※渋谷事変なしのifルート

日が傾いても景色が揺らめくような暑さから帰った七海は、シャワーを浴びた後にベッドのシーツを張り替えることにした。セミダブルベッドにベージュのサテン織シーツを張った後、すぐにそれを剥がしてグレーのシーツを張り直す。疲れと落胆で出たため息が深い。
独身時代は濃いブラウンやグレーのシーツを張っていたが、みょうじと結婚してから彼女が気づいていない怪我を見落とさないようにシーツは淡い色に替えた。
だからみょうじが高専に泊まり込んで任務に当たっている今日は、彼女のために買った寝心地がいいベージュのシーツは必要ない。そのまま使っていいと他人なら思うかもしれないが、呪術師界に染まらないという最後の抵抗で場違いなスーツにこだわる七海は、私生活にも強いこだわりがあった。
リビングのソファに腰を落ち着けて、酒をグラスに注いで一口飲む。
自分のために買ったソファもベッドも、借りたこの部屋も、やけに広く感じながらローテーブル下の引き出しから爪切りを取り出した。今日の任務で欠けた部分を切って丁寧にヤスリで整える。

会社員時代に、見た目を整えておくことは顧客に対していい影響しか与えない、ということを理解してから義務的にやっていたことはいつしか習慣になり、そしてみょうじに触れるにあたり不可欠になった。整え終えて、また酒を一口飲む。ため息が出た。
スマホを手に取りメッセージアプリを開く。「七海(みょうじ)」と書かれた連絡先をタップし、最新の連絡先を見つめる。

「枕からすごいケチャップ臭がするくらいで元気です。大丈夫です」

安否と困ったことを七海が尋ねた連絡への返信だった。これを最後に連絡は1週間前で途切れている。

みょうじは繁忙期に伴い、遠隔祓除と遠隔等級調査で最低2週間は高専に泊まり込みが確定していた。
みょうじの残穢がついた物品や呪物を介して遠方の敵を索敵できる術式のおかげで、階級が離れた任務に術師がアサインされる確率は呪術師界で減ったが、みょうじの任務は増加している。しかも等級調査は呪詛師や呪霊が活発化する夜間の方が正しい実力を測れるので、現在みょうじは昼夜逆転の生活を送っていた。
そして七海も長引いた繁忙期で西へ東へ出張に飛び回っていた。合わない生活時間と気遣いからお互い連絡を最低限に抑えているが、それがお互い寂しさを生んでいるのに、相手のベストだと思って続けている。

七海はまたため息をついて、ぼんやりと机上の爪やすりを眺めた。
好みがない人間には2通りいて、様々な理由から好みを意図的に切り捨てているタイプか、選択において趣味嗜好が機能性や価格より優位に立つことがないタイプだ。
みょうじは圧倒的な後者であって、七海が住んできた家に抵抗無く馴染んでいった。シャンプーもコンディショナーもタオルも歯磨き粉も家電も家具も、全部七海が使っていたものをそのまま使った。
七海はみょうじが自分を気遣っているのではと、彼女との買い物などを通して好みを観察したが、みょうじの素の好みは運良く七海の好みに近いのだと分かった。しかしそれでもその状況は、みょうじが自分の生活に溶け込んでいくような、自分に浸って行くような、独占欲を満たすものを七海に与え続けた。
だがしばらくして、それは変わった。

変化のきっかけは些細なことだった。七海が今日のように爪を整える横で、みょうじも自分の爪が横に割れていることに気がついた。使い方にクセのあるヤスリを扱っていた七海は、みょうじの爪も研いであげた。厚みも、硬さも、大きさも、自分のものとは全く違う。花びらのような形の爪をひとつ仕上げると、やりがいが生まれて2本目、3本目と進んで、みょうじの10本の指はすべて整ってしまった。
そしてその日の翌朝。七海が目覚めると、みょうじは彼に背を向けてベッドに腰掛け、うなだれていた。ぴくりとも動かない。七海からは表情はもちろん見えない。なにか考え事でもしているのではないかと少し待とうと思ったが、1分もこらえきれず声をかけた。
寝起きの掠れた七海の声に、みょうじが振り返る。彼女は笑っていた。

「爪を見てました。自分でやったらこんな綺麗にならないから、嬉しくて」

まるで地面から突き上げられたような衝撃と、落雷が一緒に来たような衝撃が七海に走った。
その衝動は、彼自身なにがどうして生まれたか分からなかった。単純にみょうじを愛おしいと思ったのだとその時は処理したが、しっくりこない。そんなこといつでも思っている。
理由がわかるのにそう時間はいらなかった。
その夜、みょうじの足の爪を10本整えて解った。
みょうじが喜んだり、安心できる環境や状況を作っているのが「自分」だということに七海は強い喜びを感じている。みょうじを侵食して喜んでいたはずなのに、気がついたら七海がみょうじに溺れていた。
深い懐に入れる人間は厳選するのに、他人に対し情が厚く、人を守ることを生きがいにしている七海の気質が恋人に尽くさないわけがなかったのだが、今までの人生で恋や愛が彼の人生に差し込まれることがなかったせいで、自身の性を自覚できていなかったのだ。

だからみょうじがいない自宅で、疲れ切っていて、読みたい本もないし、自炊材料の買い出しもしてないし、もらった酒はそこまで美味しくなかったし、七海は何もする気にならなかった。時計は18時で明日は久しぶりの休み。最近の多忙さを思えば時間が無限にあるような気がした。
やる気を出すために、スマホに保存だけしてまだ実践していないレシピを眺めようとしたとき、仕事用のスマホが鳴る。表示された名前は伊地知。任務依頼だった場合は断るか受けるか考えて、都内なら行くかと腹をくくって通話をタップする。

『七海さんお疲れ様です。伊地知ですが、今お電話大丈夫ですか?』
「お疲れ様です。自宅なので問題ありません。どうされました」
『明後日のスケジュールに高専に来られるとあったんですが、その時にみょうじさんの印鑑を持ってきてもらってもいいでしょうか?みょうじさんの印鑑がいる書類がありまして』
「成程……」
お持ちします。と言いそうになった所で伊地知の背後から声がする。

『暑い』
『死ぬ』
『業務車両が入ってくるトンネルの道路って冷たそうじゃね?』
『やめとけ』
『人間として終わりよ』

地を這うような声がする。
「…………高専で何かありましたか?」
『昨晩の落雷と大雨の影響で、昼過ぎから寮と教室棟の電気が止まっているんです。明日業者が来てくれる予定なんですが……』
常に若干弱々しい伊地知の声が更に弱っている。モバイルバッテリーで動く扇風機があるので、今日いる学生が事務室に涼みに来てて……と言う背後から『暑い…………』『風が……生ぬるい』『こっち向けんな……』とまた唸る声がした。
「……印鑑の件ですが、暇なので今から伺います。ついでに何か差し入れましょう」
『え!?明日でも全然』
「いいですよ。高専に行く予定は書類提出でしたから、伊地知君が受け取ってくれるなら話が早い」
『え?!ナナミン来んの!?』『今、本当にかなり暑いですよ』『七海さん冷たいもの買ってきて!お願いします!』と一気に背後が盛り上がる。
「今日は何名いますか?」
『学生3人に、みょうじさんを入れて補助監督や事務方が4人です』
通話を終えると七海は軽く息を吐いて、スーツを羽織るためにシャツを手に取った。

▼ ▼

「ドライアイスがしこたま入っているので気をつけてください」
「すみません、ありがとうございました」
「ナナミンありがとう!!」
「しこたま。ありがとうございます!!」

ヤバい!高そう!!美味そう!!と虎杖、釘崎、伏黒はテイクアウトされたジェラートを囲む。
事務室があるこの棟は、外気温度を37度にした直射日光をもろに受けるため、日が落ちても熱が逃げずに滞留してサウナ状態だった。事務室内には大量の懐中電灯や蝋燭がつけられて、ここだけがぼうっと発光している。七海は前の職場で夜中1人で停電に対応したときは、スマホのライトしか使える明かりが無かったことを思い出し、事務室内を取り囲む蝋燭の量に呪術高専なだけあるな、と妙な感慨に浸った。
「伊地知君はこちらを。先に冷たいものを食べてください」

汗だくな伊地知にもとりあえずジェラートを食べさせて、七海は指定の書類にみょうじの印鑑を押し、自分が提出予定だった書類も合わせて済ませる。
「良いか悪いかわかりませんが、これでは仕事になりませんね」
「そうなんです……。パソコンも下手に動かせませんし。でもまだ確定していないんですが、今五条さんがホテル取ってくれていて、今晩はそちらに退避しようかという話になっているんです」
伊地知が学生に聞こえないように声を潜めて言う。
「それがいいですね。ここでは休めない。学生がいるならあの人もちゃんとしたホテルを取るでしょう」
「そういえば、みょうじさんと夕方以降に連絡はされました?」
「いえ。何かありましたか」
「みょうじさんもホテルに来られるか連絡したんですが、返信が無くて」
「七海さん、これ、なまえさんの分。あと、私もさっきから連絡してるけど返信ないです。こっち逃げてきた17時に部屋ノックしても出てこなかったし」
ストロベリージェラートを片手に話しに入ってきた釘崎は、七海が買ってきたスポーツドリンクとジェラートを入れた袋を七海に渡した。
「ありがとうございます。ノックはどれくらいしましたか?」
「えーっと……私が6、で虎杖が3……?」
「そのくらいではこの時期のみょうじさんは起きませんから、多分部屋でしょう」
「マジです!?あとこれ、前になまえさんから借りたモバイルバッテリーです。まだ残ってるんで使ってください。暑さで爆速でバッテリー減るからなまえさんのスマホも電源切れてるかも」
「わかりました。伊地知くん、見つけたら連絡します」
「よろしくお願いします」
「七海さん」釘崎が七海を見つめて言う。
「はい」
「ジェラートのおすすめ味なんですか」
「…………ピスタチオ」
「おい虎杖!ピスタチオに手ェ出すなよ!!」
「ごめん!緑のウマいヤツ!?なら今食った……」
「3つ入れてますから大丈夫ですよ」

▼ ▼

伊地知から借りた寮のマスターキーと、帰りの足に確保した送迎車のキーを持って職員向けの寮棟に向かう。
入居しているのは一部の教師、事務員と一時的に滞在する術師だが、今日はみょうじ以外は出払っているらしい。スマホのライトで足元を照らしながら歩くと、軋む床音と鍵束がぶつかり合う音だけが響いた。
寮内は寂しい。広さに比べて人が少なすぎるのだ。熱気と湿度がとぐろを巻いている空気は、灰原が死んで、夏油もいなくなったあの時期の虚しさを七海に思い出させた。学生が何度入れ替わっても一般校と同じような学生数にはならないのに、一般校以上の広さを持っている呪術高専の独特な孤独さ。声のしない校内、足音がない寮室、誰も座らない椅子。どこに行っても誰にも会わない日もある。その静けさは、あの頃の七海を追い詰めたひとつでもあった。
今更感傷を抱くことはないが、懐かしさに似た嫌悪感が確かにあった。だからこそ七海は私服で高専に来ない。任務にも行かない。

伊地知に教えられた3階の1番手前にあるみょうじの部屋をノックする。釘崎の言う通り返事はない。スマホにかけても中から呼び出し音はしない。ノックしても反応はない。不在も思いつつ、日常では絶対出さない大きな声で呼びかけた。この時期のみょうじは疲労困憊しているせいで、これと決めたスマホのアラームか、直接揺り動かす以外では簡単に起きない。
耳をドアに押し付けて音を探る。しばらくし、ごとん、と確かに中で音がした。さっきより強くノックする。さらに、ごとん、と音がして、足音が聞こえた。あの日から卒業するまで二度と聞かなかった、いてほしいところにいてほしい人がいる音。

「え、七海さん……?」
「用事があって高専に来ましたが、貴女が見つからないと言われて探しにきました」
出てきたみょうじは少ない光を吸い込んで、大きな目がかすかに見える。七海は彼女の首元に手を添えると、じっとりと汗ばんでいた。
「汗だくじゃないですか」
「今、停電してて、窓開けてれば大丈夫かなって寝てたら……爆睡してました……今何時ですか」
「19時半くらいですね。今日いる学生や職員はホテルに退避するらしいです」
「あー……すみません。めちゃくちゃ……寝てて」
「今日の任務は今からですか?」
「昼に済むものだったので終わってます。前倒しで明日の分をしようかな」
「アナタ、ろくに休養日を取っていないでしょう。休みを入れてください。家に帰りませんか。帰りましょう。帰ってください」
七海の駄々をこねるような畳み掛けに、みょうじは笑ってしまいそうになった。みょうじを尊重したいけど、どうしても意見を押し通したいときにままあるのだ。
「荷物取ってきますね」
みょうじが部屋の中に戻ろうとして、癖で反射的に電気スイッチを押した。

「「あ」」

2人の声が重なる。
スイッチが押される音だけがすると思っていたのに、電気はついた。みょうじが備え付けのリモコンをいじる。エアコンもつく。風力を強にする横で、七海は窓を閉めてカーテンもひいて、伊地知に電話した。
「お疲れ様です。みょうじさんは寮にいました。寮の電気はつきましたので一応連絡を。はい。いえ学生はホテルに行かせた方がいいでしょう。見なかったことにします。みょうじさんは今晩は帰ります」
五条が学生のために取るならいいホテルだろう。そのくらい息抜きがないと今年の夏もやってられない。七海はそう思い、通話を終えてみょうじに視線を向けると、彼女の目から涙のように垂れた汗に驚く。反射的に指で拭うと、まつげが七海の指に懐いたようにはりついて靡いた。
「限界まで暑いと目が覚めると思ったんですけど……帰る前にシャワー浴びてきていいですか?」
「どうぞ。コレ、差し入れです。使ってください。スポーツドリンクはシャワーを浴びながら飲んでください。あとジェラートもあるので」
「何もかも助かる……爆速で出てきます」
みょうじは差し入れのバス用品を受け取るとシャワーに向かった。1人残された七海は、ほとんど使われていないであろう勉強机の椅子に座る。
みょうじが借りている寮室に来るのは初めてだった。部屋の端にキャリーバッグが置かれて、ベッドサイドにはスマホの充電機がささり、身支度用のバニティポーチ、それから七海から借りていった本が2冊置かれていたが、しおりの位置は家から持ち出した時と同じだった。
みょうじが1人暮らしをしていた時の部屋と似ている。良く言えば整理整頓が完璧にされている。率直に言うなら人の気配がしない。いつ死んでもいいように準備しているみたいで、七海はとにかくそれが嫌だった。繁忙期になってすり減っていくと、自己犠牲的精神が強い人間はこの流れに傾いていくから。

「おまたせしました。すぐ乾かしますから」
みょうじは5分もかからず上がって来たが、七海が選んだ冷感作用のあるバス用品のペパーミントと柑橘系の匂いが部屋に溢れた。
「私に乾かさせてください。貴女は座って、飲んで食べてください」
七海はベッドに座ると、開いた自分の脚の間を指差す。常人よりスペースが広いそこにみょうじは座り慣れていたが、髪を乾かされるのには慣れていなかった。しかしシャワーや風呂に入ると急に不調を自覚するように、彼女は自分の過労に大人しく従った。
「つ、つめた〜〜……!生き返る……」
ヨーグルト味のジェラートが体の芯に溜まった熱を散らす。みょうじは暑さに弱いが、暑さに耐え続けるのには強い。暑い暑いと言いながら、倒れずに動き回れる。それがまた彼女の長時間労働の一因にもなっていた。

七海はみょうじの髪に手ぐしを通すたびに、繁忙期で溜まったストレスがほぐれて行くのを感じていた。時短のために持ち込まれた高性能なドライヤーのせいでみょうじの髪はすぐ乾く。七海は持ってきた荷物からハンドクリームを取り出すと、後ろからみょうじの空いている左手を取って塗り込んだ。
「ブドウのいい匂いがします」
「貴女にと思って冬に買いましたが開けるタイミングが無くて。シャンプーの匂いも良かったですか」
「良かったです……久しぶりに家を思い出しました」
そう言うみょうじの目の下にできている、うっすらとした隈が目につく、七海はジェラートを食べ終えて空いた彼女の右手にもクリームを塗りつけて、みょうじの両手を自分の両手で祈るように包みこんだ。傍からみればみょうじを閉じ込めているようにしか見えない。七海の高い体温でクリームは伸びて溶けていく。自分だけではなく、この時期の呪術師は誰だって似たようなものだが、ことさらみょうじのは痛々しく見える。そしてこうやって疲れきっていないと、みょうじは世話を焼かせてくれない。自分の生々しい愚かさに呆れながら、どうしようもなく落ち着く。癒やされる。心が安らぐ。キスをしたかったが我慢した。2人しかいないとはいえ公私混同はしたくない。それになにより高専の嫌な思い出と、みょうじがいる心落ち着く時間を絡めたくなかった。

「帰ったら夕飯を作ります。なにか食べたいものはありますか」
「七海さんも疲れてるでしょう。食べて帰りましょうよ」
「作らせてください。ストレス発散になりますから。作ります」
「じゃあ、洋食がいいです」みょうじの声は笑っていた。
みょうじは、自分を後ろから抱きすくめて、いつの間にか肩口に顔を沈めている七海にもたれかかる。彼女はかすかに気づいている。疲れた七海が自分の世話を焼くことでストレスを発散しているということ。

「リッツ!ヤバい!」と外から釘崎の嬉しそうな声が近づいて来て遠ざかっていく。ふたりとも、学生たちがホテルに出発したのだなと理解する。
「七海さん、帰ったら爪を研いでもらっていいですか。またささくれてしまったので」
そういうと七海は、みょうじの肩口につっぷしたまま、くぐもった力強い肯定を返した。やっと冷えたみょうじの体に七海の熱が回った。

2023-08-14

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