「七海、数学の問8の3教えて!!」
ノックの返事を待って七海の部屋に入ってきた灰原は、言い終わる前に1歩下がった。
部屋に来た先輩に勉強机を乗っ取られるので、と1年生の時に七海が部屋に渋々置いたローテーブルの上で、七海もみょうじもノートを広げていたからだ。帰ろうとした灰原を七海が引き止め、同時にみょうじは急いで教科書やノートをテーブルから下ろして灰原のスペースを作った。
「ごめん!邪魔したよね」
「全然ですよ!訂正ノート作るのを七海さんに見てもらってただけなんで」
「1年も中間テスト返却されたんだね。どうだった?」
「七海さんのお陰でいつもより点数がすごい良かったです」

灰原がローテーブル前に座ると七海が入れ替わりで立ち上がり、クローゼットのダンボールの中から1冊の参考書を持って来てみょうじの前に置いた。
「前にも話した通り高専の指導レベルはセンター試験の8割突破程度なので、教科書に加えてこれも完璧に理解をしておけば今後苦労はしませんから、よければ使ってください」
渡された参考書はページ割れも表紙への書き込みもないが、表紙の印刷は擦れていて使い込まれたことが一目で分かった。みょうじが軽くめくって見ると、長文の中の単語や1文に薄く線が引かれていたり、設問の数字に斜め線や英単語の意味が書かれたりしていた。「書き込みがある」と嬉しそうにみょうじが言う。
「消してください」
「頭がいい人の書き込みはめちゃくちゃ助かるので消しませんよ!」
恥ずかしいので消してほしいが、みょうじが嬉しそうだと七海はもう何も言えない。最後の抵抗として自分の消しゴムをみょうじの前に置いた。

「七海が解いてたやつだから難しいんじゃない?」
灰原がみょうじと一緒に参考書を覗き込む。
「つまりコレができれば、今後問題はないということですよ」
「長文2行目ですでに知らない単語がある……灰原さんは苦手科目あります?」
「うーん……特にコレって苦手なのも得意なのも無いかな」
「灰原は授業で聞いた所はほぼ理解しているし忘れないので、試験前にそこまでやらなくてもそこそこいい点数を取ります」
「だから応用でいつもひっかかるんだけどね」
「なんかここに来る人、勉強できる人多くないですか?」
みょうじは頭を抱えながら言った。
「まあ、自頭がいい人は多いですね。そうでないとこの業界でやっていけないので、特に非術師家系の人間はスカウトされる際にそういうところを見られているのでしょう。……灰原、なにか飲みますか」
「僕はいいよ、これだけ教えてもらったら戻るから。あ、2人のマグカップってお揃いなんだね。一緒に住んでるみたいでいいね!」

ローテーブルの上に置かれたふたりの飲みかけのマグカップは、この前に出かけた際に七海が買ったものだった。七海は何も返事をせずにルーズリーフを1枚出すと灰原が分からなかった数学の問題を解き始めるが、頻繁にシャーペンの芯を折っている。
みょうじは七海がマグカップを2つとも買うと言った理由を今更理解して、芯を折る音が脳内に染み渡った。正式に付き合ってからやけに七海さんを可愛いと感じるな……と思いながら、灰原の次の言葉を聞くまで心を震わせていた。

「これでやっと最後の中間、終わりだ」
「え?!4年ってテストないんですか?」
「うん。テストは3年で終わりだよ。4年生は卒業までの準備期間で、呪術師や補助監督を続ける人はそのまま任務に出たり、大学や就職する人は勉強したり、バイトで1年いないって人もいたらしいよ」
「なるほどなぁ……ちょっと聞いてましたけどテストも無いんですね。嬉し!!と思いましたけど逆にダラけそうで大変そう」
「……灰原、解けました。途中式は省略せずに書きましたけど分かりますか」

上から下まできっちり書かれたルーズリーフを灰原は受け取ると、ふたつほど七海に質問して「分かった!ありがとう!!お邪魔しました!!」とさっさと部屋を出ていった。
「さっき解いてた問題、グラフがX軸方向に回転してませんでした?」
「数Vになると回転しますよ。その体積をもとめます」
「なぜそんなことを……?」
「それはわかりません。ちなみに数Vは3年からで、センターでは使わないですが2次試験で必要らしいので、理系学部への進学が視野にあるならちゃんと勉強しておいた方がいいですよ」
「そういえば、七海さんと灰原さんは4年生に……」
みょうじが言いかけた時だった。
2人の携帯が同時に鳴り、一瞬で頭が切り替わる。学生同時に連絡が来る場合は、大体が任務か高専からの通達事項だ。会話を中断して携帯を見ると、任務で出張中の夜蛾からのメールだった。

内容はみょうじの代わりに夜蛾が販売員に尋ねた質問の報告書で、提出先窓口・みょうじ・七海・五条・家入へ一斉に送られていた。
無言でメールを読む。解答は、質問に直接関係が無い長ったらしい自賛を込めた術式説明から始まっていた。

(随分おしゃべり好きだな)

七海は語りの不快感に内心で舌打ちをしながら画面を送っていく。これでも夜蛾先生がまとめた方だろうなと思う。
込み入った過程を踏む術式は例え六眼でも完全に把握することが難しく、日をあけて喋らせた自白をいくつも照らし合わせ、整合性を確認し、信用に値するか見極める必要がある。そのため術式についての発言の記録は省略ができない。
質問への明確な解答が出てきたのはかなり後半になってからで「尊い犠牲によって完成した呪具は、私の意志や力を完全に離れたところにある。ただ私が死に至った場合はどうなるかは分からない」という発言が「呪具の無力化は術師では不可能」と夜蛾によって結論づけられていた。
七海がその文章を目で追った所でみょうじが同じ部分を小声で読み上げると、七海は机上に載っていたみょうじの手に自分のを重ねる。七海の額には青筋が走っていた。
「七海さん、大丈夫ですよ。多分そうだろうなと思っていましたし、これが本当かもわかりませんしね」
「……確かに、そうですが」

移送日はもう明後日に迫っていた。解答が正しいか探る時間も手段ももう無い。
報告の最後に添えられていた夜蛾からの連絡に「自白に基づいた調査の結果、昴尾 久司(通称 販売員)の被害者は100名近くになっており、報復の可能性もあるため移送には1級呪術師 夜蛾正道が同行し、移送車には結界術を施す」とあった。
この被害者の数も真実ではないとみょうじは思う。被害者を見つけたいとか、残りの呪具を探すとか、きっとそういう考えは上には無い。この呪具を作れる存在をより早く使いたいのだ、と考えていると頭の奥で光が白く弾ける。
(最近なんか……これ多いな)
一瞬目眩がしたが、すぐに何事もなかったように治まった。


「さっき灰原さんが話してくれましたけど、おふたりは4年生をどう過ごすんですか?」

話を切り上げるようにみょうじは話題を戻すが、七海は重ねた手をそのままに返事をした。
「私も灰原もフリーの術師を検討していますから、4年もここに残ります。卒業後は灰原の地元を中心に活動します」
「ずっと高専付きはしないんですか?」
「ここでやるのは命がいくつあっても足りませんから。みょうじさんは決めていますか?」
「私は……まだ世の中に出回っている販売員の呪具を全部見つけて、破壊しようと思います。探す間はきっと収入が不安定になるんで、何年か高専付きで働いてお金貯めようかなと」
「それ、私にも手伝わせてください」
「えっ」

逃げるのではなく驚いて引っ込みそうになった机上のみょうじの手を、七海は強く握った。
あまりにも簡潔な七海の即断即決の提案に、みょうじは大きく目を開いて何度か瞬きをした。もちろんこの事は1度も七海に話していない。考えてはいたが、決断したのはさっきのメールを見てからなのだから。
みょうじの目に真剣な七海の姿がいつもより長く大きく映る。目をそらしたいができない。自分に向き合ってくれている彼にあまりにも礼を欠いているという考えもあったが、もっと本能的な部分でみょうじは七海の視線から逃げられなかった。そのくらい七海の視線も声色も真剣で、告白したとき、いやあの時のような不安や動揺がない分、よりはっきりと全てがみょうじを射抜いていた。

「今度は手伝わせてください。私も販売員の呪具が世の中に出回っているのは捨て置けない」
「いや、でも。灰原さんの地元を拠点にするってことは、灰原さんと組む約束をしてるんじゃないですか?」
「問題ありません。灰原は知人の米農家を手伝うのと呪術師を兼業するので、私も同じように何かするつもりでしたから、余裕があります」
「私のは長く時間がかかると思うんです。5年とか、下手したら10年とか」
「でしょうね。やりがいがあります」

七海は、ゆっくりとみょうじに両手を伸ばす。
声の勢いとは酷くちぐはぐだった。もったいぶったわけでなく、躊躇いと拒否される恐怖からだったが遮られることなくみょうじは七海の両腕の中に収まって、しばらくして彼女も七海を抱きしめ返した。初めて七海と出会った際に背負われたときより、ずっとその体は厚みを増していた。
「…………ありがとうございます、よろしくお願いします」
「先は長いですから、2人で考えて行きましょう。貴女だけで背負い込まないでください」

……なんか七海さんの中で一生一緒にいることが決まってないか……?
みょうじは思ったが言わなかった。彼が人に告白するということは、結婚も可能と思わないとしないだろう。というのは当事者になる前から想像できた。そのくらい七海建人は人に対して真摯的である一方で、人に失望するたびに壁を築いて、懐にいれた人間を大切にしている。

「七海さん。……ちょっと目をつぶってもらってもいいですか」
七海は言われるまま目を閉じると、額に柔らかなものがふれた。
それがなにかよく分からずに、七海は目を開けた後もしばらく眉を顰めていたが、もう1度みょうじが同じ所に同じようにキスをしたことで、丸々と目を見開いた。後ろにおもいっきりのけぞって、骨が1本くらい折れてそうな大きな音を立ててベッドにぶつかる。顔は一気に赤くなり、耳にかけている前髪が落ちてきて、ポカンと口を上げて腰が抜けたような体勢でみょうじを見上げた。
みょうじもこんなに動揺している七海を見たのは初めてで「ヤバかった?七海家はキスしたら死ぬとかある!?」と不安になるほどだった。

「な、なんでアナタからするんですか!?」
「だ、ダメですか」
「ダメ、では、ないですけど。アナタその、ダメですかと聞くのは止めてください。ズルいです。アナタも目を瞑ってください」
「え!?いやですよ!そんな競うみたいなの。そういうものじゃないっていうか……」
「それは……そうですね」
「そうですよ」
そう言うとすこし間を開けて、みょうじは声を上げて笑った。今まで見たことがないほど朗らかで楽しそうな笑顔だった。七海の驚いた顔に、みょうじは急いで弁解する。

「いえ、違うんです、なにかが面白かったんじゃなくて嬉しくて。……七海さんのおかげで、なんとかやっていけそうです」
七海はこれが正しいみょうじなまえなのだと初めて分かった。みょうじはよく笑うけれど、いつもどこか遠い所に心があるような目をしていたので時折七海を心配させたが、今の笑顔は七海の心をさらにまた動揺させて滅茶苦茶にした。これが事件に遭ってから今日まで失われていたみょうじなまえだと、七海は理解した。

「アナタはズルい……」

七海は絞り出すように言って、キスしようともう1度抱きしめた。こんなに好きでどうする。彼女はよく笑う。これから毎日あの笑顔なんてどうする。そう思うそばで、初めてをこんな勢いで終らせるのは、という気持ちが急に湧き上がって来る。結局みょうじが苦しいというまで七海は抱きしめ続けた。

2023-10-21
- ナノ -