都内高級ホテルのバーで家入と七海はカウンターに腰掛け、カクテルをオーダーした。
大晦日の今日は年末年始をホテルで過ごす人々で賑わっており、去り行く年の中で滞在者達は「来年はいい年になる」という根拠のない期待を胸に、幸福そうな顔をしている。
それもこれもこのホテルが年末年始の特別豪華な設えを館内の至る所に施しているからで、人の感情を揺さぶるほどの質のモノを提供できるところが流石高級ホテルたる所以だなと、家入はぼんやりと思う。
ただ家入と七海の幸福そうな表情には根拠がある。

「やっぱり七海は普段からスーツを着てるだけあってタキシードも似合うな」
「ありがとうございます。仕立ててもらうのに時間がかかったので、そう言ってもらえると嬉しいですね」

七海の黒いタキシードは呪術師業界では見慣れた黒とは違って鈍い輝きがあり、もしタキシードの形でなかったとしても、誰が見ても特別な日のための黒だと分かる品があった。それが彼のために仕立て上げられているのだから、まるで映画の中から出てきたような姿に隣を通った男が2度見する。

「でもなんでいつもスーツなんだ?」家入は届いたカクテルを一口飲む。
「この業界は非術師にオカルトや宗教と間違われることが多いですから、一般の会社員や公務員よりも社会的にきちんとしていることを見せるために、スーツを着るのが1番効くんですよ。フリーになると尚更、非術師の方と話す機会が多くて」
「ナルホドね。見た目9割か」
「ええ。それにスーツは元々農作業着や戦闘服なだけあって、任務時も動きやすいので重宝しますよ」

七海がカクテルを口にする間、家入は隣の椅子に置いた2つの白い紙袋の片方を開く。そして中に入っていた箱をあけて出てきた桐箱入りの日本酒に「おお」と喜びが詰まった声を上げた。

「しかし大晦日に結婚式を挙げるなんて思い切ったことしたな。私はこの時期毎年暇だから助かるけど」
「事前にアンケートを取ったら皆さんも同じでした。それにこのくらいしないと、術師も補助監督も休みが被らないので」
「上のヤツらは休みだけど、ほとんどのヤツは休暇のフリした待機だもんな。実際、式の間に2人くらい呼び出されてたし、私にも電話があった。とはいえ驚いたよ。両方この業界で結婚は多いけど、非術師と結婚するなんて」

七海が少し間を開けて、あぁ、と納得した声を出す。

「家入さんは新郎新婦の紹介ムービーの際に離席されていましたね。非術師ですが彼女は見えますし、こちらの業界は知っています。小学生からの同級生ですし」
「なんだそうだったのか。……久しぶりに七海の笑顔を見た気がするよ」
「……長かったですからね、ここまで」

七海は微笑む。
家入の言う通り、限られた人間にも頻繁には見せない、穏やかで朗らかな笑みだった。七海はグラスに残ったカクテルを全て飲み干して一息つく。

「いい式でした、本当に。灰原らしい式でした」

2014年12月31日。
都内のホテルで開かれた灰原の結婚式を終え、2人はホテルのバーで飲み足りない酒を補給していた。灰原の友人代表スピーチに、式の計画まで手伝った七海はつつがなく終わった式に安堵のため息をもう1度ついた。

「引き出物がさ、灰原が作った米20キロを自宅に送るか、灰原の作った米が原料の酒か選べて良かった。アイツの米は美味いけど、1人暮らしにあの量はキツい」
「家入さんの引き出物に入っている酒は特別いい物ですよ。灰原がかなり時間をかけて選んでました」
「そう?後でお礼言わなきゃな。……しかし五条は遅いな。あれから連絡あったか?」
「いえ。1時間ほどで戻ると言っていましたが」
五条は式の途中で突然「ちょっと用事できた。1時間くらいで戻る」と七海に告げて会場を出て行ったが、式が終わっても戻ってこなかった。七海はスマホを取り出して連絡の有無を確認するが、やはり何も届いていない。

「スマホにしてもそれなのか」
七海のスマホのロック画面を見た家入が言う。
「こうしておくのが1番、人に早く聞けますから」
七海のスマホのロック画面に映っていたのは、6年前に失踪したみょうじなまえだった。教室の席に座ってカメラに向かってまっすぐ顔を向けて、楽しそうに笑っている。七海が彼女の同級生からもらった、1番よくみょうじの顔が分かる写真だった。七海が撮ったみょうじの写真は少なかったし、カメラや携帯を握る手が緊張してブレたものばかりで、人に見せる写真には向いていなかった。

「あれから6年だな……なまえは酒がどのくらい強いと思う?」
「1度だけ家入さんに飲まされた時に酔ってはいなかったので、下戸ではないでしょうね」

七海はドライマティーニをバーテンダーに頼みながら、彼女はきっとこのカクテルは苦手だろうなと考える。あの日から今までこうやって何度もみょうじのことを予想しては、1度も答えに辿り着けていない。

▲ ▲

6年前に七海がみょうじの失踪を知ったのは、任務帰りのことだった。
電車の乗り換えで下車した駅で夜蛾からの留守番電話を聞いて、大急ぎで寮に帰った。戻るとすぐに五条に彼の部屋に連れて行かれ、その先には家入と灰原も待っていた。
事件のあらまし、家入がみょうじの逃亡の手助けを夏油に任せたこと、どこに逃したか家入さえ知らないこと、上層部は夏油の時ほどではないが騒ぎになっているということ。それらを教えられるたびに、七海の顔から血の気がなくなって行った。

「俺が上層部を何とかするまで数年かかる。その間、七海はみょうじを探すな。必要以上に話題にもすんな。忘れたフリしろ」
「何故ですか。話題にもなんて」

すぐにみょうじを探すことは彼女の行きそうな場所を上に知らせることになる、と七海は言われる前から理解していたので、飛び出したい気持ちをおさえて高専に戻ってきた。しかし忘れたフリまで強いられることは考えてもいなかった。
五条は返事をせずに、徐ろに窓を大きく開け放った。そして虫を弾くように指先を動かすと呪力が生まれ、穴を開けたように空間が歪む。すると、少し先にある木から口元を布で隠した男が無様に落ちて、転がるように逃げていった。
その姿に七海は見覚えがあった。
夏油が失踪した際に、彼の寮室を見分しにきた上層部の後ろについていた人間たちと同じ姿をしていた。

「傑の時、俺も硝子も最初は張られたけど俺が今みたいに落としまくったから1ヶ月で消えた。オマエの場合はもっと長くなるだろ」

七海は男が落ちた木を見つめたまま、動かなかった。顔色は白く、血の気が抜けて、冷たく無表情で簡単に崩れ落ちそうな薄氷のようだった。しかし握り込まれた拳には、引いた血の気が全て集まったように青筋が何本も浮き上がっていた。


七海の目標はその時に定まった。
五条家の当主で現代最強になった五条悟が上層部に文句を言わせない存在になり、みょうじが安心して戻れる環境を作ってくれる。その日はそう遠くないと五条の強さを見ていてわかった。
だからこそ七海自身も文句を言わせない力をつけるために、4年生になると卒業まで任務をできる限り詰め込んだ。それはレベルアップを兼ねた、上層部と環境に対しての怒りの捌け口でもあり、自傷でもあった。任務で戦っているときだけはみょうじのことを忘れられた。

みょうじのことを深く誰とも分かち合えないのは、七海にとって想像以上の苦しみだった。
夏油の事件のように事実を語る分にはいいんじゃないかと灰原や家入などは時折話題を振ってくれたが、自分の口から1度語ると何かが決壊しそうな気がして七海は曖昧に返事をするばかりだった。そしてそのうち、気を遣って誰もみょうじについて語らなくなった。
そうすると七海はまるでみょうじが自分だけの幻想だったように思えて来て、揃いで買ったカップと家入から渡されたマフラーを見つめ、やり取りしたメールを何度も読み返した。
みょうじの寮室は片付けられてもう何もない。七海が失踪直前に渡した英語の参考書は七海の記名があったので彼の元へ返却され、迎えに行っていた教室にいるのは知らない新入生、自販機のラインナップも入れ替わり、みょうじがいた記憶の景色が次々と変わっていく。
そのうち夢に縋るようになり、任務が無い時は泥のように眠ったが、疲れすぎて夢はあまり見られなかった。

(付き合いがあったのは1年と少しの間だけだったのに)

七海の精神が摩耗するに比例して、長くくすぶる強い怒りが呪術と体術を急激に向上させていく。

(みょうじさんのことが少しも忘れられない。諦められない)

悲しみより怒りが長く続いた。上層部のやり口がひどく腹立たしいし、みょうじがこの世界のどこかで危険に晒されていることが頭にきてたまらない。
七海は時々その怒りを抑えきれなくて、上級呪霊の頭を叩き割りながら延々と涙を流したが、血や泥をかぶっていて誰もその姿を見た人間はいなかった。

卒業を目前にして、七海は任務中に自分に刺さる視線に気がついた。
その不快感が怒りに火をつける。視線の先に目的の呪霊がいたのも重なり、攻撃が空振った拍子に怒りを込めてコンクリート壁を殴った。その時、練っていた技が完成し、討伐対象呪霊と一緒に七海をマークしていた上層部の部下をとうとう始末した。
拡張術式を掴み、術式の解釈が広がると、見える世界も変わる。自分をマークしていた人間の気配が分かる。それらを返り討ちにすることがますます七海の成長を促して、とうとう誰も七海を追わなくなり、卒業と同時に1級術師に昇進した。

それからはもっと大変だった。計画通り灰原と組み、フリーの呪術師として仕事をする傍らで、五条が上層部に口を出し、圧力をかけられるようになる準備の手伝いとして、五条の任務の下請けや頼み事を引き受けた。期間としてそれは3年ほどだったが全国各地を飛び回り、1級術師として呪霊・上層部・五条の相手をしていると、七海の肉体と精神はかなり厚みを増した。


「みょうじはもう、上層部が積極的に追う術師・呪詛師に入ってない」
今から2年前。五条からそう言われて、七海はとうとうみょうじを探し始めた。

「七海、随分変わったよね。会ったら絶対みょうじさんびっくりするよ」

七海がそれを灰原に話したときの彼の言葉だ。確かにもう高専の頃の面影はほとんどなかった。髪の色はくすみ、背は伸び、体の厚みは倍以上になり、声は低く、顔から丸みは削ぎ落とされて表情も険しくなった。しかし呪術師界の関係者を避けているであろうみょうじのことを考えると、逆にそれは都合がいいと思った。

七海は溜めた金で人を雇い、もちろん自分でも仕事の合間を縫って北海道から南下する形でみょうじを探しているが、未だ見つかっていない。

▲ ▲

「お疲れー!いやーいい式だったね」
「後半ほとんどいなかった人がよく言えますね」

「いやいやいや!前半だけでも充実の式だったよ。僕が普段行く式なんて、彼氏や彼女と無理やり引き裂かれた2人が、生まれる前から決まってた相手と無理やりくっつけられて、会場の全員呪い殺してやろうかみたいな顔してるからね」
場にまたモデルのような男が加わって、さっき2度見した男は髪の毛の乱れを直した。何かの撮影で映り込んだときのためである。
五条は家入と七海の間の席に座ると、七海をじっと見た。

「て言うかさ、七海に久しぶりに会って一瞬誰かわかんなかったわ。お前この半年でまた強くなった?筋肉も増えたしもう壁じゃん。高専の頃はあんなに細長かったのに」
「私も思った。最後に治療に来たの1年前か?体の線がまた変わってる」
「五条さんの依頼で動いていればこうもなりますよ」
「七海は仕事できるからね。助かるよ。はいじゃあ、働き者の七海くんに最高のプレゼントです」

五条がスマホの画面を数回タップすると、七海のスマホから着信音が鳴った。見てみると、Googleマップのアドレスだけが載ったメッセージが届いており、タップすると山奥にピンが立っていた。

「その辺にみょうじがいるって」

七海の顔つきが一気に変わり、家入も立ち上がって七海のスマホを覗き込む。
「今まで散々そういう冗談に付き合いましたが、今回は本当なんですね」
「いやいや今までのは秒でバレる冗談だったでしょ。式の後半抜けたのはこの件ね。もしみょうじが見つかっても手出ししないように、改めて上層部の爺さんに釘さしに全員の所に回って来たんだよ。アイツら年末だからって遊びに全国各地に散らばってさ。世界一きたねえドラゴンボールかよ」
「……情報の出処は?」
「みょうじの同期に補助監督志望の子がいたじゃん。怪我して3年くらい前に辞めた子」
「覚えてます、背の高い方ですよね」
勿論覚えている。七海にロック画面のみょうじの写真を提供してくれた人物だ。

「そう。その子の妹が農業機械を扱う会社で働いててさ、その住所に納品に行った時にみょうじを見たって連絡入ったの。お姉ちゃんが部屋に飾ってる写真に写ってる人がいたよってね。それで“窓”に調査させたら本人は見つけられなかったけど、そこら辺一帯、呪霊全然いなかったらしい」
「誰かはいるな」家入は口角を上げて呟く。
「いますね。最低でも術師か呪詛師は」
「でしょ? “窓”からこの連絡が来たのがさっき。で、僕は抜けたわけ。ほら七海、お礼言えよ」
「ありがとうございます」
「いやスマホの画面見ながら言うなよ」
「正式なお礼はみょうじさんが戻ったらしますので」

そういうと七海は5000円札を1枚置いて出ていった。もう行くの?と、五条が声をかけたときには、届かない距離に行ってしまっていた。家入は笑って七海の背中を見送って言う。
「新幹線の最終、家に帰って着替えてもまだ間に合うからな」

▼ ▼

カレンダーをめくると2015年だった。
2014年12月をめくればそうなるのは当然だけど、驚いて1歩下がってしまう。山での暮らしは時間の流れに鈍感になって、たまにこうやってズレを指摘されるように驚かされる。
大晦日とお正月という変化は、音が欲しくてつけっぱなしにしているテレビのおかげで知ってたけど、テレビの向こうはいつも異世界みたいだから。そのくらいここの生活は変化がなく、穏やかで、平和だった。
窓から外を覗くと、お正月だけど畑に出ている人たちがいる。見回りは昨日したから呪霊はいないだろう。手伝いに行くか迷って、顔ぶれから畑に出るのが3度の飯より好きな人達だったのでいいか。窓の外の景色は全てに薄く雪が積もっていて、青空に照らされて真っ白に光り輝いている。

ここに来たのは偶然だった。夏油さんに助けてもらった後、彼と暮らす双子の女の子たちに勉強や社会生活を教える対価として衣食住を提供してもらった。
けれど半年ほどして、子供たちと出かけた帰りに上層部の追手が来た。返り討ちにしたものの私のせいで引っ越しになったので、1人でどこかに潜ろうと考えていたときに、この山を夏油さんに提案された。

この山は、夏油さんが助けた呪霊が見えるご老人が所有していた山である。ここに住んで、山に出る呪霊を祓って管理してくれないか、というのが夏油さんの提案だった。呪霊が見えて虐げられてきたが年齢や気性などで戦闘に向かない人たちが、安心して暮らせる場所を作りたいと夏油さんはこの山を候補地にして整えていたらしいのだが、多忙のために管理に手が回らなくて計画が頓挫していたらしい。
「管理といっても呪霊を祓ってくれるだけでいい。山の手入れや移住者との交流は気が向けば自由にやって。表向きは田舎にはよくある人がほとんど住んでいない畑が多いだけの土地だから、呪術師界に見つかることもないだろう。人数が増えたら農業とかしてみていいんじゃないかな。みょうじさんはのんびり暮らしてくれればいい」

そういう経緯でここに来た。
夏油さんに助けられた人がひとり、またひとりと増えて、今は10人ほどいる。みんなここで自給自足の生活をしたり、余裕ができて高原野菜を作って業者に売ったりと楽しんでいる。去年は農業機械を買い付けてかなり本格的になってきた。

遅い朝食を取ろうかと冷蔵庫を開けると、外から車の音がした。エンジン音からしてお隣のおばあさんだろう。お隣といっても直線で800メートルくらいあるけども。
私の家の前は車で入って来られない細い階段があり、特に冬場は雪のせいで滑るので、私しか上り下りできない。だから訪ねて来てくれた住人達は、車で階段の下まで来て電話をくれる。おかずを作りすぎたから持って来たよとか、呪霊が出たから畑に降りてきて、とか。
いつもどおりかかってきた電話に出ると『管理人さん、あけましておめでとう』とおばあさんの声がする。管理人。私のこと。本名は誰にも教えていない。

「あけましておめでとうございます。呪霊が出ましたか?」
「ううん。上がってきた男の人がいてね。聞いたら移住希望らしくて車で連れてきたよ。今、階段を登って行ったから」

……お正月に?移住者が?単独で?
移住者は夏油さんから事前に話があるけど、今回はない。……いやでも1回だけ夏油さんが忙しくて忘れてたのあったし、ミミちゃんとナナちゃんがここに来たがるので、そろそろ管理人を誰かと交代しようという話もあった。それが彼という可能性もある。
窓の向こうに階段を上がってくる男性の姿があった。明るいベージュのショートダウンに、黒いパンツ。髪の毛の色は光に透けて分からない。そして、かなりしっかりとした体格の男性だ。……ちょっとヤバいな。

いやかなりヤバいな。あの人、私よりすごく強い。

呪力が体の周りを淀みなく回ってる。あれで戦闘が苦手な移住者の可能性はない。あんなに強ければ夏油さんはそばに置く。脚の運び方、重心の移動の仕方、同業だから分かる圧、恵まれた体格。それに凍ってる階段をまるで土の平地を歩くように昇ってきてる。
交代になる管理人か――追手だろうか。

6年も経っている件にわざわざお正月に来る熱心な追手がいるとは思えないけど、念のために呪具を腰に忍ばせる。それに追手は1年通して忍者のコスプレみたいなの着てるし、なによりもし私がここにいると思って来てるなら、住人に尋ねて真正面からは来ないだろう。この家の裏は森だから、そこから回り込む方が任務達成率は確実に上がる。
……つまり追手だったとしても、管理人を私とは知らずに私について尋ねに来た、という可能性が高い。

考え込んでいる間にドアベルが鳴り、モニターに映ったのはやはり全く知らない人だった。
背丈も肩幅もあり、厚みがある。耳にかける部分がなくて貼り付けるような眼鏡をつけた顔はかなりシャープで日本人離れしていて、髪の毛も暗い金色だろうか。日本語にテキトーに返事をしてしまった海外からの迷い人……?国内外から人気のスキー場が隣山にあるので、ありえないことはない。
けど素性が分かるまで、直接顔を合わせない方がいいだろう。
スマホを見る。夏油さんに「移住の人が来てます。夏油さんの紹介ですか?」とメールをさっき送ったけど、お正月は家族と温泉旅行をすると言ったから、やっぱり返信は無い。
モニター越しに挨拶をすると、男性はこちらに顔を向け、落ち着いた声で挨拶を返した。珍しい眼鏡で表情は完全に読み取れないが、笑顔はない。

『このような日に突然すみません。お尋ねしたいことがあり、少しお話を伺うことはできますか』
モニター越しでは声がくぐもって正しい声色は拾えないが、はっきりとした滑舌の声は低い。
「……風邪をひいてまして、インターホン越しでも構いませんか?」
男性は「勿論」と言い、うつむくと何かを探しているようだったがすぐに顔を上げる。

『こちらの女性を探しているのですが、この辺りで見かけたことは?』
そういってカメラの前にかざされたのは、スマホの画面に映った、高専にいたころの私の写真だった。1番ないと思っていた可能性が当たる。
「……ありませんね。若い女性はこのあたりにいませんから」
何も知らない無関係の管理人。で、ここは押し通す。この人と戦っても勝ち目はない。逃げるしか手はない。彼は私の返事に頷くとスマホをしまった。
『アナタがご存知なのはこちらの山だけでしょうか。隣の観光地になっている山は?』
「私はこちらだけですね。あちらで別荘などをやっている方に伺った方がいいかと」
『そうですか。ところで、貴女のお名前はみょうじなまえ、といいませんか?』

詰んだ。
声バレしている?いやカマをかけられているだけかもしれない。声の情報まで共有されているなんて無いはず。
「違います。貴方のお名前は?」
話をそらし時間を稼ぐための私の質問に、彼は即答した。

『七海です。七海建人』
「―― 嘘を、つかないでください」

怒りが隠しきれず、今までの誤魔化しを無視した言葉が口をついて出る。
いや誤魔化しなんて最初から効いてない。七海さんを出すなんて、あちらは最初から確信がある。私が6年前に諦めて、ずっと忘れようとして忘れられない人。

『本当です。ここを開けていただけませんか。開けていただけないなら、無理に開けることになります』

七海さんを騙る追手は初めてだ。腰に仕込んだ呪具の短刀を握る。けれどなんで6年も経ってからこんな手を使ってくる?変身できる術師が入った?いやそもそも似ていないけど。しかし何であっても、相手が私よりフィジカルが格段に上なことには変わりない。
相手と術式相性が相当良くない限り、大きく開いたフィジカル差を埋めることはできない。そして私は相手の残穢や呪力を触れないと使えない後出しの術式だ。もう狙うは2階から仕掛ける奇襲からの逃走しかない。
階段に向かって踏みだそうとした時だった。

『そのままドアの前に、ドアの直線上にも立たないでください。手荒な真似をしますが証明をしますので』

モニターから聞こえて来る声に、体が勝手に止まる。見た目は全然似ていなくても、声が低くても、言葉の選び方がどうしようもなく七海さんなのだ。本当に七海さんじゃないかと疑ってしまうくらいに。振り払って1歩踏み出そうとした時、地震が来た。

家が大きく揺れて、固くて重いものが玄関ドアに続く廊下に落ちたようだ。その衝撃と轟音が床に波として伝播して、家の揺れと違う震えが来る。壁にかけていたカレンダーや時計が落ちて、机上のものが転がっていく。そして目の前を呪力の塊が飛んで行ったが、何かまでは早すぎて見えなかった。この地震をチャンスにしたかったが、何かが違うという違和感が体の動きを鈍らせる。
遅れて踏み出し、そして廊下の奥を見てわかった。何かが廊下に落ちたんじゃない。そもそも廊下の上に重いものなんて天井ぐらいしかない。
玄関にトラックが猛スピードで突っ込んでもこんな曲がり方はしないってくらい、くの字に折れ曲がった玄関ドアが、玄関の真正面の廊下の先にある壁に刺さっていた。さっき目の前を飛んで行ったのは呪力によって殴られた玄関ドアだったんだ。これを吹き飛ばすほどの威力が打ち込まれたことで、家全体が揺れた。地震なんて起きてない。
でもこの家、何かあった時の住民全員の避難用に夏油さんが立てた耐震鉄筋コンクリート住宅だし、玄関ドアはスチール製なのに。

後ろから冷気が吹き込んでくる。振り返るとモニター越しに話したあの男が立っていた。近くで見ると、さらにその屈強さが際立つ。逆光を背負って立つ彼はその拳に揺らめく呪力を回して、白い息を吐いていた。
私は吹っ飛んだ玄関ドアに触れて、術式を展開した。

七海さんじゃない。
七海さんなわけない。

6年前に、勝手に私が切り捨てた。七海さんならもう、私よりずっといい人と幸せに暮らしてる。世界中の女子があんないい人おいておくわけないだろ、追手いい加減にしろ。だからこんなところにわざわざ探しになんか来ない。お正月ショックで見ている白昼夢だ。
けれど、7対3に折れ曲がった分厚い玄関ドアについた残穢が彼であると言っている。残穢から呪力を辿る私の術式が、間違いないと言っている。
胸が震える。冷気で頭が冷える中、部屋の中に入って来た彼の首元にあったのは、私が家入さんに買って渡すようにお願いしたベージュのマフラーだった。

「分かって頂けましたか」

いつのまにか座り込んでいた私の前に彼は膝をつく。完全な暴の圧に気圧された。仕組みがよくわからない眼鏡の奥の瞳に、彼の外見の中で唯一の強い既視感があった。彼が眼鏡を外す。あの頃、目を合わせるといつも少し恥ずかしそうに一瞬逸らしたあと、見つめ返してくれた緑色の目がそこにあった。
髪に手を伸ばす。風圧で乱れた髪は見た目より長い。彼は私の手を握り、もう片方の手でセットされている髪をぐしゃぐしゃと崩し、手櫛で撫で下ろした。
七海さんだ。
元から薄かった幼さと柔らかさが完全に抜けて、とても変わったが、あの七海さんの面影が確実にある。

「なんで、どうやってこんなところがわかったんですか」
「そこは長くなるので後で話させてください。五条さんが上層部に手出しをさせないようにしてくれましたから、もう安心して暮らせます。一緒に帰りましょう」
「本当に帰ってもいいんですか?」
「はい」
「夢じゃなくて?」
「どうしたら信じてもらえます?……私も、今6年ぶりにアナタに会えたのが夢ではないかと一瞬疑いましたけど、夢じゃありません。現実です」
「いや、だって。もし騙されてるなら、死ぬなら、今がいい。七海さんに最後に一目会えたと思って死にたい」

顰められた眉。七海さんだ。七海さんが私を抱きしめる。でも収められた胸がだいぶ違ってとんでもなくバルクアップしている。
「どうすれば信じてもらえますか。私に違いありませんから帰りましょう。お願いします」
腕の力は強くなるが私の骨がちょっと軋んだら、すぐに力を抜いた。確かに本当に七海さんだ。
「……ここで、住民を呪霊から守らなければいけないので、すぐには帰れないんですけど……」
ここに来た経緯やここでの役割を伝えると、七海さんは残念そうに「……確かにそれはすぐに帰れませんね」と頷いた。この思慮深さは七海さんだ。追手じゃこの返答は無理だ。

「管理人としての貴女の業務を引き継ぐ相手を待つ必要がある、ということですね」
「理解が早い……」
「みょうじさんは夏油さんへその件について連絡をお願いします」
「七海さんのことを夏油さんに話しても大丈夫です?夏油さんって今どういう扱いになってるんですか」
「彼が何かの宗教の教祖ということは呪術師界も掴んでいますが、動向は不明です。無理に何かをした所で相手をできるのは五条さんしかいませんし、そうなれば周囲への被害が甚大すぎる。手出しできない存在、という所ですかね。なので私の名前を出してもらっても問題ありませんし、私も彼について必要以上に探りません」

そう言って七海さんは折れ曲がった玄関ドアを両手で抱えて外に出ていった。私がメールを打つ傍らで、硬いものを殴る大きな音が何度も聞こえてくる。夏油さんに七海さんが迎えに来たこと、帰れること、交代の管理人の要請、それと最後に家の修理の人を呼んでその費用は私に請求してほしいというメールを終えた頃、七海さんが表面はボコボコだけど大体まっすぐになった玄関ドアを持って帰って来て、玄関ドアがあった部分を塞ぐように立てかけた。

「ガムテープはありますか?」
「大量にあります。家の修繕や農業でよく使うので」
「では、後で隙間部分を塞ぎましょう」
「……七海さん」
「はい」
「6年間も心配をかけてすみませんでした。結婚とかされました?」

七海さんがじっと私を見下ろす。顔が見られない。罪悪感で申し訳なく、とても顔は見られない。
「あの件もこの6年も、貴女には一切非はありません。ただの被害者です。あと結婚なんてしていませんし誰とも付き合っていません。5年10年経っても、貴女に嫌われても、憎まれても私は貴女が好きだと言った通り、みょうじさんのことを変わらず愛しています」

七海さんの手が伸びてきて、抱え上げられ、強制的に視線を合わされる。顔に熱が集まるのがわかる。目を閉じると「開けてください」と笑いを含んだ声で言われる。

「みょうじさんは、私のことをまだ好きでいてくれますか」
「好きです。6年間、七海さんを忘れたことは1度もなかったんですから」
「……私だけ貴女のことを想っていなくて、よかった」

七海さんが抱きしめてくる。また骨が悲鳴をあげたが今度は離してもらえなかった。痛いし、キツいし、温かい、鼓動を感じるし、全然夢じゃない。
怪我したり、寝落ちしたりして背負ってくれたとき、任務で疲れて肩を貸してくれた時。
あの時に香った、何よりも安心する七海さんの香りがした。

2023-11-03
- ナノ -