※渋谷事変がなしのifルート
※嘔吐描写が長め

七海さんが持ってる好きなものですか?そんな視点で見たことがないんですが……。強いて言うなら……ハンカチですかね。頭に浮かんだものをぱっと言いましたけど、言ってる間にホントにハンカチって気になってきました。ハンカチですわ。いやお嬢様じゃなくて関西のイントネーションですわ。すみませんさっきまで関西の補助監督さんと話してたので。
というか七海さんの持ってる布もの、スーツにハンカチ、寝具にタオル、全部センスよくて触り心地がいいんですよね。好みのぶつかり合い?なったことないですね。例えばすごくいいホテルに泊まって、この部屋が自分の部屋だったらいいのにって感じるときないですか?あれです。七海さんのセンスがいいからぶつかる部分がないんですよ。
七海さんのハンカチを無駄にしたランキング堂々1位は絶対に私なんです。何枚かって?驚きますよ、12枚です。人生でこんなに人のもの汚損する人いるのか?って自分でちょっと自分に引きました。反省は散々しましたけど、人に話すと罪悪感がエグるように来ますね。

七海さんに任務指導を受けてたのが去年の9月で、1日に2つ3つ任務をこなすと血から汗からすごいことになるんです。補助監督さんに送迎をしてもらえるときは車にタオルとか置いて行けますけど、公共交通機関やタクシーに頼る時は収納が服のポケットしかなくてハンカチ3枚が限度でした。
それをその日1番目の任務でベチャベチャにして見かねた七海さんが貸してくれたり、止血で巻いてくれたりで12枚もらいました。上着も駄目にしたことあるので、もう七海さんのハンカチだけでなく私物汚損ランキング1位ですね。

……。
最初は新品を買って返してたんですけど、途中からハンカチは余ってるからいいですって断られて。血がついたのは捨てましたが、汗がついただけのはもったいなくて洗って取っておいたんです。でもだからってハンカチを使うのは変じゃないですか。どうしようかなと思ってる間に結婚して、私がもらった分と、私が七海さんに買って返した分、七海さんが元々持ってた分が合流して、今は家に七海さんのハンカチがすごい数あります。あ、今日持ってるこれ、これも元七海さんのハンカチです。結婚したのでこれで使ってもおかしくはないなと。

で、何がいいかって、ハンカチって任務終了後にしか使わないので七海さんのハンカチ見るとホッとするんですよね。終わったなって。そうです!あのハンカチすごい肌触りいいですよね。カシミアみたいな。
そういえばあの頃はいつもハンカチを差し出されて「使ってください」って声をかけられてたんです。でも打ち解けて来た頃に1度、私が口と鼻の両方から血が出て頭もフラフラだったとき、七海さんがハンカチで口と鼻を押さえてくれてその感触で意識がはっきり引き戻されたんです。任務が終わったんだって。五感ってよくできてますよね。

あとそれだけじゃなくて、依頼者や被害者が泣いてると七海さんはハンカチを渡されるんですよね。1級術師が被害者の方々と直接やり取りする機会はそんなに多くないし、七海さん見た目ががっしりしてるし、レアなメガネしてるから被害者の方々に怖がられることあるじゃないですか。でもすっと渡すの、そこがすんごくカッコいいですよね。
え、余ってる七海さんのハンカチくれないかって?イヤですよ、猪野さんも何枚か絶対持ってるんじゃないですか?え、そのクッタクタのやつなんですか?!使い込みすぎじゃないですか?!……シルクの手触りが完全に死んでる……紙やすりのようだ……。しょうがないですね、2枚だけですよ……。

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出張の帰り道が嫌いだ。
出張先を出てすぐ家になって欲しい。でもあの五条さんでもワープ的な移動は制限があるらしいので、専門でできる術師さんがいたらひっぱりだこだろう。東京が夕曇りの空だとさらに嫌だ。世界が黄ばんで、全部終わりですって感じに見える。まだ真夜中の方がいい。
ペットボトルの底に残った最後の一口のお茶を飲み干して席を立つ。七海さんに東京到着の連絡を入れようとしたら、気持ち悪さで指先まで震え出したので諦めてバッグにスマホを放り込む。
新幹線から降りて我先にと急ぐ人に流され、どこ見ても人の顔。五感のすべてが混乱させられる。視線を逃がすために見上げた空は黄ばんでいて、下を向いて慣れないパンプスを見つめた。
些細なしんどさにイチャモンをつけるほどやさぐれているのは出張のせいではなく、出張のシメが真っ昼から嫌なメンバーでの飲み会で、さらに苦手な日本酒をかなり飲まされたからだ。
眠気もあるし気持ち悪いのにギリギリ歩ける程度のキツさ。戻りはコレ飲んどきなさい、と歌姫さんから渡されたお茶と水が1番美味しかった。歌姫さんとだけ飲んでれば絶対美味しかったお酒に違いない。

エスカレーターを降りると案内の大きな字が立ちふさがって来る。来月もまた同じ出張だと思うと胃が怯えるように縮こまった。出張して祓除なら全然いい。クソが強い……もといクセの強い上級術師ばかりの京都での会議は話し合いではなく、各種ハラスメント世界選手権会場だ。もしかしたら最初に蠱毒を行った人もこういう会議の中でその発想に至ったのかもしれない。圧倒的パワーの五条さんがいるお陰で東京がいかにラッキーか分かったので、五条さんにはいい和菓子のお土産を買った。
だからそのお土産やキャリーバッグを人にぶつけないように昇ったり降りたりして、自宅へ向かう電車を待って乗り込んで……と考えるとダルい。こういうときに東京駅に車を停めてるんで、と言えればお酒は回避できただろうか。……いや、自家用車は便利だが、車を使って出かけられる休みは少ないし、車を出すと運転担当はお酒を控えないといけない。嫌な人との飲み会回避と少しの利便性では車の維持費をペイできないだろう。
ペイする。七海さんがたまに使うので感覚で真似てみたがあってると思う。ギリギリ状態のときのブラックジャックの南無三を雰囲気で真似するのに近い。色々考えてキツい吐き気が収まるのを待ったが、うまくいかない。南無三。

電車は諦めてタクシーを捕まえるために、またひたすら下だけを見て歩いていると改札を通過したところで見覚えのあるレースアップシューズが視界に入って来た。玄関でよく見る七海さんのと似てるなあと思い避けると、急に肩を掴まれる。けれど上を向く前にその手の重みで分かった。
「なまえさん、大丈夫ですか。顔が真っ青ですよ」
4日ぶりの七海さんだ。
「歌姫さん以外に言葉が通じるマトモな大人に久しぶりに会いました………」
「そんな庵さんとアマゾンの奥地から帰ってきたみたいに」
まあ、言いたいことはわかります。と七海さんはキャリーバッグにショルダーバッグ、お土産紙袋まで全回収してくれてあっというまに手ぶらにしてもらった。1個くらい持たせて下さいというやり取りができる体調ではないので、ありがたく好意を受け取る。
「なんでここに?偶然ですか?」
「いえ。伊地知君から貴女が乗った新幹線が出たと聞いたので連絡したのですが、返信が無いので迎えに来ました。充電切れですか?」
「すみません、あっちで飲まされて新幹線でほとんど寝てて。あと画面みたら酔いそうで……」
飲まされた経緯を話せば七海さんは頷いてタクシーを捕まえてくれる。七海さんのおかげでイチャモンつけるだけの私は静まり、なんとか家に帰れるんじゃないかという気持ちになってきたが、乗り込んだタクシーにあるバックミラーで自分の顔を見てしまった。熱を測ったら風邪が辛くなる気がするように、顔色をみたら吐き気が強くなりそうで避けていたのだが、今すぐ吐きそうな血の気の無い顔をしていた。これもう実は死んでるのでは?視線をバックミラーから逸らすと七海さんがハンカチを差し出してくれた。
「到着まで寝ていてください」
「……もしかして猪野さんから聞きました?」
「何の話ですか?」
ハンカチを受け取る。シルクのような肌触りが唇に触れていい匂いがする。七海さんがつけている少しオリエンタルな香りがハンカチに移っているのもあるんだろうなあ。この前猪野さんに聞かれたことを思い出して目を閉じた。大丈夫。帰れる。もう終わりだ。乗ってれば家につく。タクシー最高。

▼ ▼

「なまえさん、中を覗いても?」
「大丈夫です……」
車内で耐えきれたのは奇跡だ。帰宅して一目散にトイレに駆け込んだが、出てきたのは新幹線で飲んだ緑茶だけで肝心のお酒が出ない。胃が上下して喉奥が痙攣してもしぶとく胃にしがみついている。
「吐けました?」
「まだです」
視線だけ動かすと背後にしゃがんだ七海さんの膝が見えて、背中を擦られた。軽く上下するだけでほぼ背中の全体を擦られる。しばらくして、なぜか踵もさすられたのでなんだろうかと思ったが、そういえばパンプスの靴擦れで絆創膏を貼っていたのだ。

「……しましょうか?」
何を?一瞬意味が分からなかったがすぐに理解する。頷くと七海さんの手が背中から離れた。
背後から伸びてきた左手に体がこわばる。太くて長い指、分厚い掌。いや、自分でやっても下手で吐けないし、前に風邪をひいた時にしてもらったから大丈夫。あれでかなりすっきりして快方に向かったから大丈夫だ。と何度も自分に言い聞かせて口を開けると、爪が真っ白になるほど握り込んでいた右手を七海さんの右手が包み、指を解して絡めて握ってくれた。深呼吸をして吐くメンタルを整える。吐くのは苦手だ。誰よりも頼りになる手を握り返す。ちらりと見えた七海さんの小指が私の人さし指ほどあるということを考えて意識をずらした。

彼の左手の中指が1本、口の中に入ってくる。ちょっとしょっぱくて、分厚く、弾力があり、つるりとした爪が上顎に一瞬当たり、ハンドソープの香りが鼻に抜けた。左手の残った指が、その手の雰囲気からは想像できないほど優しく顎をつかむ。自分でも数えるほどしか触ったことがない舌の根の奥を軽く七海さんがタップして「行きますよ」と声をかけられ、一瞬の間があって圧がかかる。
人間の変な構造だけどあってよかった。さっきまで吐けなかったのが嘘みたいに「あ゛」と潰れたような声が出て、横隔膜が勝手にへこんで震えて、胃から喉までが他の動物になったみたいに飛び上がって、温かい無色透明の液体が喉奥から溢れ出て来る。えずくたびに七海さんの手を握ると握り返してくれて、胃が次々酒を外に押し出す。
嫌な術師と真っ昼間から飲み会と聞いたときから食欲が無くて、絶対日本酒を勧められるので吐く想定でゼリーや水なんかの液体しか飲んでなくて良かった。いやきっとそれが悪酔いの一因でもあるだろうけど。とにかく良かった。好きな人に思いっきり吐瀉物見せたくない。

もう1回押してもらって完全に吐ききると、胃に渦巻いていた不快感と気持ち悪さが嘘みたいに無くなっていた。「水を取ってくるので待っていてください」と出ていった七海さんは水の入ったペットボトルと、彼が普段部屋着で着ているカーディガンと、それから彼のハンカチを持って来た。口をゆすぐとハンカチで鼻と口を拭かれて、スーツのジャケットを脱がされて、カーディガンで簀巻きにされて抱えられた。前から後ろから七海さんの匂いがして、そんでもって肌触りがいい。
「え……七海さん、猪野さんから聞きました?」
「……何をですか」
「声が笑ってるんですけど、やっぱり聞いてるでしょう」
「いいえ?」
「やっぱ聞いてるじゃないですか!」
猪野さんに迂闊なことを言わないでおこう。すべて筒抜けになってしまう。……いやなって……いいかもなぁ。匂いと柔らかさと、抱えられる安心感で、なんかもう全部どうでも良くなってしまう。また京都出張に行っても大丈夫かもしれない。
いややっぱ嫌だな。

2023-03-16
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