「起きたくなぁい」
我ながら甘ったれた声が出て、笑いそうになったのを枕に突っ伏して押し殺す。
足音が戻ってきたので顔を上げると、視界の中のなまえ先輩は笑っているのか困っているのか微妙な表情をしてた。
先輩が持つマグカップからは今も沸騰してるみたいな白い湯気が出てる。その匂いが流れて来て完全に目が覚めた。コーヒーというよりもはや醤油に近い色がするソレは、先輩が絶対に起きたい時に飲むヤツ。インスタントコーヒーをカレースプーン10杯入れた真っ黒いコーヒー。僕はその濃さに敬意を込めてお上品な泥水と呼んでいる。1回飲んだらマジでその味だったから。泥水飲んだことないけど。
普通のコーヒーを淹れて飲んだら、香りが良いから逆に仕事に行く気が下がるらしい。おかげで僕がプレゼントした全自動コーヒーメーカーはキッチンでタオルかけになっている。

「起きなよ。なんか食べてく?それならそろそろホントに起きた方がいいよ」
「なんか作ってくれる?」
「なんも冷蔵庫に無いんだなこれが。コンビニ行くよ」
「頼まれてたもの、昨日買ってきて冷蔵庫に入れといたよ」
「え、なんか頼んでたっけか」
夜中1時、僕は先輩の家にアポ無しで来て、冷蔵庫に頼まれたものを入れて、勝手にシャワーを浴びてベッドに入った。なまえ先輩は僕が部屋に入ってきたときはベッドから起きて「んああ?なんで!?」と呂律が回らない口で言ったがすぐに横になって爆睡した。そして僕がベッドに入ったら頭を叩いてきて「次は連絡してね。もうちょっとあっちいけ。違う違うフリじゃないマジで狭い」と怒った。

先輩は小走りで冷蔵庫に近寄って中を見ると、2週間前にメールしたヤツじゃん!と笑いながら卵パックの封を開けた。そうだっけか?枕の下に入っていたスマホを確認すると、たしかに2週間前に先輩の家に今から行くから何か買っていくものがあるか、と聞いたときのリクエストだった。
その後にすぐ任務が入ったから結局行けなくて、なんでかその後も鮮明に頭に残って買ってきてしまった。
「お陰様でたまごサンドくらいなら作れる」
「たべたい」
「じゃあ、お風呂入ってきなよ」
お上品な泥水を飲み干した先輩は鍋に水を入れ始めたので、ベッドを出て任務服を乾燥機から取り出し、脱衣所のドアを閉めた。
まあまあ壁が薄いこのアパートはいつもどこかで人の気配がするが、早朝なので流石に物音ひとつしない。
シャワーを浴びながら、なんとなく浴室物干し竿に手をかける。先輩の家の風呂場は狭くて鏡とバスタブしかないので2年前に登場した縦置きステンレスラックには、洗顔料にボディソープ、シャンプーにコンディショナー、それから僕専用のシャンプーが入っている。先輩のシャンプー変わったな。
バスタブから足ははみ出るけど居心地がいい。広すぎる部屋ってあんまり好きじゃないんだよね、何するにも距離があって。てか先輩のシャンプー、またドラッグストアでよく見るやつじゃん。もっといいの使えばいいのにって前に言ったら、良いのは無くなったらわざわざそれのために時間を割いて買いに行かなきゃいけないのが手間らしい。僕も年の半分くらいはホテルのどこの何か分からないアメニティのだから、腰据えて高専に住んだら同じことしそうだな。いやでも僕も高専いる時は安い高専シャンプーだわ。
そんなことを考えていると、浴室物干し竿から滴った水が鼻先に落ちる。ぼちぼち出るか、とバスタブから立ち上がろうとして気がついた。乾燥機に入ってるインナー、Tシャツじゃん。シャツ置いてたかな。

上だけ何も着ないで風呂場を出ると、先輩はぎょっとした顔をして卵を刻む手を止めた。
「やだ!なまえ先輩のエッチ!!見慣れてるクセにそんなにガン見しないで!」
「バグったしずかちゃんか?見慣れてないわ。どしたの乾かなかった?」
「いや?僕のシャツ、ここに置いてたっけ?」
「あるよ。頼まれて店に取りに行ったヤツ。いつもの引き出しの1番下に入ってる」
「お、助かる」
僕の私物置き場になっている隣部屋の収納棚の1番下を開けると、部屋着の下にまだタグがついたままの白いシャツが言われた通りあった。3枚くらいまとめ買いして、ひとつは取り寄せで後日渡しになったから先輩に取りに行ってもらったヤツ。シャツを引っ張り出すと見慣れない薄いプラスチックの何かが転がり出てきて、拾い上げてみると「色が変わったら交換してください」と書かれている。わざわざ気を使って防虫剤入れてくれたんだ。こういうことするから僕にずっと好かれる。

リビングダイニングに戻ると、先輩は「できた」と皿をテーブルに置く。サンドした食パンを3等分にした細長いたまごサンドが皿に山盛り乗っていて、続けてコーヒーと一緒に牛乳とシュガーポットを添えてくれた。サンドイッチの断面はパンの繊維が少しも潰れてない。武器が刃物の術師って、包丁使うの上手いよね。
「そういえば、五条って高専の頃から任務服の下はシャツにこだわってるのってなんで?」
「高専の頃は特にこだわってなかったけど、今は便利だからね。上下黒ずくめだと一般人に何か聞く時にビビられるんだよ。だから上脱いで、白シャツに黒パンツになればそれなりに警戒解けるでしょ」
「なるほどね。あ……!そういえば五条、あのお店で私のこと勝手に結婚相手って言ったな」
「言ってないよ。僕は僕のこと世界を飛び回る既婚者としか言ってない。あの店ではさ、前から知り合いの店員以外とあんまり関わり合いになりたくないんだよね。自称既婚者はその一環」
薄い食パンにみじん切りされた卵と、しっかり水切りされた薄切りきゅうりが挟まっている。マヨネーズが少し甘めでウマい。僕好み。こういうことするからずっと僕に好かれる、略してこう僕セカンド。
「美味しい、ちょっと甘めなの最高」
「いつも思うんだけど、五条って高いものいっぱい食べてるのに、私が作ったの美味しいのってホント?無理してない?」
「確かに食べるタイミング多いけどさ、ああいうのは純粋に味を楽しんでるんじゃなくて同席者とか料理人との社交場なんだよ。アレもアレで美味しいけど、好きじゃない。肩凝るし、時間も長すぎるし、情報食べてる気分になるしで、僕は高専の食堂とか、こういうサンドイッチが好きだよ。ひとりならコンビニか定食屋ですませるしね。毎日フレンチ食べたい?無理でしょ?」
「確かに無理だわ、無理……」
「もしかして僕に頼んだ時、コレ作ろうとしてた?」
「いやぁ?」
「は?だってこれ作るしかないラインナップじゃん」
おつかいの内容は、食パン10枚切り、たまご、きゅうり、唐辛子だった。皿の上には唐辛子以外すべてが使われている。先輩だけが食べるなら多分唐辛子入れそうだし。
「きゅうりは単体でポリポリするんだよ。きゅうりと唐辛子で居酒屋メニュー。それに自分ひとりのためにサンドイッチは面倒だから作らない。食パンは厚切りより薄切りのほうが食べる量調整しやすいから」
「ふぅん、ナルホドね」
なにニヤニヤしてんの、と言うニヤニヤした先輩はサンドイッチを噛む。その手にはさっきよりマシな色のコーヒーが入ったマグカップがあった。

「そういやなまえ先輩、シャンプー変わったね。僕があげたのどうだった?」
「あ、あれね。あれよかった。さらさらのふわふわ。デパシャン?」
「デパシャンって何?デパートで買うシャンプー?」
「そうそう。そういうか知らないけど、デパコスって言うから多分言う」
「アレ、あの店でもらった謎のサービス品。SNS協力品だね」
「やっぱり?検索したけど買えるお店出てこなくてさ、サロン専売とかそういうのかな」
でも雑貨店に売ってる、サロン専売って書いてあるシャンプーたちはどんな気持ちなんだろうなあ、と先輩は呟いてテレビをつけた。ちょうど天気予報が映って、僕の出張先も今日の東京も終日曇りだ。
あの店、は僕が服を買う店だ。GLGでVTI(Very Tall Ikemen)な僕がサイズが合って着心地もいい服を探すのは面倒だし時間も無いので、知り合いの店員がいるセレクトショップに僕好みのものを取り置きしてもらってる。
なまえ先輩にはたまにそれを引き取りに行ってもらってるので、間違われたんだろう。店には本業が別にある副業モデルと勝手に勘違いされてるが、嘘の職業教えても忘れそうだから、聞かれるたびにテキトーな職業を答えてたらほぼネタ化して聞かれなくなった。でも女性スタッフに連絡先を渡されることが度々あって、既婚者の設定だけ固めたら、先輩がいい感じに勘違いされたわけだ。嘘、勘違いされるの狙ったけど。外堀は深く広い方がいい。
「そうだ先輩、インスタやってる?あの店がインスタに僕の写真載せるから一応確認のためアカウント取ったんだけどさ」
店のアカウントを表示したスマホを見せると、先輩はバチバチにキメた僕の写真を「そろそろ冬物買うか〜」と爆速でスクロールして流した。
「無反応傷つくぅ〜」
「はいはい激烈かっこいいかっこいい。インスタね、やってるけど共同アカウントだよ」
先輩もアカウントを見せてくれた。アイコンは設定無し、自己紹介欄は「東京 色々見てます」というシンプル過ぎて逆に不気味、投稿無し、フォロー124、フォロワー0。フォローは男女問わず学生が多い。
僕のフォローは服の店と、出張先で買いたい土産を出してる店とか行きたい飲食店。フォロワーは知り合いの店員と、僕のアカウントって知ってるその店のスタッフだけだ。僕もまだ何も投稿してない。
「この年頃の子って、面白いものみつけたらすぐ撮ってネットに上げるから、たまーに呪物が撮られて上がったりするんだよね。ツイッターもTikTokeも見てるよ。補助監督達と交代で暇な時に巡回してる」
「うわ……ワーホリ……」
「五条が言うか?」
「あ、シャンプーは今度店に行った時に買える所を聞いとくよ」
たまごサンドを食べきって立ち上がろうとすると、先輩の手が伸びてきてナプキンで僕の口の端を拭ってくれた。抜けてんじゃん、と笑われる。狙ってやってんだよ、こう僕サード。


部屋を出ると褪せた色の青空が広がっていた。多分これ晴れるな。初っ端予報が外れてるじゃん。部屋に戻ってベッドで寝たい。
昔はなまえ先輩がそばにいると緊張したけど、アイツがいなくなってからは安心するようになった。特に先輩の部屋は居心地がいい。ベッドの柔らかさとか、蛇口コックの硬さだとか、中身の少ない冷蔵庫の容量だとか、すべてを知ってるからだと思うし、何より先輩が視界の中にいてくれる。先輩は僕にとって気心の知れた先輩兼、友人でもあるから、それがもうどっかに行くのはまぁもう御免だ。
これからの任務を考えると「めんど」と口から出た。先輩は僕の背中を叩きながら「頑張れ」とつぶやき、外に出てきてドアの鍵を締めた。
「送ってくれんの?」
「最寄り駅まで歩きでね。車、今高専に置きっぱなしで無い」
「えー悟嬉しい。朝からサンドイッチも作ってもらったし。写真撮ってSNS上げとけばよかった。なまえ先輩の指先入りで」
「匂わせすな!いくよ」
アパートを出て道路まで向かう途中、道の真ん中に白い塊があった。近づくと、白い猫が腹丸出しで転がっている。真横に来ても全く起きないで撫でろといわんばかりに腹をよじっているソレを、先輩は「1枚失礼します」と言って撮った。
「歌姫先輩と動物写真交換してるんだ」
「へー、僕も撮ろ。1枚失礼いたします!…………ついでだからインスタに上げてみた。初投稿」
「え、見せて見せて……おい、匂わせすな!!」
メインは猫の腹、そしてアスファルトが広がる背景ギリギリに写るサンダルを履いた先輩の足先。匂わせって結構楽しいな。

2022-09-04
- ナノ -