※未成年の飲酒は法律で禁止されています
※嘔吐表現があります


夜23時。みょうじが友人の部屋で課題をやっていると、「お願いがあるので部屋に来てください」と夏油からメールが届いた。夏油が要件の詳細を濁すときの原因は1つだし、ほとんどのことを卒なくこなす夏油が助けを求める時の原因も同じ1つだ。
みょうじは友人におやすみを言って、階段を降りる。寮内には梅雨特有の湿った空気があちこちに溜まっていて、少し急いだだけでも汗が滲んだ。
ドアを開け放った夏油の部屋の前には、家入と夏油が中を伺うように立っていた。2人はみょうじを見つけると笑って手招きをする。夏油の少し赤い頬と辺りに漂う酒の臭いで、みょうじは概要も理解できた。

「悟がどうしたの」
「部屋の隙間から出てこなくて」
夏油が困った顔で言う。
「そんな猫やハムスターみたいな」
部屋を覗き込むがそもそも五条が入れそうな隙間がない。ベッド、サイドテーブル、学習机、ローテーブル、カーペットに私物の本棚、収納棚。ベッドの下は五条の厚みでは入らないし、収納棚と本棚の隙間はそれこそハムスターや猫しか入れない隙間だ。

「ベッドと壁の間です」
「ベッドと壁の間ぁ?!」

思わずみょうじは復唱した。部屋の奥の角にあたるその場所を覗きこむと、ベッドと壁の間にできた不自然な狭い隙間に五条が仰向けに入り込んで眠っていた。長さは足りているが幅は足りておらず、窮屈そうに服に皺が寄って肩は上がっているのに、顔つきは穏やかで健やかだ。顔が整っていることが信仰の対象になるなら、いくつかの大陸を制覇する宗教になるだろうというほどなのに、狭苦しくホコリもあるおかしな場所にハマっている。
五条の顔は瞼の縁と、鼻、頬、耳が帯を描くように赤くなっていて、長い睫毛は夜に葉を閉じた植物のように規則正しくうなだれていた。
五条はみょうじを見つけたら必ずみょうじの意識が五条に向くまで喋り続けるので、黙っている彼を見たのは久しぶりだった。

「すごいギチギチにハマってるじゃん」
「酔った悟は先に寝たんですけど、突然「助けて」と言うので見たらここにハマってて。出るように言っても自力では無理で「もう俺一生ここから出られないかも」って呟いた後、本格的に寝てしまって」
それでこうですと夏油は笑いを噛み殺していた。夏油は酔うと、素面の彼なら苦笑いするようなことにでも爆笑してしまう。
「しかしこの不自然な隙間はなに」
「明日、棚をここに入れる予定で空けていたんです。こんな所に悟がハマるとは思わないじゃないですか」
「確かに。どのくらい飲んだの」
みょうじが尋ねると、家入が親指と人差し指で2センチほどの隙間を作った。
「日本酒をコーラとオレンジジュースで割りました。かなり割れば下戸でも飲めんじゃね?って」
「ふたりとも飲酒はマジにやめなよ。特に硝子ちゃんは煙草も」
「肺が治せるんで。つい」
可愛らしく家入が笑う。後輩力の高さにみょうじは許してしまったが、脳の萎縮は治せないことを続けて言おうとしてやめた。家入が抱える無意識のストレスと彼女の喫煙量は比例していることを、みょうじは知っていたからだ。

狂った村、狂った宗教、狂った人間。そういうものを相手にする任務で、供物、血液、薬など様々な名称に変わった酒を飲むことを迫られる時がある。だからアルコール耐性がまるきりないのは困るが、呪術高専は学生の飲酒を手放しで推奨しているわけではない。
それに五条はそういう場合「下戸なんで」ときっぱり断るのに、3人でいるとすぐに酔うと分かっていても、前回よりは強くなったかもしれないと期待を込めて飲む。
そして大変なことを起こしてきた。
みょうじは不在の時に酔った五条に部屋に入られて寝られた結果、外から押して開けるタイプの自室のドアが五条でつかえて開かなくなり、窓から入らされるハメになったし、吐き気がする五条が寝ゲロで窒息死しないように談話室のソファで一晩見張ったこともあるし、朝早くから出張なのに一晩ずっとデジモンのあらすじを聞かされたが、調べたら全部ウソだったこともあった。

みょうじは気合いを入れてもう1度、五条を覗き込む。壁と五条の間は本当に狭く、夏油が断念した理由が解る。彼の指は入らないだろう。悟、起きて。とみょうじが声をかけてもピクリとも動かない。
「さっき起こしたら掌印を結びかけました」
夏油が部屋の外から恐ろしいことを言う。もしここで術式をだされたら、労災は降りるのだろうかとみょうじ一瞬思って考えないことにした。
夏油のベッドの上に座って、掌印を作らせないように五条の指の隙間に彼女の指をつっこむ。いわゆる恋人つなぎで両手を握って引っ張ると、上半身が少し上がった。さらに五条の顎を自分の肩に引っ掛けさせて立ち上がると上半身すべてが浮いたので、そのままベッドの上に引きずり上げる。
前に駅で見た、大きな犬がエスカレーターを怖がって飼い主に抱っこを求める体勢に似てるな、と家入が思った所で「んが」と声がした。

「せっけんの匂いがする」
五条がはっきりしない口調で言う。
「シャワー浴びたばっかりだから」
「やっと俺のこと好きなの?」
「寝ぼけてるだろ」
「そもそも起きてねーし」
「起きてるじゃん」
夏油が家入のビーズクッション抱きまくらで五条が入っていた隙間を塞いだ。これでもう隙間に入ることはないだろう。

突っ伏したまま動かなくなった五条を置いて、みょうじと家入は一緒に自室に戻った。
長い1日が終わった。シャワーも浴びている、課題も終わった。報告書も仕上げている。後は寝るだけ。と思った所で突然みょうじの背後のドアが開く。
素面でいるより気配を消すのが上手い五条が無言で立っていた。青い目が爛々と輝いているのに、何も言わないせいで整った顔が作り物のようで不気味だが、顔の赤みは抜けている。
今日は悪い酔い方をしていないのか。とみょうじは一瞬期待した。
「2年1組の五条です!みょうじ先輩に会いに来ました!!」
五条は大声で中学校の職員室入室挨拶を叫ぶ。みょうじはドアを閉め直すが3秒経ってまた真顔で開けられて、ずんずんと入ってくるとベッドの上の枕を掴み、当然のように窓の外に投げた。みょうじの口から悲鳴が上がる。
みょうじが窓から乗り出て外を覗き込むと茂みの中に枕が力なく落ちていて、彼女の口から大きなため息と低いうめき声が出る。みょうじにはそれが明日の自分に見えた。
五条は酔うと寝るか、こんな風に好き勝手に動き回る。叱っても追い出しても意味は無く、翌日には行動の8割を綺麗サッパリ忘れている。寝る時は大体夏油に絡んでベッドを占領するのに、奇行はみょうじに対してすることが多い。

仕方がないと諦めてみょうじが振り返ると、真っ黒い壁にぶつかった。梅雨の湿った草や土の匂いを押しやって、酒と汗の匂いがした。
「うぎゃ!」
硬い、プラスチックみたいなものに頬を挟まれた。と、何をされたか分からずみょうじは一瞬固まったが、理解ができるとすぐに五条の顔を片手で押し退ける。手のひらに当たる睫毛の形が五条の表情を分からせた。ふたつ呼吸を開けて五条はみょうじの手を避けると、小指の付け根にまた歯を立てる。いつもの彼女なら難なく避けられた速さだったのに、あまりのことにうろたえて噛まれてから気づく。
「噛むな!」
言われたそばから、五条は彼を振り払う彼女の手首の目立つ骨の膨らみに噛みつく。
「先輩の部屋、枕ないじゃん。膝貸して」
「貸すから噛むな!」
みょうじがベッドに腰かけて膝を貸してやると、五条はごろりと転がって彼女の腿に頭を乗せた。しばらく身動ぎをした後は落ち着く場所を見つけたのか仰向けになってみょうじを見上げる。
「太もも、10キロの米袋みたい」
「ムカつく例えだなあ。そもそも五条家に10キロの米袋ないだろ」
「1年の灰原がくれたの」
「ああ、お米が好きな子」
「おい、1年にかまう暇あるなら俺に構えよな。先輩としてどうなんだよ」
「は、ハラスメント……」

唇を尖らせた五条の額を弾くと、その目が細まる。今日は機嫌がいい日だ。話し方ものろい。きっとこのまま寝るだろう。五条が静かに目を閉じ、みょうじが期待した時だった。

太腿と触れ合っていた五条の背中が、痙攣したみたいに前後にぶるりと震える。かっと見開かれた青い目には天井の細長い蛍光灯がくっきり映り込んで、まるで獣の瞳孔だった。
みょうじは早かった。五条の両脇に手を突っ込んで引き上げ起こし、手近にあったレジ袋の中身をぶちまけて空にして五条に差し出す。五条も理解して右手で受け取ると、左手でみょうじの手を握ってからレジ袋の中に顔を突っ込んだ。
何度か嘔吐く声がして、肩が上下に大きく揺れて、水音がした。
ぎゅうっと五条がみょうじの手を握る。吐いているのに喉が絞まるような声と、握られた手の骨から木がしなるような音がしていたが、水音が終わるころにはみょうじの手は解放された。
しばらくしても五条は動かないのでみょうじは背中を擦るのをやめて、冷蔵庫に買い置きしているペットボトルのお茶を持ってきて封を開けた。

「顔あげて、お茶。口ん中ゆすいで。すっきりするよ」
飲み口を口元に差し込むと、かつんと音がした。飲み口の縁が形のいい歯に当たる。五条が上目遣いでみょうじを見た。その目の縁と鼻は、今度は吐く苦しさで赤くなっている。五条にペットボトルを受け取らせると、みょうじはボトルに熱を奪われた指先でその目の縁を拭った。いつもきれいに分かれている睫毛が涙で束になっていて、ただ酔って吐いただけなのに酷く痛々しく見える。みょうじはそのまま五条の頭を静かにゆっくりと撫でた。
五条は胃の中身を吐き出す以外は黙って、青い目でその手を見上げていた。みょうじのこういう行動が、酔った五条の本能からの奇行を引き寄せているという正解を誰も知らない。
その指が離れてから口を濯いだ五条は、のろのろと立ち上がると「便所行く」とひとこと告げて部屋を出ていった。

「終わった……」

1人になった部屋にみょうじの声がやけに大きく響いた。
ドアを閉める。開けっ放しにしていた窓のお陰で酸と酒の臭いはすぐに無くなり、いつもの夜が戻ってきた。疲れた体を休ませるためにベッドに転がる。目を閉じる。どうにもうまく眠れない。枕が無いからではない。
この部屋のトイレでも、この階のトイレでもなく、足音からして1階のトイレに向かったあたり五条の酔いはかなり覚めているだろうと彼女は考える。部屋を出て階段を降りて下を覗くと、案の定、五条はレジ袋を処理して1階の談話室のソファで横になっていた。


「すっきりした?」
みょうじが五条にブランケットをかけてやると、五条がうっすらと目を開けた。
「かなり」
「今日は覚めるの早かったね」
「たぶん、任務で朝からあんまもの食ってなかったから吐いた。ごめん」
五条はブランケットの中にもぐりこむ。ダサい所を見られたくなかったのだ。みょうじは談話室の出入り口を照らす1つ以外、灯りを全て消した。
「追加のお茶もここに置いとくから」
「うん」
「なんかしてほしいことある?」
「……そこ、いて」
五条の指先が一瞬だけ自分の寝ているソファの隙間に動いたが、結局彼の向かいのソファを指して止まった。
みょうじは五条が眠るソファの隙間に腰掛けると彼が眠るまでぼんやりと天井を眺めていたが、吐いて喉をつまらせる心配がないことを考えて、五条の噛み跡が残る手を見ているうちに眠ってしまった。

▼ ▼

「みょうじ。くねくねって知ってる?」
「都市伝説ってあんしんフィルター通過できるんだ」
「あんなん取れるし!」
夜20時。ベランダでビールを飲んでいたら上の階の子供がベランダ越しに話しかけてきた。最初は挨拶くらいだったのに今はこうやって雑談もしてくれる。
「知ってるけどどうしたの」
「最近よく、みょうじの部屋に来てる」
「え、そうなの……」
不審者じゃんヤバ。子供のこういう話は嘘じゃなくてマジのことが多い。それも大体、大人が想定するよりも悪い方向で上級呪霊か頭がおかしい人間の確率が高い。どうしたもんかな……と思った所で「来た!!」と子供が声を上げた。

指をさされた先を見ると、このアパートの前に続く道に細長くてくねくねした白いものが歩いていた。でもよく見たら上が少し白いだけで下は真っ黒だ。「来た来た来た!」と言いながら子供がベランダから玄関の方に走っていく音がして、お母さんの「夜に走るのやめなさい!」という声。しばらくしてまた走ってきた子供が「来た来た!アパート入ってきた!」と教えてくれたが、お母さんに怒られて中に戻っていく。それと同時に私の部屋のドアベルが鳴ったので玄関に向かうと、予想通りだった。

「五条、小学生にくねくねに間違えられてるよ」
「え?最近のくねくねって都内在住の身長2メートルのイケメンになってんの?アイツ盛りすぎでしょ」
「インスタが台頭してきて考える所があったんでしょ」
「あぁ、なるほどね。それか父親の転勤かな」
「子供にはどうしようもないんもな」
服が酒臭い。五条の吐息からも微かにするが、これくらいでも結構酔っている。今日は学長と硝子ちゃんと用事で出かけていたから、食事のときにちょっと飲ませてもらったんだろう。
大人になった五条は酒に酔って何かを破壊したり、吐いたりするほどは飲まなくなった。変わらず仲の良い相手といるときだけ、興味で味をみる程度にして気分が良くなるくらいにおさえることを覚えた。
「疲れた。ちょっと寝かして」
五条はベッドにくねくねと蛇行しながら歩いて行って、上着も脱がずに横になった。連勤は20超えたら数えなくなるので、もう五条が何日ぶっ通しで働いているかは勤怠システムしか知らない。

「なまえ先輩、膝貸して」
ベッドに座って貸すと重たい頭が乗ってくる。「ローストビーフみたい」と五条は言ってたっぷり息を吸い込んで全部吐き出した。ずっしりと分厚い体が腿に沈み込む。
「細くて中身が詰まってる。僕大好きだよ」
「フォローになってないけど米袋よりはマシかな」
「え、米袋って言われたことあるの?失礼すぎでしょ。誰言ったヤツ」
「五条悟さんですが……」
五条はゲラゲラ笑って「10キロの米袋」と呟く。だから目の包帯外して欲しいというおねだりは無視して、最近刈り上げたばっかりの五条の後頭部をざりざり触ってやった。

2023-11-23 リクエスト作品
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