※主人公が失踪していないif


七海が大皿いっぱいの焼きそばを作ってみょうじの寮室に戻ると、湯気たつピザを家入と五条が頬張っていた。
つまり桃鉄に負けて高専の山を下りたみょうじが帰って来たということだが、肝心の本人がいない。
廊下は無人、廊下奥の共用トイレも暗い。炬燵に入っている家入と五条のグラスが空いている。追加のパシリか、と七海の視線がさまよったのを見つけた家入が床を指差した。
みょうじは炬燵の中で眠り込んでいた。目の上にはピザ屋のロゴ入りおしぼりが乗っていて、祈るように組まれた手にはコーラの缶を握らされていた。十中八九、みょうじの向かいに座る五条がやったのだろうと七海は眉を顰める。
みょうじと五条の間であり、家入の向かい側に座ると、みょうじの目の上のおしぼりをゴミ箱に投げ入れ、コーラの缶を机上に戻し、みょうじの分の焼きそばを取り分けて学習机の上に逃した。

大晦日の高専は学食が休みで、いつもよりずっと静かだ。
教師も職員も帰省して、突発的な任務に対応する最低限の人員しか残っておらず、いつも学内の明かりは敷地の広さに比べて少ないが、今日は和をかけて少ない。
学生も同様だが、帰っても家族が仕事でいない・やることがない・帰るのがそもそも面倒などの理由で残った家入・五条・七海・みょうじの4人は、部屋に炬燵を置いているみょうじの部屋に集まると、桃鉄で10年試合を設定して年末の鈍い時間の歩みを消費した。
結果、3位の七海が学食にある余りの食材で料理。最下位のみょうじが注文したピザを高専の下まで取りに行く罰ゲームを受けた。
15分で戻って来いよ、という五条の軽口をみょうじはきっちり守って帰ってきたが、息も絶え絶えで「ちょっと横になります」と寝転がったが最後、深く眠り込んでしまったらしい。


「コイツ、行って戻っただけで疲れすぎだろ」
五条が噛み付いたピザのチーズを伸ばしながら言う。
「アナタが15分で戻れと言うからですよ」
「普段はなんか言っても七海マネてスルーするのに、こういう時は律儀なんだよな」
「タイムアタック制になるとみょうじさんはちょっとムキになりますから」
「お、理解ある彼氏くん発言」
「ソレ、そういう意味の言葉ではないですからね」
「この子、疲れる前から今日ずっと眠そうだったけど、七海なんか知ってる?七海も隈あるし」
家入が箸で五条の伸びたチーズを切断した。
「……さあ」
「「へえ、へえ、へえ〜」」
家入と五条がニヤつきながら声を合わせる。
「冷めますからさっさと食べてください」

七海はみょうじの肩を指先で子猫をあやすような弱さで揺すった。みょうじは変わらず静かに深く眠っている。強く揺すろうとしたが七海の手は固まったかのように動かないので、諦めて席に腰を落ち着けた。
「触り方やっさし」家入は茶化し「ちょっと男子。いちゃついてないで掃除して」五条は彼の人生で遭遇したことがない学級委員長の真似をしながらピザのチーズをまた延ばす。七海は無言で五条のチーズを箸で切断した。

▲ ▲

“販売員”が永久に封印された後、七海は噂程度に留まっていたみょうじとの関係を周囲に全く隠さなくなった。
「最近みょうじさんと仲いいね」と聞かれたら「付き合っていますから」と言う。
「七海くん彼女いるの」と聞かれたら「1年のみょうじさんです」と言う。
「みょうじさんは彼氏いるのかな」と聞かれたら「私です」と言う。
学生、事務員、教師、術師。誰彼構わず全員に答えたし、正門をくぐるまでは横を高専関係者の車が通っても手をつなぐ。自販機横のベンチでは拳半分しか開けずに隣に座る。目に見えて「いちゃついている」と言われるほどではないが「付き合ってる」と思われる行動を続けていた。
みょうじと出会う前の七海だったらこんなことは絶対にしなかった。しかし女性が少ない業界、有用な術式を持つ非術師家系であるみょうじ。これらの要因を考えれば、全員に関係を周知しておくことが今できる確実な策だと七海は考える。
この「確実」は2人が付き合っていることが「確実」に脅かされないという意味ではない。みょうじを横取りしようとした人間に七海の手が出ても、「横取りしようとした奴が悪い」と周囲から言われる「確実」だ。

▼ ▼

五条が賑やかしにテレビをつける。ちょうど紅白歌合戦が終わり、全国の年越しの情景が映る特番が始まった。ぼんやりとピザと焼きそばを咀嚼しながら眺めていると、程なくして除夜の鐘が鳴る。「あけおめ」「ことよろ」「あけましておめでとうございます」とゆるい新年の挨拶を交わした。

「じゃあ、俺たちはそろそろ部屋戻るか」
「そうだな。カップルを2人きりにしないとな」
「妙な気を使わないでください」
五条はピザが3切れ残ったケースを閉じて立ち上がり、大きく伸びをした。
「七海は去年帰ったから知らないだろうけど、夜蛾先生が初詣連れてってくれるから。お年玉もらえてラーメン奢ってもらえる。2時になったら正門集合な。来なかったらアイツらスケベやってんなと思って置いていくから、まあ自由参加でいいよ」
「正門集合しますから出て行ってください」

2人が出ていくと七海はすばやく施錠をした。五条の弱点は、最強故に隠れて何かすることが一切できないことだ。鍵さえ閉めれば覗きは防げる。家入が本気になればそうは行かないだろうが、彼女はみょうじをかわいがっているから五条と一緒に軽口は叩いても一線は超えない。
席に戻り、炬燵に足を入れると指先がみょうじの腿に触れた。「うわ!」と声を上げるほど驚いて足を引くと、炬燵の天板に音が出るほど膝を強くぶつけた。痛いが、それ以上にバクバクと心臓がうるさい。
「あぁ…………クソ……」
悪態をつき、のろのろと炬燵から出て、恐る恐るとみょうじの肩に触る。肩を揺する、枕代わりのクッションを抜いてみる。起きない。
「みょうじさん、起きてください。焼きそばもピザも冷めます。昼から何も口に入れていないでしょう」

やはり起きない。
ため息をついて、眉を顰めて、手近にあったコーラを飲んで、一旦心臓を休ませて、みょうじの枕元に座り込む。そしてみょうじの両脇に両手を突っ込んで後ろ抱きになるように炬燵から引っぱり出してみたが、やはりみょうじは起きない。耳元で大きな声を出せば起きるかもしれないが、自分がされて不愉快なので選択肢にない。
七海は後ろのベッドに背を預け、みょうじの背を自分の腹部に預けさせて座り込む。テレビで芸人が「新年の抱負」の大喜利をやっていた。その笑い声を聞きながら視線を落とすと、よく眠る彼女の目の下に薄い隈があるのがわかる。この隈の原因は七海だ。

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12月の中頃、七海は骨の奥から滲み出るような痛みを両膝に覚えた。その時はただの使い過ぎかと思ったものの、痛みは夕方から夜中にかけて酷いが昼になると微かに軋む程度だった。

「彼氏彼女ができると背が伸びるって聞いたことあるけど、マジかもしんないなぁ」
腫れはなく、熱もない。家入の反転術式の効果もなく、もしかしたらと七海を乗せた身長計の数値を見て彼女が出した答えは「たぶん成長痛」だった。七海の身長は夏に測った数値より7センチも伸びていた。
「そのうち治まると思うけど、夜間任務あったら外してもらったほうがいいかも」
「そうですね。ところでさっきの胡散臭い話は本当ですか」
「医学的根拠のない噂だけど、まあホルモンにかなり作用するだろ?だからあながち嘘とも言えない。実例が目の前にいるし」

医務室を出るとみょうじが心配そうな顔をして立っていた。成長痛だった、と告げると、心配より困惑に表情が傾いた。
「背が7センチも伸びていました」
「それもう180センチの大台に乗ったんじゃ」
「乗りました。181.1だそうです」
「ちょっと嬉しい感じです?」
「背があるのは単純にアドバンテージになりますから。とはいえ五条さんが近くにいるとあまり伸びた気がしませんね。あの人190ありますし……みょうじさんは最近身長は伸びましたか?」
「確か夏ごろまでは少し伸びてたんですけど、今は完全に停滞してます」
彼氏彼女ができると身長が伸びる。家入の言葉を信じると、なんともいえない苦味を感じた。

成長痛は夜中に増すという。七海は今まで何度も負傷してきたが、眠りで痛みに蓋をしてきた。今回もそれでどうにかなると思っていたが、数日経つと痛みが睡魔を蹴散らした。
深夜1時、目が覚める。
痛みと闇しかない。仕方なく起き上がり、膝を擦りながらベッドサイドランプをつけて読みかけの文庫本に手を伸ばす。耐えきれないほどの痛みというわけではないが、内側から滲み出る性質が睡眠を妨げるのだ。
しかし、しばらくするとじわじわと痛みの波が大きくなりページをめくる手も鈍くなって来た。本を閉じて痛みに耐えていると携帯が震える。こんな時間にどこの迷惑メールだとキレながらひっつかんで開くと「みょうじ」の2文字が飛び込んで来た。

『もしかして眠れませんか』

部屋の電気はつけていないし足音も立てていない。
どうしてわかったんですか、と返信すれば『向かいのガラスで電気ついたのがわかりました』とすぐに返ってくる。
窓の外、向かいの建物のガラスにベッドサイドランプの光がかすかに反射していた。部屋が上下に位置しているからこそできる判別だ。
普段は熟睡している時間帯であることと痛みで、頭がよく働かずどう返していいかわからない。

(明日も授業があるから、早く寝てほしい、が)
話しをして欲しいとも思う。膝を擦りながら悩んでいると、みょうじが他愛のない話を振ってくれてメールが続く。1時間ほどすると眠気が痛みを超えて、なんとか眠れた。この深夜のメールのやり取りのお陰で、七海は夜の痛みを凌いだ。

メールが習慣になってきたある晩、一際強い痛みが現れた。最初と比べて痛みも随分マシになって頻度も減り、そろそろ治まるだろうと考えていた中での最後を告げるような大きな痛みだった。反射的に体が丸まり、手から携帯が落ちて床に転がる。足の腱が切れるのではと思うほどの痛みを奥歯を噛み締めてやり過ごす。任務と違ってアドレナリンの助けがない痛みは脂汗が吹き出るほどだったが、しばらくしてまた波のように痛みが引いていく。携帯を拾うとメールが来ていた。

『大丈夫ですか』
15分前に届いていたメールだ。3分程度で行き来していたメールが突然止まったことに対してのみょうじの連絡だった。つまり最低15分はのたうち回っていたことに七海はため息をついて、汗を拭いながら鈍い頭で返信の内容を組み立て始めたとき、急に軽くて丸い音が2度部屋に響く。同時に携帯はぴかぴかと瞬き、メール受信画面が表示された。

『入ってもいいですか』
みょうじからの1文。さっきの音はみょうじのノックだったのだ。
「どうぞ」
喉から出すだけなのに、緊張が邪魔して制御できない大きな声が出る。
ゆっくり静かに入ってきたみょうじは、七海のベッドの脇に立ち、心配そうに眉尻を下げた。
「返信遅かったんで心配になって来たんですけど、大丈夫ですか」
七海が頷くと、みょうじはベッドサイドに熱いお茶と冷たい水の2本を置いた。
「足、冷やすのと温めるのどっちがいいか分からなくて。いい感じの方を使ってください」
「あ、……りがとうございます。大分落ち着いたので……」

夜の突然の訪問に、何を話していいか七海は全くわからなくなっていた。
みょうじの部屋に行ったことはあるし、みょうじが部屋に来たこともあるが、こんな夜中にみょうじが部屋に来て2人きりになるのは初めてだった。1度だけみょうじの部屋で夜を過ごしたことはあるが、その時は“販売員”のことを聞いた夜で、ひときわ非日常だったからあまり意識していなかった。「みょうじが夜中にそばにいる」ということを。
冬の夜の空気が頬を叩いて、熱を持っていることがわかる。ベッドサイドのランプが、みょうじの細い体躯の輪郭を浮き上がらせていた。昼間は七海にとって可愛いだけの柔和な微笑みが、今はやけに艶めいて見える。膝をじっと見ながら頭を回転させるが、何も浮かんでこない。
「心配をかけてすみません。みょうじさんの顔を見られて気持ちも落ち着きました。明日もありますから部屋に戻ってください」
「そうですか」
よかったです、とか、おやすみとか、そういう類のことをみょうじは続けて返事したのだろうと七海は思った。細かく聞き取れないほど心臓がうるさいのだ。もうちゃんと付き合って2ヶ月近く経つのに全然慣れない自分に呆れながらみょうじを見送ろうとしたとき、頬にひときわ熱くて柔らかいものが押しつけられた。
ひと呼吸おいて、七海は自分から離れたみょうじの顔を見る。

「……ちょっとしょっぱい。痛くて眠れなかったらまたメールしてください。起きてますから」

頬にキスをされたと分かったのは彼女が出ていった後で、その事実は巨大なものになり、七海の頭の中を歩き回り、巨大怪獣に襲われた街のように痛みも眠気もなぎ倒された。
その日も、次の日も、夜になるとキスされた事実が頭を占領して眠れない。
成長痛が収まったのに気づいたのは、キスから3日経った大晦日の朝だった。

▼ ▼

七海の腹に力なく頭を預けているみょうじの顔を覗き込む。天井の明るい照明が彼女の顔を照らしている。
七海にはみょうじのすべてが輝いて見えた。今までこんなに長く密に、みょうじと体を寄せ合ったことはない。家入の部屋で騒いでいるのであろう五条の笑い声がする。テレビからは新年を迎えて一発芸に勤しむ芸人の大声が飛んでくる。けれど七海には聞こえていなかった。
瞬きも忘れて目が乾く。涙袋が熱をもって、目が痛いくらいなのに閉じられない。欲が理性の喉元を狙っている。

(私と同じ訓練をしているのに、どうしてみょうじさんはこんなにも柔らかいのだろうか)

温かい体温に少し甘い落ち着く匂い。伏せられた長いまつげ。小さな彼女の手に指を絡ませてみる。熱い手だった。淡く赤い柔らかそうな唇。いや、柔らかい唇。
2度目の感触は記憶のものよりずっと柔らかかった。

「首まで赤くなっていますよ」

いつもみょうじに言われて気づいて恥ずかしくなる、その台詞を七海はみょうじに言う。みょうじは眩しそうに目をうっすら開けて、バツが悪そうに眉をひそめる。顔も耳も首も真っ赤だった。

「いつから起きてたんですか」
「浅く起きたり寝たりしてましたけど、しっかり目が覚めてきたのは七海さんが手を握ったあたりでしたね」
「そうですか。甘かったです」
「なんかちょっと、七海さんちょっと吹っ切れてません!?」
「そうかもしれません。この前の夜のことを考えたり、さっきテーブルに足をぶつけたりしたら、振り回されてばかりだなと思って」
「テーブルに足ぶつけたの私のせいなんですか!?」
「そうです」
「ええ……」
「やられっぱなしは性に合わないですし、攻められてばかりだと貴女につまらなく思われてしまうかもしれない。だからこれからは貴女が離れられないようにしていかないと、と思いまして。キリよく、今日は正月ですし」
「し、新年の抱負……」

抱きしめるくらいで耳まで赤くしていた七海が、こういう言葉は平然と言う。これが1番みょうじにとっての弱点なのだが、七海は知らない。けれどそのうちバレるだろうとは思っている。
七海は賢い。頭もいい。更に言語化も上手い。でも感情を行動に出すとすぐに赤面する。みょうじは感情の言語化が下手だが、行動に出すのは意外にも顔に出さずにやってのけるときがある。しかし七海が行動でも示し始めたらみょうじはもう手も足も出なくなる。
「あー……」とうめきながら、赤くなった顔を隠すようにみょうじは炬燵に潜り込もうとするが、簡単に七海にひっぱりだされて真っ赤になった顔を見られる。「そのうち」はもう来ていて、「貴女本当に可愛いですね」と言われると増々赤くなってしまう。

「……七海さん、今何時ですか」
「12時25分ですけど」
「じゃあ、1時45分までスケベなことしますか?」
「……はあ!!??」
七海の大声が響いて、一瞬で手の甲まで赤くなる。呪術師をやっている以上、彼女もまたやられっぱなしは性に合わないタイプなのだ。

2024/03/16
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