※「近くもなく遠くもない(猪野)」の中学時代の話
※名前付きのモブがいます



重い瞼が少しだけ軽くなると、視界の端で深爪気味の指が何度も机を叩いてるのが見えた。遠かった声が徐々に近くなり、言い聞かせるように何度も「ワイ・イコール・ゴ!!ワイ・イコール・ゴ!!」とひそめた声に囁かれる。

「ワイイコールご……?」
「正解」

梅海先生のキレ気味の声が教室に響き、チョークで円を書く荒い音がした。
「猪野ォ、みょうじに睡眠学習させるなや」
「スンマセン!」
隣の猪野が謝った声で完全に目が覚めた。寝てた。鬼の梅海の授業中に。血の気が引く感覚がして、眉毛を親指で上に吊り上げて眠気をごまかす。後ろの席の友達がバンバンと眠気覚ましに背中を叩いてくれる中で猪野と目が合う。頭から血が出るのは嫌だ。


「さっきは起こしてくれて、ホントありがと……」
数学の授業が終わって昼休み。購買部で買ったウィンナーロールを猪野に献上すると彼は眉を下げた。
「梅海の授業だけはヤベーよ」
「いやホント眠くて……」
鬼の梅海。忘れ物だけで授業終了までその生徒を立たせ(時には連帯責任で全員)、どんなにイキってる男子でも居眠りしたら泣くまで詰める、最も恐れられている教師。過去、反抗した生徒を教科書の角で血が出るまで殴ったこともあるらしい。そんな事あったら問題になると思うけど、しないと言い切れない人だからこそ、あの人の授業だけは気を抜いてはいけないと学校生徒全員の共通認識なのに寝てしまった。
「でもまー……みょうじは普段から真面目だから今回梅海も見逃してくれたんだろうな。どうしたの寝ちゃって」
クマもすげぇし、と指をさされた目の下は、こっそりお母さんから借りた色つき日焼け止めでも全然隠せてないらしい。
今日は猪野も私も、いつも一緒にご飯を食べている友達が部活や委員会の集まりで不在で、授業後の流れでふたりで昼食を取っていた。だから友達には濁した眠気の理由を今なら猪野に伝えることができた。
「最近、二段ベッドの上から寝息みたいなのがするの。それがなんか気になって眠れなくてさ」
「寝息……?」

気がついたのは2週間前の夜中。突然ふと目が覚めて聞いた、穏やかな寝息。目をつぶって音の元を探るとそれは二段ベッドの上で、お姉ちゃんのヤツだろうとそのまま眠りに落ちそうになって気がついた。
お姉ちゃんは春に進学で家を出て、この部屋にはもう私しかいないのだ。
その夜は聞き間違いと思って眠ったが、3日続いたら流石に不気味で自室で眠れなくなった。
「……なんか悪さとかすんの?」
「なにもない。本当にスーッ、スーッて寝息だけ。隙間風か何かかなって家族に調べてもらったけど、なんにもなくて。今は怖くてリビングで寝てるんだけど眠りが浅くてさ……お陰で眠くてねむくて仕方ないよ……」
猪野は頷いてウインナーロールにかぶりつく。彼の机上の弁当箱は煮物や煮魚がぎっしり入っていて、どう見ても中学生向けじゃない。
「あれだよな、月島雫スタイルだよな。今なんか上に置いてる?空っぽ?」
二段ベッドの上にお姉ちゃんが寝てることを猪野が月島雫スタイルと名付けた。私達ふたりの間でしか伝わらない言葉である。
「今は物置きにしてるよ。使わなくなったバレー用品とか本を置いてる」
「ナルホド……。寝息みたいな音ねぇ……」
猪野は考え込むように手で口元を覆うと、口の端についてたケチャップも隠れた。“あの”猪野に即答されても困るからちょっとホッとした。
「パン足りないから、もう1回購買行ってくるね」
「待って。煮魚食わねえ?鯛だよ」
「骨ばっかだからやだ」
「みょうじチャンのために俺が骨とってやりましょうかね」
「前それで喉刺さったから肉団子なら食べる」
もらって食べてみると薄い醤油味がした。猪野が購買部でケチャップやマヨネーズ味のパンを食べたがる理由が分かった。
「まぁ鯛はおいといて……帰りにさ、みょうじの部屋、見に行ってもいい?」
「……やっぱありえる?」
「見てみないとなんとも言えない。候補を潰すって感じだな。休みたいのに休めないのは最悪命に関わるだろ?」
「……どうぞよろしくお願いします」
猪野へのお礼に、購買部でコーンマヨパンも買おう。

▼ ▼

学校を挟んで猪野の家と私の家は真逆にある。
そして猪野の家はまあまあ田舎のうちの街の中でトップにデカい。
世界の背景として描いて貼られたみたいな、長閑な空と山が学校の廊下から見えるのだけど、その山の半分が猪野の敷地らしい。天気がよければ瓦屋根の猪野家も見える。クラスのみんなからも知られてて、親の仕事を聞かれて地主がメインと答えてたけど、バレーのユニフォームの件以降は「霊みたいなのを祓う仕事で代々稼いで来たらしい」と私にだけ教えてくれた。
前の私なら、まーた適当言ってらと思っただろうけど、明らかに超常現象的能力を見せられたので信じている。そして「霊みたいなの」と濁してくれたのは私がそういうのダメと知っているから。怖い話ホント無理だけど、今回は立ち向かうしかない。鼻息が大きな犬の霊とかでいて欲しい。

そんなことを考えながら猪野と私の家に向かう。カレンダーではとっくに秋なのに今日も日差しが厳しくて、最近きれいに舗装された道路は白いコンクリートの照り返しが眩しくてたまらない。
「みょうじの家の近くは賑わってていいよな。スタバあるし」
「スタバ高いじゃん。限定ほにゃほにゃフラペチーノってだけで500円もするし」
「持つものは言うコトが違うねぇ」
猪野は買ったフラペチーノを大切そうに啜った。
猪野家の周りはなんにもない。
学校を出て平べったい住宅地を山に向かってまっすぐ突っ切ると、猪野家に行くしか用途がない長い広い坂と階段があって、全部上ったら猪野家がある。
家は平屋建ての母屋と離れと蔵がある……と思う。何度か行ったのに曖昧なのは、山上の太陽の照りつけが激しくて細めた目では全貌はよくわからないし、夕方に行ったら今度は灯りがひとつも無いから暗くてよくわからないのだ。
唯一しっかり覚えてるのは、玄関の周りには鉢植えや魚屋の名前が入った発泡スチロールが何個もならんでいて、発泡スチロールにはメダカが飼われてたり、ネギが植えてあった。私の家の周りは再開発でそこそこ都会的なのに、猪野家だけは田舎のおばあちゃんの家みたい。
でも「霊みたいなの」をこの家に住む人達は代々みんな視えるのかと思うと、急に歴史ある由緒正しい家なのかなと思えてしまった。それを言ったら「詐欺られそう……」と猪野に呆れた顔をされた。私もそう思う。

「猪野、ちょっとフラペ飲ましてよ」
「え!?いやダメだろ!」
「虫歯ないし、猪野もないでしょ」
「そーいう話じゃねぇだろ!?もしかしてオマエそんなのみんなとしてんの?」
「してない。虫歯が無い、仲のいい子とだけ」
「ちゃんとしてんのかしてないのか、わかんねぇ……」
これで我慢してください。と、てっぺんに乗ってたさくらんぼを貰った。
「みょうじチャンのお小遣い2000円だっけ?たしかにコレ1杯500円超えはみょうじ経済に打撃だよなぁ」
猪野が私の経済を憂いていると、信号を渡る途中ですれ違った小学生が猪野の太ももに突然パンチした。猪野はそれをギリギリでかわし、小学生の頭をわしゃわしゃと撫で、お互いが止まることなくすれ違う。
「何、今の」
「犬の散歩の時に知り合った小学生」
いつも舌が出てる真っ黒で人懐っこい猪野の犬、ペロ太郎。猪野家の山で小さい頃拾ったらしい。猪野が散歩に連れて行くとすぐ子供に囲まれると聞いてたけど、なるほどね。
信号を渡りきって商店街を歩くと、猪野は時々すれ違う人に頭を下げる。魚屋のおじさん、漬物屋のおばさん、花屋のお兄さん……私だけ頭を上げているのもなんだか具合が悪くて一緒に頭を下げる。
「猪野って顔広いよねえ」
「まー、俺ってモテるから」
「とかいって綺麗なお姉さんを凝視しない」
「……みょうじってホント見えてないんだな」
「何が?」
「いやなんでもない」

▼ ▼

帰宅すると家の中はテレビの音が微かにするだけで、お母さんの気配はなかった。
それもそのはずで、猪野を連れて来ると帰りにメールしたから「お母さん、邪魔にならないようにリビングに隠れてるね」と気を使ってくれたのだ。普通にしてくれた方がいいのに。
「みょうじのお母さんは?」
「そこのドアの向こうのリビング。私の部屋2階だから気にしないで上がって」
「いやソレ良くないだろ。ちょっと挨拶してくる」
「えー!いいって!!」
私が肩を引っ張っても聞かずに、猪野はノックしてリビングに入り「お邪魔します。なまえさんと同じクラスの猪野です。突然お邪魔してすみません」と頭を下げた。私にはお母さんの顔は見えなかったけど、まさか挨拶に来るとは思ってなかったみたいで「いえいえ!なまえがね!!お世話にこちらこそなっててね!?あとで何か持っていくね!?」と声が裏返ってた。
家に来てくれた他の友達は、お邪魔しますだけで私の部屋に上がって行くので、猪野が特別ちゃんとして見えて、なんだかかなりこそばゆい。

私の部屋に通すと、猪野は開口一番、みょうじの部屋っぽいなぁと言った。
「どのへんが?」
「シンプルなところ。みょうじ、文房具とかシンプルなのが好きじゃん」
女子の部屋だ!とか、汚い!とか、片付いてんじゃん!!って言われるより、猪野みたいに言ってくれた方がいいけど、こっちの方が恥ずかしいな。
そういえば猪野結構モテるもんな。自分の黒目が小さくて気になるとか、髪に癖があって跳ねてさらさらにならないとか、前は3日に1回、デコ出したのと出してないのどっちがモテると思う?とか聞いてきたけど、そもそも顔悪くないし、性格いいんだから普通に彼女できるでしょ。知らんけど。私に彼氏できてないのに猪野に彼女できたらなんか嫌だから言ったことないけど。
「で、問題は二段ベッドの上な。見ていい?」
頷くと猪野は二段ベッドのはしごをのぼって、ふーん……としげしげと眺めた。私はその間に部屋の中で取りたかったものを急いで持ち出す。あの寝息がするようになってから、怖くて1人じゃ部屋に入れなくて、教科書とか着替えとか全部リビングに置いている。


「あった」
しばらく部屋の外で待っていると、突然大きな声が聞こえて心臓が縮み上がった。
部屋に入るか迷う。なにがあったのか。寝息の元になっていた生きてる人間の首根っこを猪野が掴んでベッドから引きずり下ろしてたらどうしよう。
「怖くねぇよ、大丈夫」
恐る恐る部屋を覗くと猪野が持っていたのは、ミサンガのストラップがついたフェルトで作られたバレーボールだった。3年最後の大会に向けて、後輩たちが作ってくれたもの。
「バレー部の集合写真の横にあったけど、これお守り?」
「そう。必勝祈願のお守り。だけど……」
記憶と色が全然違った。青と黄色のフェルトで作られたバレーボールは全体が赤黒く変色していて、ミサンガ部分に至っては髪の毛で作られたみたいに真っ黒に劣化している。
「……これ作ったヤツにみょうじがめちゃくちゃ恨まれてるとか……ないよな?」
「た、多分。ないと思う。作ってくれたのあんまり接点なかった1年の子たちだし……」
「だよな。まあみょうじは大丈夫だから心配すんな。ちょっと待ってて」
そう言うと猪野は私を部屋から出してドアを閉めた。部屋漁られたらどうしようと一瞬思ったけど、猪野ならしないか……。

5分ほどしてドアが開き、「終わった」と言って差し出してくれた手に握られていたバレーボールのお守りは、もらったときと同じ色に戻っていた。
「え、どうやったの!?洗ったの!?」
「んなわけねーだろ!まあ……これが不思議な力ってヤツ。気になってた寝息も無くしたから、今晩は安心して寝られるぜ」
「……猪野ってマジでマジのやつなの?」
「マジにマジのやつ。……だから今後は相手に悪意がなくても、人の手がかかったモンは貰わない方がいい。状況的に貰わないとヤベぇなって時は、とりあえず貰って後で破棄な」
「うん……。あのさ……寝息ってなんだったの?」
「聞いちゃう??」
「知らない方が怖い、じゃん……」
「みょうじが苦手なおばけの話だとしても?」
「マイルドにごまかして教えて」
猪野は困ったように眉間に皺を寄せて、腕を組んで話しづらそうに言葉を選んだ。
「多分そのお守り作ってくれた子に……霊みたいなのが憑いてて、それが意図せずお守りにくっついて一部がみょうじの方に来た……みたいな」
「……寝息は?」
「その霊みたいなのが出してた」
「霊みたいなのって寝るの?」
「そこまで言っていいのか?後悔しない?」
どうしよう。今日から夜中トイレ行く時はダッシュしたりとか、お風呂で頭を洗う時は常に壁に背中つけておかなくちゃいけないけど……知らない方がずっと怖いから。
強く頷くと、猪野は渋々と口を開いた。
「みょうじが聞いてたのは寝息じゃなくて、首のでけぇ切り傷から空気が漏れた音」
「毎晩私が寝落ちするまで電話繋いでて。1ヶ月くらい。絶対して。必ずして。お願いだからして」
「即後悔かよ!!」

2022-05-04
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