※渋谷事変がなかったif

朝6時13分。新田ちゃんの家でノンアル飲み会をしていたら早朝に呼び出された。現場は東京と千葉の県境で、夜明け前に警察へ「怪物が家につっこんだ」と通報があった。
呪霊絡みが疑われて高専に調査依頼が入り、夜間待機の新田ちゃんに振られた。普段なら補助監督だけが先に調査に向かい、詳細が分かってから呪術師へ任務として落ちてくるが、せっかく一緒にいるので現場に同行した。

突っ込んだ現場はワイン専門店兼自宅で、建物の被害はシャッターに呪霊がめり込んだのみ。店舗の修復は早く済みそうだが問題は商品だろう。現場にはほのかにワインの匂いが漂っていた。
見回りを終えて送迎車に戻ると、ぱっと見て事故と分かるせいかバリケードテープの向こうにいた野次馬たちはいなくなっていた。そして車の側にはスウェットにハーフパンツという冬の朝には薄着すぎる少年が佇んでいた。顔色は悪く、こちらに向けた作り笑いは歪んでいる。その表情は任務現場でよく見るものだ。呪霊が人や建物を襲った現場に出くわして恐怖が抜けず、命が助かったことに現実感がない表情。

「……あの呪術師さん達って、こういうのどこからお金出るんですか」
かすれた声だった。
「たぶん税金じゃないでしょうか。今回の件で何か請求が行くことはありませんから安心してください。……よろしければ車内で休みませんか?温かいですよ」
「いや、大丈夫です。……前からこういうの時々見てたんですけど……人とか家とか襲うんですね。でも家族の命が助かってホントよかったっていうか……」
車の中で待ってもらってた方がいいな。足が震えている彼に手招きをして、鍵を車に差し込んだところで誰かを呼ぶ声がした。彼は振り返ると、現場の家の前で手を振る女性を見つけて走って行った。女性の顔はひどく心配そうだったが、最近の任務で、心配してたのは実の子供ではなく、資産、愛人、恋人でしたの最悪3連続にあたったので心配で仕方がない。ちょうど入れ替わりで戻ってきた新田ちゃんは彼の背中を視線で追いつつ、小さくため息をついた。
「新田ちゃん、あの子もしかして通報した子ですか?」
「そうッス。あの子だけが見えてて、他の家族は見えてないッス。今家族に理解してもらうのは無理なんで一旦あの子に了解とって、寝ぼけてそう見えた、で話は収めました。突っ込まれたのは自動車事故として処理。息子さんは後日高専で対応ッスね。突っ込んだ呪霊いました?」
「いや……残穢もないし、家の被害も小さいから低級だと思います」
「やっぱそッスよね。とりあえず今日はこれで終わりッス」
「この後どうするんですか?」
「突っ込んだ部分は警察に任せて、呪霊については周囲の“窓”に警戒を出して終わりッスね」
「なるほどなぁ。あ、帰りも運転します。新田ちゃんは寝ててください」

2人で来るのって楽ッスね!と喜んでくれた彼女を助手席に乗せて車を出そうとしたとき、さっきの少年が走って戻って来た。助手席側の窓ガラスを開けると、彼は息を切らして大きな紙袋を渡してくる。
「あの、親からです。もらってください」
紙袋は押し込まれるように窓から入ってくる。
「いやいやご両親には説明したんスけど、当然のことなんでこういうのは気持ちだけ頂くッス」
「違うんです。これ、ラベルに傷がついてもう売り物にならないオリーブオイルなんで。使いやすくてよく売れてるやつなんで。……せめてこれくらいもらってください」
「……新田ちゃん、頂いとこうか」
今にも泣きそうな必死な表情に押されてしまった。これを受け取らないと彼の気は重いままだろう。新田ちゃんもじっと彼の顔を見つめて頷く。
「……そッスね。ありがとうございます。呪霊の件は改めて連絡するんで、今は心細いだろうけどもう少し待っててくださいね」
彼はやっと笑った。白い息が口から溢れる。
別れて車を走らせると、現場に向かう警察車両とすれ違った。こうやって、見える子供が高専と出会っていくのか。

頂いた紙袋から出て来たのは、ブランデーや香水みたいにスタイリッシュな真っ黒いデザインのオリーブオイルだった。見るからに良さそうなものだが、たしかにラベルの印刷が擦れて寄れたり、大きなキズが入ってたりしている。
「ピュアオリーブオイル……とエクストラヴァージンオイルが2本ずつ入ってます。ピュアオイルとエクストラヴァージンオイルってどう違うんすかね」
「うーん……分からないので……帰りの連絡ついでに七海さんに聞いてみます。新幹線お昼だから、多分まだ寝てると思いますけど」
七海さんは出張で一昨日から静岡だ。私もその前から高専で泊まりの仕事をしたり、任務で帰りが遅くなったりして、もう1週間以上七海さんと夕食を取れていないが、今日戻りだから、今晩はやっと一緒に夕食が取れるだろう。
『お疲れ様です。今日は定時で帰る予定です。あとオリーブオイルをもらいました。ピュアとエクストラヴァージンの違いってなんですか?』
頂いたオリーブオイルの名前も書いてメッセージを送ると、次の信号で止まったときには既読がついた。
「あ、起きてますね」
「はっや!そういえば、七海サンってなまえサンの着信音だけ変えてますよね」
「そうなんですか!?」
「そうッスよ。補助監督内ではみんな知ってるネタッス。七海さんいい人なんで大人気ッスけど本人には絡みづらいんで、小ネタでもめちゃくちゃ広まるッス。昼にコンビニで新作のコーヒーを買ってたとか、じゃあ俺も真似して飲もう。みたいな」
そんなのもうアイドルじゃん。でも気持ちわかりすぎるくらい分かるな……。次の信号に引っかかる前に、七海さんから返信があった。
「新田ちゃん、ごめん、読んでください」
「えー……“簡単に説明するとエクストラヴァージンオイルはオリーブを絞っただけなので、果実味や香りが強く、サラダやパン、料理の仕上げにかける生食用として好まれます。ピュアオイルは絞ったオイルを無味無臭に近くなるように加工し、サラダ油のようにしたもので、安価なために大量に油を使用する焼き物に向いています。どちらのオリーブオイルもとてもいいメーカーのものです”……だ、そうッス。昼のサラダにかけてみるッス。というわけでセブン見つけたら入りましょう!」
「了解です!」

セブンで昼食を購入し、高専に到着して新田ちゃんと別れてスマホを見ると、もうふたつメッセージが届いていた。
『買いました。今晩は頂いたオリーブオイルでアヒージョを作っていいですか』
濡れたコンクリートの地面を背景に、白いビニール袋の中にピンクでつやつやと透きとおった新鮮な海老が入っている。画面の端に写っているのは……長靴のさきっぽ。漁港らしきところまで海老を買いに行っている。
気合が違う七海さんのアヒージョ……もう“勝った”な……。

▼ ▼

夕方18時50分。玄関ドアの前ですでにパンのいい匂いがして、疲れと安堵のため息が漏れた。
朝は早かったが今日の予定は楽だから余裕だと思っていたら、追加任務や会議が入って昼食さえ取れなかった。七海さんのアヒージョが食べたいの一心で速攻で任務を終わらせた。
「ただいま帰りました!お疲れ様です」
「おかえりなさい。お疲れ様でした、早かったですね」
出迎えてくれた七海さんにオリーブオイルの入った紙袋を渡す。リビングには静岡と書かれたパンパンな紙袋がひとつと、七海さんがいつも出張のときに使うボストンバッグが寄り添うように並んでいた。七海さんはゆるめのグレーのパンツに黒い長袖シャツを腕まくりしている。久しぶりに、寝巻きじゃなくて家着の七海さんを見た。
「夕食の準備でなまえさんに手伝って欲しいことがあるのですが、余裕はありますか?」
「もちろんですよ、何します?」
ダイニングキッチンに向かうと、慣れていた鼻に濃いパンの匂いがまた戻ってくる。七海さんお気に入りのパン屋の袋に包まれたバゲットが、スライスの途中のまま台に乗っていた。隣のコンロには見慣れない小さなフライパンのようなもの……が……?
「これ、スキレットじゃないですか?」
これに入って料理が出てくると美味しさ50%増しの器1位の、あのスキレットがコンロの上にあった。
「錆ないように手入れをするのが面倒で買うのはやめていましたが、2人でなら登場回数も多くなりそうなので今日、買ってみました」
「……“本気”じゃないですか」
「えぇ、“本気”です……。手伝いですが、海老を剥いてもらっていいですか。身が柔らかくて私が剥くと崩れてしまう」
冷蔵庫から七海さんが出したのは、まるで飴細工みたいに透きとおった赤い海老が入ったボウルだった。写真で見るよりずっと綺麗だ。
「任せてくださいよ。しっぽ残します?全部むきます?」
「全部剥いてください。殻は出汁として使うので、できるだけ崩さず剥いてもらえると助かります。背わたは私の方で取りますから、そのままでいいです」
1尾剥いてみると、よく使うブラックタイガーよりサイズが少し小さく、甘エビのように身が柔らかくてくったりとしている。確かに七海さんの大きな手ではこれは剥きにくいな。


剥いた海老16尾をいれたボウルと交換に、カフェオレが溢れそうなくらい注がれたマグカップをもらった。
「ありがとうございます。30分くらいで夕食にできますが。繋ぎにどうぞ」
カフェオレのまろやかな苦味の中に、ちょっとだけ甘みがして美味しい。仕事上がりの疲れた頭に効く……。
ダイニングテーブルでパソコンを開いて仕事を始めると、すぐにオイルと水が激しく弾ける音がした。アヒージョはオリーブオイルで材料を煮込む料理で、グツグツというはずがバチバチいっている。気になってコンロを覗きに行くと、スキレットの中で山盛りの海老の殻がたっぷりのオリーブオイルで焼かれていて、七海さんは木べらでその殻を押しつぶしていた。
「アヒージョですよね……?」
「ええ。ただ今回は海老の殻を出汁に使って、風味や香りをオイルに移します」
前からやってみたかったんです、と木べらを握る七海さんの表情は楽しげだ。しばらくして水分が飛ぶと焼き上がる音は小さくなり、黄色みがかったオリーブオイルは海老の殻から染み出た旨味や味噌が移ってオレンジ色に変わって、にんにくと海老の香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。

▼ ▼

「お、おいしい……」
「イケますね」
海老の出汁がたっぷり入ったオリーブオイルで、海老とエリンギを煮たアヒージョは海老の旨味が濃厚だった。七海さんもオリーブオイル、というかもはやこれは海老のスープを一口含んだあと嬉しそうに笑う。
「今までで食べたアヒージョで1番美味しい……七海さん、お店やれますよ……。むしろお店をしてるのでは……?お店していた……?」
「無い記憶を作らないでください。口に合ってよかった」
メインは海老とエリンギのアヒージョ、七海さんの好きなバゲット、トマトときゅうりのサラダ。夕食としては軽めだが、濃厚なアヒージョの満足感がとんでもないので物足りなさは全くない。新鮮な海老の旨味が限界まで引き出されていて、海老自体も噛むたびに弾けるような食感がする。オイルを吸わせたバゲットも小麦のいい香りと風味に海老が合う。
七海さんと暮らすようになってから、食べ物の美味しさを感じる幅が増えた。食事を味わうという精神的な余裕が生まれたのもあるが、七海さんは食べ比べに誘ってくれたり、美味しさの言語化が上手いひとなので学ぶことが多く「なんか美味しい」が「新鮮だから」、「スパイスが効いてるから」、「味付けと食材があってるから」、「香りがいいから」と、情報として頭にしっかり残るようになった。

「2人で夕食を取るのは久しぶりですね。なまえさんはどうされてましたか」
「大体出前かコンビニでしたね。七海さんは?」
「私も外食か簡単な自炊を」
「あー……任務後にこんな美味しい料理を家でたべられるの最高です」
「海老もオリーブオイルも残っているので、明日は海老の天ぷらをしましょうかね……予定の段階で拝まないでください」
「海老天大好きなので……」
「知ってますよ。上手くできたら喜んでくれればいいので。拝むのはやめてください」
七海さんが追加でバゲットを切る。パン切り包丁が前後するたびに、ザクザクと乾いた音がして、小麦の匂いがまた深くなる。
スライスしたバゲットにアヒージョを乗せると、断面の気泡にエリンギがきれいにはまって、なんだか得した気分になった。カリカリに焼いたバケットでたべるのもいいが、しっとりしたバゲットで食べるのも、また違った味わいがあっていいなあ。七海さんもオイルでひたひたにしたバゲットを一口で食べると頷いて、そして私をじっと見つめる。
「自分のためだけに作っていると上手くできた達成感がありますし、自分が好きなものを好きなように作る楽しみはありますが、貴女に食べてもらうとこんなにも満足感が違うものなのですね」
「……こが……まどっている……」
「え?」
「猫が逃げ惑っている……」
「大丈夫ですか」

以前、東京校1年生とのグループトークで、筋トレの参考にしたいからと七海さんの二の腕の写真を頼まれたことがある。
配布許可取得済み二の腕写真を送ると、虎杖くんと野薔薇ちゃんから、ヘルメットをかぶった猫が「大変だ!」と言いながら、燃えている「案件」から逃げているスタンプが送られてきた。
これは何かと尋ねると、前に東堂くんが家が燃えているスタンプを唐突に虎杖くんに送ってきた。その理由は、東堂くんが愛するアイドルの可愛さが炎となって彼と彼の家を焼くほどの衝撃だった、という意味らしい。
それ以降、すごいものがメッセージアプリに載る→猫が炎から逃げながら「大変だ!」というスタンプを送る、という東京校1年生身内ネタの流れができた、と伏黒くんが説明してくれた。
そのやり取りがあってから、私はすごいことに出会うと、炎から逃げ惑う猫のスタンプを思い出してしまう。
それを七海さんに話すと、彼は微笑んでまたバゲットを切り始める。そういえば七海さん、補助監督さん達にアイドルのように……あ、生活の中の伏線を回収してしまった……?

……しかし、七海さんはそういうことをさらっと言わないでほしい。それで今まで何人がめちゃくちゃにされたんだろうか。……いや、人と必要以上に関わり合いになりたくないって言ってたので、私だけめちゃくちゃにされてるはず。胃も心も七海さんに掴まれまくっている。そして握力がすごい。
「バゲット、おかわりいりますか?」
「いります!」
反射的に夏のプールの小学生みたいに元気に返事をしてしまうと、七海さんがまた満足そうに笑うので、こんな素敵な人が満足してくれるなら、ずっとめちゃくちゃにされてていいな。

2022-07-10
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