四季でいえば9月はまだ夏だ。
半ばまで来たのに日差しが少し和らいだ程度で、秋を感じる程の変化はない。レースの白いカーテンが扇風機の風ではためき、床に積み上がった医学書のテーブルには携帯灰皿、昨日発売したばかりのファッション誌、漫画、飲みかけのリプトンのストレートティーが乗っている。
硝子さんは窓枠に座って扇風機を自分の方に向けると、ぽわっと輪っかの煙を吐いて笑った。匂いも輪も室内に入らず、窓の外へ流れていった。
私は読んでいる漫画を閉じて手近にあった分厚くて大きい医学書「プロメテウス解剖学アトラス 解剖学総論」を開いてみると、筋肉や骨などが1枚1枚肉を剥がして丁寧にカラーで掲載されている。硝子さんは私の肩をつかんで「この筋肉の下」と教えてくれた。
「硝子さんは術師専門の医者になるんですか?」
「いや。臨床は興味ないかな。人を治すと細部が気になってきて、解剖とか法医学医寄りの研究がしたい。まあでも医師免持つから、結局そういうのもやらされるんだろうけど」
「硝子さんがいなくなるのやだなあ」
「なまえが卒業するまでには戻ってくるよ」
医学書を閉じて元の場所に戻し、漫画を開き直す。
「この漫画、続きありますか?今からルシールが戦いそうなんですよ……」
「その続きなら七海が持ってるかも。聞いてみれば。……あ、でも今避けられてんのか」
1本いっとく?とタバコを差し出されたので断ると、細長いチー鱈を渡された。独特の歯ごたえと塩気が口の中に広がる。美味しい。
「避けられてないですよ。気まずいだけで……たぶん。たぶん……」

七海さんから告白されて2週間が経った。普段なら食堂や寮で会うと必ず声をかけてくれるのに、ここ2週間は目が合うと前髪が揺れるほどの早さで顔を逸らされるか、ぎこちなく会釈をされる。
廊下の角で出会い頭にぶつかりそうになった時は、目を丸くしてまじまじと見られ「すみません」と謝罪されて早足で逃げられた。告白によって関係が深まるどころか悪化してる。七海さん特化型取り立てヤクザになった気分だ。私の中途半端な返事を聞いて萎えて、思ったより好きじゃないことに気がついたとか?もしそうだったらそんな返事をした私が悪いけど、かなり落ち込む。
「七海さん、何か話されてませんでした?」
「いや?告白の後は普通に喜んでたけどね。あれから任務、またちょっと忙しかったしな。灰原なら何か知ってるかも、電話で聞いてみれば?」
「……それはちょっと。戻られたら聞いてみます」
灰原さんは今、彼の地元での任務ついでに帰省している。今年の夏も呪霊は多く、夏休みが短くなったので先生に勧められたらしい。妹さんに会えると楽しみにされてたから水を差したくない。そしてここ数日、七海さんは灰原さんがいないので部屋からあまり出てこない。
「まぁ七海だから勝手に嫌ったりはない。色々考えてんじゃないかな。そのうち蹴りがついて何か言ってくるでしょ」

硝子さんが煙草を消すと同時にノックの音がした。返事をするより早くドアが開き「硝子、みょうじしらない?お、いた」と五条さんが入ってくる。
「こういうタイプは返事の内容に悩んで、悩みすぎてストレスになって突然八つ当たり的にキレてくる」
「あ、なるほど……」
「オイ。なんの話?」
「女子会の秘密話なので五条さんにはちょっと」
「女子らしいもんポッキーしかないのに?」
「結構女子のイメージ可愛いですね」
「オマエはホント彼氏クンに似てきたな〜」
「五条やめろ」
硝子さんが投げたリプトンの空パックを五条さんは避けると、簡易キッチンに積まれているダンボールからリプトンのミルクティーを取り出してストローを刺す。
硝子さんが“窓”の人を治したら、お礼に寮へ山ほど届いたリプトンである。卸しをやってる人に“窓”がいるんだな。おかげで寮内はリプトンパーティーなのだ。
「任務誘いに来たんだけど、みょうじヒマ?」
ほい、と渡された任務書類。内容は都内の有名なデートスポットである埠頭の調査任務だった。男女が手を繋いで現場を歩くと突然足首に裂傷が発生し、呪力に当てられたり、転んだ拍子に怪我をしたりして搬送される事件が今年になって20件も起きているとのこと。
任務担当者に五条さんの名前は記載されているが、同行者欄は他1名とだけ書かれ空欄になっている。
「こういう男女2人組任務はいつも硝子連れて行ってたけど、みょうじがいいなら頼みたい。……ただこれ呪詛師案件かもしれなくて。無理して引き受けんなよ」
五条さんの視線は穏やかだった。色々問題はある人だが、こういう気遣いをしてくれる。(してくれないときもある)根が悪い人じゃないからイジられても嫌いにはなれない。
「大丈夫です、行けます。すぐ出られますよ」

硝子さんの部屋を出て階段を降りていると、五条さんは振り返った。
「お前、呪詛師過剰にボコるの、担任に注意されたろ」
「注意というほどでは。必要以上の攻撃は祓除続行時にデメリットしかないからやめとけっていう指導レベルです。ところで任務ですけど、手を繋いでる男女にだけ被害が出てるって……なんていうか……恋人同士が条件じゃないんですね」
「僻みがカンストしてるよな。まぁ術式発動条件を感情にするより、手を繋いでる男と女っていう目に見える状況にする方が段違いに楽ってのもある。みょうじちょっと手、貸して」
手を出すと五条さんが私の手のひらに彼のをあわせ、それから繋ぐように握り込まれた。
「手デッカァ!2.5関節違うじゃないですか」
「手を繋ぐっていうよりは引きずってる気分だわ」
「将来彼女できてもそれ言ったら絶対だめですからね!?」
「ごめんね……僕、年上が好みで……」
「なんで私が振られたみたいになってるんですか!」

「何の話ですか?」
下階の廊下に七海さんが立っていた。いつもは耳にかけている前髪が顔の方に落ちてきて片目が隠れているのが怖い。私ひとりだったら2段バックしていたが、七海じゃん。と言う五条さんに握られている手のせいで動けなかった。
「みょうじの手が小さいって話」
「なんで手を繋いでいるのですか」
「今から行く任務の予行練習」
七海さんは私たちをじっと見上げる。逃げないし目も逸らさない。口をきつく結んで言葉を待っているようだった。
「これ、任務の概要です」
書類を差し出すと、七海さんは無言で受け取った。顔は無表情だが手には青筋が浮かんでいる。キレている。こんなに怒りを溜め込んでいる彼を見たのは初めてかもしれない。七海さんは書類に目を通すと、いつもと同じ極めて落ち着いた声で言った。
「……この任務、五条さんの代わりに私が行ってもいいですか」
「いいよ。俺がやれば早いってだけで振られたから。詳細については外で待ってる補助監督が説明するって。送迎車は正面玄関な」
「分かりました」
五条さんはそのまま部屋に戻って行き、七海さんと私だけが階段に残された。
「行きましょう。よろしくお願いします」
離された私の手を七海さんがつかむ。五条さんはまるで子供の手を引くように手の甲も指もまとめて握っていたが、七海さんは私の指の間に彼の指を入れて、きつく握った。
指が楽になったな。でも気持ちがかなり重いな。もう彼の手の甲に青筋は浮かんでいなかったが、半歩先を歩くせいで顔は見えない。寮を出て正門まで続く道を歩く足音は蹴るように荒々しく、武器が入ったバッグも背中で何度もバウンドしている。手を繋ぐ力は少しも緩まず指先から手首まで熱い。
「あれ?五条君じゃなくて七海君が行くの?」
車の前で待ってくれていた補助監督さんが声を上げる。
「はい、交代しました。みょうじさんと私が行きます」
「いいけど七海君、顔が真っ赤だが風邪ひいたりとかしてないよな?」
七海さんの身体の震えが腕を伝わってやってくる。砂色の髪の隙間から見えた彼の耳は真っ赤だった。

▼ ▼

階段で出会って以降、七海さんの顔を真正面から見ていない。
彼は助手席に乗ったし、現着して手をつなぎ直してからも「後方をお願いします」と言ってずっと背中合せに近い状態で歩いている。というかこれは顔を見せないように七海さんが意図的に立ち回っている。
“帳”を降ろした埠頭にはカップルはおろか、人ひとりいない。そして埠頭といっても広いし、石畳や芝生できれいに道は整備されてどこも同じに見え、人がいないと人気スポットもわからない。恋人同士で埠頭に来て何するんだ?釣りか?景色か?海は好きだけど、東京のど真ん中から見る海は狭い。
「七海さん……」
「はい」
「埠頭に来てカップルって何するんでしょうか」
「……わかりません。恋人がいたことがないので」
聞いた自分を殴りたくなった。

歩き回って30分、やっと反応があった。海に最も近い遊歩道で七海さんの右足が何もなかった地面を踏んだ途端、トラバサミのような罠が浮き上がった。罠は足首を挟もうとしたが呪力に弾かれて転がり、そのまま祓われたように跡形なく消えた。
「みょうじさん、見えましたか?」
「見ました。あまり大きくない狩猟罠みたいなのが飛び出してきて……」
消えた。ということは罠自体は呪具ではなく呪力の塊。条件づけからしても術式でできたものだろうが、目視できた呪力はあまりにも弱い。術式を使える上級呪霊でこの弱さはありえないから、このちぐはぐさからして階級の低い呪詛師である可能性は高いが。
「あの威力でこのエリア全体に10個しか設置できないのなら大したことはありませんが、100個仕掛けていれば見方は変わります。まずは個数から調査していきましょう」

1時間歩き回り、罠を14個見つけた。あったのはどれも最初と同じく海に向かってせり出した遊歩道近辺で、海を離れ建物に近づくと全く反応がない。休憩できるベンチも多いし、恐らくこの辺りがデートスポットなのだろう。
渡された埠頭の地図にマーキングをし終えてわかったのは、罠は限られたエリアに集中して適当に配置されているということだ。殺傷性は低く追撃する機能もない。嫌がらせのような術式。近くで呪詛師が見ているなら、条件付けではなく対象を選んで発動してくるだろうから、呪詛師自体は近くにはいないだろう。
「七海さん、少し座りませんか」
未だに耳が真っ赤な七海さんを近くにあったベンチに誘うと、やはり私に背を向けたまま、指を1本1本剥がすように繋いでいた手を離した。手の間が外気に触れて、じっとりと熱く濡れていたことに気がつく。でも嫌じゃない。“帳”を降ろしているので夜のように暗くなっているけど、短時間では空気の熱は下がらず、汗が地面に数滴落ちた。
「……休憩していてください、私は少し周囲を見てきます」
「耳がずっと赤いですけど、風邪とか熱中症じゃないですよね?」
「…………いえ、別に」
「そしたら、その、私が七海さんを怒らせたとか」
「怒ってません!」
どこかで解決しなければいけないことだ。私が悪いのなら謝らなくてはいけないし、誤解なら解きたいと問いかけたことに、七海さんは振り返ると大きな声で否定した。
「怒って、いないです……」
大声を修正するように七海さんが呟く。
私より肌の色が白い七海さんは、耳から首まで真っ赤になっていた。特に涙袋のところが真っ赤になっていて、一瞬泣いているのかと思った。切れ長の目はふせられて、私とは合わずにさまよっている。彼の手に触れるのは憚れ、上着の裾を引いた。
「冷たいもの買って来ます」
さっきまでの強情さが嘘みたいに七海さんはベンチに座り込むと俯く。髪が重力に引かれて、さらさらと動き、形のいい頭の輪郭が見えた。
「違うんです、貴女を見てると、最近どうしても、どうやってもこうなるんです。だから見られたくなくて。好きな人が、みょうじさんが、私のことを好きだったんですよ可愛く見えてたまらなくなるのは仕方がないじゃないですか」
途中からひどい早口だった。
すらりと高い背と足とシルエットなのに、背中はしっかりと広い。筋が走る私よりふた関節大きな手。整った鼻筋に、切れ長の目。どこをとってもかっこいい人が顔を真っ赤にして話している。
「この任務、引き受けるの迷ったんじゃないですか。困らせてすみません」
「迷いましたが貴女が五条さんと手を繋ぐ方が、こんな顔貴女に見せるより嫌に決っているじゃないですか」
「本当に怒ってません?」
「怒っていません。私が貴女に本気で怒るのは……きっと約束を破られた時だけです。約束をしてくれたから、私はいくらでも待てます……。でも今、貴女も顔、真っ赤ですけど」
自分の頬に触れてみる。うわ、ホントだ。

自販機からアイスとポカリを買って渡すと、本当に熱中症じゃないですからね。と七海さんは呟き、私が彼の隣に座ると手を握ってくれた。その途端にバチンと音がして罠が発動し、私の足首を挟もうとして失敗して霧散する。持っていたミネラルウォーターのキャップが驚いた拍子に地面に転がる。
「怪我は無いですか?」
「全然大丈夫です、が……何だあれ」
キャップを拾うためにベンチの下を覗き込むと、小さな機械があった。ベンチの木目とも、地面のコンクリートの色とも違う深緑の人工物は異質で、フルーツの缶詰みたいな大きさほどのつるりとした本体に、黒く丸いガラスが埋め込まれており、下には四本の突起の足がついていて地面に立っている。そして何より、かすかに呪力を感じる。これもしかして罠の大元か?七海さんにも見せようとベンチの下に手を突っ込み、機械をつかんだ時だった。
いる。
いや、いた。
腹の底を突き上げるような怒りが沸き出る。機械をつかんだ手が震えて、呪力が回る。この機械と呪力で繋がっている相手に術式を発動しようとしたが、またできない。包丁と同じだ。こいつまだ。まだやっているのか。
これは“販売員”が作った呪具だ。この残穢はアイツのものだ。
「みょうじさん!」
機械にヒビが入る音と七海さんが私に呼びかける声は同時だった。
彼は私から機械を奪い取ると、ベンチに置いて私の両肩をつかんだ。その目に自分が映る。私、こんなに呪力を出せるんだ。燃える炎の中にいるみたいに呪力が身体から溢れている。
「この呪具、前に……任務で当たったもので……。同じ呪詛師が作ったものだと思います」
「本当に?」
どれを真実と聞いているのか分からないが、頷く。七海さんは機械を手に取るといじり、ボディを回す。左右に首が回るようだ。
「この黒い部分は恐らくカメラかセンサーでしょう。正面を向いて置かれていましたか」
「はい、前を向いてました。ベンチの下に隠すように置かれてて」
そしてマーキングしていた書類に目を通したあと「恐らく、これがこの術式の大元でしょうね」と書類に指で線を描いて見せてくれた。ベンチを原点として、機械の首の可動域角度ぴったりに罠設置場所が収まっている。
「これを持ち帰って報告しましょう。こんなものをわざわざ残すなら、呪詛師はやはり近くにいないはずです」

ベンチに座り直し、溶けかかったアイスを噛む。さっきまでは味を感じたのに今はよくわからない。水を飲もうとしたが結露で手からボトルがすり抜けて、制服を濡らした。
「みょうじさん」
差し出されたハンカチを受け取ったが、うまく手が動かない。術式をもう1度発動してみるが、呪力はどこにも行き着かないまま止まってしまった。
「……七海さん、もしですよ。大切な人が呪詛師に殺されて、その呪詛師を七海さんが捕まえたとします。でも上から、その呪詛師は便利な人材で、殺した人数も少ないから呪術師界で雇うので殺してはいけないと言われたら、その指示に従いますか」
「従います」
「なんでですか?」
「殺しに関して呪術師界は厳しいです。処刑まではいかなくても、適切な罰を与えてくれるでしょう。それにきっと数人殺す呪詛師は、見つかっていないだけで数十人殺していることが多い。私が調べた所で余罪はすべて分かりません。上に頼った方がいい」
「余罪……ですか」
「はい。そういうことを何度も聞きましたし、見てもきました」
離れていた手を七海さんが繋ぎなおした。今度は指を絡ませるようなものではなく、指も、手の甲もまとめて全部握り込まれた。さっきより窮屈で、絶対に振りほどけない力があった。
「悩んでいることがあれば、いつでもいいので話してください」
私の口からはまだ2文字の返事しか出なかった。

▼ ▼

七海はみょうじに嘘をついた。
そんな相手が、みょうじや灰原を殺した呪詛師がいれば、迷わずその頭に大鉈を振り下ろすと自分を理解しているし、理性はそれを止めないと分かっている。

七海は夏油失踪の件を、灰原にせがまれて一緒に調べたことがある。
呪術師のあり方、強者の責任、善悪について。自分たちに様々なことを体現してくれた夏油は、七海も尊敬していた先輩だった。だからその夏油が起こした非術師大量殺害は何かの間違いだと思ったし、盗み見た報告書の内容だけでは早計だと感じていた。
しかし調べるほどに、夏油が犯人だと解る。徹底的に破壊された非術師の死体にこびりつく、隠しもしない夏油の残穢。唯一夏油のものではない残穢がある座敷牢。そして見つからない、その呪力を持つ人間の死体。
きっと座敷牢にいた誰かを連れて、夏油は逃げたのだと灰原も七海も理解した。彼の人柄を知っているから上の裁きを疑ったのに、調べてみれば人柄を知っているからこそ深く納得してしまった。
こんな大量殺人はけして許されない。だが、あの夏油にこれだけ殺してもいいと思わせる何かが、この村にあったのなら?その醜悪さが、いつか自分や灰原、そしてみょうじに訪れたら?

自分が命をかけて助けた人は善であってほしい。それがもし悪人であれば、自分が命をかけた意味がない。七海はそう思ってきた。人助けを生業にしている人間なら誰だってそう思うだろう。
けれど善の人間であった夏油が、悪と呼ばれる存在に転じてしまった。
その事実は七海に、善か悪かは流動的で、また見るものによってもきっと違うし、明確な善人も悪人もほとんどいないと理解させた。
そして守るものに善悪を求めることは、守るものについて悩むことは、自分の命を危険に晒すと分かる。そんなもの求めない。ただ任務に従って、救出対象に指定されたものを助け、規定に従う。そうすることが1番自分や仲間の命と心を守るという考えに若くしてたどり着いた。
この世界で我を通すなら、五条や夏油ほど強くないとできない。その事実も七海は知っていたから、みょうじに規定に従うことを勧める嘘をついた。


埠頭で発見した呪具を補助監督に預け帰寮すると、寮の前には夜蛾が立っていた。五条がまた何かしたのだろうか、と七海は思ったが、夜蛾は2人の元へ早足で向かってくる。
「七海、灰原が任務先で重症を負った」
七海の目が限界まで見開かれ、身体がこわばる。夜蛾の視線は同じように固まったみょうじにも行き「担任と硝子、悟が灰原の元に向かった。明日の七海の任務は一旦別の術師に回す。寮で待機していろ。……みょうじ、七海を頼む。見ててやってくれ」
夜蛾は念を押して事務室へ走って行く。
『3年の夏油が、任務先の集落の人間を皆殺しにして失踪した』
七海は1年前の担任の言葉を思い出す。死も事件も前触れ無くいつも通りの日常にするりと入り込んで、知った途端に予想していた明日を破壊する。
ぐわん、と七海の視界が揺らぐ。冷や汗が出て、体温が下がる。一歩踏み出そうとしてできずにいると、ぎゅうっとみょうじに手を握られた。
七海にはこの時、みょうじが輝いて見えた。眩しいくらいに輝いて見えた。なぜかは分からない。みょうじは七海の手を握ると、寮にひっぱりこんで談話室のソファに座らせた。そしてどこかに電話をかけて、なにか話していたが、七海にはみょうじの眩しさと灰原の混乱で言葉の理解がうまくいかない。みょうじは携帯を耳元から離し、七海に向かって画面を突きつけた。近すぎて画面のバックライトの明かりがパチパチと七海の視界で弾ける。顔を引いて見えた画面には「元気!」という3文字と一緒に、右手を三角巾で吊り、頭と額に包帯を巻き、頬に大きなガーゼをはられながらも満面の笑みを浮かべる灰原が映っていた。

2022-06-26
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