※シリーズより前の時間軸

かすかな音で目がさめたとき、それが何の音か思い出すのにしばらく時間が必要だった。
寝る前に震える手で取った買い置きの風邪薬は、視界と指先が震えて何錠飲んだか分からない。多く飲みすぎたせいか、それとも薬が効いていないのか、ひどく体が重い。寝る前に比べたらましだが、微々たるものだ。
音に向けて手をのばすと枕の下に目当ての物はあった。つかんで引きずり出すときに通話ボタンを押したようで、すでに電話をかけて来た相手につながっていた。霞む視界では相手の名前も見えない。
『私だけど、体は大丈夫?』
向こうから聞こえた声に応えるように、視界と頭が一気に覚める。
「め、めめ冥さん……」
『ふふ。補助監督から聞いてね。風邪引いてるんだろ?薬を預かってきたから、入ってもいいかな』
「か、片付いてないので…ポストに…!」
『構わないよ。なまえの最近の任務数で部屋を片付けておけというのは酷な話だし、多少散らかっていても気にならない。悪いけど入るからね』
宅飲みの時に渡した合鍵を冥さんに貸しっぱなしだった。ドアの鍵が回る。廊下の奥から私の元へ、足音が迫ってくる。移らせたら嫌だ。布団を被って挨拶すると、彼女は布団の上から私を撫でた。
「食欲はある?薬を飲む前に何か胃にいれたほうがいい。お粥のレトルトを買ってきたから、入るなら用意するよ」
「自分でやれるので……大丈夫です〜」
「いいから、こういう時くらい頼って欲しいな。あまり長居できないし」
足音が去っていって、かさかさとビニール袋から何を取り出す音がした。戸棚の食器がこすれ、程なくしてレンジから加熱完了を知らせるアラームが鳴る。
「布団から出ておいで、風邪だろう?」
「はい……インフル検査は家入さんにしてもらったので……でも風邪でも移るといやなので……」
「そんなヤワじゃないよ」
頭を出してみると、冥さんはお粥の入った器をベッドサイドに置き、キッチンにあるはずのダイニングチェアに座り、薬の成分表を見ていた。
「熱風邪だね。たくさん食べて薬を飲んで安静にしておけばすぐに良くなる。家入が薬を忘れて帰ってたのに驚いてたよ。相当きつかったのかな。あとこの薬も市販レベルだから長引くようなら病院へ。家入からの伝言だ」
渡されたレトルトたまご粥をすする。これと言って特別ではない、ありふれたレトルトおかゆなのに1日何も食べていなかった空腹と、冥さんがわざわざ買ってきて温めてくれたというスパイスで至高の食べ物に感じる。胃に染み渡る。冥さんからの電話で覚醒した後の落差でぼんやりしていた脳がエネルギーを得るのがわかった。

「美味しいです…」
「よかったね。薬もちゃんと飲むんだよ。ほら、こっち向いて」
言われるままに冥さんの方を向くと、ティッシュで口元を拭われた。ティッシュ越しに冥さんの手が触れたかと思ったときには、今度はその手でおでこを触られていた。突然のことと体調不良で、すべての理解が遅れてしまう。
「熱いね」
彼女の顔は、私からは前髪に隠れてしまって見えなかったが、良かった。
顔を近づけ合うのもまずいし、私の体温も風邪とは全く別の理由で上がってしまうから。いや、口を拭ってもらった時点で頬が熱をもっているから、多分前髪の壁がなかったら更に危険なことになっていた。風邪のときの冥さんは普段に比べて私に危険だ。こうなると私にとって冥さんは何だという話になってくるが、今は難しいことは考えたくない。
歯磨きに行くと言って距離を取り、洗面所で自分の顔を眺める。髪は寝癖がつき、顔色は悪い。昨日の晩に意地でも化粧を落として布団にもぐりこんでいてよかった。最悪よりはちょっとマシな顔だ。冷たい洗面台に触れた腕が痛い。歯磨きをして、冥さんに移さないようにマスクを2枚重ねで着ける。息苦しいが意味はあるのだろうか。あってほしい。

部屋に戻ると、冥さんは仕事用のタブレットを操作していた。振り返った先の玄関には彼女の武器が入った大きなバッグが立てかけてある。
「今から任務ですか?」
「うん、ちょっと遠くまでね」
「……そうですか」
「行って欲しくない?」
冥さんは目を細めて微笑む。
「いや…あー…まちがえました」
「間違えた、ね。ふふ。ここにはあと2時間はいられるから、安心して寝ていいよ。私はなまえの様子を見ながら年末調整するから」
にっこりと冥さんは笑う。お金のことになると楽しそうだなぁ。確かにそれなら気兼ねなく眠れる。目をつぶって眠りに落ちようとしていると、ふいにひんやりとしたものが額に乗って、柔らかいものが頭を撫でてくれた。気持ちが良くて、薬特有の緩やかでいて重い眠気に意識がひっぱられる。その手にマスク越しに頬を擦り付けると、優しくまた撫でてくれた。

次に目を開けた時、電気は消えていて、最初に起きた時と部屋の景色は何も変わっていなかったが、視界が半分なくなっていた。汗のせいで接着力を失った冷えピタが視界を塞いでいたのだ。冷えピタなんて買ってただろうか?
ベッドサイドに視線をやると、メモと薬のシート、それから冷えピタの箱が置かれていた。残されたメモの筆跡から、寝る前に会えた書いた人を思い出してまた熱があがる。なにか恥ずかしい事をしてしまっていないだろうか。スマホで時間を確認しようと手を伸ばすと、メッセージが1件届いていた。
『任務が終わったら戻ろうか?』
言い方がずるいと思ってしまうのはきっと私だけだ。今日の事へのお礼の最後に、元気になったら会ってください。と付け加えて返信した。体はだいぶ軽くなっていた。

2019-12-29
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