磨き上げられた床に暖光の照明が反射する。人がいないフロアには光を吸収するものがなく、眩しいくらいだ。
床に映る私の影の先にいる呪霊は、2メートル近い体に無数の目を持ちながらも子供のように体操座りをしてフロアの角に縮こまる。東京屈指の百貨店の地下にいる呪霊にしては大人しい。その気になれば明日のトップニュースになるような事件を起こせるのに、怯えて座り込んでいるだけ。こういう呪霊が生まれるということは、長くこういう思いをした大人がいるのだろう。
鉈で両断すると反撃もなく煤になって祓われた。後ろにある食品売り場に散らなくてよかった。呪霊が触ったものや這ったものが平然と売られるのは仕方のないことだが、気分がいいものではない。出口に引き返そうとして靴底が床にあたり大きく響いた。夜の廃墟や学校より、煌々とした広い屋内に自分だけいる方が不気味だと気がついたのは、入学してわりと早い時期だった。

ポケットの携帯が震える。補助監督かパシリにしようとする五条さんかと思って開くと、予想していなかった家入さんだった。
『おつかれぇ。七海、今どこ?』
欠伸を噛み殺しながら彼女は言う。そうか、もう夜だ。夕方に現着して、スケジュールが変わり閉店時間まで待機させられていたので予定より随分遅くなっていた。
「大丸東京の地下です。どうかしましたか」
『デパ地下惣菜、まだ買える?』
「営業時間は終わったので買えませんよ」
『そっか。あのさあ、なまえも遅くなって夕飯食べてないんだよね。まだどっか店開いてる?』
「開いてますよ。私もまだなので何か買って帰ります」
『七海』
「はい」
『手料理はポイント高いよ。あと米くらいは炊いておくから』
「…………」
通話を終えてビルを出る。外で待機していた補助監督に高専近くのスーパーに寄ってもらうように依頼して車に乗り込んだ。

店先で厄介払いのように半額シールを2枚重ねに貼られた揚げ物は、重たく分厚い衣がついている。酸化して色も悪い。空腹だったのに見ただけで食欲を失った。
高専の近く、つまり辺鄙な場所にあるこのスーパーは0時までやっている。街灯がほとんどない通りにあり、軒先を雨から守るテントは所々千切れて茶色く変色しているが店の中の明かりを受けて内側から発光しているように見えた。周囲には商店街も大型スーパーもないのでスーツ姿の大人や近くの飲食店が買い出しなどで22時過ぎでもそこそこ賑わっているが、ほとんどの人間が項垂れていており、淀んだ空気のおかげで生鮮食品も濁って見える。
ひとりなら高く積まれているカップラーメンをカゴに放り込むだけでいいが、今日はそうはいかない。
店の中を見渡したが何を買えばいいか、何を作ればいいか、全く思い浮かばなかった。食事は任務帰りに買うか食べるか寮母に頼むのが日常茶飯事で、まともな料理をしたのは随分前だ。家事はひと通りできるが料理に関しては自分が納得できるものを作る程度で、他人の舌の評価を考えたことはない。大体のものを美味いという灰原に食べさせたことはあるが、やはり「美味しい」と言ったのであてにならない。

悩みながら歩いていると、生鮮食品コーナーの豚バラ薄切り肉に目が行く。これなら料理できるという発想ではなく、大体の棚は空きが目立つのにここだけ半額のシールが貼られた豚バラ薄切り肉のトレイで埋め尽くされていたからだ。
「美味いよそれ。山形の有名な豚肉で脂が甘くて最高」
肉を眺めていると、エプロンをした小柄な中年男が冷蔵庫の影から出てきて言った。
「2パックでさらに1割引くから買っていきなよ。学生さん?大きいねえ。お母さんも喜ぶよ。爆発的お買い得。お中元とかにもなるほんとにいい豚肉だから。冷凍しててもいいよ。あっちに小型冷蔵庫も売ってるよ」
「……そんなにいいものなら、なぜこんなに売れ残っているのですか」
「高い豚は時代がちょっと早かったのよ。豚は安くて当たり前、高い牛こそご馳走の時代は俺には変えられなかった。肉の革命を起こしたかったのにこのスーパーの客層に合わなくて……。せっかく仕入れたのに売れなさすぎて商品入れ替えるから……」
ぶつぶつと愚痴が続き、肉の冷蔵庫の影にあった淀みが濃くなる。蹴って祓って、2パックをカゴに入れた。店員の視線に耐えきれず、仕方なくもう1パック入れた。
「……野菜もみてきます」
「自炊?偉いねえ。最後の肉、半額シールもう1個はっとくよ」
最後の肉はもう外で売られていた揚げ物より安くなっていた。

▼ ▼

『夕飯ができたので食堂に来てください』
簡潔なメールに呼ばれて食堂に向かうと部屋の電気が端のテーブルひとつ分だけついていて、その下に七海さんは座っていた。椅子に深く腰をかけ、全体重を背にあずけて足を放り出し、舞台照明のように天井から降ってきた明かりを受けて上を向いている。普段から少し物憂げな表情がさらに際立っていた。不機嫌そうというか悩ましい顔つきは、もしかしたら怒ってるのかもしれない。夕食づくりは手伝うので帰ってきたらメールしてくださいと連絡をしてたのに作られてしまった。
「……こんばんは、お疲れ様です」
恐る恐る声をかけると、ぱっとその顔がこちらを向く。お疲れ様ですと彼も小さく呟き、向かいの席に私を誘導した。
「すみません、作ってもらって」
「いえ。私がやりたくてやったことですから」
「肉野菜炒めですか?」
「そうです」
淡々と返事をする七海さんは手を合わせて箸とお茶碗を持ったが、私が先に食べるのを待っているのか料理に手をつけなかった。
肉野菜炒め。このテーブル以外は真っ暗な部屋で皿からのぼる白い湯気、焦げたお醤油の香り、油で薄くコーティングされたつやつやのキャベツ、人参、ピーマン。その上にカリカリの豚肉が乗っていた。ただこの皿に強い違和感があったがそれが何かは分からなくて、自覚した空腹に急かされて私も手を合わせる。
野菜炒めなんて久しぶりだ。家にいた頃はよく食べたのに、ここに来てからは全然食べてない。そう思い箸を入れて野菜と肉を挟んで持ち上げたとき、違和感の正体に気がついた。ぼとぼとと安定を失った野菜がお皿に落ちていく。

「すみません。小さく切りすぎました……スプーンいりますか?」
「え、いや!箸でいけます!切り方とかそんな色々ありますし!」
野菜炒めにしては野菜がかなり小さく切りそろえられていて、箸でつかもうとしても油で滑って落ちていくのだ。しょうがないので箸ですくい取り、お茶碗の白米でワンバンさせてかっこむ。行儀は良くないが、怒っているのではなく眉間に皺を寄せてつらそうな顔をしていたのは落ち込んでいた表情だったという彼をフォローするにはこうするしかなかった。
「味は、」
「美味しいです!」
食い気味に大きな声を出してしまうと、七海さんは少し間を開けて小さく口元を抑えて笑った。ぱさぱさと長めの前髪が揺れて、とても楽しそうに目元と眉尻が下がった表情に見入ってしまいそうになるけど、また箸から落ちた野菜に意識を引き戻される。七海さんは私と同じように肉野菜炒めをかっこんで小さく頷いた。
「みょうじさんの口は小さいので、それを考えて切ったら……炒めて小さくなるのを忘れていて」
そう歯切れ悪く呟いた。そんなに口は小さくないが、手の大きささえ私と関節ひとつ分違うのだから、私の大きさなんて彼にわからないサイズの世界だろう。
「また作ってください。今度は手伝います」
「本当に美味しいと思っていますか?」
「美味しいです!野菜のシャキシャキが残ってて、油の量とか塩加減とか絶妙で。前にお好み焼き作ってくれたのも七海さんでしたし、家族以外に手料理食べさせてもらったの七海さんが初めてかもしれません」
「……こんなのでよければまた作りますよ」
七海さんは制服の上着を脱いでインナーの黒いTシャツだけになると、本腰を入れて肉野菜炒めとご飯を食べ始めた。

「今日は任務でこんな時間に?」
お皿の残りが半分ほどになった頃に飲み物がないことに気がついて、食堂の冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取りに行って戻ると七海さんに聞かれた。
「いえ、買い物してたら遅くなって。実は来月、準2級に昇級することになりました」
麦茶の入ったグラスを受け取ろうとした七海さんの手が一瞬止まる。グラスから垂れた水滴がぽたりと机上に落ちた。
「……おめでとうございます。未経験1年生でこの時期に準2級は早いですよ」
「術式の探索や索敵が便利だからもっと任務参加させるために上げられただけで、実力はまだ微妙って言われました。なんだか呪術師界ってベンチャー企業みたいですね。便利なら新人でも上にあげるって」
「私達は非術師家系ですから余計な柵がない分、使える人材と見なされると一定までは上げられます。逆に術師家系は実力があっても色々な理由で上がれない人もいるらしいです。確かにベンチャー企業みたいなところはありますね。1年に務まらない任務でも平気で投げられますから」
彼の表情は失敗した料理を出したときよりずっと険しい。
七海さんは前から階級ではなく年齢で人を見る所がある。後輩にさせるべきじゃないとか、先輩なんだからしっかりしてくださいとか。そこが私達を取り巻く呪術師達と少し違う。同じ学生でも大人でも、こういう見方をしてくれる人はとても少ない。彼と話すたびに私はこんな学校にいなければただの高校1年生だったんだなと思い出せて、それが少し嬉しくもあり、またなんとも言えない気持ちにもさせられた。

「もしここに来なかったら、普通の高校に行って、大学を出て、ベンチャー企業に入って意地でもがっと稼いで……そのお金であとは人も呪霊もいない所で、ぼーっとひとりで住もうと思ってました。七海さんは将来の夢ありましたか?」
「……特になかったですね。……なかったですが、強いて言うなら親が趣味で投資や株をしていて、その話を聞くのが結構好きだったのでそちらの方面に行っていたかもしれません」
「はぁー……投資……。確かに数字に強いですもんね」
「……前から聞きたかったのですが、みょうじさんはなぜここに来たのですか」
七海さんは麦茶を飲む。長い首から浮き出た喉仏が上下して一気にグラスは空になった。
「これからちゃんと生きていけるように……ですかね」
「それならやはり無理はしないでください。任務のレベルが上がれば間違って1級クラスの呪霊に当たる確率も上がります。私とみょうじさんが初めて会った日。あの日、私達が行く任務は軽い遠出任務として振られたのに実際は1級案件でした。貴女と運良く会えたから私も灰原も今生きている。教師や上級術師が言ったから正しいなんてことは無いです。自分の命と目的を常に優先してください」
そう考えると五条さんは任務においてかなり信用ができますが。と苦々しくつけ加えた。

私の返事を待って七海さんは立ち上がると、テーブルのそばの窓を開けた。少しぬるいが熱気を押しやる風が緩やかに部屋の中に入ってくる。七海さんは汗ではりついた前髪を振り払うと、2杯目の麦茶を注いだ。
「今日は任務帰りの買い物でこれを選んでました。七海さんがいる間の最後の昇級な気がして、お礼です。特に七海さんのおかげで昇級できたので」
ちゃんとお世話になった硝子さんや五条さん、灰原さんにもあげますからね、とつけ加えて買っておいた包みを差し出す。受け取ってもらえなかったら受け取るまで粘るつもりだったが、あっさりと彼は受け取った。
「開けても?」
「どうぞ」
贈ったのはハンカチ数枚。ほとんどが止血に使われて早いサイクルで無くなる必需品アイテム。重たくなくて残らない、自分では買うのはちょっと気が引けるいいお値段のやつ。
七海さんは包装の黒いリボンをほどくと、包み紙のどこも破くこと無くハンカチを取り出して、じっと眺めた。
「……大切にします」
「好みに合いますか?」
「とても。ありがとうございます」
思いの外気に入ってもらえたようで、少しほころんだ目元で1枚ずつ眺めてくれた。こうやって見ると結構表情に出るんだな……ネットショップで数日迷い、やっぱり実物を確認しようとお店で3時間も悩んでよかった。

表情を盗み見ながら残りの肉野菜炒めを食べていると携帯が鳴った。こんな夜中に誰だろうか。画面を見ると、夜に電話すると言われていたのをすっかり忘れていた相手からだった。
「出ていいですよ」
「いえ、掛け直します。食事中ですし」
表示された「夏油先輩」の名前が見えないように携帯をしまった。

2022-02-25
- ナノ -