。
クソアホ準2級呪術師から依頼の1級呪霊1体の祓除任務サポート。私は別任務を受けていて、珍しくそれだけ一緒に行けなかった。
通常ならアサインされた任務が対応できない場合、上級呪術師に交代するのが一般的だ。交代はよくあるのだが、見栄が命と同じくらい大事な金持ちで良い血筋呪術師達は交代せずに、冥さんへサポートという名の祓除依頼をする。つまり孫請け。冥さんは祓除後、自分は依頼主呪術師を少し助けただけと報告書へ書き添える。金持ちのプライドは守られ、冥さんは大金を得る。呪霊は祓われる。みんなハッピー。ここまではよくある話だ。
ただクソアホ呪術師の孫請けは、現場に行ったら1級1体じゃなく、1級3体と呪詛師までいて、それを冥さんに祓除させた。さらにクソアホ呪術師は依頼した1級1体分以外は払わないと言ったのだ。
クソアホは自分の術式と呪霊との相性が良いと踏んで、準2級なのに無理に1級任務を取った。昇級にはずみをつけたかったらしい。結果手に余り、冥さんに依頼した。しかし呪詛師などの情報を冥さんに伝えなかったのは、冥さんが失敗すれば1級呪術師でも手に余る任務だったと、自分が祓除できなかったことを正当化できると狙っていたのだ。理解できない。イカれてる。
元から冥さんに祓除させる気がなく、自己評価を下げず、プライドも守るための依頼。加えて、冥さんみたいなフリーで実力のある呪術師に嫉妬していた。
以上の事をシメたら吐いた。首もシメたし、腹もシメた。太めの血管もいくつかシメた。しかしこれには驚いた。みんな祓除成功を期待して冥さんに頼むと思っていたから。
こういう任務はこれからもある。冥さんを守るには、1級になる必要があると痛感した。権限が上がれば振り分け前の任務内容を詳しく探るのも容易だし、任務情報、内部事情、冥さんを嫌う者、それらを知るのも俄然、楽になる。

「だから、1級になったんですよ」
話し終えると、冥さんはいつの間にか来ていたコーヒーを口にした。
「あの件ね。最終的に倍額取ったけど、妙に怯えていたのはなまえのせいか」
「あ、クソアホから取れたんですか」
「勿論」
流石だ。支払うくらいなら家に訴えて死んでやるという態度だったので、金輪際冥さんに依頼するなよと脅したが、冥さんの方が何枚も上手だった。いやしかし怯えてたのは普通に冥さんの圧では……?
「今回はあのクソアホが小物だったから済みましたけど、最近の上層部はおかしいです。冥さんが何かしら被害に遭う可能性がこれからもっと高くなります」
1級クラスの呪霊が増加したと思えば謎の消失。呪術師界でも手が出せない特級呪術師だった呪詛師の活動活発化。五条さんの出張増加。なにかが起きている。
索敵が得意で実力もあり、お金で動く冥さんは重宝されると同時に警戒もされる。金が用意できないから殺してしまおうという動きも出てくるに違いない。
「内部事情や、頭のおかしい呪術師達のせいで冥さんが危険に晒されるのは嫌です。だから1級に上がりました。いままでも、これから起こること全ても、私は冥さんのために動きます」
この行動に間違いはないと、自信を持って言える。
「たとえ、冥さんにとって私が不要な存在になっても」
紅茶の水面から視線を上げると、冥さんと半月ぶりに目があった。
その目は、見開かれていた。
見たことない表情に驚いて反射的に瞬くと、そこには普段の私を見る眼差しがある。見間違いであることを証明するかのように冥さんは優雅な手つきでコーヒーカップをソーサーへ戻し、髪をかきあげると深くソファの背もたれに身を任せた。驚くなんて感情とは程遠い。やはり錯覚だったのかもしれない。
はらはらと髪の毛がまた肩へ輝きながら落ちていく。冥さんはじっと私を見つめる。……なんだか気恥ずかしくなってしまい目を泳がせると、品のいい笑い声が彼女の口から漏れた。

「随分慕われていたんだね私は。……いや、知ってはいたけどここまでとは。いくつか謎も解けたし、色々と実感したよ」
微笑むと、髪の毛を耳にかける。
「謎?」
「こちらの話さ。ところでなまえ、君は私が何においても金が1番の人間だと思っているだろう?」
「え……、そ、そうです、よね」
「うん。そうだよ」
「ですよね!?」
「よく分かってるね。……君はけして、私の金への思いは、裏切らないだろうね」
冥さんはフォークを取るとフルーツケーキのてっぺんにあった乳白色と淡い赤のイチジクを皿の端に寄せて、ケーキを切り取って口にいれた。
「けど事前に伝えてほしかったな」
「1級昇級任務はそれなりに難しいですから。冥さんのために上がりますって言って死んだら、冥さん、がっかりするでしょう」
「……がっかり、ね」
いつもとは少し違うモカのリップに彩られた唇に、残りのケーキが吸い込まれていく。ケーキ、いい人生だったな。……気分なんとか上向いて来たな。冥さんに理解を得られた安心でやっと頭が通常運転に戻ってきた。ポエム脳が活性化してきた気がする。紅茶はすっかり冷めてしまった。ぬるい差し湯を加えて飲む。1杯目より味も香りも飛んでいるだろうが、1番クリアに感じた。

「もし私がすでに君の後任を選んでたらどうしてたの?」
「……それが冥さんのためなら、オッケーです……」
オッケーなわけはないが。粛々と引き継ぎをして、めちゃくちゃ家で泣くけど。
「フフ……なまえ以外を指名して組む気は無いよ」
冥さんは残していたイチジクをフォークに指すと、口に運ばずにその手を止める。
「まあ1級同士だと組みにくくなるのは慣例で、実際どうなるかは分からない。前例があまりないしね。それになまえと組み始めた頃より私の立場も随分上がった。組めるように手は回すよ」

冥さんはイチジクを私の口元に持って来る。あ、あ、あーんじゃないか……え?これは、あーん……!?イチジクはたっぷりのクリームをまとっていて、大きな口を冥さんに向けて開けるのはかなり恥ずかしい。半端に開けた口では案の定受け取りに失敗しクリームが唇についたが、緊張して喉に詰まる前に咀嚼して飲み下す。冥さんは微笑んでいたが少しばかり頬が赤く見えた。

「本当に、いとおしいよ」

冥さんは、私の口元についたクリームを指で拭うと舐めた。……これ憂くんにもしていることだ。でも鼓動が大きな音をたてる。顔が赤くなるのがわかる。この人が好きだ。誰よりも尊敬してる。誰よりも幸せに生きてほしい。今やっと、心臓が返ってきたような気がした。

▼ ▼

「たとえ、冥さんにとって私が不要な存在になっても」
そう言い切ったなまえの表情。
最初はまるで、私にしか懐かない野良猫を可愛がるような気分だった。術式も便利だし恩を売っておくのもいいかなって。けれど彼女の好意が一時的なものではなく、実力もつけ、はっきりとした有用さを示すようになってからはその健気さを憂憂のように可愛がっていた。私の前ではいつも笑っていた子から見たこともない凛々しい顔であんなことを言われたら、流石に唆られる。
学長に聞いたことがある。この子は高専に来る前から、呪術師としての揺るぎない自己の在り方を持っていたらしい。
“呪術師は誰かに尽くすもの”
私も学長に教えられるまで聞いたことがなかった。口に出すまでもなく、彼女にとっては自然なことなんだろう。呼吸をしています、なんて誰も言わない様に。
何事もなくあの村で生きていれば、なまえは村人のための呪術師になっていた。そして今彼女は、私のための呪術師になっている。

昇級理由を聞いて分かった。この子は見返りを求めず、命を燃やして、死さえ厭わず、ただ私を慕って呪術師をやっている。だからこの子は私の金への思いは裏切らないが、私の感情は安々と裏切っていくだろう。なまえは私の思いに気がついていないから。まあ“思い”というほどドラマチックなものじゃないけど。とにかく知らないから推測さえできない。私は君が死んだら“がっかり”なんかじゃ済まないよ。
金以外のモノへの情動は久しぶりだな。煽った責任は取ってもらう。私と同じ感情を引きずり出して、まるごと手中に収めて、蕩けさせ、私を置き去りにして死にたくないと懇願するくらいに教え込んであげないと。私は執念深くて、根気強くて、努力も嫌いじゃない。
さて、まずは何から始めようかな。

2020-07-29
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