※渋谷事変なしのifルート

『その通りです。真面目すぎなんですよね、いつもそうで困ってて。若いんですからもっとこう遊びが……。だから本当に助かりました。待ち合わせ場所は××ホテル横の、はい。楽しみで下見に行きましたよ。予定通り次の木曜で大丈夫です。夫は……はい、変わりなく。あぁいうのは気持ちがズレると致命的じゃないですか。あー……最高です、大好きです。それでは当日お会いできるのを楽しみにしてます』

「と、みょうじさんが自室で電話をしているのを偶然聞いてしまって」
「いつ聞いたんだ?」
「1週間前の夜です」
「まあ、それだけ聞くと浮気っぽいが。他には?あ、店員さん。鍋島を1合、冷やで」
「はい!!」
私の奢りで来てもらっただけあり、家入さんが飲んだ酒はもう10種類を超えている。カウンター向こうの酒好きな店主はそのハイペースな飲み方への興奮をもう隠さなくなっていた。
「今月はお互い出張が多くてすれ違い気味ですし、1度だけ重なった休日も用事があると1人で出かけていて。いつもは行き先を聞いたら答えてくれるのですが、あまり具体的に話してはくれませんでした。日常での私への態度は変わりません」 
「その程度で疑うんなら、硝子とサシで飲む七海も問題じゃない?」
「えぇ。既婚者としてありえないのでアナタも誘ったのですが、ここまで遅くなるとは思いませんでした」
「ゴメンゴメン。お土産選んでたら新幹線1本逃しちゃって」
私達の背後に姿を現した五条さんは、今までいたかのように会話に割り込んできて私の隣に座った。19時開始と伝えていたのに時間はもう20時半である。この話をしたくて2人を呼んだが、最初にすると時間全てをこの話題でひっぱることになりそうで後半に持ち出すことを考えていたからタイミングがいいといえば良いが。
「家入さん、みょうじさんは最近どうですか」
「何も無いな。全く変わらない。私にもそういう話はしてこないし、前と変わらず猪野が来れば部屋の隅で七海はいいよなって話をしてる」
「教室でバトエン見せあう小学生かよ」
「……そうですか、ありがとうございます」
「電話の件は確かに不穏だけど。……ここいい店だなぁ。予定通り七海は21時で出るの?」
「えぇ。ですがボトルキープが何本かありますから是非飲まれてください。空にしていただいても構いません」
「お、いいな。七海の酒なら信用できる」
五条さんが注文したデザートと前菜の盛り合わせを持ってきてくれた店員に、家入さんは私のボトルを2本依頼した。
「浮気なんて古事記の頃からあるからいつあってもおかしかないけど。睨むなよ。僕が言いたいのは、七海は結婚条件で浮気可にしてたじゃん?なのに責めんのって話」
一口でグラスの半分以上のコーラを飲み干した五条さんが言う。え、マジか。と家入さんの声が漏れた。
「責めるというより……まずは事実確認がしたいだけです」
「はは、嘘くさ〜。まぁ、信じて待ってれば。なまえが浮気は違うでしょ」
信じて待つというのは美徳に見えるが、実のところ相手に責任を負わせるだけだ。『信じる』のたった3文字で相手にかける重圧は大きすぎる。だから信じる側は相手がこちらの信じたパフォーマンスを出せるように支援や行動を行うべきだが、私はもうその段階ではない。
もし浮気をされたとしたら、浮気されるだけの何かが私にあったのだろう。それを正せば彼女の心が戻る可能性があると考える一方で、なまえさんが浮気をするわけがないとも思い、どちらにも振り切れず2人を飲みに誘った。
「七海はそういうの速攻詰めそうだったけど変わったね。もし別れたら次行けないだろ」
五条さんはコーラについていたサクランボのヘタを指先で弾いて飲み終わったグラスへ入れた。
「次はありません。別れないので」
「即答こわ……行けないだろうから、ちゃんと解決しろよって言いたかったんだけど」
酒が進まず、やっと飲み切ったグラスに家入さんがボトルのウィスキーを足してくる。口に含んでもやはり味気ない。
「私はてっきり結婚祝いの話だと思って来たんだが。……電話の件は木曜か。すぐだな」
「ハッキリさせたいなら後つければ?僕も行こうか?ほら仲人として責任あるでしょ」
「仲人ではないですし絶対に来ないでください。……そろそろ上がります。今日はお付き合いありがとうございました」
「待って待って」
立ち上がり上着を取ると、珍しく五条さんが引き止めてきて、そして家入さんも彼と同時に口を開いた。
「なまえは絶対に浮気してないと思う」
ほとんどの議論で意見は似るが結論が同じにならない2人が、珍しく同じ結論を出した。

会社勤めをしていた頃に、毎日必ず家に帰る先輩が1週間ほど会社で寝泊まりを続けたことがあった。彼の淀んだ鬱積が呪いになる前にガス抜きで話しかければ、妻の浮気を疑っていて家に帰るのが怖いと呻いた。素早い判断と私より数倍いい人柄で常に売上上位の彼でさえ妻とトラブルになるのか。やはり恋愛事はしないに限る、と彼から生まれた呪いを祓いながら当時の私は決意した。だが、その決意を一欠片も思い出さずに私はあの日になまえさんにプロポーズをした。アレは理屈ではない。過去の自分の考えなど紙くずほどに軽くなる。
だからもし、彼女がそういう相手に会ってしまったとしたら。
タクシーを降りて、自宅へ向かうために地面を蹴る足が無意識に強くなっていたことに気がつき足音を潜めた。

▼ ▼

玄関を開けると偶然廊下の奥から出てきたなまえさんと目が合った。
「あれ?おかえりなさい、早かったですね。今日硝子さんと五条さんと飲み会でしたよね」
「ええ。ただ明日は出張なので早く抜けてきました」
「あー……そしたらもう寝ま……す?」
彼女らしくない歯切れの悪い質問に不安がまた過ぎる。
「いえ、どうかしましたか?」
「ちょうど今から晩酌にするんですけど、試作のアヒージョもあるので疲れてなかったら一緒に飲みま」
「飲みます。飲みましょう」
私を嫌がったわけではない事に安堵し、食い気味に返事をしてしまう。彼女が用意してくれたつまみには、普段買い出しに行く店では見かけない海外のサラミや燻製などの乾き物も盛られていた。
「今日の任務帰りに新しくできた海外スーパーを見つけたので買ってみました。美味しいのあったら教えてください、また行くので」
「その店はどのあたりに?」
彼女が答えた場所は、電話で話していたホテルの近くだった。
つまみを片手にテキーラを飲む。彼女との晩酌が1番酒を味わえるのに味覚が鈍く朧げだ。お互い出張や帰りが遅い任務が続き、晩酌どころかきちんと時間を取って話すこと自体久しぶりで嬉しいと頭では思っているのに。
「……お互い忙しかったですが、なまえさんは最近何か良いことはありましたか」
「仕事ばっかりでしたから、良いことは特に問題なく受けた任務が終わったくらいで。あ、貸してもらった本を読み終わりました。すごく面白かったです。特に火をつける話が良かったですね。薪に火をつけるだけであんなハラハラさせられるとは……。他の短編も全部面白かったですけどアレが1番好きです」
「気が合いますね。私もあの話が1番好きです。次がボクサーの話ですね」
「あぁ〜良いですよね。主人公が淡々としてるのにひりついた感じがずっとしてて……」
話だって合う。彼女の話し方も身振り手振りも表情も、あの電話の前と変わっていない。やはり私の勘違いだ。そう思って酒を進めるとじわりと味がはっきりしてくる。気に入ったおつまみはありましたかと尋ねられ、味覚が戻るのを感じながら一通りもう一度口に入れた。分かっている。彼女が浮気をすることはない。ただ不安をかき消すために虱潰しのように考えていないと気が済まないだけだ。
「アヒージョが美味しいです」
「そうですか!?よかった。カマンベールチーズを入れると美味しいって聞いたのでやってみたんですけど、七海さんがそう言ってくれるなら大当たりでしたね」
「結婚記念日にこれをまた作って欲しいです」
「え」
笑顔だった彼女の顔がこわばり、グラスを握る手の爪が白くなる。
初めての結婚記念日が来週に迫っている。だが多忙でお互いがまだ1度も話題にしたことはなく、話そうと考えていた矢先に電話の件があった。
「結婚記念日は家でゆっくり過ごすのはどうでしょうか。私もなまえさんが好きなものを作りますし、他にも店でテイクアウトをして」
「いや!結婚記念日は外で食べませんか!記念日に良さそうな店を見つけたので、最近一緒にゆっくり外出とかできてないじゃないですか」
目を泳がせる彼女の肩をゆっくりと抱きよせる。「分かりました。良いですね」と返事をすれば寛いだ身体をこちらに預けてくれた。額にキスをすれば嫌がるそぶりは一切ない。なんなら頬に返してもくれる。いつもどおりだ。疑う必要は無い。ただ彼女は記念日を気になる店で過ごしたいと言っただけで他意は無い。
「七海さん。出張からの戻りは明後日ですよね。何時頃になりますか」
「18時頃には帰宅できるかと」
「了解です。もし早く帰れそうだったら連絡ください」
明後日は木曜日だ。

気がついたらなまえさんを抱きしめてベッドで寝ていた。延々と考え込んでいても染み付いた日課が身体を勝手に動かしたらしい。晩酌の片付けをして、歯を磨き、シャワーを浴び、ベッドに入った。
顧客の損失を無視して大量のクズ株を買わせて手数料で儲けた取引。結果は完遂だったが過程が最悪だった任務。それらで味わった感覚に近いような遠いような、暗鬱としたものが腹の中で渦巻いている。同時に言語化できない脳のどこかがコテンパンに疲弊していて、何というのが正しいかも分からない状況だった。恋人も妻も私の人生にはなまえさんただひとりで、だからこの心境も状況も初めてだ。だから五条さんが言う通り、確かに1年前の私ならあの電話を聞いた時点でなまえさんと話し合っていただろう。だが今の私は初めてのことに彼女の部屋のドアノブに手を伸ばすことさえできなかった。
なまえさんを抱きしめる。反応がないことがひどく孤独な気分にさせた。当たり前だ。彼女は眠っている。浅ましい被害妄想だと己を律しても頭が切り替わらない。心が弱れば、夜に飛び立つ烏の羽音が怪物の笑い声に聞こえるという。深く息を吸って吐く。3回繰り返してなまえさんを抱きしめると、力が強すぎたのか起きた彼女が「どうしました……」と眠そうな声を出して私の腕を撫でた。
「すみません……起こしてしまいましたね」
「……明かりつけて……何か話しますか……」
「いえ……夢見が悪かっただけです。寝直しますので」
彼女に回した腕を解いて、仰向けになろうとする前に抱きしめられる。肺に彼女の香りが広がって、疲弊していた脳が一気に安らいでいく。
「なにかあったら気にせず起こしてください……」
頭上からの声に、彼女の身体を抱きしめた。体格がかなり違うのにまるで測って作ったように私達は嵌り合う。
妻の浮気を疑っていた先輩は結局、自分が知らないフリをして良い夫でいればいつか妻の心が戻ってくるかもしれないと、毎日家に帰る生活へ戻った。あの時の私は、その言葉に全く同意をしなかった。起きているかも分からないことなら、さっさと話し合って白黒つければいいと思っていた。
だが今は、彼が何も言えなかったことが理解できる。

▼ ▼

任務でもプライベートでも必ず待ち合わせ時間前に現場に来ている彼女は、やはり10分の余裕を持ってホテルの前に現れた。私はコーヒーカップをソーサーに戻して立つ。ホテルの中にあるこのカフェは外に向かった壁がすべてガラス張りだが、夏の刺すような鋭さが残った日光が外の人間の目を眩ませて薄暗い中の様子を見せない。他の待ち合わせの人々に紛れて彼女は静かに道の端に佇んでいるものの、スマホの画面を見るたびに少し嬉しそうに口角を上げる。
支払いを済ませ、カフェを出ようとしたタイミングで着信があった。画面を見ると家入さんで、滅多にかけてこないあの人がこのタイミングとは十中八九、なまえさんのことだろう。粘ついた唾液を飲み込んで出ると『もしかしてホテル近くにいる?』と普段と同じ静かなトーンの声がした。
「……います」
『任務は?』
「時間外労働で済ませました」
『お疲れ。あの電話を聞けば誰だって現場行くよな。私だっていく』
「もしかしてアレから何かありましたか?」
『あぁ。あの飲み会の翌日、なまえが私の目の前で件の相手からの電話を受けたんだ。そしてなまえから口止めされている。だから具体的に何がとは言えないが、悪いことにはならないから手を出さずにそのまま見といた方がいい』
そして家入さんは『後は邪魔したくない』と簡潔に言って通話は切れた。一体どういうことだ。視線をなまえさんに戻すと、まるで私が気を取られるのを見計らっていたかのように彼女の前に男が立っていた。背は高く細身で、肌は浅黒く焼けており、長く黒いうねった髪を後ろで束ねて、笑い皺が刻まれた人当たりのいい笑顔を彼女に向けている。見るからに私とは真逆だった。理解した途端、後頭部が氷水につけられたように冷えて頭が冴える。
私はなまえさんの浮気の可能性に不安を感じていたわけではない。嫉妬していたのだ。彼女が選んだ男というその存在に。彼女に選ばれた男がいる。それが私ではないという嫉妬。
ホテルを出てふたりの元へ向かう。男のことはやはり記憶にない。清潔な身なりだが雰囲気も私とまるで違うことにまた腹の奥にあるクソみたいな感情が膨れた。あと数歩で彼女の背中に手がかかるという所で、男と私の目が合う。男は目を見開き眉がつり上がり、そして、そして私に向かって満面の笑みで会釈をした。足が止まる。
男の行動になまえさんもこちらを向くと、彼女もまた目を大きくして「え!!」と声を上げた。2人の間には、白く大きな紙袋が2つあった。なまえさんはそれを受けとったばかりなのか、中途半端な位置で紙袋をかけた腕が男に向かって止まっている。
「あ!?え?!な?今日帰り18時って……。え……硝子さんに聞きました?」
「七海さん、旦那さんに言ったんですか?」
「いえ……全然……しっかり隠せてたと……思ってたんですが……」
え、えーー……と彼女は小さく声を漏らしながら狼狽え「あ……出張お疲れ様でした」と混乱を極めたのか急に挨拶をした。
「なまえさんこそお疲れ様です。……とりあえずその袋は家のものですか?」
尋ねると、私から視線を外さず彼女は頷く。
「貸してください、持ちます。……貴方は?」
「ご挨拶が遅れました。そこで店をやっている」
そう言って男から渡されたのは、ホテルの横にある白壁の店の写真が入った名刺だった。氏名の上にゴシック体で「オーナーシェフ」と肩書が載っている。
「私、七海さんご夫妻がよく行かれる酒屋の店長と知り合いでして。奥様が店長に記念日のお酒に料理を合わせたいとご相談されて、店長からの紹介で私がお話を頂いて、お酒と料理のセットを準備させていただきました」
白い紙袋の隙間に目を凝らすと、透明なフィルムの向こうにローストビーフが見えた。なまえさんが持っている小さめの紙袋からは、白いリボンがかかった酒の頭が出ている。
「今日は……ラ……あそこでプロポーズしてもらった日じゃないですか。だからプロポーズ記念日的な……。結婚記念日がすぐなので大々的にというわけじゃなく、ちょっとしたサプライズで……」
なまえさんが口重に話していると、店主は静かに後退りをして「よい記念日を」と囁き去って行く。私は頭を下げることしかできなかった。プロポーズした日を忘れてはいなかったが、彼女が記念日として扱ってくれるとは全く考えていなかった。
「なんでバレたんですか?」
「1週間ほど前に、貴女が自室で恐らく彼と電話をしていたのが偶然聞こえて。……浮気を疑ってしまい来ました。すみません」
聞いた内容をかいつまんで話すと「あ、あぁー……」とあの日の先輩社員のように彼女は呻いた。
「いや……確かにそこだけ聞くとカンペキ浮気の会話です。私だってそれを七海さんが話してたら100パー浮気だと思います」
「あれは一体どういう会話だったのですか」
「七海さんがお酒を買いに行くと、どこに行っても見た目で真面目なお酒を勧められるから、もっと遊びがあるお酒が欲しかったんです。で、今回ちょうどそういうお酒を用意してもらえたのでってことです。気持ちのズレは記念日ですね。どこまでを記念日とするかの認識、夫婦でズレたら結構厳しいじゃないですか。最高と大好きは、予算が余ったのでパンを焼いていいかと提案してもらったのでソレに対する返答です。心配させてすみません」
「いえ、立ち聞きした時に私が尋ねていれば、この様なことにはならなかったので」
「あー……あとこの前のアヒージョは、今日作るための試作だったので結婚記念日は外食にしようって話をはぐらかしてしまって……。あれは疑われてたなら不信感がすごかったのでは」
「勘違いでしたし、もう過ぎたことですから気にしないでください。……ついでと言うわけではないですが、プロポーズの際の条件を変更してもいいでしょうか」
「条件?」
「浮気可としていましたが、しないでください。今はもうとても受け入れられそうにない」
伝えるとなまえさんは数秒無言で私を見つめて、斜め上を見て「了解です」と返事をくれたが、この反応は恐らく完全に条件を忘れていたのだろう。
「まあでも。七海さん以外興味が……」
彼女は独り言のように言いかけて止まる。
「興味が?」
「無い……と言うと、重いですよね」
「いえ、私も同じですから。嬉しいですよ」

浮気への心配はもう霧散していた。タクシーを拾うために大通りへ向かう途中で、名刺をもらった店の窓からこちらを見るあの店長と目が合う。お互い会釈をし、嬉しそうに笑う彼に感謝しながら、腹の奥に燻った嫉妬が消えないことに気づいていた。この事を伝えたら、なまえさんはどのような顔をするだろうか。同じくらいそうだと言ってくれるだろうか。一瞬だけそう思い、馬鹿な考えだと律した。

2022-10-30 七海さん夢WEBオンリー 「糖度73%の恋」展示作品
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