※個人誌「モブと呪術のキャラ本」みたいな本に掲載予定だった作品です
※不快なモブおじさんによる語りがメインです
※名前変換はありません


昼に食べたパスタに入っていたニンニクの臭みをどうやったら消せるか悩んでいると、昼休みを二十分も延長してしまった。
十五年勤めた不動産会社を退職し、独立して立ち上げた会社は居心地がよすぎて、時間を守らないとずるずると怠惰になってしまう。一人でやるとこういう所がダメだが、良さでもある。
しかし今日は予約の客も居ないし、時期的に飛び込み客もいないだろう。気休め程度のミントタブレットを口の中に放り込む。事務仕事でもやるか。開業祝いにもらった豆が確かあったはずだ。
コーヒーを淹れてデスクに戻ってくると、さっきまで無人だったオフィスに音もなく女が一人立っていた。カーテンみたいな白いワンピースに手入れされた長い白い髪、ベージュのサンダル。
入り口のドアには防犯も兼ねて人感センサーによるアラームをつけているのに、女はそれにひっかかることなく、こちらに背を向けて壁に貼った賃貸のチラシを見ていた。ぎょっとして落としそうになったカップをぐっと握りしめる。コーヒーと胃から上ってくるニンニクの臭いが逆に俺を正常に戻した。

こんにちは。そう声をかけると、女は振り返った。
美人だ。
目鼻立ちが整い、胸もでかい。目はまつげが長く、潤んでいるようにみえた。
「こんにちは」
女の目が微笑む。
「席を外しており申し訳ありません。部屋をお探しですか?」
「まぁね。今の部屋は気に入っているんだけど、もっといい物件がないか気になって。ちょうど表に出てた部屋が気になったから、他にも見たくて」
「もちろんです。まずはお飲み物を。お水、お茶、コーヒー。どれがよろしいですか?」
「水で構わないよ」
飲み物を出し、女の前に座ると、いい匂いがした。デパートの女物売り場のあの粉っぽい匂いではない、いい匂いだ。女は深く腰をかけ水を飲んだ。
今住んでいるエリアと近い所という希望をベースに、表に出していた女が気に入った物件と同じ会社が内装をやった所をピックアップして見せてみた。しかし女は「ああ」とか「ふぅん」とか、生返事ばかりで掴みどころがなく、何度か足を組み変え、渡したタブレットを操作しているだけだ。とても本気で部屋を探しているようには見えない。

……もしかしてこの女、前の会社の手先か?いや……それはない。そんなことをする決断力も発想力もなかったから俺は独立したんだ。
それにしても、今日も体感気温が四十度近くになるというのに――冥冥と名乗るこの女は汗ひとつかいておらず化粧崩れもしていなかった。良いマンションに住んでいるし、モデルか芸能人だろうか。無駄にヘラヘラしない雰囲気からすると、どこかの会社の役員クラスかもしれない。

「なにかお気に召さないところがありますか?条件を変えて他のリストを作成いたしますよ」
「……いや、部屋はいいんだ。けれど家賃が高いのが問題だね」
「今はお家賃はおいくらですか?」
女は指を三本立てる。三十万か。このエリアで指定された間取りならそのくらいが平均だが。
「三万」
絶句した。このエリアで三万?しかも間取りも今の部屋に近いものと言った。こんな間取りで三万の部屋なんてありえない。もしかして、もしかしてこの女……。
「……お気を悪くさせてしまったら申し訳ありません。もしかして事故物件にお住まいですか?」
「あぁ。ここにそういう物件はあるかな?」
「もちろんでございます。ちなみに今お住いの物件はどのような事件が?」
「男性が押し込み強盗に殺された事件だよ」
なんてこともなさげに女は事件について語った。珍しい。久しぶりのいい客だ。
「いくつかご用意いたいます。本日もし気に入ったお部屋がありましたら、内見されますか?」
「そうだね。時間もあるし頼むよ」
とびきり安いのがいいな。と女は目を細めた。

物件を探すフリをして女の言った事件を探す。そう時間もかからず、ちょうど二年前に会社員が押し込み強盗に入られ、多額の金品を盗られた上に死体の首が切断されていた事件がみつかった。犯人は未だ捕まっていない……。滅多に無い凶悪事件の部屋にわざわざ入った女。イカれてるな。なぜそんなに安い値段にこだわるのか……この顔と体なら、稼いでいてもおかしくはなさそうだが。

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安い家賃を求めて事故物件を希望する客というのは少なくない。
病死・事故死・自殺、そのくらいなら希望者は気にしない。しかしそんな客でも尻込みしてしまうような、ヤバい事件のあった部屋がある。
押し込み強盗、解体殺人、拉致監禁。他殺の中でも明らかにヤバい事件現場の部屋は、普通の事故物件と違って次の住人が入りづらい。犯人が野放しになっている場合は更に、だ。
そういう部屋は放置して時間を空けるか、倉庫など全く別の部屋にして塞いでしまうなどする。
しかし高級物件だとそうは行かない。あぁいう所に住んでるヤツらは人の目に敏感でプライドの塊だ。自分が肌で感じた不安より、事件の起きたマンションに住んでいることを他人に知られ、噂される方が耐えられない。
だからオーナーはなんとか取り繕うためにも、誰かに入ってもらう必要がある。埋まらないと入居者達の不安は増し、特に賃貸は売買物件と比べて身軽でさっさと人はいなくなる。

そういう扱いづらい物件を俺は大量に持っている。安い家賃を希望する客なら、よくある方の事故物件を回した方が成約率は高い。他殺事件があった部屋を成約まで持っていくのは至難の業だ。
けれど俺ならやれる。実際、前の会社でいくつもさばいたおかげで、高級物件を持つ個人オーナーや会社から信頼を勝ち取り、俺の会社へ顧客をゴッソリ連れて来れた。

結局、人は金なのだ。
事件の説明をして瑕疵担保責任を果たしつつ、他よりちょっと金をかけてリノベーションした部屋を内見させる。事前説明と実際の部屋の差から安心感を誘い、近隣のきらびやかな世界を案内し、ここで生活している自分を客の中に描かせる。あとはダメ押しで他にも案内している客がいると競争心を煽れば、ころっと落ちて入居が決まる。しかもこの手の物件の仲介料はかなりいいし、時には事故物件周りの部屋の退去者の引き止めだって仕事として舞い込んでくる。これも成功すればウマい案件だ。

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「いい部屋だね。とてもそんな事件が起きたとは思えない」
オフィスから車で一時間ほど行った先にある、リバーサイド高級マンションの十五階。女が滅多刺しにされて殺された、できたての事故物件だ。犯人は人の目による二十四時のセキュリティシステムをすり抜け、さらに監視カメラにも映っていない。その異常さから退去者はすでに出ており、流石に俺でもここまで間抜けな管理システムを使ってるオーナーには警備委託先を変えろとしか言えない。

「冥冥様が今お住まいのエリアからは少し離れてしまいますが、さらに利便性の高い駅に近くなっています。普段のお買い物はあの駅ビルでできますし、秋には日本初出店のオーガニック食材を多く取り扱うスーパーが近くにできるそうですよ。人気のパン屋、カフェもあるので、かなり住みやすいかと思います。そろそろ開催される花火大会もここから観ることができますし、川沿いに植えてあるのは桜。満開のときは圧巻です」
「立地もいいね。ここ、家賃は元々いくらなの?」
「四十万ほどですね」
「それが五万か。まあそのくらいになってしまうよね。その事件、私も覚えているよ」
「……お詳しいんですね」
「まあ仕事柄ね」
「もしかして刑事さんですか?」
「いや、そんな堅苦しいものではないよ。ちょっとここに立ってみて」
女が指した部屋の中央、やや窓寄りに言われた通り立ってみる。
「臭うだろう」
「……すみません、昼にニンニクを……」
「そっちじゃない。嫌な臭いがするだろう」
そう言われて嗅いでみると、確かに公園のトイレのような臭いがした。完全に消臭し、壁も床もやり変えたはずなのに。
「確かに……。申し訳ございません、調査して再度清掃を……」
「いや、掃除しても取れないよ。他の所に移動すると臭いはしない。ここだけするんだ、試してみたらいい。ここで女が自分をめった刺ししたからだろうね」
「……は?」
女が“自分”をめった刺しした?突然この女は何を言っているんだ。
しかし言われたとおり移動してみると、嘘のようにあの臭いは全くしなかった。

「どういうことですか……?」
「私はね、呪術師という仕事をしているんだ」
呪術師。
人から出た恨み、辛み、恐れなどの負の感情の集合体。“呪い”を駆除する仕事。呪い関係による日本国内の怪死者・行方不明者は年平均一万人を超える。そういう呪い絡みの事件や事故に対応している……そう女は自分の仕事を説明した。
「……めずらしい職業ですね。……巫女…に近いものですか?」
「まあ遠くないよ。フフッ、信じられないという顔だね。気持ちはわかるから信じろとは言わないけれど、他殺現場は呪いが吹き溜まる。呪いの証明代わりにこの部屋をタダで祓っておいてあげるよ。ネットにこの物件をあげて、備考にでも技術の術で“術巡回済み”、と書いておけば家賃を五十万にしても人が入るだろうね。試しにやってみたらいい。もし一週間以内に入居が決まらなければ、私がここを五十万で借りるよ。あ、この件は内密にね」
女は楽しそうに笑った。

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普段ならオカルト地味たネタは取り合わない。あの手の輩は不動産をやっていると必ず寄ってきて、霊や風水、土地神、色々と難癖をつけて家賃を安くしろとゴネる。しかし今回は違う。真逆で高く借りてもいい、と言い出したのだ。
提携している清掃会社に確認した所、あの女に立たされた所が一番、血のシミがひどかったらしい。しかし内装はすべて綺麗にしたし、臭いも人間の感覚だけでなく機械で計測し、厳格なチェックをクリアしている。心霊の類は一切信じていなかったが、こうも当てられると気持ちが悪い。

まぁ、あの女の話が嘘でも本当でもこちらに損はないので、備考欄に言われた通り書いてネットに物件をあげてみた。すると二日後に内見希望者から連絡があった。内見当日に来た男は物分りが良く「事故物件ですよね。わかってますよ、でも巡回済みならいいんです」と笑い、部屋を見せれば「本当だ」と、まるでよくある安らぐ住まいを謳うコマーシャルに出てる俳優のような、うっとりと安心した表情を浮かべた。

俺は男と別れると、すぐに女に今回の件の説明を依頼する電話をかけた。女はその日の夕方にでも行くと軽く返事をした。
身だしなみを整え待っていると、この真夏に長袖のつなぎともワンピースとも言えない黒い服を着て、長い前髪を眼前に編んで顔を隠すという異質な風貌で女は現れた。
「わざわざご足労頂いてすみません」
「構わないよ。こちらから行く方が都合がいいから。成約おめでとう」
「ありがとうございます。……今回の件、詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか」
「そうだね。社長さんは呪いを信じられないだろうけど、呪いというもの自体はわかるだろう?」
「ええ……そうですね」
「事実だけ伝えるから、信じるかはそちらで決めてもらっていい。呪いというものは概念ではなく、実体化して人を襲う。大半の人は呪いは視えないが、視える人は呪いに襲われやすい。だから見える人は常に呪いが居ない場所を探していて、私達呪術師が呪いを祓った部屋というのは喉から手が出るほど欲しいのさ」
「……それなら、すべての事故物件に呪術師が入るべきでは?」
「それは無理だよ。そもそも呪術師自体の数が少ないし、呪術師には組合みたいなものがあって、その方針に従って働き、そして基本的には呪いによる事件があった後でないと動かない。単純な事故物件に生まれた、まだ何もしていない呪いをわざわざ祓いには行かない」
「……なるほど」
「そこで一つビジネスの提案なんだが」
女は足を組み直す。
「もしこちらで他殺物件を扱っているなら、私に呪いを祓うのを任せてみないかな。もちろん対価はいただくけど、実際にいなくても、巡回したという実績だけで欲しい人達には十分だしね。あと入居後の巡回要望があれば、その件も手が空いてる時になるけど引き受けよう。オプションで費用をもらうけども。社長さんは私が祓った物件を高く捌けばいい」
「……呪術師というのは何か起きた後でないと動けないのでは?」
「それは組合に入っている呪術師。私はフリーの呪術師なんだ」
女は名刺を机の上に載せ、その弾みで前髪が顔をすべて隠した。
君にはいい話だと思うけどね。そう言う女の声は笑いを含んでいた。


目に見えないものに金を払うというのはなんとも馬鹿らしいが、現に成約したのだから何件か試してみる価値はある。女が提示して来た金額は一件につき十五万だった。
一ヶ月目。
二件、女に依頼してみた。メールで住所を送り、鍵は指定したロッカーに預けておくと、翌々日くらいまでには鍵の返却と同時に仕事が終わったと連絡がくる。あっさりしたものだ。女とは成約できなかったときの契約は組んでいないから、もし決まらなければ三十万がまるごと損である。最初の一件が仕込みだっという気がしないでもないが、俺の勘がここで恐れるのは愚かだと言った。物件情報を更新すると、二件は一週間と経たずに成約した。自分の才に感謝した。
しかし事故物件の方が高く出るというのはおかしな話なので、家賃は相場の三分の一にし、別途オーナー抜きで俺と直接、定期的な呪術師巡回サービス料として相場家賃の二倍を借り主に支払ってもらう密かな契約を結んだ。これで全員が納得できる。


女と契約して三ヶ月が経った。
運が俺に味方している。あんないい女と引き合わされたのは、神が俺の味方をしているとしか思えない。
絶対に人が入らないと思われていた事故物件の成約はやはり効くようで、オーナーの紹介が紹介を呼び、ウチに優先的に物件を持ってくるオーナーが増えた。成約はすべて俺の営業手腕だと思っているから、普通の物件も次々舞い込む。こちらが俺の腕の見せどころだ。もちろん抜かりはない。
一方で事故物件で売買物件を持ち込みたいと言うオーナーが増えてきた。俺にもオーナーにも、賃貸より売買の方が旨味はでかい。売買にも手を出してみたいが……女との契約書には“賃貸物件”しか取り扱わないとあるのだ。
一度連絡を取って相談してみるか。メールを送ると、やはり女の返事は早かった。付き合っていた女を何度か連れて行って反応が良かったホテルのレストランにご機嫌伺いを兼ねて誘ってみると、簡単に乗ってきた。やはりそういう女か。

女は時間通りにやってきた。またあの異様な姿で来られるのは困るなと思っていたが、最初にウチに着たときのようなロングワンピースに、黒いロングコート。髪の毛はゆるく後ろで編んでいて、TPOはわかるらしい。まあ雰囲気や喋り方からして頭が悪そうではない。ただ俺と会うのにヒールを履いてくるのは空気が読めてないが。
「今日はわざわざありがとうございます」
「構わないよ。こちらこそご馳走になるね。仕事の方はどうかな」
「お陰様で」
カウンター形式の鉄板焼ダイニングはひどくお気に召したようで、女は俺にすすめられるままワインを飲み、肉を食べた。女も俺に飲ませるのが上手く、俺としたことが相当飲まされてしまった。しょうがない。仕事の調子が良くて、美味い飯に美人が選んでくれた酒。いい気分にならないわけがない。しかし酔いつぶれるのはまずい。今日は仕事の話で来たのだから。
「冥さんにはとてもお世話になっていて、頭があがりませんよ」
「フフフ。私も儲けさせてもらっているからね」
「ところで、私が抱えているオーナー達から事故物件の売買を扱って欲しいと依頼があるんですが、いかがでしょうか」
女はゆっくりと口元を拭うと、ウーロン茶を頼んだ。酔いが回って来たのだろうか。
「売買はあまり勧めないね。買うと呪いから離れるのが難しくなるから、視える人間はあまり売買物件を好まない」
「またまたぁ!冥さんみたいな美人が祓ってくれたとなれば、売買物件もバカ売れですよ!」
肩を抱いて引き寄せる。引き締まった腕だが、女としての柔らかさは残っている。定期的にジムに行っているのだろう。美意識の高い女は好きだ。俺よりデカいのは気に入らないが、そこを引いてもお釣りがくる。
「冥さんはなんでこんな仕事をやっているんですか?」
「そうだね。適職だったし、何よりコレがいいからさ」
女は中指と親指で丸を作った。短いが手入れされている爪が光る。気が合うな。俺も金が好きだ。

別れ際に上の部屋で休憩しないかと誘ったが、仕事が早いからと振られ「リスク回避のためには、多少の我慢は大事だよ」とまで言われた。やはり売買物件に乗り気ではないのだろう。確かに俺が損をすれば、女にも金が行かなくなる。それにしてもアレだけ顔がよくてスタイルがいい女は珍しい。絶対に落としたい。神が俺の味方をしている今ならヤれる。

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どうにも困ったことになった。
春が近づくと新居を探す人間が増えると同時に新しい事故物件も入って来て、オーナーからなぜ事故売買物件を扱わないのかと不審がられてきた。
客には呪術師の件を口外したら今後一切賃貸の契約はしないと約束をしているから問題ない。
一番危ないのは、俺が売買事故物件を扱わないことに不満を持つオーナー達が別の不動産会社に依頼した結果、ウチへ探りがくることだ。同業の探りはまずい。面倒な組織とつながっている人間がいる。
しかも呪術師ビジネスが漏れれば、俺がオーナー抜きで客から金を取っていることがバレてしまう……。

しかし、最近では呪いが視えるヤツらの間で噂が広まったのか、“術巡回済み”の物件が無くてもオフィスに来て、普通の物件でいいから呪術師巡回サービスをつけてくれと言う客まで出て来て、本当に売買物件に需要がないか怪しくもある。
……いっそのこと売買は手が回らないということで賃貸に特化するか?いや……売買部門がなくなると売上が見過ごせないほどに下がる。去年の売上資料を開き、売買の売上を抜いて計算しなおすと……やはり儲けが心もとない。女が持っていく巡回サービス料が高いのだ……。女に払う費用を削れれば、売買の方は捨ててもそこまで痛くはないだろう。せめて普通の物件につける巡回サービス料だけでも費用を抑えられないか。
……ふと、その時気づいた。あの女より安く引き受けてくれる呪術師が他にいるのでは?ゼロから一を探すのは難しいが、一から十を探すのはそう難しくない。そうだ。呪術師は他にもきっといるはずだ。パソコンに向かって、俺は片っ端から呪術師について調べることにした。

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フリーの呪術師は意外と簡単に見つかった。オフィスに招いてみると、動きやすそうな黒い上下のジャージにスニーカーに細長いリュックを背負った、ガタイのいい若い男が来た。力ならどう見てもあの女より頼りになりそうだ。
提示された金額は女の四分の一で、継続して仕事を回してくれるなら、さらに安くすると言う。こんなに安くて大丈夫か疑問だったが、とりあえずモノは試しだ。普通の賃貸物件の巡回と、女に頼む予定だった事故物件を祓う依頼を一件回してみると、その日中に完了の連絡があった。なんだ。あの女より有能じゃないか。

それから三ヶ月ほど二人を並行して使ってみたが、結果はあまり変わらなかった。安い男の方だけ一件祓い残しがあったようで、紹介した客が二人続けて「この部屋は呪術師が来ていない」と狼狽えた声で腰を抜かした部屋があった。しかし男に再確認を依頼しても「仕事はした、勘違いだ」というだけなので女に頼むと、次に来た客は喜んでその部屋を借りていった。やはり客には分かるらしい。
仕事は女の方が丁寧なのだろう。それでも価格差がありすぎだ。男の方は安かろう悪かろうと言うほどでもなく、このくらいのパフォーマンスなら十分。いくつか祓い残しがあって客が入らなくても、そのくらいの隙がある方が俺の営業でやっている感があがって、むしろいいかもしれない。それに男の仕事ぶりがいいなら事故売買物件もやらせてみよう。上手くいけば売買部門も捨てなくて済む。女に仕事を依頼してもう一年が経つ。このビジネスを教えてもらった借りは返しただろう。
俺は喜びを抑えながら、来月での契約打ち切りを女に電話をすると「じゃあ、来月の末までだね」と、いつもと同じ声であっさりと了承した。
「ご理解ありがとうございます。どうもウチも不況の煽りで売上が苦しくて」
『フフフ。気を使わなくていいよ。フリーをやっていると経緯くらい大体想像がつくし。そうだ、話は変わるけれど売買事故物件を取り扱いたいと言ってただろう』
縋り付くつもりか。いいな。こちらの立場が上になるのは万々歳だ。
「……いえ、もうそちらの事業は辞めようかなと考えていて……」
『へえ、そうなんだ。この前、事件があったマンションが売りに出てないかと思って。もし君の所へ回ってきてるなら、私が買い取るよ』

挙げられたのは、マンション十四階から女が窓を突き破って転落死した事件の部屋だった。
普通なら事故死として片付けられるが、おかしかったのは女の落下場所なのだ。窓を開けて、全力で助走をつけてダイブしたとしても絶対に落ちれないような、マンションから遠く離れた所に落下していた。「まるで誰かがモノをマンションから投げ捨てたように見えた。ぽーん、と遠くにソフトボール投げみたいに。だから最初はそれが人間だとは思わなかった」とニュースで流れた目撃者の話が広まり一時期噂になっていた。あの物件はウチに来ていないが、欲しいといえば喜んで仲介を依頼されるだろう。手切れ、そして、もしまた依頼する時のために、安く渡してやるか。


事件のあったマンションのオーナー情報を調べて連絡すると、今使ってる不動産屋とは今年で契約をやめるつもりで新しい業者を探していたらしい。喜んで俺に事故物件を回してくれた。
「より良いサービスをご提供させていただくために、恐れ入りますが現在の業者へのご不満をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
『ナニが悪かったってわけじゃないんだよ。ただ今の業者が、去年社長が死んでから経営が上手くいってないみたいでね。サービスがどんどん悪くなってるのさ。ウチを全然紹介してくれないし』
「それは大変ですね。差し支えなければ会社名は?」
名前を聞いて驚いた。俺が前に勤めていた会社だった。
あの若社長、死んだのか。
まあ潰れる会社だとは思っていたし、あの神経の細さなら首を吊ってもおかしくない。オーナーの口から出てくる古巣の悲惨さを聞いても、納得の二文字しか頭に浮かばなかった。
地元に愛されて育ったのだの、思いやりだの、助け合いだの、このご時世に東京で悠長なことを言っていたからだ。実際俺が辞めると聞いて、代替りした若社長では不安だと多くのオーナーや取引先が俺についてきたのだから。

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女、冥冥は契約終了日までいつもどおり仕事をした。
契約延長を縋って、何か言ってこないかーー言って来たら何を交換条件で出そうか?それを考えて楽しく過ごそうと思っていたが、どうも体調がここ数日悪い。
飯を食ってもあまり味がないし、性欲も沸かない、睡眠も浅い。そのせいか体臭も少しきつくなったような気がする。医者にみてもらったが悪いところが特に無いので、ストレスのせいではないかと精神安定剤を出されたがあまり効いていない。
心のどこかで、あの社長が死んだことが気になっているのではないか?ーーいやそれはない。あの会社は社長が変わった時点で終わっていた。前社長は甘っちょろいことを言いながらも営業の腕があった。俺も世話になって、新入社員の時からあの人の下について営業のいろはを学んだ。だけど息子社長は全く違う。考えは前社長のままで、営業は素人同然だ。もっと早く潰れるはずだった会社を延命したのは俺。そこから前社長や俺が取ってきたオーナー達を救出したのも俺。礼を言われたいくらいである。

さて、女とは現地のマンション集合なので、そろそろ出なくては行けない。香水をつけ、ミントタブレットを口に放り込むと胃が少しすっとしたが、それも長くは続かないだろう。車に乗り込みマンションに向かう。美人と会えなくなるのは残念だが、食えない女は近くにいても気分が良くないだけだ。あぁこれもストレスの一種なのかもな……。浮いた金で、この前オーナーに教えてもらった美人看護師が専属でつくという高級クリニックで健康診断でもしてもらおうか。


「いい部屋だよね」
女は前と同じ黒ずくめの格好で、前髪をやはり顔の前で結っていた。異常な姿である。部屋の中をぐるりと歩き回ると、問題の窓際に立って外を眺めた。
「冥さんには特別お世話になったので、今回は窓の破損以外は特に汚れはなかったですが、全体的に徹底的に清掃し、クロスの交換、床の張替えも行っています」
「ありがとう、助かるよ。うん。潰れていた窓のレールも綺麗に直っている」
女が見ていた所は言う通り潰れていた窓のレールがあった部分だ。意図的にかなりの力をかけて潰さないとこうはならないと、修理した業者が首をかしげていた所だ。
それをなんで知っているんだ?口を開こうとすると、女の前髪の隙間から見えた目と視線が合う。笑っていた。
「フフ。この部屋、私が祓ったからさ。勘違いしないで欲しいから先に言っておくけど、別の不動産会社から頼まれたわけじゃない。前に言っていた呪術師の協会側からの依頼だったんだ」
「そ、そちらからの仕事も受けているんですね」
「うん。でも協会側からは事故物件を祓って欲しい、じゃなくて、単純にあの事件が呪霊絡みの可能性があったから頼まれただけさ。すでに受けている依頼主の不利になるようなことは、私はできるだけしないつもりだよ」
私はね。そう繰り返し、女の笑みが深くなる。背筋が凍った。女の光の無い目は黒く、俺の頭の中を見抜いているようだった。バレたか?いや……たとえバレていても今回買ってもらう部屋は破格中の破格の価格。これでチャラだろう。そのくらいに思ってもらってもイイくらいに安くしている。
「そう、そうですね……また弊社に余裕ができたときは、ぜひ再契約していただければ。冥さんのお仕事は完璧でしたので……」
「構わないよ。金になることは大歓迎だ」

女は持っていたバッグから予め依頼しておいた必要書類を取り出した。俺は心底ホッとした。手打ちということだろう。俺もサインが必要な書類をバッグから出し、女に渡した。すぐにサインがされて、残りは女が持ってきた書類の確認だけである。
緊張したせいか、指先が震えて上手く紙がめくれない。クソ。急に細かな字を見たせいか、くらりとめまいまでする。……吐きそうだ……。この部屋に入ってからひどく気分が悪い。外は暗雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうである。気が滅入るような景色だった。
「どうかしたの」
「いえ、大丈夫です」
女は窓の前のステップに腰掛け、足を組んで外を眺めていた。
最後にもう一度書類を確認し、これで契約だと女に声をかけようとしたとき、書類にぽつりと何かが落ちた。自分の汗だった。頭から汗が滝のように流れていた。自覚すると急に全身が熱くなり、息苦しく、そして胃がめくれそうなほど痛かった。手に持っていた軽いはずのバッグが、持っていられないほどに重い。
「気分が悪そうだね」
目も痛い。頭も痛い。腹を押さえた指先はぶるぶると震え、とうとう床に倒れ込むと女は側に寄ってきた。救急車を呼んでくれと言いたかったが、痛みで言葉にならない声ばかり出てしまう。
「“アモーズ不動産”って知ってるだろう?」
その名前を耳にした途端、ぐっと体が押さえつけられたような感覚がした。まるで上から大きな何かが、俺を押さえつけているような。首に、肩に、腹に、何かが乗っている。遊んでるみたいに圧力が強くなったり、弱くなったりする。蛙のような汚い声が思わず出た。
「ちょうど君と知り合う前にね、その会社の社屋を祓う依頼を受けたんだ。原因はそこで自殺した社長が死後に呪いに転じて、それに引き寄せられて小物が集まって、吹き溜まりみたいになってたんだよ。けど私が到着した時は社長の呪いは逃げた後で、依頼された社屋の呪いを祓う仕事はしたから、それで引き上げたんだ。そしたら“偶然”出会った君に、社長の呪いがついていたから驚いたよ。それからは契約相手でもあるし、君に悪さしない程度に弱らせてはいたんだけど」
「た、助け……」
「悪いね。普通の呪術師なら助けてくれるだろうけど、私はフリーの呪術師だから。よく言うだろ?金の切れ目が縁の切れ目。私から乗り換えるなら、もっといい呪術師を探せばよかったのに。そうすればもしかしたらソレも祓ってくれていただろうね。あぁ、呪霊の階級も、術師の階級も、君に話したことはなかったかな。私は一級でね、君が乗り換えた男は三級だよ。三級に準一級呪霊は手に負えない。そもそも感知もできなかっただろうね」
女は、またただ笑う。死ぬ、と理解した時だった。
「君の“利回り”はまあまあいい。これからも私のために頑張れるかな?」

▼ ▼

「冥さん、二ヶ月前に担当された呪霊が出た部屋を購入されたって本当ですか?」
「本当だよ。知り合いの不動産屋が安く売ってくれてね」
冥冥が任務で出た領収書を伊地知に渡すと、受け取った伊地知はせわしなく画面内のフォルダをクリックしながら冥冥に尋ねた。冥冥は待っててあげるから急がなくていいよ、と伊地知に声をかける。事務仕事が一番できるせいで、他の事務員より伊地知の仕事量が多いことを冥冥は理解していた。何かのファイルが印刷にかけられて、プリンターが二枚の紙を吐き出した。
「すみません。住所が変わられたら、書いて頂きたい書類があるんですが」
「いや、私が住む気は無いよ。それにもう売り払ってしまったから」
「え、そうなんですか?」
「うん。だから、この紙はいらないかな?」
プリンターから出てきた住所変更届けを冥は取ると、シュレッダーの前に立ってひらりと泳がせた。
「すみません、早とちりでした。ちなみにお幾らで売れたんですか?」
「九千万」
「え……。事故物件なのにかなりいい値段で売れましたね……」
冥冥は要らなくなった紙をシュレッダーにかける。シュレッダーはごりごりと音をたて、紙を吸い込み、細切れにしていった。
「高く売れて良かったよ。いい買い物をした」
冥冥は中指と親指で丸く輪を作り、心底嬉しそうに笑った。

2024/04/21
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