インターホンのモニターの中にイケメンがアップで映ってる。
カメラをまるでドアスコープみたいに睨みつけ、モニターの全面を埋めている。
息をひそめて真っ暗な家の中で後ずさる。廊下についたモニターを見ている私から、彼がいる玄関にはまっすぐ5メートルの距離があった。すり足の足音がバレるわけないが、この非日常は迂闊なことは何だって命取りだ。

『開けろ。いるだろ』

バレた。モニターからのくぐもった声と、玄関から聞こえる生の声が二重に聞こえる。
玄関ドアのすりガラスに彼が持っていた棒のようなものがぶつかって音をたてる。ニュースでたまに「棒のようなもの」「バールのようなもの」と報道されるがつまり何と思っていたけど、こういうことだったのか。バールといえば最近バールのようなものを使った窃盗が起きてて物騒だからバイト先のカフェはシャッターを替えたばかりなのに、この状況でこわれたんじゃないか。本当なら今日の今頃はバイトしてて、1限はいつも憂鬱な第2外国語の講義だった。
落ち着くために素数を数えろ、人と手のひらに書いて飲め、部屋の中の色を数えろとか色々あるけど、私はその一環で安全な日常を思い出すことにしている。
ひときわ大きくドアが殴りつけられた。だめだ。ドアを壊される方がまずい。
彼があの彼なら簡単にドアを壊せるのに、出てくることを求めているのなら会話が目的だろう。恐る恐るU字ロックをしたまま玄関ドアを開け、狭い隙間から外を見る。さっきまで彼が立っていたであろうドアベルの前には誰もいなかった。
「オマエの名字、みょうじか」
きっとドアの真正面にいる。レポートを書くために読んだ資料で出てきた“専横”という言葉は日常では一生使わないと思っていたけど、それにぴったりな声だけがする。非日常なだけある。
「……はい」
隙間の前に男は戻ってきて、ドアベル横にある表札をなでた。長い水色の髪をアイドルみたいに頭の上で2つ結んでいて、男の視線だけがこちらに向いて目が合う。
「開けろ」
「いやちょっとそれは……」
舌打ちが響き、下瞼にそって波立つ特徴的な皺が苛立ったように歪んだ。と分かった途端、目をつぶってしまった。だって急に、下から上にかけて風が吹いたから。反射的に目を閉じると硬いものが床に落ちた音がして恐る恐る目を開けると、U字ロックが根本から折れて転がっていた。
肌寒い外気と夕方の日差しが玄関に広がって、男が家の中に入ってくる。そして廊下奥から彼めがけて飛んできた包丁を彼は人差し指と中指で軽く挟んで止めた。この「勝手に家に入ってきた相手へ包丁自動投擲機」は制作するのに丸1日かかったのに。
小学生の頃、祖父と一緒に海上自衛隊の護衛艦を見に行ったことがある。その頃の私が知る身近な1番大きいものは、いつも見上げていた高さ15メートルの小学校の校舎だった。
あの日見た護衛艦は海に浮かぶ幅248メートル、高さ49メートルの鉄の塊だった。祖父の手を強く握って固まってしまい、少しも動けなかった。あの時の恐ろしさ、驚き、怯えを含んだ“圧倒”。それを自分と背が20センチほどしか変わらないであろう彼から感じている。

彼は腰が抜けてへたり込んだ私の腕をひっぱり上げて立たせ、引きずるように家の奥へ連れ込む。家の廊下の各所にしかけた薄い木の裏から釘を打ち抜いて侵入者の足に刺さる罠を、彼は視線ひとつ向けずに蹴り飛ばし、リビングのソファに私を座らせた。彼は床にしゃがみこんで、品定めするように私の顔をにらみつける。
「飲め」
懐から出して投げよこしてきたビニール袋を開ける。入っていたのは、3日前に失くした薬だった。
「飲んだら寝ろ」
彼はリビングから出ていったが、しばらくして箪笥が倒れる音がして戻ってくると「おい、罠みたいなの全部解除して寝ろ」と呆れたような声で言った。

▲ ▲

軽い風邪をひいていた。
長引く前に病院に行こうと思って眠った夜、大柄の袈裟姿の男が夢で怖いことを言う。熱で見た悪夢だと思って目が覚めて自分がした選択が現実だと解った。
結界に残った私は風邪が悪化し、動けなくなる前にと薬を探しに出た。市販のかぜ薬はもうあまり効かなくて、近所の薬局から風邪のときにたびたびもらっていた薬を盗るしかなかった。
薬局からの帰り道、盗った罪悪感と道端に残る血の跡に足が震えた。最初の頃は家の外に出て巻き込まれた人達と情報交換をしていたが、次々といなくなり、このあたりの住人は私1人になっていた。こそこそと夜中出歩き、日中は家の中で息をひそめていれば安全だった。

だから薬を盗った帰り道に出会った、カマキリみたいに片手が変形した男に反応が遅れた。
“術師”に会ったのはその時が始めてだが、紛れもなくソレだった。男はこちらに向かって走ってきたが腕が重いのかそこまで速くはなかった。家の位置がバレたらマズい。迂回してまいて逃げようと考えていたとき、一瞬頬の産毛が全て逆立つような感覚があった。
細胞ひとつひとつの水分まで蒸発するかと思うほどの白く熱い衝撃と、轟音が背後に走った。転ぶ。体が丸まる。硬直する。高音の耳鳴りが聞こえるのは鼓膜が無事なのか?鼓膜が破れても耳鳴りは聞こえるのだろうか?
快晴の真昼なのに煙で白んだ視界が、薄暗くなったりやけに眩しくなったり落ち着かない。無理やり起き上がると、追いかけてきたであろう男が黒い塊になって転がっていた。
鼻をつく肉が焦げた臭いに咳き込んで、顔をあげた先にはぼんやりと人影が見えた。はっきり見えたのは淡い水色の髪だけ。空気が微かに爆ぜる音がする。
死んだ男の相手をしていた方が良かった。次は自分の番だと確信し、一目散に逃げた。
生きて帰れるとは全く思っていなかったが体が反射的に動いて、そして恐ろしいことに無事に自宅に帰りつけたのだ。家はバレてないか、夜中来るんじゃないか。そう思うととてもじゃないが眠れず、その日から私は家の至る所に侵入者向けの罠を作り始めた。

▼ ▼

「起きろ」
寝ているソファが軽く揺れた。彼は私を見下ろす。会ったときから変わらない不機嫌そうな顔つきだ。
熱は薬で下がっているけど体調は夕方よりもずっと悪い。ありとあらゆる関節が痛くて、寒気が止まらず、体の不調が生への執着を弱らせているのか今は彼が怖くない。窓の外はいつの間にか真っ暗になっている。
「……夜、電気はつけない方がいいです」
返事はない。ただ睨んでくるだけ。
「大きいのに、家を壊されるので」
呪術師が来るので、と言いそうになって、この人より危険な人がいるのだろうかと思い、もうひとつの懸念を伝えた。前に遠くまで物資を探しに出た時に小型のクレーン車くらいの呪霊が電気がついた家を襲っている所を見たのだ。それを話すと彼は素直に明かりを消してくれて、真っ暗な中で窓から入ってくる微かな街灯の明かりだけが彼の輪郭をうっすらと見せた。
「夜はずっとこうなのか?」
「ロウソクや懐中電灯で、外にもれないようにしてます」
スマホの明かりを頼りに、ソファ脇にあるテーブルに並べているLEDランタンやアロマキャンドルに火を灯す。淡い光が広がり、テーブルの上にラーメン鉢に入った何かがあるのが見えた。彼の夕食だろうか。アロマキャンドルから果実のような匂いが漂うけど、リラックスの香りと書かれたラベルの効果はまったくない。
「食え」
彼はラーメン鉢を持ち上げて押し付けてきた。受け取ってみると中にはスープがなみなみと注がれて箸が刺さってる。これお父さんの箸だ……。今の光量ではゴツゴツとした黒いものが水面から出ている程度にしか見えない。角煮?煮物?臭いを嗅ぐとうっすらと雨上がりの森のにおいがする。詩的になってしまったが、つまるところ泥と草と何かの臭いだ。
「え、これ、1人でたべるんですか」
「俺はもう食った。食欲がないなら飲むだけでいい」
ラーメン鉢を私に持たせると彼は監視するように床に胡座をかいた。口を引き結び、やはり不機嫌そうな視線でこちらを睨む。ラーメン鉢は温かい。ずっと持っていると熱いくらいだ。口をつけてみると、さらりとした臭さのある無味……いや生臭い、飲み進めるとざらりとしたものが含まれている、あ、どろっとしたものも来た。
「……ま、ウッ……ぅま……まい、たけはいってます?」
「入ってない」
マズい。なんだこれ。びっくりした。マズすぎる。何入れたらこうなるんだ。気を遣って言えばなにかの民族の薬膳料理。気を遣わないで言えば側溝の上澄み。味は苦味とエグミと塩気、水にザラザラしたものを溶いたような喉越し。口に入る味は最悪だが強い味や脂っけがないので胃に落ちても吐き気はしない。箸で謎の塊を突くと、多分、煮魚の感触がした。骨がないのを確認して舌の上で転がしてみると食感はやはり魚だが味がしない。鉢の底をすくってみると、春菊のようなセロリのような葉っぱがゴロゴロ出てくる。うっすらした草の臭いはこれか。マズさで頭がはっきりしたせいで彼への恐怖が戻って来て、死ぬ気でとりあえず汁だけ飲み干した。流石に吐き気がする。

「あの罠はなんだ?」
食べ終わるのを待っていたように彼は私がラーメン鉢を置くと話しかけてきた。
「……呪術師が家に入ってきた時のために」
「なにか指南書でもあるのか?」
「ホーム・アローンとウォーキング・デッドをマネて作りました」
「なんだそれ」
「そこのテレビの下にDVDあるんで見てください……」
彼はちらりとテレビを一瞥すると「薬飲んで寝ろ」とだけ言った。
薬を飲み、言われるまま横になり目を閉じると先程と同じように彼が私を見下ろす。乾いたざらりとした手が私の額に触れた。枕元にあるランタンのおかげで1番はっきり顔がみえた。
「あの、お名前は」
「鹿紫雲。オマエはなんでここに残った。それか入ってきたのか」
胃がおかしい。かっかと燃えている。寒くて仕方なかったのに今度は体の熱が全部胃から供給されてるみたいに熱くてたまらなくなる。身じろぎすると額を押さえつけられ「おい」と回答を促された。
「……マツキチを、連れ出そうと思って……」
「マツキチ?」
私を助けるように鳴き声がした。人見知りだからきっとずっと神棚の上にいたのだろう。彼の指の隙間から、鳴き声の方角を見る彼が見える。
「マツキチっていう名前の猫か」
彼の声色は明らかに笑っていた。

▼ ▼

差し込む陽の光で目が覚める。
体にまとわりついていたダルさがかなり軽減していた。時計を見ると昼を過ぎており、体を起こすと髪が頬や額に張りつき、服と肌の間に汗が流れて気持ちが悪いけど気分はすごくいい。あのワケの分からない料理のせいだろうか。久しぶりに靴を脱いで寝られた。
テーブルには「昼には戻る」と広告の裏に書かれた置き手紙が残されていて、荒いが結構な達筆だった。お風呂に入ろうかと立ち上がったところでマツキチが足元にまとわりついて来る。抱き上げると小さく鳴いてすり寄ってきた。
袈裟姿の男に結界の外に出るか残るか聞かれたとき、マツキチを連れていけるか尋ねた。
男は人が良さそうに笑うと「猫は連れていけないね。けれどプレイヤーにはならないから、君よりも生き残れる可能性はずっと高いよ」と答えた。あの時は何を言っているか分からなかったので連れていけないならとここに残ったが、今同じことを言われてもここに残ると思う。10年一緒にいる大切な家族だ。
リビングを出て廊下に踏み込もうとした所で、帰ってきた鹿紫雲さんと鉢合わせした。
「昼食ったか?」
「まだです」
「作るから寝とけ」
ぐしゃぐしゃの大きな紙袋に何かをパンパンに詰めて帰ってきた。足音を殺さずに歩く姿は結界の外で私を探しているだろう、お父さんの足音と重なった。彼の頬にはあきらかに返り血が飛び散っていて全く穏やかではないのに、そのなかに日常を見つけて落ち着いている。順応してきている。このヤバい所に。

お風呂から出て身支度を整え終わっても、やはり鹿紫雲さんはキッチンにいた。家で1番大きな鍋で何かをなみなみと煮込んでいる。
「手伝えることはありますか?」
「無い」
シンクの上は魚の血が飛び散っていて、よくわからない葉っぱの端っこや根がその中に浮かんでいた。
「鹿紫雲さんはポイント稼ぎをしてきたんですか」
「調達だけだ。もうこの辺で昼に動くのは迂闊な弱いヤツしかいねぇ。夜になったらまた出る」
会話を聞きつけてやってきたマツキチがか細く鳴く。鹿紫雲さんはちらりと見て何か放った。ちょうどマツキチの前に落ちたのは魚の切り身で、切り方自体はひどくきれいで、マツキチはガツガツと音をたてて食べ始める。ペットフードのストックが無くなった頃に冷蔵庫の中身も尽きて、最近はお米しか食べさせてやれなかった。
鹿紫雲さんは料理に戻る。お玉で丁寧に丁寧に浮いた脂や灰汁を取り除いている。が、臭ってくるのは昨日と同じ雨上がりの森の臭いだ。いや、さらにそれに獣臭さと謎の甘い香りまで混ざっている。
「鹿紫雲さん」
「なんだ」
「冷蔵庫の横にコンソメあるんですけど」
鹿紫雲さんは手に取る。昨日よりマシな汁が飲めるかもしれないと期待したが、彼はコンソメの匂いを嗅いで「好きじゃない」と戻した。終わった。

真昼にちゃんと見えたそれは、アラ汁に近い。汁の水面から突き出ている魚と目が合う。独特の少し甘い匂いは昨日のには入ってなかった生姜だろう。彼の見た目には似合わない丁寧な灰汁の処理のせいか、この汁は飲むまで臭いは少ない。ただ口に入った途端鼻から抜けるように生臭さが通るので少しはこの生姜でそれが消えていることを願って飲んだが、そんなに昨日と変わらないし、汁をすくうと草や煮えた肉が出てきた。
ダイニングテーブルの向こう側の鹿紫雲さんは嫌な顔ひとつせずに具もなにもかも一気に平らげると3杯食べて、進まない私の顔を見る。滋養強壮と1日のエネルギーを全部得られる鍋らしく、これを食べれば風邪ぐらいすぐ治る、と彼は言う。本当にその効果はあるだろうが1杯飲むのがやっとだ。
「……鹿紫雲さんは、なぜ助けてくれたんですか?」
彼の不機嫌そうな顔が少し緩んでいるので、1番聞きたかったことを尋ねた。
「オマエの先祖に世話になったからだ」
隠す様子もなく出てきた言葉は信じがたいものだった。とはいえ嘘としては突飛すぎるし、呪術師や呪霊が外を歩き回っている今ではそうおかしいことでもないのかもしれない。もう私の常識はほとんど役に立たないのだから。
「……今何歳ですか?」
「体はハタチくらいか?正しい生まれは400年前だ」
「……私の先祖は、どういう人だったんですか?」
聞くたびに理解ができない返答がくる。鹿紫雲さんは懐からコンビニのおにぎりを出して、パッケージのルールを無視して破って白いおにぎりにかぶりついた。
「金のある武士だった。名字もオマエと同じみょうじ。俺は強いヤツと戦いたくて、オマエの先祖は強いヤツが戦うのを見るのが好きで、生活の金やマッチングなんかの援助をしてくれた」
先祖、たぶんあんまり良くない人だな。
「それにアイツは自分の子孫の男は全部、自分と同じ名の松吉にするって言ってたな。猫につけられるとは笑える。それにオマエの顔にちょっと面影がある」
先祖のおかげで助かったけど、その先祖に似てるのあんまり良くないな。

鹿紫雲さんは席を立つと帰宅時に持っていた紙袋を取ってきた。一気にひっくり返し、中からはカボチャや瓜、皿、壺、薄いコンクリートなどがフローリングの上に転げ出る。
「とりあえず1個、割れるまで殴ってみろ」
彼がいつも持っている棒のようなものを突然渡される。持ってみるとずっしりと重たく、今の体には振り上げるのが精一杯だった。言われるまま立ち上がって、小ぶりな瓜に狙いを定める。まだ汚れていないフローリングの上に横たわっているそれは、ここからは庭がよく見えるからと座布団を敷いて昼寝をしていた、日常の自分の頭の位置と重なって見えた。
棒を両手で持つ。強く握り直す。手のひらにつるりとした質感と重さが伝わってくる。3発目で中の汁が吹き出て、5発目で裂け目が生まれた。青臭い香りが上がってきて、さっきまで飲んでた汁なんかよりずっとマシな臭いなのに吐き気がする。
「ひ弱だな」
「普通の人間なんてこんなもんですよ……」
「まあそうだな。だがオマエの先祖は呪術師だった。術式は遺伝する」
棒を落としそうになった。今、なんて?呪術師が、術式が、遺伝する?コガネから教えてもらったルールにあった。呪術師が持ってる個別の特殊能力。それが術式。
「19日、点の移動が無きゃ術式が剥奪される。オマエが術式を使えるのに気づいてないかは分からんが、剥奪の可能性はある。多分死ぬ」
「術式って取られたら死ぬんですか?」
「術式は脳と直結してるからな。そう考えるのが妥当だろ」
「私に術式がない可能性もありますよね?」
「ある。結果は19日目に分かるな」
収まっていた寒気がぶり返す。椅子に落ちるように座り、私が非術師で術式の剥奪なんてそもそもないことを鹿紫雲さんから言ってもらえるような言葉を探したが、一向になにも口から出なかった。
「その瓜、そこに転がってるモノ、全部非術師の頭と同じ硬さだ。念のため最低1人は殺す必要があるんだから覚悟しとけよ」
そう言う顔には、初めて見る機嫌の良さそうな笑顔が浮かんでいた。


リビングのソファで目が覚める。随分寝てしまったようだ。
真っ暗な中で、鹿紫雲さんはテレビの前に座り込んでじっと画面を見ていた。
コガネが出てきて「ルールの追加があったよ」と囁く。後で確認すると伝えるとすぐに消えた。テレビのバックライトが彼を照らし、その横顔はつまらないような、何も思っていないような、熱心に見ているような、どれにでも取れる表情だった。
「何見てるんですか」
「ホーム・アローンの2を見てる」
「1は」
「もう見た。ウォーキング・デッドとかいうのは無いのか?」
「ないです」
「体調は?」
「だいぶ良いです」
「そうか」
横に座って一緒に画面を眺めると、触った床にぬるりと嫌な感触があった。臭いを嗅ぐと鉄臭い。きっと彼は夜中1度外に出て戻って来たのだろう。ランタンで床を照らすと黒い足跡が点々と廊下からここまで続いていた。
テレビ画面の中で強盗が罠にかかり、階段から落ちてセメントや木材の下敷きになる。顔はセメントの灰色で濡れて瓦礫の隙間から苦しそうな顔が覗く。最近見た光景と重なる。灰色じゃなくてそれは赤色だったけれど。
手についた血をカーテンで拭うと、昼間に瓜を叩き割った時の感触を思い出した。
数日前は地面にこびりついた乾いた血にさえ怯えていたのに、今はなんとも思わない。いや、実際にまた明るい太陽の下で見れば怖くなって逃げ出してしまうだろうけど。

「オマエの先祖は強くはなかったが面白いヤツで、こんな風に屋敷に罠作って俺がクリアするのを見て楽しんでた」
鹿紫雲さんがぽつりとつぶやいた。先祖、やっぱやな奴だな。
しばらく見ているとマツキチの鳴き声がした。目を凝らすと鹿紫雲さんの胡座の向こう側にいる。しっぽだけふわふわと動かしてずいぶん機嫌がよさそうだった。大好きな祖父が亡くなった後にお母さんが拾ってきて、祖父と同じ名前をつけられたマツキチ。お母さんが「家は男の子ができたらみんなマツキチなの」と。そういえば、そうだった。
「鹿紫雲さん、お願いがあるんですが」
「なんだ」
「マツキチを結界の外に出してあげてくれませんか」
鹿紫雲さんが荒々しくマツキチの頭を撫でるが、マツキチは彼の手にもっととすり寄って行くばかりだ。
きっと人を殺して1点を取ることは私にはできない。19日後を0点で迎える。お母さんの携帯の番号を書いた首輪をマツキチに昼の間につけた。結界を出ればきっと誰かに助けてもらえる。
鹿紫雲さんは無言のまま画面の中の強盗が罠にかかる様子を見つめて、すこしだけ場が落ち着いたところで「自分でやれ」と薄く笑って言った。どっちのことか分からなかったが、きっと両方だ。

▼ ▼

「おい、移動するぞ。オマエを預けられそうなアテが見つかった」
急だった。翌日の昼に帰宅した鹿紫雲さんは頬が腫れていて、血があらゆる所に飛び散っていて、歩くたびに水が滴る。
「どうしたんですか!?」
「いいから早くしろ。マツキチは何かに入れとけ」
言われるままマツキチをリュック型のキャリーバッグに入れて玄関に向かう。汁のおかげか風邪はほとんど治っていたが、足がもつれて息が上がる。
「乗れ」
鹿紫雲さんがしゃがみこんで背中を向けた。背負ってやるということだろうが。
「あの」
「いいからさっさと乗れ」
「すごい、服が、びちゃびちゃなんですけど」
「よく文句言えるなぁ」
鹿紫雲さんは笑う。笑いのツボがわからない。言われた通りなので彼の肩につかまると潮の香りがする水が私の服に染み込む。背負われて外に出ると、腕が引きちぎられたビショビショの男の人と赤ちゃんパンダが立っていた。多分、この男の人と戦ったのだろう。
「彼女か?」と腕がちぎれた男の人が聞いてくるが「違う」と鹿紫雲さんは言って「こいつをオマエらで保護して欲しい。仲間になる条件の1つだ」と鹿紫雲さんは続けた。
「あとコガネ。みょうじに1点移動しろ」
「いいんですか?」
「いいも何も、点数移動ができるようになったからな」
そういえばさっき点数の移動がルールとして追加されたとコガネが囁いていた。
鹿紫雲さんは片腕のない男の人と話し始める。すくな、コロニー、受肉……聞き慣れない言葉が理解できずに霞んでいく。巻き込まれたときも、事態が好転するときも、何もわからずに進んでいく。

15分ほどして鹿紫雲さんの背中から下ろしてもらった。少しでも体力を戻さないとまずいし、鹿紫雲さんは背中を乾かした方がいい。歩き始めると赤ちゃんパンダが、大丈夫か?と気遣って色々と話しかけてくれた。鹿紫雲さんが怖いのかずっと彼をチラチラと見ながら私の影を歩いている。上野から逃げて来たのかな?上野パンダって話すのか?
しばらく歩いていると通りかかった川に人の死体が浮いている。私だけが気づいているのか、それとも他の全員には日常なのか、私だけがそれを見ていた。ぱっくりと頭が割れていて、力ない四肢は藻屑と絡まり、そこを通り過ぎる川水だけが赤く染まっていた。
もう住めないであろう家のキッチンに転がっている割った瓜を思い出す。頭を叩き割った感触が手に残る。
たぶん、上手く行けば、私とマツキチは助かる。そう実感しながらも、もう前の自分と同じ感覚には戻れないのだなと快晴の空の下で誰かの血溜まりを踏みながら理解した。

2023-02-15
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