※0.5巻の五条さんが借りていた家の捏造があります





五条の部屋のドアを開けると、玄関からまっすぐ伸びる短い廊下の先のリビングで、彼は毛布をかぶって胎児のように丸まっていた。
部屋の空気は外よりは暖かいが、妙に澄んでいてひやりとする。部屋に上がってエアコンの温度を確かめると23度のドライ設定になっていた。きっと手探りでスイッチを押したんだろう。ワックスが塗られていないカサカサのフローリングは隙間風で冷え切っていて、仮にも人が住んでいる部屋なのに小物から空気まで、薄いベールが1枚かかっているようなよそよそしさがあった。物が放り出されているのに汚れた印象を与えないのは、カビや臭いを発生させる食器の放置や水気のあるものがないからだろう。

五条が横になっているラグの上は、全く冷たくなかった。毛布から締め出されたように携帯が落ちている。
「毛布アンモナイト」
「……もっと可愛く言って」
「毛布アンモナイトちゃん」
「例えを可愛く」
「布製オムスター」
「せめてオムナイトでしょ」
毛布からはみ出た白い髪を指先で巻き取ると、毛布の隙間からすごい速さで出てきた手が私の手首を掴む。猫じゃん。猫みたいな目をしてるのはオムスターの方だし。
彼が寝転がるラグも、かぶっている毛布も、ベッドも、人間の代わりにコートが座っているソファも無彩色で統一されていた。どこの家具かは分からないが、デザイン性が高いシンプルさに加えて質もいい。つまりかなり高い。長く付き合って分かったのは、五条は高いものが好きなんじゃなくて、五条の好みに合うものが大体高いだけだ。
いいものがあるのに雑然としている、そんなインテリア雑誌に載っている部屋を2発くらい殴ったような景色の中に既視感があった。
テレビの高さを調整するのに読まなくなった雑誌を挟む。ボトムスは黒いハンガー、トップスは白いハンガーにかける。携帯充電器のコードを服のシワ伸ばしスプレーのハンドルに引っかけて固定する。残った詰替え用の洗剤の口をヘアピンで止める。そんな硝子ちゃんや傑、私の部屋のセンスがぽつぽつとあった。

「なまえ先輩……外の雪、溶けてない?」
「まだね。でも明日には溶けるかな」
「屋上に行こう」
「入れるの?」
「開放されてる。全室禁煙だから、上で吸えってことらしいよ」
「その前に部屋の片付けをしようね。ほら着替えて」
五条はのっそりと起き上がった。欠伸をしながら真っ黒いスウェットを脱ぐのかと思いきや、お腹からめくったスウェットの中に私を頭から抱き込もうとしてくる。随分丸まっていたらしく、肌触りがいいメリヤス地に体温がしっかり移っていた。彼が面白がってかけてくるプロレス地味たじゃれつきとしばらく遊んで、最後はパロスペシャルで終わった。腹筋の硬さはもう負けてしまったかもしれない。

私はソファに座ってテーブルの上を片付けることにした。散らばっている様々な銘菓の箱を整理する。残っているものはまとめて、いらなくなった箱は破ってゴミ箱に入れた。ゴミ箱の中はレシートや光熱費の通知書、私の家のポストにもよく入っているピザのチラシばかりだ。
ため息が出たが呆れたわけじゃない。安心に近い。久しぶりにこんなテキトウで、気が抜けた会話ができた。全国を回って淡々と任務をしていると、疲れやストレスとは違う、頬や喉がはりついて戻らなくなるような形容しがたい何かが体にこびりつく。それに気づいたら最後で、ホテルの部屋や移動中のひとりになった時に常にそれが気になって仕方なくなる。
それが剥がれて落ちていく感覚がした。

「着替えた。何か飲む?」
「お茶……ある?」
「あるよ」
五条がベッドの向こうにあるクローゼットを開けると、風呂敷、飾り箱、よく聞く高級ブランドのロゴ入りの箱……何個も高そうな箱が積まれていた。五条はしゃがみ込むとしばらくして、これ紅茶、これ緑茶、と高そうなリボンがかかった箱と、桐の箱をその中からひっぱり出した。
高専時代もこういう五条宛のプレゼントは多かったが、ほとんどが実家に送られたり、高専の共用コーナーに寄付されたりしていた。枕詞のように全部「高級」がつく、お菓子、飲み物、着物に果物、お酒。日本酒を学生に送ってどうするんだよと思ったが、それは当然のように共用コーナーに寄付され、硝子ちゃんが部屋に嬉しそうに持ち帰っていた。
「この見た目だとティーバッグじゃなくて茶器がいるんじゃ……?」
「割れ物シールが貼られたこの中のどれかが茶器だったはずだけど。あ、しまった、これパウンドケーキって書いてある。腐ってる系」
可哀想系。五条が箱をテトリスみたいに移動させると、明らかに割れた細かいものが擦れ合う音がした。

使える茶器がなくてお茶はお預けになった。外に出ると、雪が遠くの景色を微かに白くぼかす程度にまた降りはじめている。
「乾燥してるなぁ」
五条は呟くと、色が逃げたような唇をちょっとだけ舐めた。
「舐めると荒れるぞ。リップ使う?」
「……使う」
屋上に続く階段は上から下から冷気が来て、独特の寒さがある。屋上は5階で、五条の部屋は2階にある。エレベーターはついているが大人ふたりが乗ったらもう子供ひとり入れない、手すりも車椅子向けのボタンも無く、動くたびに不安なほどギシギシ音がするものだ。五条は最初の1回しか乗ったことがないらしい。だけど季節柄、今はエレベーターの方が人気なのか、前に書類を入れに来た時も階段に落ちていた銀杏の葉っぱが色を失って同じ場所にあった。

屋上からは周囲の一戸建て住宅の屋根が見える。すべて同じように雪をかぶって暗雲と同化しそうだが、ビルでできた地平線の先は不気味なくらい明るい。屋上床には3センチほど雪が積もっていて、踏み込むと雪の柔らかさの下に砂を踏むような違和感がある。雪を蹴散らすと、建物と同じ色の灰色の塗膜が剥げてぼろぼろと雪に混ざっていた。
高専を卒業して部屋を借りた、と話す五条の家賃を聞いた時は桁数を1つ間違えてるんじゃないかと思ったが、間取りを見せられて納得した。高専の寮とそっくりのレイアウトと狭さの部屋だったのだ。
そしてその後、偶然出会った時に「キーケース出して」と言われて出したら勝手に入れられた彼の部屋の合鍵は簡単に複製ができる安いものだった。いくら最強とはいえど心配になった。
高専時代に五条と硝子ちゃん、傑の4人で海外セレブに別荘を売るアメリカの番組を見た。
「買える」「買おうと思えば買える」「いらん」と五条と傑は言い合いながらも、結局「こんな広い所にひとりで住んでもなぁ。マンションだってエレベーターを待つのは面倒だしね」という傑の言葉に五条は「わかる。家に帰るにも外に出るにも、あの長いエレベーターを待つんだろ?疲れるわ」と同意していた、が。

「うわ」
後頭部が冷たい。振り返るときれいな投球フォームの五条がいた。
私も手すりに手のひらを滑らせて、積もっていた雪を回収して丸めた雪玉を投げつける。肩に当たった五条は楽しそうに笑って鼻をすする。
こんな風に、みんなが寒い寒いと言ってるときに無限で冷気を遮断できるのにしない。理由は知っている。ひとりだけ仲間はずれの気分になるからだ。硝子ちゃんにも傑にも散々それをからかわれたけど、結局五条は無限をほとんど張らなかった。鼻を真っ赤にして、傑や私を風よけにして肩をすぼめていた。五条はあの狭い寮室で、4人で身を寄せ合って遊ぶことを誰より楽しそうにしていた。だから直通エレベーターがついたタワマンを買えても、その家賃に比例した広い部屋はいらないのだ。

「お」
「あ!ゴメン。大丈夫?」
「全然平気」
コントロールをミスってサングラスに雪玉を当ててしまった。五条はサングラスを外すと、水気を飛ばすように振る。ちょっと休憩、と彼は喫煙用のベンチに座るので私も向かうと、弱い太陽光の下で見る彼の顔は動いたというのに血色が悪い。
「仕事、かなり詰まってるけど休めてる?」
「報告書通り順調。常時脳ごと反転術式で治してるから、休息も特に必要ないし」
最強になった五条には休息も睡眠も娯楽になってしまった。でも本当に必要ないなら、なんでそんな顔色が悪いんだろうな。
傑がいなくなり、さらに私が高専を卒業してから、五条はちょっと元気がないと硝子ちゃんから聞いていた。
彼は時々「会いたい」と連絡をくれたが、私の忙しさを知っていたのでその連絡のほとんどは「暇ができたらでいいから休んで」で締めくくられた。
五条が高専を出て、私と五条は同じフィールドで働くようになったが実際は全然違う。仕切らなければいけなくなった実家や他御三家とのやり取り、学生の頃は耳に入らないように守られていた話、上層部の呼び出しなどが入ってくる。さらに国内外出張が多くて、お互い何度も会うためにスケジュールをすり合わせたが何度も失敗してきた。だから今日、突然五条から「そろそろ本気で会いたい」と連絡が来て「今から行く」と返せる場所に私がいたのは、運のいい偶然だった。

五条の横に腰かけると、彼はいつだって曇りひとつない青い目を私に向けた。
「そうだ、あのさ。合鍵返して」
「お、彼女できた?」
「…………ハァ?」
顔色以上にマジで疲れてるじゃん。
キーケースから合鍵を外して渡すと、五条はひったくるように奪って「離さねぇからな」と小さくなった瞳孔で睨まれた。顔が整っている人に凄まれるとマジで怖い。
「出張ばっかで家に全然帰れないから、来年からは高専に部屋借りようかなって」
「なるほどね。ここ引き払うんだ」
「そ。あと、来年から教師になるし都合がいい」
「え、マジ?」
「マジのマジ」
「……そっか、ほんと……」
ほんとに、なるんだ。という言葉は飲み込んだ。
長いこと時間をかけて五条が新しい世代になる仲間を作って、上にのさばる層を押し流して行く。その夢は聞いていた。その手段として教育を選び、教師になるかもと彼は言っていたが、本当になると聞かされると驚く。そして同時に、変わる前の傑を思い出してしまう。彼がもし変わらなければ教師になっていたと私は思うから。彼ほど教師という職が似合う人はいないだろう。
「それでさ、サングラスのままだと夜蛾先生とかぶるから、コレを巻こうと思う」
彼のコートのポケットから出てきたのは白く細長い、包帯のような布だった。微かに呪力を帯びている。見えすぎる目を保護するためだから、普通の呪具ではないだろう。
「……これ、目に?い、印象変わるな〜……職質されるぞ……」
「いーから、イケるイケる。絶対カッコいい」

軽く渡してくれるが、10グラムにも満たないそれはあまりに重い。
今ここで止めなくていいのか。
高専に戻ること。傑と同じ思いをする呪術師をつくらないようにすること。人を救うこと。新しい波を作り、古いものを押し流すこと。
彼が叶えたい夢は、きっと正しい。けどその夢の過程は、五条が傷つくことがたくさん待っているんじゃないか。いや私は、五条の夢を手伝う。そう約束した。
多くのことが頭をよぎったが、それはまだ全く整理できていなかった。今はただ敏い彼の視線から逃れるために、布を持って彼の後ろに回り込むという選択しかできない。手伝うなんて言っておきながら彼の夢に不安を抱える私は、もう止まらない彼の決断の流れに飲まれている気がする。
「……前髪はどうする?」
「オンオフ分けたいから、高専では上げようかな。押さえておくからいい感じに巻いて」
雪あかりを反射した五条の顔は真っ白だった。言われるまま巻いていくと、唯一の色の青さえ白い布で隠してしまう。そのために巻く布だが、ひどく嫌な気分がした。
「包帯を巻くの上手いよね」
「山ほど自分に巻いたからね。出かける時はサングラスかけてね。怖いから」

あの日、海外から帰ってきたとき、そんな夢は諦めろってふたりでどこか暖かい国に逃げておけばよかった。
寂しがり屋なのにどうするんだよ。知ってるだろ。いままで何人仲間が死んだか。育てても育てても、きっと五条だけが残されていくんだよ。高専を出て、学生の頃なんて比べ物にならないほど任務をして私も知ったのだ。高専から見ていた景色はたったの一部で、全国各地で私達の仲間は人々のために心血を注いで任務にあたって死んでいる。

「なまえ先輩、寒い?」
「なんで?」
「手が震えてる」

言われて気がついた。強く手を握り込んで震えを止める。ふと視線を上げると、遠くのビルの水平線にある光が夕日と混ざって一層強く輝いていた。眩しくてまた逃げた視線の先で、さっきまでとは違うオールバックになった彼の顔をまじまじと見つめることになる。そこにはもう学生時代の幼さは無い、整った鼻筋とシャープな輪郭が目立つ、まるで他人のひとりの青年がいた。感覚ではなく確信する。もう止まらない流れに私は乗っている。
「寒いのかも」
巻き上げた包帯をとめて五条の頬に手を添えると、五条は私の手の上に彼の手を重ねてくれた。そして「部屋に戻ろうか」と口元だけ笑う。
「ありがと」
せめて五条だけは、その心を砕くことに遭わないでくれ。

2022-01-30
- ナノ -