「え」
「ん?」
私が声を出さなくても、もうお互い知らないふりはできないほど近くにいた。同じ棚にあるぬいぐるみを見ていたから。
高専の先輩達へ昇級のお礼のプレゼントを買って、母から頼まれた親戚の女の子の誕生日プレゼントを選びに行った先で彼に会った。彼は優しげに微笑むと、手に持っていた箱をくるりと回して棚に戻した。
「久しぶり。と言っても1度しか会ったことはなかったね。そんなに固くならなくていいよ。なにかする気は無いから」
「いえこれは人見知りの方の緊張で……私、なぜ夏油さんが追放されたか詳しくは知らないんですよね」

私が入学前にお世話になった人は3人いる。
私を見つけてくれて、定期的に体術や呪術を教えに来てくれた夜蛾先生。
何度もメールをやり取りしてくれて、学生から見た高専の話や雑談に乗ってくれた七海さん。
そして最後に、夜蛾先生経由で“販売員”探しを手伝ってくれた夏油さん。

お姉さんに包丁を売りつけた“販売員”は自分の術式で呪具や呪物を作り、それを非術師に売って呪霊を祓わせている。
だから中には非術師が祓いそこねて、販売員の残穢が付着したままの呪霊がいるかもしれない。その呪霊を五条さんの目で探し、夏油さんが取り込み、その残穢で私が販売員を探知するという計画を、私が高専に入学する前から夜蛾先生が計画してくれていた。だから夜蛾先生を介して夏油さんと番号を交換し、数回話したことがあった。
計画を聞いた当時から、能力が合えば学生でも仕事を回されるんだなと、呪術師界をベンチャー企業のように思っていた。しかし計画は実行されなかった。夏油さんが非術師を100人殺して失踪したから。

「販売員探しは順調?」
「いえ、あまり。ただ被害者が増えているせいで、呪術師界も本腰を入れて色々な角度で動いています。時間の問題と夜蛾先生は言ってました」
「任意の性能を持った呪具や呪物を作れる人材は少ないからね。捕縛して呪術師界に引き込みたい思惑があるんだろう」
「……それは見つけても……呪術師界は刑に処さないということですか?」
「あぁ。ただの呪詛師ならそうなるけど、販売員は違うだろう。みょうじさんに言うのは申し訳無いけど、販売員が非術師を殺してしまった件はみょうじさんの幼馴染以外には少ないから」
買い物を中断して入ったのは、学生は誰も来ないような古めかしい喫茶店だった。
席の側の窓ガラスは綺麗に磨かれていて、外のプランターで伸び伸びと育つビオラの影がテーブルに落ちている。明るすぎる真夏の日差しと影のコントラストが焼き付いて、目の前にいる夏油さんがとても暗く見えた。夏油さんはコーヒーを頼み、私は1番高いいちごパフェを頼んだ。特別食べたい気分ではなかったが、もしここで死ぬかもと思ったら、最後に美味しいものを食べておきたかった。死ぬ気はないが、死んでからでは遅い。
注文の後、夏油さんは自分が何をして呪術師界から追放されたか語ってくれた。

「みょうじさんは私を怖がらないんだね」
「私も任務で人を殺してますから。それに事故とはいえ、最初に殺したのは幼馴染でした。人をどうこう言えません」
「随分達観してるね。猿100人殺すのと事故で幼馴染を殺すのでは、流石に今の私でも違うと分かるよ」
「それに私も夏油さんの立場におかれたら、同じ判断をしていたかもしれませんし」
いや多分、していたろうな。今ここで殺したくないと思っていても、実際に子供達を逃がす時に仕方がなければ、回避の手がなければ、殺してしまうだろう。理由があれば1人を殺せる人間は、将来的に100人だって理由があれば殺す。つまり私と彼の間に大差はない。

店長らしき初老の男性が丁寧にコーヒーとパフェをテーブルに届けてくれた。
「猿は嫌い」
彼が去って行って、はっきりと夏油さんは言う。
「私の今の目的はね、呪術師だけの世界を作りたいんだ」
「その目的のために、今は猿から呪霊関係の悩みと金をすい上げてる」
「販売員のターゲットは非術師だ。そういう悩みが高専より私の方へ早く多く入ってくるだろう。その情報を渡すから、私を手伝ってくれないかい」
相槌も返事も待たず彼は語り、ポーションミルクの爪を折る音が大きく響いた。
「高専の皆さんを裏切ることはできません」
「いやいや。私の目的ではなく、これさ」
彼はここに来た時にテーブルの上に置いた、数冊のおもちゃのパンフレットを持ち上げた。
「助けた双子の女の子と暮らしているんだ。女の子の趣味に合わせて物を買うのは猿を扱うより数段難しくてね」
「……女の子達を育てるアドバイスがほしいってことですか?」
「まぁ、そんな感じかな。あいにく私はひとりっ子で、硝子以外に深い付き合いの女子もいなかったから」
「だったら、さっき持ってた高そうなテディベアより、あの横にあったシルバニアファミリーの赤ちゃんコレクションがいいですよ」
「え?そうなの?」
「まあ、性格にもよりますけど……バニアはシリーズでいっぱい種類があるので」
「え、バニアって略すんだ」
「稀かもしれません。そういう育ちの子が他のシリーズも欲しくなってくれたら、買い物に連れ出しやすくなるんじゃないでしょうか。そんな過疎の村に閉じ込められていたなら、都会の街にも慣れていないでしょう」
「成程、確かに。理解が早くて助かるよ」
夏油さんはきっと、占い師や霊媒師的なことをやってるのだろう。穏やかそうな物腰はとてもじゃないが100人殺した人間に見えなかった。でもそれは私が呪術師で、彼から歓迎される存在だからかもしれない。
「……高専のみんなに、今日のことも約束も内緒だよ」
「皆さんに不利になることは絶対しませんからね……」
「分かってるよ。私も後輩達は今でも可愛いから、何かする気はないさ」
「ところで夏油さん」
「何?」
「パフェちょっと食べてくれませんか……思ってたより多くて」
東京価格の2000円かと思ったら、大盛り店の2000円だった。レトロな佇まいからは予想できない、ビールジョッキに盛られたいちごパフェ。
夏油さんは吹き出して笑い「いいよ。あ、待って。子供達に見せたいから」と携帯をかまえた。


▼ ▼

肉野菜炒めという健康的なものをたくさん食べたせいか、遅い時間に寝たのに平日と変わらない時間にすっきり目が覚めた。
顔を洗って身支度を整え、部屋の窓を開けると、朝と夜だけに吹く少し涼しい風が部屋を通り抜ける。初めての繁忙期が終わりつつあり、久しぶりの1日休みに何をしようか考えているとドアの高いところをノックされた。
こんな叩き方をする人はひとりしかいない。また甘いものカツアゲに来たのだろうか。念の為に買っておいたお菓子のバラエティパックから1袋持ってドアを開けると、思ったとおり五条さんだったが休みなのに制服姿だ。
「寝てた?」
「おはようございます。起きてましたけど、どうされました?今から任務ですか?」
「いや昨日遠出でさっき帰ってきた。で、依頼人から色々もらってオマエにもやろうかなって。ほら」
「なぜ木のスプーン」
「助けた相手が木工職人だったんだよ。それ店に並ぶと1万くらいするらしいぞ。手彫りだとかなんとかで」
むき出しで渡されたスプーンはテレビコマーシャルでシチューの器に入ってそうな、なんてことない木製のものなのにこれが1万もするのか。いや五条さんは金銭感覚が雑なので本当に1万の場合もあれば、5万の場合もある。
「ありがとうございます、大切に使います」
「もらいもんだし適当に使えよ。七海も起こしに行くぞ。この時間ならまだ寝てるだろうし」
「せっかくのお休みですよ。起こすのやめましょうよ」
「アイツ土産配るときに呼ばないとスネんだよ。それにみょうじがいるなら文句言わず起きるだろ」
「それはお土産を渡さないから怒ったのではなく、お前の土産もうねーからとか言ったのでは……?七海さんには何を渡すんですか?」
「パン切り包丁」
五条さんが紙袋から出したのは高そうな皮のカバーがついたパン切り包丁だった。持ち手が私がもらったスプーンと同じ木目で、これは確実に同じ職人の手から生まれている。
「パン切り包丁で思い出しました。パンのシールを七海さんの部屋に貼るのは駄目ですよ。迷惑してましたよ」
「あー、あれ。いつもは傑がテキトーな時期に点数数えて、灰原に教えて皿に交換させてたから、いつの間にか無くなってたんだよなぁ」

傑。
てっきり彼の話はタブーだと思っていた。だから言葉が出なかった一瞬の間を「はぁ」と気の抜けた返事で繋いだが、五条さんはそれを察したのか「そういえば」と話を変えた。
「みょうじ、彼氏できたってマジ?」
「できてないですけど、どこからそんな話が……?」
「話題の店で、オマエが男とパフェ食ってるの見たって2年が噂しててさ」
これな、と五条さんが見せてくれた携帯の画面にはネット記事が載っていた。
『中高生の間で密かなブーム 初デートをここですると別れない?不定期開店の隠れ家的老舗喫茶店』というタイトルの下には、夏油さんと入った喫茶店の外観写真が添えられている。
「あー……彼氏じゃないですよ。確かに知り合いとそこに行きましたけど、ちょうど近くにあった人気のなさそうなお店だから入っただけで」
喫茶店は寂れていたわけではなく、平日のお昼だったから運良く学生がいない時間だったのか。しかもまさか知り合いに見つかるとは思わなかった。高専からも駅からもかなり離れた場所だったのに。外からは見えない席の方に夏油さんに座ってもらってよかった。
「照れんなよ。どこの誰よなまえちゃんの彼ピは」
五条さんがニヤニヤと笑いながらつむじを押してくる。会った相手が夏油さんとバレてるのか?いや、そうならきっとこんな反応では済まないだろうから、これは純粋なからかいでしかない。
「分かりましたから。彼氏いますいます。彼ピーピ・ピー・ピピです」
「あ、硝子のボーボボ後半巻返せよ。俺待ってんだけど」
「あれ元々灰原さんの私物ですから、灰原さんに返しましたよ」
「マジか。で、マジで彼氏できたの?見せろよ、写メくらいあんだろ。俺の知ってる顔?まあ知ってる顔だろうな」
「五条さんに彼氏教えたら別れるってネットに書いてあったんで、教えられません」

追い返そうとドアノブに手を伸ばすと、五条さんも深追いする気はないのかあっさり身をひいた。そのままドアを閉めようとした時、突然廊下で大きな音がして、私と五条さんの視線が反射的に音の方へ向かう。
廊下には七海さんがいた。そして彼が持っていたであろうペットボトルが落ちていて、中身がじわじわと床を濡らしていく。
「カップルの邪魔してごめんな」
そう言って五条さんは七海さんの横をすり抜けて階段を降りて行く。違う、そうじゃない。
「すみません。五条さんが変な勘違いをしてて。拭くものを持ってきます」
部屋に入り、手近にあった洗面タオルを持って廊下に戻ろうとすると、入口に七海さんが立っていた。ジャージのパンツに、白いオーバーサイズのTシャツ。部屋を抜けた風が七海さんの髪とシャツを揺らしていた。
「今の話、本当ですか」
「なにがですか?」
「彼氏が、できたと」
彼氏がいると嘘をついた方が、今後夏油さんから連絡が来た時に隠しやすいだろうか?……ダメだ。逆に五条さんがその気になって架空の彼氏の正体を探ろうとしてくる方がまずい。
そんなことを考えて、どう返事をしようか迷った時、ぽつりと七海さんがつぶやいた。

「私の方が好きなのに」

眉間に皺を寄せ、怒っているというよりはひどく思い詰めたような顔をしている。風でくずれた前髪がおでこを隠し、いつも冷静で大人びている顔が幼く見える。初めて私と七海さんの歳が近いことを実感した。
さっきの言葉の意味を尋ねる前に、七海さんが急に部屋に入って来る。荒々しく脱がれたサンダルがはねて転がる。普段の七海さんからは考えられない態度に驚いて体が止まると、そのまま両肩を掴まれた。けど勢いほど力はなく、肩にかかる力は弱く、そしてその指先は少し震えていた。

「あなたのことが好きです」
じわじわと七海さんの顔は真っ赤になり、耳から首、鎖骨、手の甲まで染まっていく。ぎゅうっと限界まで眉間に皺が寄った表情は、もし赤くなくてさっきの言葉がないと、ものすごく怒っているようにしか見えない。それは今まで見た中で1番感情的な七海さんの表情だった。
「みょうじさんのことが好きです」
内容が遅れて脳に入ってくる。今、七海さんが私を好きって言った?
「付き合ってください。絶対に、付き合ってる相手より大切にします」
「な、七海さん!勘違いです!私に彼氏いないんですよ!!ちょっと知り合いと行ったお店が彼氏と行ったら別れないって噂が立ってたから勘違いされただけで!」
「……本当に?」
「ホントです」
「知り合いの男とよく出かけますか。この前、書店で会った同級生ですか」
「いやいやいや、偶然出会った地元の先輩です」
「じゃあ、やはり付き合ってください」
じゃあ、やはりとは!?
肩が今度は上からきっちり押さえられる。七海さんにずっと見つめられるのは恥ずかしくて、逃げるように自然としゃがみこんでしまうと肩から手が離れた。視線を床に逃して、冷静さを取り戻す。
「……何もなければ……絶対返事は、お願いします、なんですけど……いまは時間も余裕もなくて、付き合ってもガッカリさせるだけだと……」
「……つまり、付き合えないけど、みょうじさんも私が好き……と思っていて良いですか」
好きだ。そりゃ好きだ。顔がまず好きだ。でもそれよりもっと、人柄が大好きだ。不機嫌そうな顔をしてるけど全然そんなことは無い。出会ったときからずっと私を気遣ってくれるし、思慮が深い。任務が終わった後、みんな疲れきってるのに送迎してくれる補助監督さんに挨拶を欠かさないところ。目があったら必ず会釈してくれるところ。怪我してると分かったら必ず様子を聞いてくれるところ。五条さんに絡まれてたら間に入ってくれるところ。血や泥がついてたら拭うためにタオルを渡してくれるところ。任務帰りに送迎車で眠ってしまって半分くらい覚醒してたとき、偶然同乗した七海さんがこっそり手の怪我を手当してくれたところ。体術稽古の時は厳しく指導してくれるけど、その後褒めてくれること。夜にコンビニへ行こうとしたら絶対についてきてくれること。そういうの全部、全部好きだ。でも今までそれはずっと敬愛だった。こんなことは呪術高専で起きないと思っていたから。
「す、好きですね……その……かなり、七海さんが好きですね」
口に出した途端、目の下が熱くなってじんわりと涙が滲み出てくる。遅れて顔が熱くなる。私、七海さん大好きじゃん。

七海さんが私と目線を合わせるようにしゃがみこんだが、こんな滅茶苦茶な顔を見せられずさらに深く頭を下げた。
「時間や余裕ができたら、私を選んでください。それ以外の奴は選ばないで。それで今は充分です」
「時間がかかるかもしれません」
「構いません。約束してくれるなら」
床についている私の左手に七海さんは右手を重ねた。肉刺が何度も潰れて、厚く、でもしなやかな肌の感触がする。そしてその指先まで、熱くどくどくと脈がうっているのを感じた。
「私も絶対、みょうじさん以外を選びませんから。ずっと貴女を待っています」


▼ ▼


繁忙期の終わりかけは、休みの日でも平日と同じ時間に起きることが染み付いていた。ただ、起きても特にやることがなく読書をしていると、天井の方からやかましいノックの音がした。五条さんがみょうじさんの部屋に押しかけている。また彼女にちょっかいをかけに行ったのだろうか。様子を見に行くと、階段を上がった所でやはり五条さんが彼女をおちょくる声がした。

「あれ元々灰原さんの私物ですから、灰原さんに返しましたよ」
「マジか。で、マジで彼氏できたの?見せろよ、写メくらいあんだろ。俺の知ってる顔?まあ知ってる顔だろうな」
「五条さんに彼氏教えたら別れるってネットに書いてあったんで、教えられません」

気がつくと持っていたはずのボトルが落ちて、足元が濡れていた。五条さんが何か言って私の肩を叩いて去って行く。
みょうじさんが好きだ。
けれど告白は考えていなかった。彼女は高専に入って半年も経っていないから、急にこんな感情を向けられても負担になるだけだ。少しずつ距離を詰められればいい。そしてそもそも私は世の中の恋人同士が何をしているかよく知らなかった。会話も食事も出かけることも、同じ寮にいれば機会は多く、今はそれでよかった。だから付き合いたいという気持ちがまだ薄かった。
しかしこの時、初めて理解した。付き合うというのは彼女と恋人らしいことをするだけではなく、彼女が他の相手と恋人らしいことをさせないことができる。その方が、私にとっては重要だった。

「クソ……」
部屋に戻って読書を再開して、次の行を読もうとして読んだ行の頭に戻るのを8回繰り返して本を閉じた。寝直すために横になろうとしたタイミングで、狙ったようにノック音が響いた。開けると予想通り灰原と、そして家入さんがいた。
「七海おめでとう!!」
「おめでと」
「……なんで知ってるんですか」
「家入さんから聞いた」
「私の部屋の前でペットボトル落とすからだろ」
「七海、頬がまだ真っ赤だよ」
触ると確かに他の部分より熱い。もうあれから30分以上も経っているのに。
「おめでとう!!ホントよかった!!七海ずっとみょうじさん好きだったもんね!」
「七海おめでとう!!」
「うるさい。あっち行ってください。家入さんもわざとらしく声を張らなくていいです」
「突然直情的になる所あったけど、まさか恋愛面でもとは」
「僕はそこが七海のいい所だと思います。みょうじさんもカッコいいって前に言ってたし」
「うるさいです。本当に……」
言われると現実感が増してきて、口元がむず痒い。手の甲で隠しながら追い払おうとしたが、結局部屋の中まで入ってこられた。本当に、直情的な所を直さないと。せめて場所くらいはきちんと選べるように、みょうじさんのためにも自分を律したい。

2022-03-18
- ナノ -