※渋谷事変が無く、主人公が呪術師4年目のifルート

手を伸ばした先にある服をつかんで被ると、いつまで経っても袖が終わらなかった。夢かと思ったころに指先が外に出る。手探りで下着を探したが一向になにも見つからず、しょうがなくそのままキッチンに向かうと、七海さんが昼に仕込んでいた牛肉の煮込みの香りが暖かい湿度と一緒にキッチンに残っていた。
12月の冷たい水道水でかすれた喉を潤す。4杯目を持ってダイニングテーブルに座り、ちびちびと飲みすすめる。
ここ1ヶ月、お互い出張で会っていなかった。やっと今日の夕方に帰宅ができて、色々そっちのけで七海さんとベッドに行って目が覚めたら夜。今が何時かは見たくない。時間を知ると明日が休みでもなんとなく焦るので意識的に時計から視線を外した。ここ1ヶ月できなかった贅沢のひとつだ。
喉を通る冷たさで目が覚めてしまい、手持ち無沙汰で机上に置きっぱなしにしていたパソコンを開くと新田ちゃんからメッセージが来ていた。ついていたのはひとつのURLで、開くとソファとテーブルの間に橋のようにかかって身動きが取れない猫の動画が始まる。補助監督界隈の癒し動画ブームは猫に変わったのだろうか。前はカワウソで、もうひとつ前は兎だった。猫は90秒の動画の最後でも変わらず橋状態だった。
視聴を3回繰り返してグラスも空になり、つられて眠くなったのでベッドに戻ろうかと思ったところで関連動画の中に気になるものを見つけた。夜の街並みにイルミネーションが白く細かく輝き、英語のタイトルがついている。それ以外の関連動画は動物なのに、これだけ街歩き動画であることに好奇心がそそられた。
再生してみると太陽の赤みが残る夕方の街の真ん中に柵が設けられ、その中にトナカイがいて藁を食べていた。人が群がって、熱心に写真を撮ったり、熱い視線を向けている。トナカイってこんなふれあい動物園的にいるんだ。関連動画に上がったのはトナカイがいるせいだろうか。人間を全部無視して藁を食べ続けるトナカイがしばらく映り、木の枝のように複雑に伸びた角が一瞬アップになった。その後撮影者は歩き出し、ダウンやコートを羽織った人々が行き交う街並みが映る。そうか、私たちも今月クリスマスだ。動画の中の空は早送りしたように暗くなり、街を彩るイルミネーションが眩しくなってくる。最近は夜間の任務と四六時中任務服で黒には大分疲れていたが、画面の中の夜はひどく落ちついた。

動画を眺めていると、リビングとキッチンをつなぐ廊下の奥に人影が現れた。上半身裸で下だけ黒いスウェットを履いた七海さんは、こちらにやってくると額にキスをくれて動画を見下ろす。
「七海さん、上は」
「なまえさんが着ているのが私のです」
ホントだ。ワンピースタイプの部屋着にしては袖や肩がやけに大きいなと思っていたけど、これ七海さんのスウェットだ。脱ごうと裾をつかんだところで「いいです」と手に手を重ねられて制される。
「アナタ、何も下に着ていないでしょう」
「そうでした……私の下着見ませんでした?なんにもなくて」
「……私の方の床に全部落ちてます」と彼は言うと続けて何かを言いかけたが「いい映像ですね」と動画の感想を述べた。
「ここ、どこか分かりますか」
「恐らくロンドンでしょう。そういう名前のショッピングモールがあったと思います」
動画タイトルを七海さんが空でなぞる。撮影者はずんずんと街を歩き、すれ違うショーウィンドウの中にはクリスマス用の商品の上にバルーンのサンタが宙づりにされていた。
「なまえさん、リビングで見ませんか?」
「いいんですか?」
「私も目が覚めたので」
「……今何時か知ってます?」
「いえ。時計を見たくない」
「気が合いますね」

リビングのテレビに映して照明をつけずに見ると、映画のような没入感があった。テレビに向かい合うソファに座ると身体が沈み込む。出張中はソファがないビジネスホテルばかり引き続けて、ちょっとソファ代わりにベッドに座るつもりが気づいたら眠気に勝てずそのまま朝を迎えた。を何度も経験し途中からベッドに座るのをやめた。
七海さんはベッドから持ってきたブランケットに私ごと包まると、海外の小さな瓶入りビールを手渡してくれた。飲みきりサイズとはいえ、瓶から直飲みすることなんてほとんどないので飲むだけでイベント感がある。ソファでだらけて瓶ビール。楽しい。休みだ。最高。
一口飲むといつもより味が濃く、チョコレートみたいなローストの匂いが強く鼻に抜けた。七海さんもビールを煽るように飲む。画面の中のロンドンのイルミネーションに照らされて浮かび上がる横顔と瓶の縁が、彫刻のようにきれいだった。ビールを口から離すと、彼は「あーーーーー……」と地を這うようなうめき声を出した。
「あと3年くらい、アナタとこうしていたい」
「ははは」
七海さんに抱きしめられるとスウェットの柔らかな毛並みのせいで彼の肌の上を滑って膝の上に倒れたが、そのままそこに収まった。私も3年くらいこうしてたい。
身だしなみは被害者に会う時のマナーはもちろん、現場の士気、自分の心身のコンディションなど様々なものに関わるから、自分が整えやすいスタイルがいいとアドバイスをもらったことがある。
だからここ1ヶ月、最後の防波堤である隙なく整えた身だしなみにボロボロの心身を意地で押し込めた。七海さんが言う通り、外見がちゃんとしていればなんとかなるもので、逆に少しでも崩したらそこから色々決壊しそうだと感じた。
なので今の私たちは開放感で頭がいつもよりハイになっている。
繁忙期に限界を超えると私は笑いの沸点が水たまりくらい浅くなり、七海さんはいつにも増して細かいことに目が行くようになるらしい。伝聞なのは組んだ補助監督さんが教えてくれたことだからだ。確かに口角が疲れている。
限界突破のおかしくなり方は人それぞれで、伏黒くんは「はい」の返事だけが普段より異常に溌剌として、野薔薇ちゃんはよく笑い、飲んだビタミンドリンクの蓋を集めだす。虎杖くんは体力がとんでもないからそもそも限界がないらしい。

動画の中も夜が更け、道ではクリスマスツリーの仮装をした女性がダンスし、クリスマスカラーのマントをつけた馬車がゆっくりと歩いている。ZARAの看板の下を歩く馬車はなかなか日本では見られないものだ。
明るいショーウィンドウが画面いっぱいに広がると光量が増えて、私を見下ろす七海さんのまつげまで見えるが、暗い街並みに変わると輪郭さえ捉えることができない。呪霊が映らない世界と七海さんに交互に視線を送りながらブランケットに包まるのは、骨が溶けそうなくらい緊張が緩む。あと6年こうしていたい。嘘だ。死ぬまでこうしていたい。ショーウィンドウにはクリスマス向けの衣服を身に着けたマネキンが並び、その下には人工雪が積もっている。
「人工雪ってどう作るんでしょうね」とうまく回らない口で言ったが七海さんは拾ってくれて、スマホを手に取り「専用のスノーパウダーが売っているらしいです。粉に水をまぜると雪になる。家庭でも作れるとか」と画面をスワイプして言った。
「ちょっと楽しそうですねぇ」
「…………買いました。明日の午前中に届きます」
七海さんは疲れがピークになるとたまに変なものを買うが、今回のそれはスノーパウダーになってしまった。やるか、アマゾンお急ぎ便で来る人工雪。出すか、一昨年の七海さんが疲れのピークで買った、天井より5センチ大きいので毎年てっぺんがちょっと曲がるクリスマスツリー。
スマホ越しに見える彼は、伏せた目つきで口角を上げているだけなのにとても楽しそうに見えた。外で滅多に笑わないからだろう。彼の気質によるものもあるが、1級呪術師が出る現場に笑える余裕が無いというところもある。だから彼が微笑むと最近は、よかった。と思うようになった。七海さんが笑えることがあってよかった。ふたりでいると結構笑ってくれるけど、今年の半分は任務でバラバラだったので久しぶりに笑顔を見たし、久しぶりの七海さんは右腹と左腿に大きな傷跡が増えていた。その腹部の傷跡を撫でるとプラスチックのようにつるりとしている。新しい傷ほどその異物感は強い。七海さんの手が伸びてきて、同じように私の左腿裏に増えた傷跡を撫でてくれた。

街歩きの動画は終わり、関連動画が自動再生されていた。「寒い朝に食べたい甘いもの」と題されて分厚いホットケーキを焼く動画が始まる。朝を見たくないが温かいものが作られる様子はみたい。悩むなと思っていると、温い手が頬にふれる。
「手、いつもぬくすぎませんか。朝に化粧水塗るときに貸してほしい……手は冷たいし化粧水も冷たいしでやってられない……」
「いいですよ。化粧水くらいいくらでも」
七海さんは私に甘い。めちゃくちゃに甘い。特に疲れてる日は大体なんでも許してくれるので、疲れで溢れた怠惰をこうやって全部拾ってくれるので口を閉じることにした。化粧水に呪力回したらぬるくならないかな。いや成分が変質しそうで怖いな。
動画は次々終わりと始まりを繰り返すが、だんだんと「庭の作り方」「●●の植え替え」とガーデニングものが増えてくる。こんなに出てくるということは七海さんが草花に関する動画を見ていた履歴があるのだろう。
七海さんは緑が好きだ。だけど自分だけでは家を空けすぎて枯らすからとあまり買っていなかったが、結婚を機に少しずつ観葉植物や鉢植えを増やした。今年までは順調に育っていたけど、どちらも忙しくしていた間に気に入っていたのをひとつ枯らしたらしい。
「家に木を植える」というタイトルの動画が流れてくる。ナツメの苗木が紹介され、おじいさんが木の苗を植えるために庭にスコップを差し込んだ。やけに画質がいいしブレないから素朴な動画だが分かってる人が撮っているのだろう。
「七海さん、庭のある家に住んだらヒメリンゴの木を植えたいって前に話されてましたよね」
「ええ」
「あの家ってもう売れたんでしょうか」
「2週間ほど前に見た時は売れていませんでした」
七海さんの手がまた私の腿の傷を撫でる。今年の秋の初めに負ったその傷は、あと数ミリずれてたら大きな血管を切って、高専に戻る前に出血死していたと家入さんから言われたものだ。その時迎えに来てくれた七海さんは「遠くに買いたい家があります。どう思いますか」と言った。海が見える、東京から遠く離れた土地の家。結婚してから七海さんは、辞めませんかと度々尋ねてきたが、1年、2年と経つうちに回数は減っていた。そしてこれが4年目初めてのことだったが、今までにないほど力が入っていた。この4年間で1番大きい怪我だったというのもあるだろう。話をするちゃんとした時間もないまま、また繁忙期になって今に至る。
「たぶん七海はなまえに辞めろってそのうち言わなくなると思うよ。嫌われたくないからね。でもなまえがそのうち七海のために辞めたくなるよ」
呪術師1年目の新年会の3次会で、ツイスターで対戦した五条さんにシートの上で言われたことを思い出した。彼の手足が長すぎて、その後私は秒負けした。

七海さんは「動きます」と一言告げて私を抱き上げるとソファに横になった。ちょっと右にずれて。足を上げて。乗ってください。こちらへ。微調整をされて、1人が横になって少し余裕がある程度のソファにお互いを抱きしめ合ってなんとか収まり、彼は私のつむじに鼻を埋めると大きくため息をついた。肩と腰骨に引っかけるように添えられた七海さんの手が、私の縁の形を確かめるように抱きしめてくる。落ち着く。体の内側が溶けて、外側だけしっかり成形されるような感覚だ。
「何か珍しい任務はありましたか」
尋ねると少し間があった。
「ありました。任務先近くの小学校に、どんなに頑丈に小屋を作っても小屋を破壊して逃げ出す兎というのがいて。校庭にいる所を偶然見つけたら、2級呪霊と共生している兎でした。低学年を虐める高学年を兎がシメて、下級生がお礼に自宅から持ち込んだ食料を兎に渡すということでカロリーの高い食事を確保していました」
「もしかして祓除後にただの兎に戻って、教頭先生が家で飼うことになりませんでした?」
「ご存知でしたか」
「その元に戻った兎を補助監督さんが撮って、動画が補助監督間で広まって癒し動物動画ブームが始まったんですよ」
「……なるほど。可愛い兎でしたからね。なまえさんは……寄った飲食店で祓った話があると言っていましたね」
「それ。それです。任務先で365日24時間唐揚げを爆盛で出してるっていう、テレビとかにも出てる有名な個人店に行ったんですよ。その日もお客さんが多くて、人気なんだなーくらいに入ったら、厨房からゴリゴリの呪力漏れてて、調べたら店主が呪霊に呪われて不眠不休で唐揚げ作らされてるだけでした。同じ行動を永遠に繰り返す呪いで」
「術式持ち呪霊だったんですか」
「準1級でした」
「他の店でもありそうな被害ですね」
とりとめのない話を始めると、テレビの方に視線を送るのが億劫になって天井を見つめる。光を受けて形を現す丸いシーリングライトの縁の瞬きを、眠くなるまでずっと眺めた。


カーテンの隙間から来た細い光が目を撃つ。室内が太陽の光でぼんやりと明るくなっていて、きっと昼が近い。
ビールの空き瓶2本の向こう側のテレビには「Smile raccoon」と題された笑顔に見えるアライグマの画像を何本も繋げた、関連動画の弾を撃ち尽くしたような動画が流れている。面白いけどニッチ動画すぎる。履歴から関連動画の変遷を見ようとリモコンに手を伸ばすと、インターホンが鳴った。宗教勧誘か訪問販売か。いやアマゾンのお急ぎ便の荷物だ。反射的に起き上がろうとして腰が動かず止まった。七海さんの両手が腰を掴んでいる。というか手が大きいのでもはや覆われている。
「……アナタ、今、下着をつけてないでしょう」
寝起きの低い、呻くような声を絞り出すと、七海さんは私をブランケットで包んでソファに倒した。そうです。すみません。危なかった。全部隠れているとはいえ、マズイことには変わりない。七海さんは早足で自室に1歩入り、新しいスウェットを回収して腕を通しながら玄関に向かった。
昨晩はなんで七海さんの方に私の下着が落ちてるんだ?と思ったが、七海さんが脱がしたからか。やっとそういうことを理解できるくらいに頭が正常に戻ってきた。
玄関が開き、閉じ、ダンボールを開ける音がして戻ってきた彼が抱えていたのは、土嚢みたいな大きさのスノーパウダーと、パウダーをいれて水と混ぜるための透明バケツふたつだった。あんなギリギリ状態で買ったのにバケツもちゃんと買っているところが七海さんだ。笑ってしまうと、彼もつられて笑った。よかった。作るぞ、人工雪。植えるか、ヒメリンゴの木。

2022-12-10
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