※未成年の喫煙は法律で禁止されていますが、作中の設定に則っています


家入がなんかねえ、ヤニ臭いんですよ。

職員室から出ようとしてそんな会話が聞こえた。
「あぁ、家入はバス通学なんですけど、あの子が乗るバス停の前にパチンコ屋あるんですよ。そこが朝からかなりの客が煙草吸って開店待ってるんで、そのせいじゃないですか?」
「そんな所あるんですか?」
「ええ。私もそのバス停から乗るんですけど、ホント臭いがスゴくてね。だからウチのクラスでも朝からヤニ臭いのが何人かいるんですよ」
「なるほどですねえ。車通勤なんで気付きませんでした。副流煙、怖いですしパチンコ屋に連絡をいれてみますか」
部活の顧問と話し終えた職員室中で立ち止まるわけにもいかず、そのまま部屋を出る。

家入さん。隣のクラスの女子。可愛くて、勉強ができて、賢くて、運動もできて、すらっと痩せてる。テスト毎回学年1位。本人は言わないのに2位のヤツが言いふらしたせいでみんな知ってる学年1位。前にマラソンしてるの見たけど、そんなに早くはないけどすごくフォームがきれいだった。誰とでも話すけど特定の誰かといつも一緒にいるわけじゃない。なんていうか家入さんの席の周りに女の子が集まって話してる感じ。
あとウチのクラスの廊下側に座っている子と仲がいいみたいで、休み時間に廊下側の窓から乗り出してその子と話してる。バド部だと思ってたけど帰宅部らしい。だってあの顔とコミュ力なんてどう見てもバド部副キャプの顔じゃん。
ウチの学校は部に所属しないと親まで呼ばれて部活入部を迫られるので、帰宅部ってかなり少ない。それに帰宅部の生徒はのほとんどは学校外のスポーツチームとか文化クラブに入ってるから、学内の部活を免除されている枠の代名詞でもある。家入さんも多分そうだろう。

そんな記憶にある彼女の情報をかき集めてみたが、あんなタイプは喫煙とは1番程遠いと思った。
最近度々学校内で煙草の吸い殻やお菓子のクズが見つかって、その都度、緊急全校集会で30分も生徒指導の先生の泣き怒りを聞かされているのだ。マジでしんどい。先週は3人倒れたし、私もヤバかった。マジで勘弁して欲しい。
噂をしていた先生が心配の声色だったのもよく分かる。彼女が変なことに巻き込まれてませんように。
彼女がいるクラスの前を通るついでに横目で見ると、家入さんは席に座って彼女の席の周りに集まる女子数人と話していた。あの笑顔には他の子とは違う何かがある。上手く言えないけど、何かがある。学年全員で230人。名前も知らない子も多い中、あの笑顔で私は彼女を知った。


「……マジに吸ってる」
今日から通う塾は3階建てビルの2階にあって、ビルの1階には居酒屋が入っている。
居酒屋の前には喫煙用のベンチと灰皿スタンドがあり、居酒屋を出たおじさんの一服用にあるのだろう。実際、19時ごろに私がお茶を買いに出た時には、ほろ酔いおじさん達が3人楽しそうに煙草を吸っていた。2階に登る階段の入り口はその真横にある。
そして塾が終わった今、21時。階段を降りて外に出て、ふと左を見るとそのベンチに座っていたのは家入さんだった。彼女の目は居酒屋の赤ちょうちんの光を吸い込んで赤い水面のように輝いて、口から煙を吐き出していた。二度見した。そのせいで目があった。マジに吸ってる。思った言葉が口からも出てしまった。
「みょうじさんじゃん、元気?」
やはり何度見ても家入硝子さんで、彼女に自分の名前を知られているとは思わず、返事が遅れる。
彼女はゆっくりとした手つきで灰皿の穴に吸い殻を落とす。

眼前の道路にはタクシーやトラックが行き来しており、金曜の夜の繁華街から1本それたここには楽しげな声がかすかに響き渡る。どこかの誰かのカラオケの歌声も聞こえる。なんの変哲もない夜だ。なのにあの家入さんがこんな堂々と煙草を吸っている。しかも着てるの制服じゃん。つい先日、夏服になったばかりの半袖ブラウスと濃紺のプリーツスカートは、私も含めどう見ても未成年の証明だ。
喫煙するヤツってスカートをギリギリまで折って短くしていて、なぜか校内で隠れて吸ってとっ捕まる。それかぶかぶかの私服に着替えて、大人ぶって外で吸って補導される。それなのに彼女はそんな様子ひとつもなく、服装検査で1発合格をもらう制服の着こなしで、煙草を吸っている。ちゃんと灰皿に吸い殻と灰を捨てながら吸っている。
「みょうじさん、上の塾に通ってるの?」
「あ、あぁ。うん。まあ、そんなかんじ」
何事もなく話しかけてくるので煙草ではないのでは?と思い直すが、漂う独特の煙臭さが間違いを正す。
「一昨日は塾にいなかったよね」
「今日から通い始めたの」
「ナルホド」
「い、家入さんは……なんでここに」
「ここウチの親戚の店。夜に塩っ辛いものが食べたいときに遊びに来てんの」
親指でぐっと指をさされた居酒屋からは、まるで紹介されるのを待っていたかのように酔っ払いの笑い声が聞こえてきた。彼女の隣には、明らかに中から持ってきたのであろうグラスがある。嘘じゃない。で、煙草なんで吸ってるの?と聞くには、あまりにも彼女が堂々としているので逆に聞きづらく、じっと見上げてくる視線に落ち着かなくなってきて、私は1歩下がった。
「じゃあ、親。あっちで待ってるから」
「ん。おやすみ」
彼女は軽く手を振ってくれたので私も振り返す。親なんて待ってないけど、上手い会話の切り上げ方がわからなかったのだ。そのくらい彼女と私は接点が無い。グループも成績も得意科目も好きなものも全く違う人種だから。
「あ、ちょっと待って」
1歩踏み出したところで家入さんの声がした。振り返ると彼女が私の肩を掴んでいて、すぐにその手が離れる。
「ゴミ、ついてた」
「あ、ありがとう」
少し歩いて振り返ると、彼女がいるであろう暗闇で赤色の小さな点が灯った。2本目行ってる。

▼ ▼

あの日行った塾は月謝がかなり安い分、かなりざっくりしてる。きっちりとした個別指導や一斉指導が無いし、教えてくれるのは数学と理科だけ。自分で課題や問題集を持ち込んで黙々と解いて、わからない部分を塾長兼たった1人の講師に聞く。小中学生は月水金のいつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。
部屋の中には長机と言ったら100人中100人が思い浮かべる、あのそっけない折りたたみ長机が2列4行で並んでて、1つの長机にパイプ椅子2つ。昭和レトロな花柄の床にはゴミは落ちてないけど拭き掃除はされていなくて黒ずんでいて、一言でいうと寂れている。でもそういえば賑やかしみたいにジャンプが何冊も床に積まれていたし、ピカピカのコピー機はあった。
この前行った時は私を含めて4人しかいなくて席はスカスカだし、その全員が知り合いじゃないらしくて、みんな黙々と解いてたまに講師に聞いていた。
大手塾の独特な雰囲気が苦手な私にはその空気が心地よかったし、講師の教え方もわかりやすかったので続けて通うと決めて塾をでた。そしたら家入さんに会った。

塾2回目。雨は降っていないが重い湿度と厚い雲で蒸し暑い。早い梅雨明けを願いながら塾に向かうと、居酒屋は営業中の札をかけていたけど誰の声もしなかった。もしかしたら店の中に家入さんがいるかも。階段を昇り、塾の重くて古いガラスドアを開けると、家入さんがいた。
塾の中にいた。
ドアを開けた視線の先、部屋の隅の長机で棒アイス食べながらジャンプ読んでた。
「あ、みょうじさん。お疲れ」
「あれ?家入ちゃんとみょうじさん知り合いなの?」
家入さんの挨拶に反応した塾長が私と彼女を交互に見る。
「みょうじさんは隣のクラス」
「あ、そっか。そうそう同じ中学だったね。みょうじさん今日何時までやってく?」
「えー……21時まで」
「了解」
そう言うと講師は手元の紙の束に視線を落として、熱心に問題を解き始めた。家入さん以外に2人の他校の男子がいたが、2人は知り合いなのか同じ長机に座って1枚のプリントを眺めて小声で話し合っている。
パイプ椅子を引きずる音がする。視線を家入さんに戻すと、彼女は自分の椅子から身を乗り出して隣の椅子を引いて私を見上げていた。断る勇気も理由も無いのでそこに座り、テキストとノートをバッグから出して課題に取りかかったが、気になる。家入さんが。
彼女の机上にはジャンプが2冊とコピー用紙数枚、鉛筆2本、赤色の参考書が置かれていた。ここには参考書やテキストが大量にあって、好きに使っていいことになっているけど、どれもこれも年季が入っていて表紙カバーはついておらず、開いて中を見ないと何の参考書か分からないのだ。

私が課題を1ページ終わらせた頃、彼女もジャンプを脇に置いて、恐らく参考書をコピー用紙に解いていた。淀みなくスラスラと、自作の筆記体を気ままに書いているような速さで紙の上を鉛筆が走っていく。梅雨なのにサラサラとした黒髪を時々耳にかけ直し、丸い大きな目はせわしなく動いていたが、その視線は少しすると私とかち合う。盗み見が言い訳できない程にバレたので、反射的に目をつぶってしまった。バカじゃん。
「なんかわかんない問題ある?教えようか」
「い、いいの?」
「うん」
「……これ、一次関数の応用」
嘘ではなく、本当にこれのせいで手は止まっていた。テキストを渡すと彼女はじっと見つめた後「みょうじさん、数学得意?」と言いながら椅子ごと私の方につめて来る。
「あんまり」
「じゃあ途中式端折らないで解いていくね。まずグラフ書いて、それに指定の座標を書いて……」
彼女は持っていたコピー用紙の中央へ切れ味のいいメスで切るみたいに、さらりと定規も使わず真っ直ぐなx軸とy軸の十字を書いた。座標を書き込んで、流れるように解いていく。
「あ」の次が「い」で、その次が「う」であるように、1歩先を私が推測できるくらいの軽いヒントをくれる。教える、と言うよりは、散らばったもののつなぎ方を彼女が指示してるみたいだ。
「だからここで使うべきなのは?」
「……三平方の定理?」
「そうそう。合せ技」
「教え方、ウマ〜……」
「まあここでバイトさせてもらってるから。……お金はもらってないよ」
口に出さなくても表情で考えていることがバレたらしい。
「じゃあなんのためにバイトしてるの?」
彼女は目だけで笑うと、右手の鉛筆をくるくると回した。あ、まさか。そうか。たしかに彼女の見た目では買えない。でも自販機という手も……。
「冗談だよ。上でバイトした分、下の居酒屋で食べさせてもらってんの。親戚でもお金は取られるからさ」
何でもお見通しだ。それに視線ひとつ、間のひとつで誘導されてしまう。勉強ができるだけではなく、彼女は私よりずっとずっと賢い人なのだ。
「家入さんは何解いてるの?」
「数学の参考書」
見せてくれた「チャート式 数V」と書かれた赤い参考書は、どう見ても中学生向けじゃない。無限級数の発散ってなに?呪文?
「それ高3の範囲だから」
「なんでこんなの解いてるの……」
「高校生にも教えてるし」
家入さんはまた楽しそうにペンを回した。高校生に教えてれば中学2年生なんて朝飯前どころか、バラエティで突然寝てる人を叩き起こして走らせてタイムを競う企画があったけど、そんな風に夜中起こして解かせても楽勝だろう。それより高3になったら数学の中で作文も発生するのか。未来が目に見えてしんどい。
「みょうじさんのさ、入塾書見てもいい?」
頷くと家入さんは席を立って、他校の2人を教えている塾長にひとこと声を書けて彼の机上のファイルから1枚紙を取り出して見ると、すぐに戻ってきた。入塾書には中学名、志望高校、直近のテストの5科目の点数を書いて提出している。
「数学50点伸びれば後は全然問題ないじゃん。2学期の期末テストには間に合うんじゃね?」
50点伸ばせば数学は苦手ではなく得意だ。その顔に合わない荒っぽい喋り方と論法、でも2学期の期末は今から半年後。私の苦手さが加味された、ちゃんとしたスケジューリングに笑ってしまった。

▼ ▼

梅雨が終わり、夏休みが来て、この角で殴ったら人は死ぬんじゃ?というほど出た夏休みの課題を家入さんと塾で解いた。家入さんは3日くらいで終わらせていたけど。
夏休みになると流石に担任が事あるごとに言ってくる「今年は受験の年だぞ」の気分になってくる。課題以外にも1年からの総復習や数学の基礎力上げなど、やることはたくさんあった。特に家入さんが出してくれた「50点あげるための宿題」が多すぎて、寝ても覚めても数式を追った。
夏休みになってから習慣になった流れがある。昼に課題の数学をして、夕方に分からないところを持って塾に向かい、ビルの屋上で家入さんとジュースを飲みながらおしゃべりをしてから2階に降りて勉強するという流れ。
今日も屋上に向かうと、いつも通り給水タンクの影で家入さんは煙草を吸っていた。隠れているわけではなく、そこが唯一、屋上で濃い影ができて涼しいから。
「おつかれ〜」
少し間延びした声の後に彼女はぽわっと煙を輪っかにして吐くと、携帯灰皿に煙草を押し付けて消した。白いTシャツに黒いパンツ。こんな真夏でもどこか涼しげにみえる。
「家入さん、吸ってていいよ」
彼女は持っていたブラックコーヒーを飲んで、さらに水で全てを押し流すように一気飲みした。
「アスリートに煙吸わせらんないよ」
急だった。アスリートの意味が彼女と私で違うのではないかと勘違いするくらいには。家入さんは口元だけで薄く笑う。いつもの笑い方だった。
「実はさ、みょうじさんの走り好きだった。ずっとみょうじさんのこと知ってたんだよね」
「い、いつから?」
「1年の5月。みょうじさんが部活の練習で先輩全員抜いてゴールしたの見たのが最初。みょうじさんが体育で走るときはずっと見てた」
家入さんとは3年間、ずっと別のクラスで、体育の合同クラスも一緒にならなかった。と、思う。私が彼女を知ったのは2年生になってからだったから。
「なんで陸上部やめたの」
だから彼女は最初、ここで初めて会った時に「元気?」と聞いたんだと今になって分かった。

小さい頃から足が自分でも驚くほどに早かった。鬼ごっこでは誰にもタッチされなかったし、ケイドロで泥棒になれば全員を釈放し、警察なら全員逮捕した。小学校で1番早くて、風をきって走るのは本当に楽しくて、意味もなく走り回っていた。だけど高学年になってちょっとおかしくなった。周りが。思えばあの頃から、全部そういうのを断っておけばよかったのに。
ただ得意な走りで褒められるのが嬉しくて、言われるまま大会に出たら県下一になって、日本一にもなった。中学も当然とばかりに陸上部に入れられていて、同級生や担任より先に話したのが陸上部の顧問とコーチだったし、同じように中学でも1位を取っていたら、2年生の9月にあったハードル走の大会で、ハードルに足が絡んで転倒して骨折した。
手術をして1ヶ月半も入院した、なかなかの大怪我だった。少しばかり後遺症も残ったけど、陸上部の顧問の言葉を使えば「絶対エース」でいられるほどの支障だった。

「それで辞めた」
家入さんは笑いも悲しそうにもしておらず、無言でコーヒーを飲んでいた。その表情がありがたかった。陸上部を辞めた経緯を話すとみんな、怒るか、残念がるかするので。特にコーチや顧問には、この人私のこと殺す気か?と思うくらい怒られたから。
「あぁ、それで結構ついてたんだ」
「……え?なにが」
「いやこっちの話。あ、そうそう。ゴミ。ゴミがついてた。でもよく辞められたね。ウチ、帰宅部に厳しいじゃん」
「手術してくれた先生に憧れて医者になります勉強がんばります、て言って辞めたの。まあ流石に進路で医者まで出したら、流石にそれ以上は言われなかったよ。数学以外はそこそこ点数いいしさ。後遺症も少し盛って話したし」
「へぇ、実際なりたいの?」
「なれるとは思ってないけど、手術してくれた先生に憧れてるのは本当」
「そっか」
もうみょうじさんが走るところ見られないの、残念だな。と家入さんは笑った。
「家入さんってさ、意外とよく笑うよね」
伝えた途端、彼女は急に真顔になる。
「え、何。嘘じゃないよ。家入さんの笑い方、なんていうか……品があって好き」
彼女はなんにも言わなかった。間違えたかも。やばい。キモいかも私。視線をそらすために麦茶を一気飲みしてからもう1度彼女に視線を向けると、家入さんは黒い影の下から出てきた。そして、珍しく目元までしっかりと笑った。初めて見たかもしれない、こんな風に笑う家入さんを。
彼女は歩いてくると、少し小さい身長にしては長い四肢で私のところまで来て肩を組んで来た。
「嬉しいこと言ってくれるじゃん。ありがと」
「だって私、その笑顔で家入さんのこと覚えたし」
「え、マジ?」
「なんかみんなと違って、品がよくていいなって」
品がいい、なんて言葉は国語の教科書とか、たまにテレビから出るくらいしか知らない。けど、たまに彼女を見るたびにその笑顔が頭に残って、あれがきっと品がいいのだと思って、彼女の名前を覚えた。家入硝子さん。ショウコと読ませる硝子。
たまに見かける、あの笑顔。口はあんまり大きく開けないし、目もあんまり笑ってないけど、あの黒くて大きい目の奥から楽しいとか嬉しいが溢れていた。あの笑い方が綺麗だな、と彼女の友達が呼ぶ彼女の名前を覚えて、それから名字を知って、3年生に上がったときに張り出されたクラス替え一覧で漢字を覚えた。

「私さ、目が笑ってないから嘘くさいって時々言われるんだよね」
「はあ?なんでそんなひどいこというの。それ言ったの馬北でしょ」
馬北。学年2位のヤツ。アイツが家入さんのテストの学年順位を言いふらしたせいで、みんな1番近い友達より家入さんの順位を知っている。
「まあね。笑い方が馬鹿にしてるって」
「学年2位の嫉妬だよ。家入さんの笑顔は可愛いくて綺麗なのに」
彼女は組んだ肩に力を入れて抱きついて来た。白くて長い腕は私の焼けた肌と全然違ったし「ありがと」と笑う彼女の黒目は吸い込まれるように大きく、まつげが長く、そして目元のほくろ。これがなんか、彼女を「ただのかわいい」じゃなくさせる。
そう思うと彼女の顔のパーツひとつひとつに惹きつけられて、意外と高くない落ち着いた声がまた私を変にさせる。
本当にこんな子が煙草を吸っているのだろうかと、彼女に残った煙草とコーヒーの臭いを嗅いでもまだ迷う。
「家入さん、さ」
「何?」
「あー……なんで帰宅部なの?」
「入りたい部活無かったから」
「……そっか」
もう煙草を吸う理由について聞いてもいいかもしれないと思ったが、やっぱり勇気がなかった。

▼ ▼

12月の期末テストで95点を取ったので、お祝いをしようと家入さんに土曜の夕方に屋上に呼ばれた。
明かりがない屋上は冬が近づくに連れて真っ暗になったので、夏休み以降はあまり足を踏み入れていなかった。
屋上のドアを空けると、冬空の下にぼうっと彼女の煙草の火が灯っている。もう少しすれば真っ暗になる冬の夕暮れはいつもより赤かった。12月中旬にしては暖かく、今年は暖冬になるのではないかと騒がれている。受験の時に寒いのキツいから、本当にそうであってほしいなと思う。
「全教科90点以上おめでとう〜」
食べよ、と彼女はパックの焼き鳥やおでんを手すりの下の段差に並べる。下の居酒屋で作ってもらったものらしく、焼き鳥を1本食べてみるとしょっぱいけど美味しい。午後の紅茶に合うと言うと「マジ?」とちょっと嫌そうな顔をされた。家入さんは甘いものが嫌いらしい。

「もう受験まで1ヶ月かあ」
「みょうじさんの実力なら、もうこのままぼーっとしてても志望校は受かるでしょ」
「家入さんはやっぱり東京に行くの?」
「多分。でも1月末まではここにいるから、分からないところあったら聞きに来てよ」
烏が1羽飛んできて、私たちの前をウロウロと歩き回るので、家入さんはおでんのたまごをちょっとだけ割ると烏に向かって投げた。たまごは家入さんのとは違う誰かの吸い殻をうまく避けて落ち、烏に持っていかれた。私も焼き鳥を少しあげようかと思ったが、烏はたまごで満足したのか飛び立って行く。
「烏に鶏肉やるの?」
「それいうなら、たまごもまあまあアレじゃない?」
「それもそうか」
家入さんは白い息を吐いた。彼女から煙臭くない白い息が出たのを見たのは初めてだった。私たちは半年間一緒にこの塾で過ごしたけど、一緒に塾に来たことは無いし、一緒に塾から帰らないし、学校で1度も話さなかった。連れ立って遊びに行くこともなく、私たちの関係はこの塾の建物の中のみだったし、彼女が受ける高校を知ったのも彼女から直接聞く前に噂で知った。こういう距離感でいることは約束したわけでもなんでもない。ただ自然と、結果的に、こうなった。そしてこの距離感が好きだったけど、今となってはもっとたくさん思い出を作っておけばよかったと思う。こんな変な会話乗ってくれるの家入さんしか多分いない。
「みょうじさんって携帯持ってる?」
「まだ。高校生になったら買ってあげるーって」
「あぁ、そういう家庭多いよね」
「家入さんは持ってるの?」
「うん」
「家入さんって、焼き鳥は塩?タレ?」
「塩」
「おでんで1番好きなのって何?」
「大根」
「辛子と山葵なら?」
「山葵。どっちも好きだけど」
「なんで煙草吸ってるの?」
「煙草吸うとさ、肺にダメージいくじゃん」
「うん」
「だから、治す練習にいいなーって」
「将来自分で自分の肺を治すの?」
止まることなく話していた家入さんは「冗談」と呟いて、辛子を解いたおでんの汁を啜った。

聞くことはないかもしれない、と思っていたけど、質問攻めの流れで聞いたら聞けた。冬の寒さと、あと1ヶ月で来る別れが感傷的にさせたからだろう。噂を聞くまで、私と家入さんは同じ高校をに行くと思ってたから。だってこの県で1番偏差値高いし。
でも煙草……そんな理由で肺を……?
「家入さんも医者志望だったの?自分で自分の手術なんて……できないこともないかも……?だけど肺は……いやでも、家入さんならいつか……」
「だから冗談だって。それよりさ、ちょっといい?」
家入さんの手が伸びてくる。白い手はおでんの容器で温まったのか、少しだけ赤かった。彼女はしゃがむと私の右足のくるぶしに薬指と中指の背を当てた。目で見てないと分からないくらいの触れ方だった。
「もし足が完全に治ったら、また陸上する?」
突然私が聞いたように、彼女もまた突然だった。
「しない」
即答してしまった。でもこれは、ずっと考えていたことだ。
「気ままに走るのが好きでさ、フォームが悪いとか、なんで勝てなかったとか、叱られて走るの嫌いなんだよね、競うのも嫌い。とにかく、人と競うのに向いてないんだ」
「受験と相性最悪じゃん」
2人で笑ってしまった。ホントそれ。
「私も気ままに走るみょうじさんの感じが好きだから、まあいいか」
「……今から走ろうか?」
彼女は大きくて丸い目をこちらに向けた。夕暮れの赤が映って、ちょっとだけ私たちが初めて話した日の彼女に似ている。つまり彼女はあの日、とても私に驚いていたんだな。
「いいの?」
「いいよ。焼き鳥と、おでんと、それから半年数学見てくれたお礼。ビルの前の道路走るから」
鼻先を赤くしてる家入さんに私のコートを被せて階段を駆け下りる。今でも朝に気がのれば走ってる。だけどこの時間に走るのは本当に久しぶりだった。部活の頃は、そういえばこの時間にいつも走ってた。

ビルの前をまっすぐ通る歩道には人はだれもいない。夕方になって、会社帰りの人が来るまではここは静かだ。空を見上げると、赤い夕暮れを背景に家入さんが私を見下ろしていた。
彼女に1度大きく手を振って、走る。久しぶりに全力で走る。家入さんが、私を初めて見た時のような、あの時と同じ走りができればいいと思った。足は不思議となんともない。本当にあの頃に戻ったときのように痛みも引き連れも、不安もない。足を前に出せば出すほど進んで、自分のてっぺんからつま先まで、熱が一気に駆け抜けて、ただ、ぐんぐん進んでいく。違うのは寒さだけだったけど、そのうちそれも忘れた。
走り終えて塾の下に戻ると、家入さんが拍手をしてくれた。逆光で表情は見えないけど、きっと笑っていてくれたと思う。


▼ ▼


「……吸ってる」
今日から通う大学の入学式は、外部の武道館を貸し切ってだった。
スーツ姿の学生や保護者達はみんな入り口に向かう波に流されていくのに、何人かの学生達はその波から少し離れて煙草を吸って空を見上げている。多浪した入学生が多いせいか、喫煙者の数が多い気がする。私も一浪したし。
だから親近感と煙草に関する忘れられない記憶から、その人達の顔を1人ひとり見つめてしまったのだ。だから見つけたし、足を止めて二度見した。口から輪っかの煙をだしてぼんやりと空を眺めている彼女を。そのせいで目があった。
「みょうじさんじゃん、元気?」
彼女はゆっくりとした手つきで携帯灰皿に吸い殻を入れた。

2023-04-20
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