※渋谷事変がなかったif

『もう怒ってない?』
電話口から聞こえてきた言葉の理解に時間が必要だった。ここ数日、五条からの電話は取らないようにしていたな、とその原因を思い出して電話で起こされたみょうじの眉間にシワが寄る。怒ってはいる。切ろうかと画面を睨むと午前4時。ますます眉間が歪むがこの時間が彼を許した。
「……怒ってない」
『そっち行ってもいい?』
「……今?」
『んー……あと15分くらいで着く。駄目?』
「それ最寄り駅いるだろ」
『チャリで来た』
成人式も任務で地元に帰れなかったみょうじを祝って、五条と家入と3人で食事に行った帰りに撮ったプリクラの記憶が浮かび、みょうじの口角が上がる。いつもは気まぐれや遊びで来訪する五条だが、断っては行けない精神状態のときがあり、その条件は3つある。
1、来る前に電話をわざわざしてくるとき。
2、断る空気になったら駄目か聞き返してくるとき。
3、声が浮ついてないとき。
上層部とのやり取りで精神が削がれていたり、みょうじに話せない嫌なことがあった時。会ったところで様子や話す内容はいつもとそう変わらないが、会ってガス抜きをしておくべき状態になっていることは長い付き合いでわかっていた。年に1・2回ほどの滅多にないことで、非常識すぎる時間であることは緊急性も表していた。
(それが今日……)
みょうじはベッドの中で小さく呻く。今日の彼女は人生で初めてのことを起こしてしまって絶対に人に会いたくなかったが、年に1・2度の五条の声を聞くと会うしかないという気持ちになる。

真冬の唯一の楽園である毛布から身体を起こし窓を開けると、冷気でいつもより澄んだ空気が頬を撫でて熱と眠気を奪った。雪が降りそうなくらいに外は冷えていたが毛布の中は暖かい。この毛布は「暖かくなさすぎてウケた。いやヤバいでしょ」と五条が勝手に買い換えた毛布である。元あったのは全国にCMを打つほどよく売れていたものなのでそう悪くはないはずだが、こちらの方がもう出たくないほど暖かいからそこにも免じて起きる。だが今日だけはけして、アマゾンお急ぎ便が来るまでベッドから出たくなかった。
外を眺めていると、このマンションに通じる道路沿いの道を黒くて背の高い男が歩いて来た。革靴の乾いたコツコツという音が、微かに明るい明け方の世界に響いている。お互いの目の位置さえおぼろげになる距離なのに五条はみょうじに向けて軽く手を低い位置で振り、窓から見える視界の外に向かって行った。今度は初詣帰りであろう大きな熊手を持った高齢の夫婦が歩いてくる。10日は話していなかった。とみょうじは思い出す。

10日も話さなかった原因を伝える電話が伏黒から来たのは、早めのクリスマスプレゼントで学生達からルンバをもらった1週間後のことだった。
『五条先生がルンバ殺しました』
「ど、どうやって!」
『散歩とか言って廊下に出して、落下死させました』
任務先の神社で短い嗚咽のような悲鳴がみょうじから漏れた。
1・2年の学生がお金を出し合ってみょうじに贈ったルンバは、彼女が自宅に持ち帰るまでの間は高専に借りている寮室を掃除していた。学生からもらったありがたさと、無言で部屋をすいすいと掃除する愛らしさが相まって、みょうじはもらった当日から動く様子を笑顔でずっと見守っていた。出張で分かれる寂しさまであった。そして彼女の不在時に部屋に立ち寄った五条がルンバを見つけ、面白がって外に出して階段から落とした。ということである。
恵、恵!待って!という五条の声が聞こえて来て「五条先生来たんで」と言う伏黒にみょうじはお礼を伝えて電話を切った。
伏黒は知っている。みょうじが五条に怒るときっちり叱るか、みょうじが気を落ち着けて頭の整理ができるまで距離を取ること。後者は五条に腐蝕するように効くこと。五条がみょうじに電話をしてもコール音が続くだけで、五条からも短い嗚咽のような声が漏れた。

▼ ▼

「やっぱ怒ってるじゃん」
ピンポン5連打しても私がドアを開けなかったから、しぶしぶ合鍵で入ってきた五条は靴を履いたまま疲れた子供みたいに玄関にしゃがみ込む。その体だけで玄関が埋まって私のブーツが窮屈そうに五条と床の隙間から見えている。本当にでかいな……。ベッドからその姿を見て、長く付き合っているのに妙に新鮮な感覚に襲われた。呪術師は体格がいい人が多いし、ずっと近くにいて慣れて感覚が薄れたが、五条は2メートル近くある。いつもなら出迎えるが、今日はベッドから出たくない。最悪落ちる。
「怒ってないよ。拗ねてないで入っておいでよ。寒くて出たくないんだ」
「じゃあ鍋作ってもいい?」
いま四時半……なんだが……。五条は家ではすべて無視して、やりたいことをやるけどここまでだったろうか。2019年は原点回帰スタイルで行く気だろうか。五条はゆっくりと部屋まで上がってくるとダイニングキッチンの電気をつけ、黒いコートを脱いで椅子に適当にかけた。電気をつけていないベッドルームからその姿を見ていると、廻り縁が映画のように部屋を切り取る。
「今日実家に顔出したら良いところの肉とか野菜とか色々もらってさぁ。鍋にするしかないじゃん。寒いし。あと貰い物の酒に、持って行けって詰められた正月の料理に、和菓子に、あとこの前来たときにそろそろ寿命だった風呂掃除スポンジ」
「五条家からもらったスポンジ?」
「いや僕が来る途中で買ったけど」
「それはマジ助かる」
「ねー。だからベッドから出てきてよ。正月の朝に2人で会うなんて何年ぶりかわかんないじゃん。ルンバのことはホント悪かったよ」
スーパーのビニール袋から出てきた高そうな重箱や桐箱、細く輝くリボンのかかった日本酒。テーブルの上が非日常で今日が正月であることを実感した。
ルンバ業務上過失致死は真希ちゃんに頼んでメーカー修理に出してもらったからいい。ちゃんと直るらしいから、五条が思っているほど私は本当に怒ってない。それに久しぶりの平和な正月を大事にしたほうがいいのは五条の言う通りだ。しかし目下1番重要なのは、人生で初めて起きたことをこの状況でどう処理するかということだ。
いやでも。今年の、いや去年の正月は最悪だった。百鬼夜行の後で書類に会議、仲間の葬儀、重要備品や武器の修理、学生のケア。2月になってお疲れ会を2人でやったときには「大変だったね」というだけで百鬼夜行のその後についてはもう何も語らなかったが、1年通して五条が何も言わずにもたれかかってくるような時間がいつもより多かった。そんな年だった。

「なまえ先輩、なんかあった?」
「五条の方がなにかあったでしょ」
「うーん。まあ色々ね。僕のテンション激上げハイパーハッピーになれるネタない?それか先輩の“なんか”の方を話してよ」
鍋を火にかけようとしている姿は、珍しく疲れたように猫背になっていた。
「“なんか”の方で五条の気分がダダ下がりしても?」
「それはないから大丈夫。ほら元気だして話してよ」
自分の顔に滋養強壮効果があると思っている五条はサングラスを上げるとパチパチと瞬きをし、こちらに来てベッドに腰掛けた。今黙ってコンビニにいくだけで私が抱えている問題は解決する。しかし五条に対し罪悪感に似たものがすでに生まれている。言わないで今後の関係を続けるのは、不義理、裏切り、姑息……なんと言っていいかわからない。こんな状況初めてだから。でもこれは知らない方が本人にとって幸せなんじゃないだろうか。
……いや、しかし。“いや”・“しかし”。このふたつを何度も繰り返し、2時間前も考えて結局答えが出なかったのだ。ここで出るわけがないだろう。ただ、五条には言えないことも応えられないこともあるけど、誠実でいたい。こちらを見ている眩い青い目の奥に、私が映っていた。
「今、五条のパンツ履いてる。……新品の買い置きしてあったやつね」
履いてる。で終わらせたとき、ものすごい速さで目が見開かれたので急いで付け足すと、今度はものすごい速さで五条の手が毛布に入って来たので止めた。
「パンツは新品で返すから取り返すな!!」
「返せじゃなくて履いてる所みたいの!!」
「嫌に決まってんじゃん!!!」
「先輩の体格だったらスパッツみたいになってるでしょ!」
「なんか丸め込もうとしてるけどパンツをパンツとして着用してんだからこれはパンツだろ!」
掴んだ両手をそのまま反転させてベッドに投げ上げると、クソ……と五条は呟き、無理やりそのままベッドに入ってきて、正しい仰向けの寝方の図として寝方の教本があるなら乗りそうな姿勢で「テンション爆上がったわ」と言った。年末年始の空気が全部飛んだ。危なかった。体術に秀でていなければ負けていた。近接呪術師で良かった。

「人のパンツ履くなんてサイテーって言われると思ったから、ものすごく悩んでたんだけど……」
「そんなこと言うわけ無いじゃん。ちょっと最近シカトしたせいで僕の理解力落ちてない?マズイな冬休みは仕上げの追い込みだからここから基礎力上げは難しいけど、僕もサポートするから頑張ろう」
「受験みたいに言うな」
「ていうか、なんで僕のパンツ履くことになったの」
「私、年末に下着を全部捨てて正月に新しいの出すんだけど」
「東方仗助みたい」
「よく出たなその情報。で、年末に新しいの買っておくんだけど、今年は先に下着捨てて、出張任務行って、最後の都内の任務先で着てる服全部駄目になったから帰ってきて脱いでゴミにまとめたところで、気づいたんだよね。下着買うの忘れたことに。ひとつでもないかなって探したんだけど、出てくるのは五条の買い置きパンツばっかりで。ノーパンでコンビニにパンツ買いに行くか、とりあえずこれをもらってパンツ履いてるっていう体裁は整えてコンビニ行くか……」
「で、迷って履いた」
「そう。で、迷って履いて……履いたら履いたで、言いようのない罪悪感みたいなのが生まれて悩んだけど、疲れてたからとりあえずアマゾンお急ぎ便でパンツ頼んで寝た、のが2時間前」
ははは、と笑う五条の声は楽しそうなものからどんどんツボにハマったらしくホコリが立つほど布団を叩いて大笑いした。
「五条のパンツのパッケージかっこよすぎでしょ。しかもなんだ音響メーカーみたいな名前してなんだよ」
「パンツに八つ当たりしないでよ」
「どこで生まれたんだよ。読めないし」
五条はポケットからスマホを取り出すと「スイスだって」と言い、検索で出た通販ページを適当に開いて見せてくれた。スイスってパンツも作ってるんだ……。このパンツの値段が1万超えていることに気がついて、ますます疲れが出た。
「サイズ合ってないせいで歩くとじわじわずり落ちて来るから私を動かさないで。ノーパンでコンビニ行くのも後輩のパンツ履いて人に会うことも私にはできない。アマゾンお急ぎ便がパンツ持って来てくださるまでここから出ない」
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心……」
「中島敦……」
五条はベッドからでると、泊まりに来た時の衣類を置いてる衣装ケースから次々と小さい箱やパックを出して私の前に並べた。「これとか結構フィットするから、ずり落ちないかも」親切やめて。罪悪感で死にそう。あと一生分ノーパンの話ししたかもしれない。
「まあパンツくらいいくらでも僕は履いてもらっていいけどさ。2時間しか寝てないのはノーパンよりヤバい」
目の下ヤバ。と五条は私の隈を親指で拭うようにさすった。
「でも年末の任務数は少なかったね」
「だよねー今年は憂太も帰ってきたし、悠仁も恵もいたからね。こっちに回る任務数激減で助かったよ。で、あと何時間寝たら大丈夫そう?」
「……2時間」
「了解。素敵な先輩の頼みだからいいよ。2時間寝ててよ。次起きたら鍋ね。そこは僕のパンツ履いたんだからお願い聞いてもらうよ」
手が伸びてきて額を軽く押される。そのままベッドに戻ると急激に眠気が戻ってきた。

「起きてー。なまえ先輩」
室内に温かい食欲をそそる匂いがする。起き上がると外はもう明るくなっていて、7時10分だった。高専に出勤する時間に近くてちょっと焦った寝ぼけた頭を起こす。手をついた先に触り慣れない感触があって、持ち上げてみると近くのコンビニで見た記憶がある箱入りレディースパンツがリボンをかけられて置かれていた。このリボン、日本酒に巻かれてたヤツじゃん。ノーパンのカバーで後輩にパンツ買いに行ってもらって始まる2019年が始まってしまった。
お礼を伝えると、五条は私の座る椅子を引きながら「また僕のも履いてね」と嬉しそうに笑った。なんかいい感じになってるけど履かないよ。

2022-12-31
- ナノ -