白い布より輝く白い髪だ。その隙間からのぞく肌以外は色がないベッドから「起きたくなぁい」と甘ったれた声がした。
洗濯のローテーションで偶然白一色になったベッドリネンにコーヒーがかからないように気をつけながら近づくと、青い目が爛々と輝いている。周りの白が彼の目にうまいこと光を集めて、ひどく輝いて見えた。
「まーた泥水飲んでるよ」
「泥水言うな。このおかげでいま頭がはっきりしてるんだから」
欠伸を噛み殺しながら言っても説得力は無いが、朝の4時に目を覚ますには高専時代から泥水と呼ばれ続けている、この濃いインスタントコーヒー以外ないのだ。
エプロンをつけてお玉持って起こしに来てTake2と五条が言う。ワガママにひとしきり付き合ったが、お玉についてるのはカレーじゃなくて味噌汁がいいとか、エプロンの形状が嫌だとか指示が細かすぎて早々にあきらめた。あーあ、悟くんのやる気がなくなりました。と枕でくぐもる声を聞きながら、ベッドサイドに腰掛けてカップに残ったコーヒーを飲み干していると、カサついた手が服の下にのびてきて背中を撫でた。
「ペタペタしてる」
「そりゃあ体温高い五条が隣で寝てたらこうなるよ。シャワー浴びて行かないの?起きないと時間無くなるよ」
「うーん……今何時?」
「4時32分」
五条は猫が起きた時にする背伸びのように体をのばしながら起きると、横に座って首の関節を鳴らす。その音で私の関節もむずむずして欠伸みたいに伝染る。関節を鳴らすのは神経がすり減るからやめろとか、ただの空気が潰れる音だから好きなだけしろとか、首だけは絶対だめとか、結局どれが正解なのか。

「カレーがあるってことは、冷蔵庫に食材あるの?」
「あるよ」
五条は冷蔵庫を開けると「うわ、めずらし」と声をあげた。自炊をしない私にしては冷蔵庫にものが入っている方だ。久しぶりにカレーを作りたくなってスーパーに行ったら食材探しが面白くなって、いらないものも買ってしまったのだ。
「ネギと卵がある。チャーハン作ってよ」
「自分で作った方が美味しいんじゃない?」
「僕はなまえ先輩のネギだらけの生活習慣病味チャーハンが好きなの」
生活習慣病味っていうな。ちょっと塩コショウが効いてるだけだ。作ると言ってないのに、五条は鼻歌まじりに必要な材料を勝手にテーブルに乗せていく。
「作っとくからシャワー入んなよ。急がないと新幹線遅れるよ」
五条は笑うと「ハムあったら入れて」と嬉しそうにシャワーに向かった。悪いがハムはないので、カレーの余りの牛肉を刻むか。
それにしても勝手だな。そもそも昨晩この家に来た時から勝手だった。「僕の出張セット知らない!?」と大声で聞きながら玄関を開けた午後23時。まるで同じ家の隣の部屋から来たようなノリで、私の返事も聞かずにその足でシャワーへ直行し、30分ゆっくり風呂を楽しんでから(勝手にお湯をはっていた)タオル1枚で出てきて着替えを探し「ちょっと頭乾かして」と私に乾かさせながら、電話をかけ始めて「岐阜の駅のコインロッカーにあったわ」と荷物はあっさり見つかった。「ここに届けてもらっていい?」というので承諾したら「なまえ先輩、ありがと」と、電話の相手にこの家の短くない住所をすらすらと伝える。
五条が私にだけ、ありがとうと言うのを安売りしていることを知っている。そして、私が何度聞いてもコイツ可愛いなと思ってしまうことを五条もまた知っている。
勝手にやって来て勝手にベッドに入る。任務で早朝に家を出る時、彼を起こさないようにそっと出ようとしても起きて、寝てていいと言っても勝手に起きて見送ってくれるから、私もこうやって起きて五条を見送る。色々な彼の勝手に振り回されて来たけど、それが日常になって来たな。
五条が度々ねだるこの生活習慣病味チャーハンも、これが定番の味になっちゃうのか?それならもっと塩コショウを減らさないとな。こういうのは本当にたまに食べるから美味しいのだから。でも薄くしたらリクエストとは違ってしまう。……味を薄めるのは次からにしよう。
刻んだ材料とご飯を炒め始めると、大した火力が出ないコンロなのにやけに焦げ臭い。コンロになにか詰まってたか?火を確認しても、いつも通りの青い炎を美しく等間隔に灯しているだけ。
「なまえ」
シャワーの音が止まって、五条に呼ばれた。多分着替えだ。任務用の服を乾燥機から出そうと振り返った時、まるで高いところから落ちたように床に倒れ込んでいた。
急なことに声が出ず、吸い込んだ息が喉に詰まって息苦しい、だけじゃない。全身に巡る痛みとともに粘りつくような眠気と、なぜか少しの高揚感。
床に激しく何かが打ち付けられる音がした。視線しか動かせない中で音の方向を見ると、私の体は腹のあたりから真っ二つになっていた。遅れて地面に倒れた下半身はどこから来たのか分からない炎に黒く焼かれ、程なくして灰さえ残らないほどに燃え尽きた。鼻につく肉が焦げた臭い、耳にはりついた渋谷の街が破壊されていく轟音。記憶の中の感覚にめまいがして、バスルームのすりガラスの向こうの五条の影に手を延ばしそうになって、やめた。これは夢だ。

▼ ▼

目を開けると硝子ちゃんがいた。
洒落たシーリングファンが彼女の後ろで回り、ゆったりとしたジャズが流れていて、煙草の匂いがする。
「どっかのバーで……私、酔いつぶれた?」
「だったら良かったんですけど」
ハンカチで額を拭われて、やっと自分がひどく寝汗をかいていることに気がついた。
「ここは?」
「隠れ家的な所です。高専はもう機能しないので伊地知と逃げてきました」
起き上がると体は重いが、気分と頭はやけにすっきりしていた。目頭を押さえるとぎゅう、と空気が抜けるような音がして濁った視界が少しマシになる。乾いて剥げた唇が、長く寝ていたことを物語っていた。
「今の状況は?」
「学生は死者無しで宿儺は虎杖に戻りました。今はニセ夏油が仕掛けた死滅回游っていう殺し合いイベントの参加準備中です。高専も御三家も上層部もバラバラになってるんで、九十九さんと学生で方針決めてるかなと」
「え、九十九さんが……?意外だな」
「乙骨も帰ってきましたよ」
五条がいない今、2人が学生の側にいてくれるのは助かる。九十九さんは御三家に興味ないし上層部は嫌いだ。乙骨くんは言うまでもなく五条悟側。悟がいなくなれば加茂も禪院も上層部も、今のうちと言わんばかりにやりたい放題しだすだろう。傑の死体をどうこうできたのは五条だけだから、本当は裏で生かして共犯関係だったとか、封印は嘘で逃げたとか、テキトーなことでっち上げて来るに違いないから。
「私から質問しても?」
「もちろん」
「その下半身、動くんですか?触診でも分かるくらい筋肉と骨がいくつも足りない」
ブランケットをめくると出てきた、最低限かたちを保っている足を見ながら硝子ちゃんは呟いた。
「生命維持のために最低限埋めた感じだから動きもそれなりかな……。今から必要なパーツは術式で作り足す」
「反転術式で治さない理由は?」
「推測の域をでないけど……私の呪力や筋力を底上げしていた一族の“縛り”が、宿儺にやられたときに消滅してる。宿儺の術式の特性か、臓器破壊のせいかは分からないけどね。だから呪力回復がいつもより遅れて、長いこと寝ていたんだと思う。下半身はこのまま構築術式で作成した呪物のままにして、呪力が無いと体を動かせないのを“縛り”として使う。今更ノーマルな自分に戻っても使い勝手が悪すぎるからね」
呪力切れが即死に直結する現状を“縛り”とすれば、誰とも縁付かない実家の縛りより数段強化率は高い。このくらいないと、これからの状況で役にたたないだろう。機に乗じて硝子ちゃんを引き込もうとするヤツ、今の間に五条悟の足場を崩そうとするヤツ、色々わんさか出てくるだろうし。
硝子ちゃんは小さくため息をつき頷いて「勝手に治しとけばよかった」と呟いた。謝ると顔を少し背けられ、その吐息に煙草と酒の匂いが混ざっていることに気がつく。
「禁煙やめたの?」
「懐かしくなって吸ったら止まんなくなって。ついでにアイツのこと思い出して……やっぱ中身は、アイツじゃないだろうなと……」
「私もそう思うよ。でもあの五条を罠にハメたくらいだから……肉体は本当に傑のものなんだろうね」
自分で言ったのに、胃がムカついて吐きそうだった。

この状況、かつ酒と煙草が増えているのに硝子ちゃんは顔色がよく、隈が薄くなり健康的に見えた。高専を出たことで解剖や検死、面倒な書類仕事がなくなったからだろう。ただ気を張っていたのが雰囲気から見て取れる。仮眠を勧めると「どこ作ればいいかわからなくなったら呼んでくださいね」と言って出ていった。
渋谷では内臓や重要な血管以外は最低限のもので埋めた。少しずつ呪物化した肉体を呪力に戻し、元の形をまた呪力で作る。前の私の技術と呪力では、人体の構築は領域展開をしたとしても無理かもしれないと思うほど難易度の高い物だった。
しかし死にかけながらなんとか作ったことで習得した技術と、新しい“縛り”の呪力増加で領域は不要になり、順調に下半身は完成した。仕上げに爪を作っていると、ノックの音がする。返事をすると入ってきたのは伊地知くんだった。私服の硝子ちゃんとは違って、彼はまだ補助監督スーツ姿だ。
「伊地知くんは無事でよかった。久しぶり感あるね」
「お互い死にかけましたからね。みょうじさんが起きてくれて本当によかったです……」
泣きそうな伊地知くんはベッドサイドに来ると、新しい業務用のスマホを支給してくれた。……私物スマホ、データのバックアップ取ってなかったな……。あっちはもうだめだろう。
「セットアップは済んでいますから前と同じに使えます。あと、メモアプリに簡単に現在起きている死滅回游についてと、みょうじさんが眠っていた間に起きた件についてまとめています。現状把握に役立つかと。渋谷の内容は主に日下部術師と庵術師から聞き取りました」
「こんな状況でも相変わらず仕事ができる……すごすぎる……ありがとう」
「いえいえ……少しでも何かしていた方が気が紛れますからね……」
メモアプリには黒幕がしている死滅回游のルールや概要、機能不全に陥った東京の現状、上部の動きまで事細かにメモが分けられていた。ホント助かる。
「何か分からないことがあったら質問させてください。伊地知くんは、体はもう大丈夫?」
「私は家入さんのおかげで問題ないです…………あの……」
彼は口を開いたまま数秒止まって、目を泳がせた。そして口を閉じ、次に開いた時はいつも通りの声色で「隣の部屋にいるので」と言って、いつも通りの少し疲れた笑顔で部屋を出て行った。小さくドアが閉まる音がして、さっきから流れているジャズが妙に大きく聞こえた。
同じだ。私だってこれ以上話していたら、彼と同じように考えていたら前に進めないことを聞いていたかもしれない。口に出さなかったのは、彼の理性のおかげだ。
渋谷で見た補助監督の死体の顔が急に脳裏に浮かび上がる。それが知っている名前と結びつきそうになって、脳の奥に押しやる。七海くんのことも、一緒に奥へ奥へ押し込めた。

たまっていたメッセージや不在着信を確認すると、呪術師界隈はもちろん、仕事関連でメルマガ登録していたお店やサービスからも機能不全に陥った東京について連絡が着ていた。どれから返信をするか。呪術師界隈は7割が五条封印の真偽だろう。時間経過でもう正式情報が上から落ちてるだろうからスルー。それでも頻繁に連絡が入ってる、呪具修理で連絡先を交換した御三家や、五条嫌いな上層部の知り合いは十中八九引っ張り込もうという算段だろう。片っ端から着信拒否に入れていると、知らない番号が表示されて着信が鳴る。不在着信に何度も登場した番号だがやはり見覚えがない。とりあえず出てみると、すぐに『お!』と明るい声がした。
『目が覚めた?みょうじさん』
「…………その声、九十九さん?」
『久しぶり。番号は葵から教えてもらったよ。今はもう動ける?現状把握は済んだ?』
「下半身は動けるように調整中です。本調子で動くには1日必要かなと。現状把握はざっと補助監督から教えてもらった程度なので機密事項が高い内容については全く。とりあえず本調子になったら、ここにいる家入さんの警護が最優先事項と考えてますが」
『あぁ、確かにね。彼女は重要だな……そうか、それがあるならちょっと難しいかな』
「手が空いてる術師を探してるんですか?」
『まぁね。今、学生たちと一緒に薨星宮に来ている。これから学生達は死滅回游へ。私は天元を羂索から守るために護衛につくけど、忌庫の辺りがガラ空きだから護衛を置きたい。君が適任だと思ったけど……もし家入さんの護衛交代ができたらこっちに来てくれると助かる』
羂索……は文脈からして傑の体を使っているヤツなのだろう。
九十九さんと知り合ったのは学生の頃で、海外で呪具探しの時に偶然出会った。あの頃私は、同時に理子ちゃんを天元様と同化させない方法や道具も探していて彼女に尋ねたが、彼女でさえ手がかりひとつ持っていなかった。薨星宮について詳しいのは今用務員をやっているからもあるが、実際はあの頃に蓄えた知識ばかりだ。
『私からの要件はこれだけだけど、学生達に伝達事項はあるかな?死滅回游が始まれば当分連絡が取れそうにない。ここには虎杖君、伏黒君、禪院の真希さん、乙骨君がいるけど』
「みんなに生きて帰ってきて欲しいと伝えてください。あと……は」
九十九さんと連絡が取れる機会も少ないだろう。伊地知くんのメモに急いで目を通すと、気になる記録があった。
「……渋谷の記録を読んでるんですが、九十九さんは呪力からの“脱却”を目指しているんですか?」
『あぁ、羂索との時間稼ぎ会話だったけどね。昔、君にも話したあの時とはちょっと変わったんだ。私としては初心に還ったんだけど』
彼女の理想世界はこの状況では出来上がらないだろうけど、その世界では私死ぬな。実現前には連絡もらおう。アブな。
『懐かしいな。この話をしたのはもう13年も前だね。好きな男のタイプはまだ真面目な人かな?』
「……そうですね」
あの頃の私は人の好みをちゃんと考えたことがなくて、半分本心、半分適当、つまるところ無難な答えを出したが、月日が過ぎても結局それに落ち着いている。けども。
「全部片がついたら、全然真面目じゃない人を好きになってるかもです」
そう答えると、彼女は声を上げて笑った。

2022-08-08
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