※2024年4月発売予定のコミックス26巻収録内容のネタバレを含みます。コミックス派の方は読まれてからのほうがおすすめです。







「五条、あのさ……」
「うん」
「五条。……五条!悟!!」
「え?あ?うん」
「そばが箸から落ちて1分くらい経ってる」
「あぁ……うん。そーね」
「そばが」
「悟。さ、と、る」
「悟、急に彼氏面するやん」
「いや僕、なまえ先輩の世界でただ1人の夫よ?」
「それはそうか……」

那覇空港、沖縄ソバ屋。
ホテルを出た時から何を話しかけても返事が「あぁ」「うん」「そーね」の3パターンしかなかった五条は、空港に着いてふらっと沖縄ソバ屋の前に立つと「なんか食べたい、かも」とやっと文章を話した。
ひとくち目に掴んだ麺を箸に留めて2分、丼鉢に麺が落ちて1分。私の顔をガン見してくるだけで全く動かなかったが、やっとまた戻ってきた。向かいに座る席を選ばなきゃよかったかもしれない。いや、空港に向かう道で私がアクセルに足を押し付けている間、五条は私の肩に頭を押し付けて私の顔を上目遣いに見続けていたからどの位置取りでも意味はないか。
食べはじめて「美味い」と呟き、店をぐるりと見渡して視線をガラスの向こうの空港に向けた。羽田空港よりは行き交う人々も多く、顔が明るい。

「人減ったね。僕が出張で最後に来たの去年の夏だったかなぁ。人だらけで耳が痛かったけど、あっちの方がマシだったかも」
「人員不足でお土産店もいくつか閉まってたしね」
「みんなに何買おうか。ホテルに頼んで海人Tシャツは20枚送ってもらったけど」
「京都のお土産に剣に龍が巻きついたキーホルダーをあげるのと同等だぞそれ」
「僕それよく伊地知に買うけど。アイツ、デスクに集めてるし」
「それは五条からもらったのをどうしようも無くて、そこに入れてるだけだよ」


店を出て保安検査場をクリアし、お土産コーナーを物色する中で五条はまたふらりと窓際に近づくと足を止めた。蕎麦屋の会計で2千円と言われて2万円だしたり、行くべきフロアを通り過ぎたり、保安検査場でひっかかって「あ、すみません」とポケットから飴だしてスタッフに怪訝な顔をされたり(家の鍵でひっかかっていた)していたので、また奇行かと思いきやその顔にいつもの生気が戻っている。沖縄名物スパムの缶詰柄のTシャツを着てても通行人に振り返られる。慣れすぎてよく忘れるが五条は見た目がいいのを改めて実感した。

「頭はっきりしてきた?」
「うん。脳が固まってきた感じ」
「確かに脳が溶けたみたいな顔してたね」
「約15年も片思いしてたんだよ?最高の朝なんだからしょうがないじゃん」
そう言われるとなんにも言えない。ちょっとだけ寝癖の残る頭を手櫛で整えてやると目が細まって、白い歯を見せて笑った。太陽の光を浴びて目の色がいつもよりひときわキラキラ輝く。かっこいいとよく言われてるけど、五条は可愛いだと思う。絶対。
買っておいた無糖コーヒーを渡すとちょっとだけ飲んで、さっきまでの笑顔が嘘みたいに「にが」と顔を歪めた。任務での訪問先や当主としての集まりなんかじゃ、無糖でも抹茶でもさらっと飲むのに。
「先輩が飲んでんの何?」
「ウッチン茶。ウコンのお茶で2日酔いにいいらしい」
「口直しできないじゃん」
眉尻を下げ、今まで見たことない柔らかさでふにゃふにゃと笑う。乙骨くんが遠縁の親戚なのは確かになあと思いながらつられて笑ってしまう。

訪れるもの、飛び立つもの、出発前に決められたゲートに行くもの。ミニチュアサイズの飛行機がすいすいと地上を動き回っている。僕らが乗るのアレか、と五条はジャンボジェット機を指さした。
「先輩の実家って沖縄からの直通便出てないよね?」
「どうだろ。考えたことなかったなあ。田舎だから無いと思う」
「実家にスーツケース10個くらい置いててもいい?」
「待って!両親に手を出すな!」
「それ夫に言う言葉ァ〜?!中身は現金とか金とか、カネになりそうなもの。僕たちの共同口座あるじゃん?あっちに送金してもいいかなと思ったんだけど、履歴残るでしょ。そうなると僕に何かあった時に家の奴らがうるさそうだから」
「なるほどね。そしたら共同口座の分は五条家に戻した方がいいかな」
「あーそれがいいかも。カネについてと御三家以外にうるさいのが何人かいるから。一応なまえ先輩に接触しないように言っておくけど、僕が死んだら好き勝手しそうだし。実質御三家全滅になるから、どれだけ取り分多く持って逃げるかのレース開催かな」

そういうこと言わないで、とか、生きて自分でやろうよ、とか、死を想定して語ることをとめるのが普通だろうが、そんな気にはならなかった。これが普通の術師であれば私も言うかもしれないが、現代最強呪術師の五条の想定はこれからくる未来に何よりも近い。だからこそ、私達は今ここにいる。

「なら早めに引き上げてもらった方がいいかも。5億くらいあるけど私がやったら隠してるとかいいそうだし」
「そーね。あ、スーツケースにはその5倍くらい入れてるから。先輩が楽に暮らせる分取ったら、後は何に使ってもいいから。その辺は誰より信頼してるし」
「了解。もし私に何かあったらのことは硝子ちゃんに頼んでるけど、その時は五条もよろしく」
「勿論」

ま、2人とも無事なのが1番だけどね。
明日は雨がふらないといいね、くらいの気軽さで五条は言った。五条が生きてて私が死んでいるということは出撃順的にありえないのだけど、私もここで言葉にして伝えておきたかった。
「ちょっと左手貸して」
そう言って五条がポケットから出したのは、石も装飾もないシンプルなシルバーの指輪だった。もったいぶると思ったが気恥ずかしそうに私の薬指にいれて、ぴったり収まったときに終了の合図のように頬と耳が赤くなった。口には出さないけど、めちゃくちゃかわいい。やっぱ五条はかわいいんだって。
「任務中は外してもらっていいから。凹んだり傷ついたら変えいっぱいあるから言って」
「ありがとう、すごく綺麗だね。……ところで私からもあるんだけど」
考えることは同じだったらしい。私も五条と全く同じようにパンツの左ポケットに入れていた指輪を出して、手に添えられていた五条の左指に通した。目はまるまると開き、口は真横に引き結ばれている。本気で驚いた時の顔だった。
「いつ作ったの」
「昨日の夕方、お風呂に入ってる時に完成した。理論上最も硬い物質で作ってる。ウルツァイト窒化ホウ素よりも硬いし、呪力で更に強化してる。……悟のハードな任務も心配ない」
「それってさ、僕がプロポーズする前から作ってくれたってことでしょ」
「そうだよ。でもビデオレター撮りに行った悟には出遅れたかもしれない」
「先輩も同じのつけてよ」
「悟が選んで買ってくれたから、こっちがいいや」
光にかざしたり、目に近づけてみる動きまでお互い一緒で笑ってしまった。傷もできるし、凹むし、血も浴びせるだろう。大切にできないだろうけど替えるなんてもったいない。今日もらったこれだけが世界にただひとつなのだ。


搭乗アナウンスが始まる。
改札を抜けてボーディングブリッジに入ると、沖縄の空がさっきよりよく見えた。車を運転しながら見た時より青が強く澄んでいる。
「高専時代にさ、先輩にシーサーのついたストラップ渡したっけ?」
もらってない、と返事をすると、五条は口ごもった。
「……最後に寄ったお土産店がさ、天内護衛任務の時に空港で最後に寄った店。その時天内がお土産にって、なまえ先輩と友達にシーサーのストラップ買ったんだよ。友達には黒井さん経由で、先輩には僕経由で渡すって確かに話したんだけど……ごめん。獄門疆の中で思い出した」
「いいよ。あの件は大変だったし忘れててもしょうがない。……あの時の沖縄は楽しかった?」
「楽しかった。先輩もいたらなって傑と天内とも話した」

機内に入り、前から2列目の席に着くと、旅の終わりを急に実感した。年がら年中、任務で飛行機に乗っているがこんなに名残惜しい帰りはあまりなかった。
「また会いたいな。理子ちゃんにも、傑にも、黒井さんにも」
「結婚したって言ったらビビるだろうな」
「100%やめとけって言われそう」
「え?なに?言われたらやめんの?」
「近い近い近い。機内機内機内。やめない。悟だけだって」
「キスの嫌がり方が先輩の実家の猫と一緒」
「家の猫にセクハラやめろ」

高専を卒業してすぐ、上層部に呼ばれた。
傑の件の踏まえて、力の尺度は悪徳の尺度になると、五条が道を外れかけた際は殺害に協力するように言われたことがある。あの時の上はまだ五条を殺せると思っていた。懐かしい。
その場で断ったが五条に「力の尺度は悪徳の尺度になるか」と尋ねたら「美徳の尺度にもなるでしょ」と返された。
実際、力の尺度は美徳の尺度にはならないと思う。しかしそう言える五条の善性が今この状況を作っているように見えるけど、本当はそんな難しい話なんて無く、大切な人を守ってきたらこうなっていただけだ。最強だった故に。けど、そう返してくれた五条が好きだ。だからふつうの人と同じように、好きに生きてほしい。好きなことを考えて、好きに願って、好きに戦って、好きに死んでほしい。
でも、五条の中で1番楽しかった対等な力を持つ親友がいたあの日々を最後に思い出させるのが、今の五条に対等な力を持つ宿儺であるかもしれないなんて皮肉が過ぎる。

「沖縄、先輩も入れて5人で来たかったな。やっぱ南は良い記憶しかないね。また来ようよ」

そう言った五条の手を返事と一緒に握ると、高専の頃と変わらず温かく強く脈打っていた。

東京に降り立つ。空は灰色ににごり、沖縄と違って冷え込んだ空気が鼻の奥をツンと刺す。
こっちは寒いね。
そう呟いた五条の鼻先がすぐに赤くなり、白い息を吐いた。


▼ ▼

硝子ちゃんの煙草の灰が散って、腹から真っ二つに離れた五条の体に降る画面越しの雪と混ざる。
誰もが死なないと思っていた人が、誰が見てもわかる死を無言で発していた。
仲の良かった同期も、先輩も、後輩も、面倒を見ていた学生だって死んでいった。この業界ではよくある話だ。付き合いの長さは相手の死を覚悟する時間の長さ。五条悟の死を覚悟する時間が、私の中で最も長かった。

「おい構築術師」

鹿紫雲が睨むように笑う。

「冷静な顔してるが抜かすなよ、次は俺だ。オマエは手筈通り死体回収だ」

ばきり、と大きな音がした。乙骨くんが駆け出したのではないかと視線をやるが違う。口の中に違和感があり、探ると舌先が捉えたのは奥歯の破片だった。
何度も見てきたあの青い目。内側から溢れる、ずっと私を見つめていた光は消えて、ガラス玉のように空の光をただ映していた。
楽しそうに、戦っていたと思う。
五条悟は好きに死ねただろうか。

2024-03-24
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