※嘔吐表現あり

身体に衝撃が走った後、幼い頃に1度だけ乗ったジェットコースターの感覚があった。
お腹の下の方がわっと空に浮く感じがして、しばらくして背中に強い衝撃。よく事故に遭うとその瞬間がスローになると体験者は言うが、本当に体感時間と正しい時間が違うのだな、と空中に跳ね上げられて考えるほど余裕があった。地面に背中から着地し、転がってうつ伏せになると、1番強くぶつけた背中より砂利に擦れた頬と手が痛かった。
私をバイクで轢いた女の人の声がしていたけど、はっきり聞こえたのは必死に鳴くセミと祖母の声だけで「アンタ才能あるよ!!」と祖母は女の人の腰をバンバン叩いていた。なんだその才能は。祖母はまだらにボケている。


目が覚めたら自宅の居間だった。
座布団が頭の下に差し込まれ、身体にはタオルケットがかけられていて、腕にはいつもどおり畳の跡ができていた。
事故は昼寝でみた夢かと思ったが、ひりついた頬には大きな絆創膏が貼られていて、祖母と女の人が卓袱台を挟んで話し込んでいた。
じゅじゅつ、じゅれい、じゅつしき、じゅそし。おまけにつけっぱなしのラジオが「ではリクエストでJUJUの“奇跡を望むなら...”」とまで言い出す。寝直そうかと目を閉じたが、気配を感じて目を開くと知らない女の人が私の顔を覗き込んでいた。
「轢いてしまって本当にゴメン。身体は大丈夫?」
そう聞かれるまで、彼女が自分をバイクで轢いた人であると気がつかなかった。すぐに分かりそうなものなのに、彼女という存在が頭の働きを鈍くさせたのだ。
顔つき、スタイル、口ぶりや表情。自信や余裕というものを、人間の皮がなんとか人の形に留めているような人だった。その存在感に「私も前をみないで飛び出したんで……すみません……頑丈なんで大丈夫です」とゆっくり答えることしかできなかった。圧倒的な存在というのは眩しいとかではなく、怖いぐらいにはっきり見えて、でも自分と同じ言語が通じるかさえわからなくなる。

「ホントに?骨折していない?」
「全然です」
祖母が「さっきも言ったけど、その子ホント頑丈よ。心配せんでよか」と割り込んでくる。
「それは良かったのか悪かったのか……。私は九十九由基。こんな所で呪術師に会えるなんてね」
「……呪術師ってなんですか?」
差し出された手を握りかえすと彼女は私の顔を見つめて、小首をかしげた。
「なまえはね、呪術師のことなんも知らんし、信じとらんのよ」
そう言って祖母は部屋を出て行き、九十九さんは「ナルホドね」と笑った。私はずっと、あぐらをかいた彼女のレザーパンツのツヤばかりみていた。ここでこんなものは一生見ないと思っていたから。
「なまえさんは呪術師のことをお祖母様から聞かなかったの?」
「何度か聞きましたけどボケたかと思って」
「あっはっは。確かに。すぐにこんなことを信じないのはいいことだね。でも残念ながら本当。証拠に君、アレが見えているだろ?」
九十九さんは縁側の廊下を指さした。廊下の上に背骨に割り箸を突っ込んで、目をつけて、キャラクターに仕立て上げたみたいなものが横に伸びていて、時々浮いたり転がったりしている。頷くと、彼女はウインクをしてみせた。
「アレが見えるってことは、君が呪術師になれる可能性がある証拠だよ」
祖母は戻ってくると飲み物の入ったグラスを置いて「由基さんから聞いたほうがなまえも信じるやろ」と畑の様子を見に出かけていった。

九十九さんは何も分かっていない私に、呪霊・呪術師・呪術界についてひどくわかりやすく丁寧に教えてくれた。
この家に来た時から祖母があまりにもその話を言うのでネットで調べたら、出てきたのはオカルト的な恐ろしいものばかりで、そんな力についての情報は一切無かった。これがボケか……と聞き流していたが、九十九さんが話す呪術師界というのはずいぶん系統立てられていて、もはや裏の職業にまでなっていた。
「見える人はみんな呪術師なんですか?」
「いや違う。見えるのは基本でしかない。戦える素養や意志がある人間だけが呪術師になる学校に通ったり、家の方針で呪術師になったりする。だから呪術師は単純に見える人間よりずっと少ない」
「祖母は呪術師なんですか?」
「お祖母様は聞いた感じ、自分の術式は知らないけど呪力操作の基礎はできているね。あのお歳でこんなに元気なのは呪力のおかげだよ。呪力操作は身体能力を底上げするからね」
祖母が出してくれた梅ジュースを、彼女はウマいウマいと飲んでくれている。こんな都会の人が梅ジュースなんか美味しいと言うか?つまり呪霊もこちらを信じさせるために言っている嘘ではないか?元気の秘訣は●●。医学的根拠のうっっすいサプリメントを売る番組のキャッチフレーズが頭の中をどんどん流れていく。
しかし嘘にしては設定が込み入っていたし、何よりさっき廊下にいた背骨みたいなものが彼女の周りをウロウロ飛んでいる。ワイヤーもついてない。明らかにロボットとかじゃない。いやでも、庭に停められたバイクについている黒いバッグの中から怪しい書類を出してきて、印鑑を押させるのではないか……。祖母は人を信じやすくいい人なので、私がなんとかしなくてはいけない。田舎だが祖母が持っているこの家も、畑も、山も大きく立派だ。詐欺師が狙う理由は十分にあった。
その疑念が呪術の世界を信じることを迷わせたが、彼女の肩の周りをぐるぐると回るそれが部屋の中を泳ぎ、九十九さんを招待した夕食を食べているときには、家の中に閉じ込められた風船みたいに天井の隅にくっついているのを見たら、やはり信じるしかなかった。


「一緒に寝てもいいかな?」
22時を過ぎて祖母が眠ったのだろう。居間で祖母と話し込んでいた九十九さんは私の部屋にやって来た。
元は8人暮らしで地主もやっていたこの家は大きく、自室の半分以上を持て余していたので2人で寝るのは全く苦ではない。頷くと嬉しそうに彼女は私の布団の横に彼女のをひいた。パジャマ代わりに貸したシャツもパンツも九十九さんにはどうしようもないほど小さく、サイズを間違えて買ったジャージだけが辛うじて入った。
布団を敷き終えると彼女はすぐに横になってしまったので、つられて布団に入って電気を消す。夜もつけっぱなしの廊下の明かりや月光で、九十九さんの顔は薄暗い中でもよく見えた。
「なまえさんとも話してみたくて」
「楽しい話はあんまり持ってませんよ」
「歳はいくつなの?」
「18です」
「へえ。この前なまえさんと同い年くらいの男の子に会ったけど、普通は君みたいな子が普通の18だよなぁ。お祖母様から聞いたけど、高校には行ってないんだって?」
「ええ。どこまで聞きました?」
「なまえさんは高校を中退してここに来て1年くらい。あと農業の才能があるってことかな」
想像より祖母は口が堅かった。とはいえあまり人に話したいことでもなく「九十九さんはなんでこんなところに来たんですか」と聞きたかった話題を振った。
「私はね、呪霊が生まれない世界を作りたいの」
「できるんですか?」
「まだ検証中だけど、できると思っている」
「反対されないんですか?」
「お、なんで?」
「だって呪霊がいなくなったら呪術師はみんな路頭に迷うじゃないですか……危ないですよ」
「ははは、鋭い。そういう意見もあって協力者は少ないし反対する人もいるよ。でもそれがやめる理由にはならないさ。それで検証と調査のために私は国内外の色々な所へ行くんだけど、世界の中で日本だけが飛び抜けて大から小まで呪霊が多い。だけど偶然通りかかったこの辺りだけは全然呪霊がいなくてね」
「……人が少ないからじゃないでしょうか。隣の家でさえ500メートル先ですし」
九十九さんは目を大きく瞬いて「呪いが人から生まれること、よく覚えていてくれたね」とウインクする。学校で厳しい先生に褒められたときの高揚感に似たものが、胸に久しぶりに宿った。
「確かにそれもある。けど呪霊は移動するから全然いないことはまず無いのに、ここにはいない。だからそれを調べに来て」
なまえちゃんを轢いてしまった。と笑う。自信と余裕を含ませて、でも私よりずっと子どもみたいに笑った。
「なまえさんは1年前はどこにいたの?明らかに人間ではない生き物とか、他の人には見えない存在とか見なかった?」
「九十九さんにくっついていたのが初めてです。テレビはよく見ますけど、そんなものも見ませんでしたし」
「あぁ、例外はあるけど一般的な記録媒体に呪霊は映らないんだ。となるとやはりここに来てから目覚めたのかな」
うーーん、と九十九さんは考えすぎて上の空の返事をしてしばらく何も言わなかった。
おでこから顎までが、昔雑誌で読んだ『理想のライン』を描いて作ったみたいになっている。この人、絵じゃないんだなと眺めていると、虫の声の隙間を縫うように彼女は口をひらく。
「お祖母様から許可を頂いて、調査のためにここに10日ほど滞在しようと思うんだ」
「助かります。祖母はボケかけているから、いろんな人と話して刺激があったほうがいいので。それに私も嬉しいです」
「そう?よかった、喜んでくれて。なまえさんに嫌われたかと思っていたからね。目を合わせても逸らされるし。ほらまた」
「違いますよ……」
その後に続くことを正直に話すのは恥ずかしく「人見知りするんですよ」と濁した。嘘じゃない。
「はは。短い間だけど仲良くしてね。ところで、もし良かったら呪霊を見に行ってみない?中心部の方に遊びに行くことだってあるだろう?急に見たら驚くと思う。私と一緒に行けば安全だし、解説もしてあげられる」
私は無意識にうなずいていたらしく、九十九さんはまた子どもみたいに笑った。

不思議だ。昨日までの私なら絶対に中心部に行くなんて気にならなかったはずなのに。
ここに1年いて、今日まで一瞬もそんな気にならなかった。祖母に誘われても1度も首を縦にふれなかったのに九十九さんを見ていると「彼女となら行ける」と直感的に身体が反応していた。そのくらい、彼女という存在には説得力があった。


九十九さんは午前中、調査と言ってバイクで出かけていき、午後になるとたくさんの野菜や果物の貰い物を抱えて戻ってきた。人を引き付ける見た目と話術と雰囲気。それは私だけでなくこの辺りの人も魅了した。
そんな生活が続いて5日目、九十九さんと中心部に行くことになった。
祖母の軽トラで近くのバス停まで送ってもらい、バスに乗って30分行くとやっと1番近い駅につく。そこから中心部までは電車でさらに40分ほどかかる。
駅に向かうバスには誰もおらず、電車にも2人しか乗っていなかった。
「普段の買い物とかは全部ネット?」
「そうですね。でもそもそもあまり欲しいものがないので日用品程度です。あそこにいると物欲がどんどんなくなっていくので」
「じゃあ今日は駅ビルで美味しいもの食べて、買い物もしよう。なまえさんにお世話になりっぱなしなのにお返しができてないから今日はまかせて。お祖母様にもなにか買いたいな」
電車が走り出すと景色が次々横に流れて行く。1年ぶりに乗る電車はもっと懐かしいかと思ったが、一昨日も乗ったような気分だった。田舎での生活はのんびりしていて、中心部での思い出を頭の奥に押しやるほど新しい情報が無いせいだろう。田んぼ、畑、山、森から森に繋がる大きな橋。昔は毎日電車で学校に通っていたが、コンクリートの建物ばかりしか見えなかった。こんなに景色が違うんだ。これなら中心部にまで行けるかもしれない。
「なまえさん」
「なんですか」
「顔色が悪いけど大丈夫?」
九十九さんが私の顔を覗き込む。ポーチから鏡を出して見てみると、順調だと思っていた頭とは裏腹に頬からは血の気が引いていた。
「疲れたなら寝てていいよ。肩を使って」
気づいてしまうと悪化する。急に気持ち悪くなって、勧められるまま彼女の肩に頭を預けた。少しずつ増えてきた乗客が心配してくれて、九十九さんを通して私に飴や夏みかんをくれた。親切な人にお礼もいえず、ただ黙って目をつぶって、九十九さんからする甘くない花のような、お香のような、今まで嗅いだことがない安らぐ匂いに集中していた。意識が下がったり上がったりするなか、耳に飛び込んできたのは私の前の家の最寄り駅だった。
懐かしい。ここから学校にいったり「なまえさん」駅ビルに買い物に行ったりしていた「震えてるよ」他の交通機関もあったけど「水飲める?」電車の方が速くて、人も少なくて「あぁ、すみません。次で降りるから大丈夫です」好きだった「ちょっと抱えるから。じっとしていて」あの日も私は両親と駅ビルで食事をするために電車に乗った。そしたら改札を出たところで「すみません、前を通してください」


吐いた。
頭がはっきりした時、自分が吐いたものが入った袋を持って駅のベンチに座っていることを理解して、ため息が出た。目的駅の3つ前の、住宅地の中にある静かで穏やかな駅である。
「最悪だ……」
九十九さんのブーツが視界に入ってきて顔を上げると「電車の中でもらったけど食べる?」と夏みかんをくれたが、胃に入りそうになくて匂いだけ嗅いだ。柑橘の爽やかな匂いが気分を少しだけ良くしてくれる。
「もしかして、中心部に行くのは苦手だった?」
「……はい。でも……九十九さんとなら行けると思ったんです」
「苦手な理由はあるの?」
言ってしまおうかと思ったが、やめた。かわいそうな子として扱われるのが嫌だったから。あの感覚はなってみないと分からない。誰よりも気を遣われているようで、その本質はレッテルを貼られて型にはめられるだけだ。そしてその型から出ようとすると、あっというまに人でなしのように扱われる。
「自販機の所を見て。呪霊がいる」
言われるまま見ても、そこには何もなく、煤みたいなものが微かに飛んでいるだけだった。
「ゴメン、見間違いだったかな。ソレ、トイレに流してくるからちょうだい」
「え!?いやです!!」
「いいからいいから」
「自分で捨てられるので!大丈夫です!!やだ!九十九さんに触られるの!」
必死過ぎて語気が荒くなってしまったのに、九十九さんは爆笑した。「1番感情が出るのソコなんだ!」と彼女は涙を拭いながら言う。九十九さんみたいな人にゲロ触られたいやつがどこにいるんだ。と思いながらも、彼女が引かないでくれたことに心底安心したし、結局九十九さんは無理やり私から袋を奪うとトイレに流した。


帰りの電車は中心部から遠ざかるせいか、頭がどんどんはっきりして体調も悪くなかった。何度も九十九さんに謝ったら「世界中回ってるから、ゲロなんて全然見慣れてるさ。海外の道なんてもっと酷くて、人の数よりそれが多いときだってある」と何でもなさそうに言った。
「…………私が中心部にいけないのは」
人間、生理的に見せたくない部分をみせて、それを相手に受け入れられると一気に距離が縮まると聞いたことがある。銭湯がいい例だ。でも言いたくない過去を語るきっかけが、相手に吐瀉物をみられて、距離が縮まったと同時にヤケに近い感情になったからなんて今後一生無いと思う。
「1年前、今日行く予定だった駅ビルの前で、両親と一緒に父を逆恨みした男に刺されたんです。会社で人事の仕事をしていた父が、男に解雇を伝えたことが理由らしくて。私だけは傷が浅くて助かって、祖母がいる田舎に引っ越しました」
お腹を刺された時にまるで痛みから逃げるように意識を失い、目が覚めたら両親の葬式は終わり、犯人は私達を刺したその場で自殺していた。人の死に触れると呪霊が見えるようになる、と九十九さんが言っていた。はじまりはそこなのかもしれない。九十九さんは「頑張ったね」とだけ言って、私の肩を抱き寄せてくれた。


九十九さんは約束通り、滞在11日目の朝、お世話になりました、と朝食の席で挨拶をした。祖母は同時に「は?」と聞き返してしまった。
調査と言っていたけど、午前中にいないだけで午後は畑を手伝い、夜は遅くまで私と呪霊や呪術師界の話や一緒にみたテレビの感想、最もおいしいナスの食べ方を研究するなどしていて、調査が進んでいるとは思わなかった。
「呪霊がいない理由は分かったんですか?」
「おおよそ検討はついたし、海外で待たせている件があるからそろそろ行かないとね」
祖母は滞在の延長を粘ったが、九十九さんは謝るばかりだった。
私ももちろん行ってほしくなかったが、何も言えなかった。彼女と話す間にいかに彼女がやろうとしている「呪霊が生まれないようにすること」が世界にとって重要なことか理解していたし、なにより彼女ほどカリスマがある人を、ここにつなぎとめておくことはどうやっても難しいと10日間でよくわかっていた。
「また来るよー」と私たちに手を振って、彼女は祖母とメアド交換をして行ってしまった。私は交換してない。こっちに来るとき携帯は解約したから。
「なまえ、九十九さんが来てた間やってなかった10km走りに行くよ。呼吸も腹からね」
「えぇ……」
祖母と走り出して考える。1年前にここに来て「なまえも有事のために走るよ」と祖母の日課のランニングにつきあわされていたが、有事が何かは教えてくれなかった。昔からお正月の度に会っていたときはもっと穏やかな人だったのに。ボケておかしくなってしまったのでは。と思いつつ付き合っていたが、呪力操作は身体の能力を底上げするが、同時に素の身体にもしっかりとしたスタミナがないと呪力を練れないらしい。
これはそのためだったのではないか……?祖母はボケていなかった……?いつも惰性で走るランニングに力が入った。

九十九さんはきっともう来ないと思っていたが、真夏だけ避けて年に4回、必ず10日ずつ泊まりに来てくれた。祖母はしょっちゅう彼女とメールをしていて、送られてくる写真を見せてくれた。アメリカ、イギリス、中国、インド、モロッコ、アフリカ……色々な所に行っているのに必ず帰ってきてくれる。
九十九さんと知り合ったことで、私たちの生活も大きく変わった。農家として食べていくのに困らない程度の稼ぎがあればと思っていたが、彼女からの紹介で複数の店の契約農家になった。契約先とは祖母がやり取りしていたが、祖母が歳を重ねるごとに難しくなり、私が対応するようになり、契約やお金について学ぶ必要が出て、たくさんのことを学びなおした。高卒認定も取った。
九十九さんと出会った18歳の私が想像さえできなかった、まともな生活をしている。あの頃は無かった、何かをやりたいという力もわいてきた。
今1番してみたいのは軽トラ運転のための免許取得だったが、九十九さんに轢かれたことを祖母は強く覚えていて、絶対に取りに行くなとこれだけは頑なに許可してくれなかった。まあ公道は走れないが、見渡す限りの土地は私有地なので免許がなくても走れはする。
あと、自分の携帯を買ったけど、九十九さんと連絡先交換はしなかった。いつも訪ねてくるあのひとが「なまえちゃんに会いに来たよ」と言ってくれるから、連絡先を交換してメールでやり取りをするようになると、もう来なくなるのではないかと不安になるから。
漠然とこんな生活が10年20年続けばいいと思っていた。けどわかってはいる。あまり続かないということは。


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ちょっと前まで染みつくくらいに漂っていた線香のにおいが、もう懐かしく感じた。
縁側にやってきた由基さんはあぐらをかいて私の顔を覗き込む。
「真夏に来たのは、ここに初めて来た時以来だね」
「……祖母は結局最後までスマホは使いこなせませんでしたが、だからこそ、そんなアナログな方法で由基さんを呼ぼうと思ったんですかね」
「でも最近は文字の打ち方も上手になっていたよ」
「そうなんですか?祖母とは通話くらいしかしなかったので」

祖母が死んだ。今年で92歳だったのでいつそうなってもおかしくなかったが、50メートルを7.9秒で走るから私より長生きするのではとも思っていた。だから本当に突然だった。
由基さんは、祖母から4週間連絡がない場合は家の様子を見に来てくれと頼まれていたらしい。5年と半年、祖母がマメに彼女にメールを送っていたのはそういう理由もあったのかといまさら理解した。
祖母が死ぬ前の近況を話すと、由基さんは一言「いい最期だったんじゃないかな」と言って頷いた。私もそう思う。頭もはっきりして、毎日野菜を育てて、病気ひとつせず「死ぬまで働いてたいね」と祖母が望むとおりの最期だった。

「収穫やる?」
畑には縁側から見えるくらいの丸々としたナスが実っていた。売りに出す分は収穫したが、自分が食べる分は祖母がいなくなった途端に全く手が出なくなり、過熟しツヤを失っているものも多い。
「それもしたいんですけど、由基さんにお願いしたいことがあって」
「なに?」
「軽トラの回収をお願いできませんか」
祖母は畑仕事の後、野菜のおすそ分けのためトラックで隣人宅へ行って、1時間のおしゃべりの後に隣人が飲み物を取りに立って戻ると、にこにこ笑ったまま死んでいたらしい。騒動のそばで公道の脇に止められたトラックは忘れ去られ、誰の邪魔にもならないし、注意する人もいないので、みんな忘れて放置されていた。やっと先週トラックが無いことに気がついたが、公道を走らせるには免許がいる。
「もちろん、行こう」

夕暮れが迫っているせいで空は赤く、黒い山を背後に乗り捨てられたトラックも闇にのまれそうになっていた。土鳩の鳴き声は妙に哀愁漂って聞こえ、今日はめずらしくセミが鳴いていない。
こんなの他だったらすぐに盗まれているのにすごいな、と由基さんはトラックにエンジンをかけた。トラックの中はきれいで、交通安全のお守りが変わらずに揺れている。
「盗まれたものとかない?」
「無いです。全然変わってない」
由基さんはアクセルを踏み込む。車体が大きく上下にゆれて公道に乗り上がる。
「今回はどのくらい泊まっていきます?」
「10日かな。頼みたいことがあればどんどん言って」
10日。今回の10日で、年4回来る内の1回が消費されてしまった。こんな時に来てくれたのも1回にカウントするんだと、悲しいような惨めなような感情は、苛立ちに収束した。
この人は、私があなたが来る日を何より楽しみにしてて、でも来てくれたら10日が日々削られていくたびに悲しくなっていることを知らない。
そんなこと由基さんに言ってないんだから分かるわけがないだろと叱る自分が声を上げた。怒る自分と叱る自分。いつもなら叱る自分が勝ってここで考えを切り上げるのに、さもしい自分が暴れ出して拗ねる。祖母の死で精神が不安定なのか?なんで急に、こんな気分になってしまったんだろう。
慣れた手つきでトラックを走らせる由基さんに目をやると、ばちりと視線が合った。嫌味も照れもなく、音と星が出てもおかしくないウインク。今日はそれが泣きたいくらいに魅力的に見えた。その魅力は外見によるものではなく、5年半の220日で見た内面のせいだった。
ああそうか、この人が好きなんだ。
18歳の時、この人に感じた“好き”じゃない方の、好き。

「……祖母に聞いても答えてくれなかったんですけど、由基さんが私を轢いた時に祖母が言っていた“才能がある”って何だったんですか?」
由基さんはじっと私の目を見つめてくる。昔の私なら3秒と持たなかったが、流石に今は慣れた。15秒くらいなら持つ。うーーん、と彼女は呻いたが、最終的に口を開いた。
「言うなとお祖母様に頼まれてたんだけど、君が1人になってしまったから、これからのために伝えようと思う。検証してないから未確定だけど、お祖母様が言うには、君は術式で無意識に君の近くにいる呪霊や式神を祓ってる」
え。と間抜けな声が口から汚く喉を震わせて出た。恥ずかしくて下を向くと、由基さんは楽しそうにぐりぐり私の頭を撫でる。
「恐らく術式で使役しているモノも祓う。だから、君が祓えなかったモノを連れている私に“才能がある”と言ったらしい」
「だから、この辺には呪霊がいなかったんですか」
「そう。お祖母様も色々気にしていたらしい。呪術師が使役しているものを勝手に祓ったら大変なことになるからね。だから才能を伸ばさず、そして垂れ流しにしてる術式をオフにできないか、呪力操作をこっそりと運動にかこつけて仕込んでいたらしいよ。私もその運動プログラムについて助言させてもらった」
「まさか、5キロお手玉って由基さんのアドバイスで……?」
「そうそう。呪力操作の一環」
「あれキャベツ運びのための筋トレかと思ってた……なんで言ってくれなかったんだろう」
「なまえさんの性格から、呪術師界のことを深く知れば、行きそうな気がするから伝えたくないって。安全とは程遠い業界だからね。孫に隠すのは当然だよ」と由基さんは声を潜めた。
トラックが奇しくも由基さんが私を轢いた道に止まる。曲がって私有地の道路を降り、やっと家の駐車場に帰ってきた。トラックを降りる。とんでもない事実が分かったあとでもナスは変わらず実っている。
「これからどうする?」
「……このまま農業します。農業、好きですし」
「はっはっは。それがいいよ。お祖母様から口止めされていたのはそれだけだけど、他に聞きたいことはある?」
「あと由基さんも好きです」

口から出た、と理解したときには見開いた目が痛いくらいに自分でも驚いていた。由基さんも驚いた顔をしていたが、私の表情から軽い“好き”ではないことをいち早く察して、今まで何回も見た、彼女が興味があることを考えている顔にすぐに変わった。
「なんで言ったなまえちゃんの方が驚いてるの?」
「言う気が無かったのに、出たので」
自分で自分に引いた。気を落ち着けるために出した軽い質問に思ってもない重みがあったせいで、この流れで言っても良いのでは?と思ってしまったのかもしれない。いや、違う。この人の存在にあてられると、普段しないようなことをやってしまうのだ。自分の制御が失われていた。高校生の頃、男友達に告白するときは何度も告白メールを書き直して、1週間迷って、結局送信できずに友達でいたくらい悩んだのに。
「同性と付き合ったことはないんだよな〜」と由基さんは空を見上げて言った。
「いや……付き合いたいじゃないなくて、なんか、言って、楽になりたいみたい……な?それに由基さん付き合ってる人いるでしょう」
「いないよ。だからちょっとキスしてみていい?」
「え。…………いいで」
返事を言い終えない間に唇に噛みつかれた。いや、噛みつかれたわけじゃない。でもまるでそんな感じだった。いきなりやってきたそれに意識が横取りされる。いきなり私の術式で祓われる呪霊もこんな気分だったのだろうかと、混乱する頭で考えた。
由基さんの顔が離れて「いやじゃない」「むしろ良い」と続けて言うと、べろりと彼女は自分の唇をなめた。
「あっはっはっは、真っ赤」
由基さんの長い金髪が夕日を吸い込んで真っ赤に燃えるように輝いている。彼女から見る私だってあの日の光を受けているのに、それより私の顔は赤いのだろうか。
「私は美女だからさ、外見で好かれはするんだけど、内面で好かれることは少ないんだよね。だからありがとう。付き合おう。よろしく」
「よろしくでいいんですか!?それに付き合いたくて言ったんじゃないんですけど!?」
「じゃあなんで言ったの」
「なんか出ちゃった……」
でちゃったんだ。と由基さんは繰り返して笑う。
「でも私だってなまえちゃんが好きだよ。そっちの好きではなかったけど、簡単にそっちに転ぶくらいには好き。お?疑いの目だね。じゃなきゃ毎年40日も時間作って来ないよ。私は付き合いたいなぁ。付き合おうよ」
「え、えー………」
由基さんは身体を寄せてきて、私の頬が彼女の胸にぶつかる。家の外壁まで押しやられ、壁と胸の間に挟まれてしまった。ぐいぐい来るなこの人!
「か、軽すぎません?!」
「同性は手探りだからね。軽いくらいがいいだろう。なまえちゃんも同性を好きになったのは初めて?」
「初めてです」
「ならこのくらいの方がいいさ。初めてのことはそのくらい気楽に行ったほうがいい。ああ、気楽っていうのは浮気していいって意味じゃないからね。結構私は嫉妬する方だから」
そう言うと、ナスの収穫道具持ってくるね、と彼女は倉庫に行ってしまった。足から力が抜けて、地面にへたり込む。手についた砂の感触がやけに懐かしい。
最近の鬱屈した考えや悩み、自分の術式への驚きなんて全部吹き飛んでしまった。頭に残ったのは祖母への感謝と、ナスの収穫と、このとんでもない人とこの後どうやって付き合っていくかだった。

2022-11-14
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