※名前付きモブがいます


■任務概要
座宇尾学園高校。
東京都▲▲区に所在する共学の私立高等学校。中高一貫教育で近隣に中等教育学校施設を持つ。
本館・東館・1号館・2号館・体育館・ホール・武道場を持ち、生徒数624名。
2008年6月から9月にかけて、6名の学生が放課後の部活動時間に本館校舎内にて舌に刺傷や裂傷を負う事件が発生。
被害者は事件の記憶がなく、気がついたら怪我をしていたとのこと。周囲にいた学生も事件現場を目撃していない。
被害者3・4発生時に介入し残穢を発見。

■被害者一覧
・6月16日
被害者1 軽音部 康家 夕
被害者2 コーラス部 松渕 那智子
・7月08日
被害者3 軽音部 鍋坂 光郎
被害者4 軽音部 浜下 夢奈
・9月17日
被害者5 吹奏楽部 保多 陽見  
被害者6 コーラス部 江蔵地 新



「ごめんねふたりとも。今日デートだったんでしょー!あ、まだデートじゃないのかな?」
座宇尾学園高校駐車場、車内。職員の車が並ぶ中でも黒塗りのセダンは異質な空気を放っていた。後部座席で概要書類を読む七海とみょうじに、補助監督の都巻は申し訳無さそうに言う。
「あの……それどこから聞きました?」みょうじが尋ねる。
「夜蛾先生だよ。でも今日は正直すぐ終わるかな。みょうじさんがアサインしてくれたから残穢を見てもらって、校内パトロールして、問題なければ解散。あとは後日呪物設置」
安心して見ていられると職員から専ら噂、と学長が言っていたのがみょうじの頭によぎる。本当に結構知られてるんだなといたたまれなくなり、七海を横目で見る。
七海はいつもより強く口を引き結んでいるように見えた。みょうじは七海がこういうことを言われるの嫌いそうだなと思いながら、どう反応していいか分からず愛想笑いでごまかす。
みょうじの予想は外れていた。実のところ七海も都巻への反応が分からず、しばらくして「7月8日と9月17日がかなり空いていますが、この間は何も起きない状態でしたか」と任務の話題に戻した。

「その間は事件を警戒して校内での部活は全面禁止。校内部活生は中等部に行ったり外部施設をレンタルして部活してたんだって。で、9月16日から校内での部活を解禁したらまた事件が起きた」
「もしかして6月16日と7月8日の間も部活中止してました?」みょうじが尋ねる。
「そう。6月17日から中止して7月7日に解禁。本館校内で・放課後に・部活をする。が今のところ条件かな?でも部活中止の間は校内居残り禁止だから、部活が絶対条件かは判断できてないみたい。今日も放課後は居残り・校内部活禁止だから、探索しやすいと思う。じゃあこれ来校者証ね。首からかけておいて。私は車待機してます」

都巻に見送られて車を降りる。夕暮れが迫った空にはグラウンドから響いてくる部活生の声がかすかに聞こえた。夏が終わり、秋特有の爽やかさのおかげで活気あふれる時期なのに、不気味な事件のせいで乾いた静寂だけがいる校内に2人は地図を片手に踏み入った。

▼ ▼

「やっぱり残穢は消えてますね」
「呪霊や術師が弱いほど残る期間が短いですから。舌に怪我を負わせる程度なら低級の可能性が高いので尚更です」
「役にたてなさそうですね……」
みょうじの術式は残穢に触れることでその術師や呪霊・呪具の位置を特定し、そこから距離を無視して攻撃に移れる。ただ残穢が薄いと特定さえ難しい。
校舎に入った位置から1番近かった3階西廊下に向かい、そのまま6月16日と7月8日の現場が集中していた3階を調査したが残穢は消えていた。
全ての被害者が、部活の個人練習や移動中で教室や廊下にいたときに被害を受けている。最後の9月17日の現場のひとつである2階東廊下に向けて歩きながら、みょうじは苦い顔をした。
「人に見られてないときにしか術式を使えない。みたいな縛りや条件があったんでしょうか。これだけ部活をやってれば誰か見てもいいはずなのに」
本館で活動する部活は軽音部、コーラス部、吹奏楽部、家庭科部があり、部員数は合計で70人を超えている。家庭科部以外は練習で放課後の教室を使っているため、誰も見ていないというのは狙わない限り難しい状況だった。
「それはありえます。ただそうなると敵は呪霊ではなく呪詛師でしょうね」
「なんでですか?」
「縛りや条件はある程度の知能がないとできません。呪霊なら術式が使える上級呪霊しか使わない手法ですから、そうであれば残穢はまだ消えていないはず。しかし今回は残穢がない。なら低級呪詛師が力の底上げに縛りを用いた、と見るのが妥当というところです……面倒だ」

七海が任務の時に言う「面倒」は「面倒くさい・やりたくない」ではなく「厄介」の意味合いが強いと知るのに、みょうじは少し時間がかかった。初対面の頃の七海は、何もかも面倒くさそうな冷えた目つきをして見えた。
けれど入学してよく話すと、文脈から「面倒だ」は「厄介だと解決が遅くなって被害者が増えるから嫌だ」の意味合いで使っていることが多いと気づいたし、表情は単純にちょっと目つきが鋭いだけ。
ただ日常において上級生、特に五条に対して使う「面倒」は「面倒くさい・やりたくない」の意味が100%だが。

「呪詛師の場合は呪物置きでも解決しませんけど、そういう場合って地道にはりこみですかね」
「前まではそうでしたが……今回からは恐らく、次に被害者が出た時に即みょうじさんが呼び出されて術式で場所の特定をさせられます」
「やっぱ事後対応になってしまうんですね」
「事後対応でも以前と比べたらマシですよ。呪詛師絡みは被害者を何人出されても対応ができないことが多いそうです。呪術師界が張り込みを期間を決めてしかできないのを呪詛師も承知していますから、時期をズラして犯行が繰り返されることが多かった。けれどみょうじさんの術式のおかげで、今後は解決できる件数もあがるでしょう」
「それは嬉しいですね」
彼女の半歩先を行く七海はまた苦々しく思う。この業界で役に立つということは、それだけ命を危険に晒すということだ。

「……みょうじさんは高専卒業後どうしますか」七海が問いかける。
「呪術師になりますけど、学生みんなそうじゃないんですか?」
「大体はそうです。今と同じで高専付きの術師になりますが、フリーでやる手もあります」
「冥冥さんみたいな?」
「そうです。高専付きと異なり、自分で引き受ける仕事が選べます。自分で管理しなければならない事が増えますが、任務危険度は下がります。なのでみょうじさんも、私や灰原と一緒に……」
七海が足を止めて振り返り、みょうじに問いかけようとした所で「あ」とみょうじが声を上げた。何事かは聞かなくても分かった。目的地である2階東廊下。1番奥の教室前の廊下天井に残穢が残っていた。
「ありましたね。椅子に乗って届くかな」
「無理でしょう。肩車します」

七海が片膝をついてしゃがみこむ。その背中にまたがることなんて、みょうじには考えられなかった。申し訳ないと単純に恥ずかしいが5対5。
例えば日頃から彼女を弄り倒してくる五条相手であれば「さーせん」と言いながら2秒で乗れたであろうが、相手は七海である。体重、自分の臭い、服の清潔さ、日頃から気をつけていても、なにもかも「今日は良くないかもしれない」という気になってくる。
とはいえこれは人命に関する任務。何もかも一旦しまいこんで、制服をワイドパンツにしてよかったと過去の選択に感謝しながら「失礼します」と七海の首の付け根にしゃがみ込む。ゆっくりと七海は立ち上がるが、乗っているみょうじはふらついてしまい、極力七海の首に負担が行かないように重心を移動させながら、彼の頭を抱え込むように抱きしめた。

▼ ▼

(こうなるとは思っていたがたまったものではない……たまったもんじゃない……たまったもんじゃない!!)
食いしばった歯がこすれ合う音が出そうになるくらい七海は奥歯を噛み締めた。いい匂いも柔らかさも体温も、首と後頭部にとんでもないほど感じられるが、淡々とみょうじを持ち上げる。意地で冷静に立ち上がればみょうじも安定し、両手を七海から離して天井の残穢に手を伸ばした。
「どうですか」
「……遠くと近くで感じます。近いのはあっちですね」
「あの緑色の屋根の家の方角ですか?」
「はい。七海さんと初めて会った時に遠くの呪霊を感知したのは、すぐに存在を捉えられたんですけど……今回のは近いのも遠いのも弱くてぼやけてますね。やっぱり残穢が薄すぎます」
窓の向こう、学校とは細い道路を1本挟んで向かい合う住宅のひとつである、緑色の屋根の家の方向をみょうじは指差した。眉間にしわを寄せてまた目を強く閉じるが、やはりぼんやりとしか当たりがつけられない。
「反応が2ヶ所というのはよくある状況ですか?」
「式神と本体、呪具と使った本人とかの場合にありますね」
「成程」
しらみつぶしに周辺を探索してみるしかないと、みょうじが肩車から降ろしてもらおうとした時だった。

「あの」

少し低い女子の声が響いた。ふたりとも周囲への警戒を怠るほどに肩車と残穢に気を取られていた。七海が振り返った先にいたのはジャージ姿の女子生徒だった。
「そこのロッカーの荷物を取りたいんですけど」
彼女は廊下に並んだロッカーを指さした。七海が浅く会釈をして教室側にどけると、ちょうど七海がいた場所にしゃがみこんで教科書を取り出し、訝しげな視線をふたりに向けた。
「あの、なんで肩車してるんですか?ていうか他校の人?」
「私達は他校のオカルト研究部でこちらの校長と知り合いのため、特別に取材をさせてもらっています」
早口で淡々と七海は話す。
こんなガバガバ設定でも、こう言って来校者証を見せればみんな信じるのだ。実際校長には話しが通っているので確認されても問題ないのだが、今まで1度もされたことがないのでどこもかしこもセキュリティが甘すぎる。と潜入するたびに学生や職員にこの説明を述べる七海は思う。
「1年生ですか?私も1年なんですよ。部活何してるんですか?」
1年の教室前のロッカーだ。彼女も同学年だろうとみょうじが警戒を解くために話題を振ると、彼女も少し安心したのか目元が緩んだ。
「陸上部……っていうか、学園は最近の事件をオカルトで済ませてんですか?」
「どうでしょうね」七海は視線を泳がせた。
「校長が通すってことならそうなんじゃん……やだなー……やっぱアイツが言ってたのホントか」
「何か噂が?」
「この前の事件が起きた時に他校がウチと合同練習やって。その時に他校の生徒が、ちょうどここ。この位置で女子が天井を見上げて全身痙攣しながら立ってたんだって。怖かったから見るのやめたらしいんだけど、なんか違和感あってあとで思い出したら、その……」
女子生徒は言い淀み、吐き出すように続けた。
「ものすごく天井に近いところに頭があったらしくて。さっきの子、一体身長何センチだ?って……」

七海は淡々と、みょうじは少し青ざめて話を聞く。呪霊は見慣れていても、その微妙な薄気味悪さは背筋に来た。
「……まあ外からこっち見上げても足元見えないから、本当は椅子に乗って天井に向かって必死になんかの作業してただけだと思うけど」
「その噂を聞いたのは、その件だけですか」
「たぶん。あー……なんか話してたら怖くなってきた。………私オカルト、ダメなんです。部活、戻ります」
そう言うと彼女は小走りで戻って行った。校舎には静寂が広がり、夕暮れによって影と光のコントラストは強くなり、不気味さが増している。
「みょうじさんはどう思います?」
「被害者とその女子が同一人物であれば目撃証言になりますね。報告して照らし合わせてもらいましょうか」
「そうですね……ところでもう降ろしていいですか」
「あ!すみません!重かったですよね!?」
「重くはないです」
ゆっくりと慎重に地面に足をつけてもらい、みょうじが降りて見上げた七海の顔は真っ赤だった。
「暑い方でしたか」
「いえ暑くもないですから少し外でも見ていてください」
顔をそらして窓の方を指差す七海の熱が冷めるまで、みょうじはグラウンドを見ながら任務資料を眺める。
舌の傷は刺し傷だが、傷口はアイスピックのようなもので刺されたようなものもあれば、舌先を縦に切られた者もいる。もし呪詛師であれば一体なんのために?
新情報はあったものの、どれも推測の域をでない。今日はパトロールをして終わりだろうか、と資料を畳みながらグラウンドで走る陸上部を眺めた。
熱が冷めた七海も彼女の隣に立って、外を眺める。

「もし七海さんが普通校行ってたら、何部に入ってました?」
「ここに載っているのなら……陸上部か水泳部ですかね」資料として貰った学園のパンフレットを見ながら七海は言う。
「意外ですね」
「個人競技で、自分のペースでやれそうなので」
「私は七海さんにはバスケ部が似合いそうだなーと。ほら身長ありますし、運動神経いいですし。チームのこと考えてくれそうですし」
「貴女はバドミントン部のイメージですね。家入さんとよく一緒にしているでしょう。あと貴女、暑いのが苦手なので」
「あはは。そうですね。バド好きです」
「私もシュートするだけなら好きですよ」
「灰原さんとよくやってますもんね」
「彼が好きなので。灰原はバスケ向きですよ」
「でも七海さん、灰原さんにお願いされてバスケ部入ってそう」
「入りませんよ。面倒です」

七海は小さく笑って、考える。きっと一般校にお互い進んでいたらみょうじと巡り合うことなんて無かっただろう。1年と3年で、選ぶ部活も違う、そもそも出身も違う。きっと一生交わらない。
けれどもし時間を戻ってみょうじを呪術高専に入れない道があるなら、七海は絶対にそれを選ぶ。
そして自力で、なにがなんでも、どこにいてもみょうじを探し出す。
そう考えながら、昔は見慣れて今は遠くなった、空の番号がひとつもないロッカーに手をついた。

陸上部の生徒たちは練習を終えたのか、次々とグラウンド横のコンクリートに引き上げて地面に座ったり転がったりして休憩を取っている。そろそろ部活時間も終わりなのだろう。その横を外練習から帰ってきたのかジャージの集団が歩いていく。その中に1人、立ち止まって、明らかにこちらを見つめる学生の姿があった。
「「げっ」」
瞬間、みょうじは1歩下がり、七海はみょうじを自分の影に隠すが、七海が隠したことが1種の証明にすぎなかった。
座宇尾学園高校のサッカー部員である苗賀は、七海に視線をあわせながら走ってくると窓から見える視界から消えた。
「マジですか!?……こんなピンポイントでバレるとは……」
「逃げますか?」
「…………大丈夫です。ここできちんと断ります」
みょうじは七海の影から出てきて、苗賀が来る方向へ1歩前に出る。
七海は先日のマックの帰りに、苗賀が言ったすべてをみょうじに話した。中でも電話番号の仲介をみょうじの意思を確認せずに自己判断で断ったことを謝ったが、みょうじもまた苗賀が七海に喧嘩を売る物言いだったことを含めて、謝るばかりだった。

「みょうじと七海先輩、なんでいんの!?」
すぐに階段を駆け上がってきた苗賀は息をきらせて2人の前に立った。
「…………私達は他校のオカルト研究部でこちらの校長と知り合いのため特別に取材させてもらっています」七海がまた唱える。
「オマエ、オカルト研究部なんか入ってんの。……この前、俺が七海先輩に会ったこときいた?」
「話したことも全部聞いたよ」
みょうじはうなずく。苗賀の喉仏が大きく動き、仕切り直すように1度下を向いて顔を上げた。

「まだ付き合ってないなら、チャンスほしい。……七海先輩はまだ付き合ってないって言ってた」
「私は七海さんだけが好きだから、七海さん以外とは付き合わない。ごめん」

少しの勘違いも生まない、七海も驚くほど簡潔な振り方だった。みょうじの性格ならもっと遠回しに言うと思っていたからだ。苗賀も同じことを思っていたようで、声が少し揺れる。
「……俺が転校したあとみょうじが落ち込んでたって聞いたけど。あの時は俺のこと好きだった?」
「あれは家族や幼馴染の不幸が続いただけで、苗賀とは関係がなかったんだよ」
2撃目が行く。彼女は彼が抱いた希望と可能性を、言葉を選び、ゆっくりと、しかし確実に打ち砕いた。
苗賀は苦笑いをして逃した視線をまたみょうじに合わせると、彼女と目が合う。
「あの頃は確かに友達だった。でも今はもう違う。悪意を持って七海さんをコケにしたのは許せない」
苗賀の目が見開かれ、そして閉じていく。大きくため息をつくと携帯を持っていない手で首の後ろをさすって、力なくその手を落とした。

みょうじは七海の手を取って歩き出す。七海は薄っすら感じていたが、掌を介して伝わってくる呪力に触れて確信した。
みょうじは怒っている。体を巡る呪力が不規則に揺れながら出力が増えているし、無言でも伝わる空気があった。それになにより七海が使った言葉を引用していたのがその証拠だった。七海が話したときからずっとみょうじは苗賀に怒っていたのだ。
七海は少し恐怖を覚えた。もし彼女からこの手を離される時に、いつか自分も同じような断絶を味わうのかもしれないと。
「みょうじ!」
2人が階段を降りるために曲がろうとした時だった。校舎の外まで聞こえるような、ふり絞った大声が廊下に弾ける。振り返ると、苗賀の握りしめた拳が震えていた。

「もしなんかあって別れたら!チャンスほしい!だからもういっ――」

明らかに止めるべきでないところで止まった言葉。正面を向いていた顔が、人間の動きの速さを超えて上を向く。
真上の天井を凝視するかのようにまっすぐ顔を上げ、喉、肩、腕、指、足の順に震えが広がり、体全体が痙攣しだす。そして彼は、天井に向かって舌を突き出した。舌に穴が空き、血が流れる。人が自力で突き出せる長さを超えた時、その体が宙に浮いた。穴は上に引きつれ、広がり、かすれたうめき声が廊下に響いた。
この全ての流れは10秒程度だったが、七海は苗賀が舌を突き出した時点で鉈を抜くと同時に、彼に向かって姿勢を下げて走りだす。後ろのみょうじへの意図は視線だけ送れば十分だった。みょうじも走り出し、苗賀の眼の前で七海の背中を踏み台にして飛び上がり、天井から糸状になって苗賀を釣っている呪力にふれる。
七海は彼女が触れた後に糸を切り、苗賀を解放する。むせた苗賀は血と一緒に呪力でできた太い針を吐き出した。みょうじは着地するとすぐに2人を置き去りにして駆け出して行く。
「さっきの緑色の屋根の家に敵がいます!」
「みょうじさん!!戻って!!」
七海の声は届かなかった。なぜか今までに無いほどみょうじは呪力が漲っていて、呪力強化で加速が速く、一瞬で七海の視界から消えた。七海も追いたい気持ちを抑えて苗賀にハンカチを噛ませて担ぎ上げたところで、急な呪力放出に気づいた都巻が駆けつけて来た。

その場を任せ、七海は窓を開けると2階から飛び降りた。それでも緑色の屋根はまだ遠い。敷地を突っ切り走る途中、緑色の屋根の家まで視界は開けていた。
空は青と橙のグラデーション。逆光を受けて黒く染まるうろこ雲と住宅街。その中に、影より黒い閃光が走った。遅れてきた重い爆発音。緑色の屋根の2階の壁が崩れて、壁材と一緒に落下して行く人影。七海が動揺の中、なんとか視界に捉えたのは、落ちたのはみょうじではないということだった。

▼ ▼

緑色の屋根の家の下には、粉々になったガラスや壁材を踏み、男の胸ぐらを掴んで佇むみょうじがいた。
そしてそこには、この場に不似合いなものが呪力を帯びて落ちていた。
一般的に「魚釣りゲーム」と呼ばれる幼児向けの玩具だった。本体の丸いトレーには蓮の花のようにくぼみが複数あり、くぼみの中それぞれに口の中に磁石を仕込んだ魚の人形が入っている。スイッチを入れるとトレーが回転し、魚の人形の口が閉じたり開いたりするので、プレイヤーは磁石が仕込まれた釣り竿を使って、魚が口を開けたところを狙って釣り上げる玩具だ。どこの玩具屋にもありそうな玩具が、呪具と呼べるほどの呪力を纏っていた。

「みょうじさん、」

七海はそれ以上何も言えなかった。
みょうじが正常では無かったからだ。
立ち尽くす彼女の姿を夕闇が隠して、その外殻以外を黒く塗りつぶしている。青さが抜けて赤に染まった空と街は、ほとばしった彼女の感情に焼かれたように見えるのに、そこにいる彼女のがらんとした存在性。さっきの校舎での怒りとはまったく性質が違う。
そんな錯覚を七海がするくらいにみょうじはどす黒い怒気を静かに撒き散らしていた。
みょうじは歩いてくる。何かを引きずる音がする。まるで狙いすましたみたいに、街灯が定刻に点灯した。
みょうじは血の粘性で木くずや泥を全身につけ、右手には引きずった男の胸ぐらを掴んでいた。その手には木辺が刺さって貫通している。

「七海さん、捕まえといてもらっていいですか」

それなのに普段七海に話しかけるような抑揚で話すものだから、一層七海は不安になる。男の胸ぐらを引き取ると同時に、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
男は頬が腫れ上がっているものの浅く息をしていた。七海は緑の屋根の家を見上げる。みょうじの黒閃を受けた住宅の2階の壁は重機をぶつけたように崩れていて、黒閃の直撃を男は免れたのだろう。
みょうじは魚釣りゲームのトレーを拾った。
市販のを使ったのか、模して作ったのかはわからないが、この男と一緒に家から殴り落とされた呪具。男の右手に残る残穢。天井から伸びた呪力の糸、苗賀の口から吐き出された針、裂けた被害者もいる舌の穴。このトレーを校舎、魚を学生に見立て、釣っていた。
この男が術師なのか?そして何より、みょうじはなぜここまで激昂した?
だけど七海は何も聞けない。
みょうじは携帯を出して耳に当てるが電話先が出なかったのか、誰か別の相手にかける。サイレンの音が近くなって話し声はかき消されるが、音の隙間から「五条さん、販売員は和歌山です」とだけ七海は聞き取れた。

2023-09-02
- ナノ -