※コミックス未掲載キャラです(2021年12月5日現在)
※名前つきのモブがいます




頭が破裂しそうに痛い。自分が住んでいるマンションなのに見慣れない視界。目の前にある革靴に意識が吸い込まれていく。つま先は傷だらけで靴底はすり減っていたけどきれいに磨かれて、でも艶のない箇所がいくつかある。自分でキズ消しをしたのだろうか。とにかくそれが、あの赤いスニーカーじゃないことに心底ほっとしている。
そんなことを考えていないと左目の端にうつる血が怖くてたまらなかった。鼻先がずきずきと痛み、熱く、それが頭を揺らす。喉の奥に鉄臭く生あたたかいものが流れていく。左頬にはコンクリートの地面がしみた。
「大丈夫か!? 清水、救急車!」
革靴の男性が呼びかけてくる。肩を掴まれると自分の意思と関係なく体が海老のように丸まった。すぐにその手が引っ込む。彼の後ろに、さっきまで履いていたローファーが転がっていた。予算オーバーなのに諦められなくて2ヶ月悩んで買ったパンプスは、もしもの時に逃げるのに向いてないからと買い足した、安いローファー。パンプスは値札がついたままクローゼットの中。

誰かが走り去る軽い足音がして、男性が立ち上がろうとしたので彼の手をつかむ。
「おわないで。あぶない、ひとだから」
話すために動いた頬がコンクリートと擦れて痛い。鼻声できちんと伝わったかわからないが、彼は浮かせた腰をおろしてゆっくりと私の肩を押さえた。
「わかった。君は階段から落ちたんだ。頭を動かさない方がいい」
警察を呼ぶ、と彼は電話をかけ始め、救急車を呼んでくれた女性が私にコートをかける。そして彼も彼女にコートを渡してふたり分のコートがかけられた。マンションの階段の踊り場で布団を被って寝ているみたいで、鼻は痛いけど、ここ1年半で1番安心して瞼を閉じた。


▼ ▼


「あ」
「君は、」
「あなたは。あのときの、階段の」
1週間経って、私は彼に自宅前で再会した。助けてくれたあのふたりにお礼を言いたくて、運ばれた病院に尋ねたが誰もふたりを知らなかった。住人かその知り合いとは思っていたが、こんなに近くに住んでいたなんて。彼の部屋は、私の隣の隣だったのだ。
あの日と同じで後ろにかきあげた前髪はいくらか落ちていたが、髪と同じ黒い上下のスーツ。ネクタイも黒。すこしも遊びも崩しもない着こなしに笑顔のない顔つき。どう見てもとっつきやすい仕事の方ではない出で立ちに、仕事帰りで疲れて丸まっていた私の背筋が伸びた。
「……怪我の具合は?」
「打撲です。2週間もすれば治りそうで……本当にありがとうございます。あなたがいなかったら死んでいたかもしれません」
彼はその黒い目をすこし私に向けたあと、ドアに差し込んでいた鍵に視線を戻して回した。
「お礼をさせてください」
「大したことじゃない。普通、階段から人が落ちてきたら誰だって救助をするだろう」
「いえ、でも。……あ、夕飯はまだですか」
「仕事が立て込んでいて、これからもここでやる」
部屋に入ろうとする彼に、私は急いでバッグに入れていたオムライスのタッパーを差し出した。
「私、駅の近くの料理教室に勤めていて、これは今度生徒さんに教えるための試作です。よかったら、どうぞ」
「……君の夕食はどうなるんだ」
「他にも作って冷凍してるものがあるので。だから大丈夫です」
そうつけ足せば彼は受け取り、部屋に入っていった。夕食として受け取る判断をしたというより、断って長引くのが面倒なのでさっさと切り上げたかった雰囲気がした。
私も部屋に入り鍵をかけると、あの人の好み、私への不信感、個人の衛生面への温度感、それを無視して料理を渡してしまったことに気がつき胃がずっしり重くなった。駄目だ。久しぶりに知らない人と話したから距離感がわからない。

翌朝、出勤のために部屋を出るとちょうど彼も部屋から出て来た。
「あ」と私が漏らした声に彼はゆっくりと反応する。鷲鼻気味の鼻筋と何かを見透かすような独特の目つき。今朝ニュースで見たカピバラを思い出すが顔立ちは全然似ていない。昨日はギラギラとしてひどく急いでいたが、今日は穏やかそうだった。そうか顔色がいいんだ。
「おはようございます」
「おはよう……オムライス、ありがとう。美味かった」
「よかったです。出勤ですか?」
「あぁ、俺も駅の方に行く」
返事を待つように彼の足は動かない。……一緒に行こうとしてくれているのだろうか。私はエレベーターを使えないから、一緒に行くなら彼に下で待っててくれと言わなくてはいけない。でも、もし同じ方向に行くだけだという意思表示なら?どちらか確認をしたいが職場の男性以外には重くなってしまった口がうまく開かない。
「……君のことは、階段から落ちた日に現場に来た警察から少し聞いた」
何も返事ができず佇んでいた私は不気味だったろう。彼は私の側までくると、デパートの紙袋を突き出してきた。受け取ると中には洗われたタッパーが入っている。
「よく考えたら、当たり前のことをしたのに君から夕食をもらってしまった。だからこれを相談料の代わりにするので、困ったら相談して欲しい。君にコートを貸した彼女も弁護士だ。男に話すには気が引けるなら彼女に聞いてもらっていい。いつでも連絡してくれ」
差し出された名刺を受け取ると「そこの交番の警察は知り合いだから、あまり俺について悩まなくていい」と、彼はエレベーターに乗って行ってしまった。私がマンションのエントランスに降りても彼はいなかった。
駅まで歩く途中に名刺に書かれた彼の事務所を見つけた。朝早いのにもう明かりがついている。つけたのは彼なのだろう。
名刺に書かれた彼の名前は日車さん。職業は弁護士。
弁護士というのは、てっきり加害者が頼る存在と思っていた。今までそういう存在と思って生きてこれたことは幸運だったのだろう。


▼ ▼


日車さんと再会した4日後の金曜に、相談の予約を入れた。
訪れた事務所は彼の話し方や雰囲気と似て、10人がみたら全員が法律か税関係の事務所と答えそうな灰色のオフィス家具が並ぶ。リノリウムの床、白い壁にこげ茶の柱はけして最近のリフォームではなく年季の入った建物のもの。案内されたパーテーションの向こうでローテーブルをはさみ、私を助けてくれた女性の清水さんと日車さんが並んで座っていた。
「ストーカーのきっかけと経緯をまとめてきました」
「うわ……よくまとまってて助かります!話すの……あまりいい気分じゃないですもんね」
「それもちょっとはありますが、1番は今まで誰にも全部は話したことがないので今日話せるか不安で……」
清水さんは眉毛をハの字に落とし、日車さんの表情は変わらなかった。全部読ませていただきます。とふたりは私の1年半の記録を読んでくれた。


1年半前、私につきまとっている綿渡さんは私の職場である料理教室に入会した。
店の壁は全面ガラスでできていて、実際に生徒さんが料理を学んでいる姿を外に見せることで入会を促しており、綿渡さんもその流れで申し込んできた。
彼は真面目な生徒だったし他にも男性生徒さんも多かったから特別気にもしなかった。だから3ヶ月の基礎コースが終わる最後の日に告白をされた時は、驚きすぎて上手く返事ができなかった。
「エプロンして料理する姿を外から見てて、一目惚れしました」という言葉にできるかぎり波風をたてないように断った。申し訳ない気持ちから顔を見られず足元に何度も視線を落としたせいで、彼が履いていた限定品だという真っ赤な珍しいスニーカーが目に焼きついた。

彼は落ち着いて、私の言葉を受け入れてくれたように感じた。
しかし週末になると、彼は教室の向かいのカフェから私が指導する姿を観察するようになったのだ。最初は無視するのも気まずくて会釈をしていたが、2ヶ月も続くと気まずさは恐怖になった。警察にも相談したがカフェからこちらを見るだけの彼に注意はできないらしい。自分で伝えることも考えたが、生徒さんに何かあったらと思うと言えなかった。
私は店長に相談してレッスン担当日を平日に変更してもらった。しばらくすると彼の姿はなくなり、彼が諦めて普通の生活が戻って来たと安堵した。

彼を忘れた頃、家から職場への通勤電車で少しだけ居眠りをしてしまった。目をさますと、俯いた目線の先にあったのはあの赤いスニーカーだった。あの彼が自慢していた真っ赤な限定スニーカー。彼が私の前に立っている。そう思うと顔があげられなかった。そしてその靴底は、記憶より随分すり減っていた。
その日を境に彼は私と同じ通勤電車に乗るようになった。いや、もしかしたら、もっと前から乗っていたのかもしれない。話しかけてこない。寄ってもこない。けど必ず私の視界に入るように動くし、その時必ずこちらを見ている。そのうち家の近くでも彼を見るようになった。街灯の影、すれ違う人混み、立ち寄ったコンビニの棚の向こう側。いないと思った所にいる、いると思ったらいない。何もしてこないのは相手のさじ加減で、明日は何か起こるかもしれない。しかし警察は動けない。
そのうちただの人影にも怯え、赤いものが足元にあるだけでも体が強ばるようになった。精神も肉体もじわじわと削られて行く。だから今からちょうど1年前に、徒歩で職場に行けて交番の近くにある今のマンションに引っ越した。


2人は読み終えたのか、私が用意した書類をテーブルに置いた。
「警察からは思い込みだとか、狭い地域だからそのくらいよくあると言われて。……最近は出くわす機会も減っていたので安心していたんですが」
「……確かに、どれもこれも積極的ではない警官だと動かないだろう。ストーカー規制法で規定されている “つきまとい”としても弱い」
「みょうじさん、最近もつきまといはありましたか?」
「たまに料理教室の前のカフェからこちらを見ていることはありました。けど今回みたいなマンションに入ってこられたのは初めてです。でもこの前のは後ろにいたのに驚いて、私が勝手に足を滑らせて階段から落ちたので加害とはいえません……」
もし彼が来た時のためにエレベーターを避けたのが裏目に出た。いや、エレベーターにいたらもっと危なかっただろうか。
「マンションに入ってきたのはつきまといの規定に該当する上に、建造物侵入罪になるが……」
「警察沙汰にはあまりしたくないです。職場がバレているので……」
逆恨みが怖くて、まで言いそうになってやめた。じゃあどうしたいんだと言われそうで怖くなったのだ。店長にも相談したが、いつか彼は飽きていなくなるから辞めずにいてほしいと頼まれた。確かに私だけ我慢していればなんとかなるのではと考えてしまう一方で、店長も警察と近い考えなのかと、何かが失われた気持ちがした。けど、好きな仕事を失いたくはない。
明日になったら彼はいなくなってるに違いないと考えて眠る。でもそんなことはなくて、何をすべきか、何をしてはいけないか、誰に何を言っていいか、誰が信じられるか。動けずにずっとしゃがみこんでいるような1年半だった。

日車さんは考え込むように口元を押さえると「わかりました」と頷いた。
「相手の連絡先はわかりますか」
「はい、生徒さんだったので。住所も連絡先も変わってなければ」
「その住所宛にストーカー行為を止めるように手紙を私の名義で出します。その後、綿渡から連絡が来れば引き続きこちらで対応します。こういうタイプは行為が犯罪であると弁護士から話せば、ストーカーをやめる場合も多い。それでも駄目なら訴訟なども視野に入れる可能性も出てくるが。一旦これで様子を見よう。書類の準備をしますから、判子を持ってきてください」
「い、今からですか?」
「早いほうがいい」
「わかりました、すぐ戻ります」
外に出ると深く息ができた。警察は相手にしてくれなくて、あまつさえ勘違いだと言われ、誰に話していいかもわからなくて。でもここに来て30分で嘘みたいにポンポンと話が進んでいく。あまりに早すぎて逆に現実感がない。一歩踏み出した途端、久しぶりに歩いたみたいに足がふらつく。ローファーを履いててよかった。
「みょうじさん!」
振り返ると清水さんが追いかけて来てくれていた。私に追いつくと「なんか顔色悪そうなんでついていこうかなって」と彼女は笑ってくれた。
「マ、ジ、で……1年間半大変でしたね」
「はい……おふたりとも信じて話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「信じますよ!私も日車も、みょうじさんの味方ですから。あ、費用の話とかせずに書類つくりはじめちゃいましたけど、日車から何か聞いてます?」
「あー……それは、夕食と交換で」
「夕食と交換?」
経緯を話すと彼女は声をあげて笑った。
「日車はあんまり栄養とか気にせずに食事してそうなんで、これからもよかったらなんか食べさせてやってくださいよ。栄養足りたら、無茶な案件も減りそう」


次に彼から連絡があったのは3週間後だった。清水さんが安否確認の電話を毎日かけてくれたのであまり時間を感じなかったし、進展はもっと遅いと考えていたので驚いた。呼び出されて事務所に向かうと、今度は日車さんが私の前に書類を出した。
「綿渡と話し合って、今後みょうじさんへのストーカー行為を止めることを約束させ、同意書に署名させた」
突然の言葉が理解できなくて頭の中で5回反芻してやっと言葉が出た。
「え、ほ、ほんとに?」
「あぁ。まず、彼は自分がストーカーだと認識していなかったことが発覚した」
日車さんが色々と話してくれたが、全部は頭に入ってこなかった。
理解できたのは、綿渡さんが今週、日車さんが出してくれた手紙を持ってここを訪れたこと。
最低300時間私のストーカーをしていたこと。
彼にはストーカーと自覚がなくて、日車さんの手紙を読んで自覚したこと。
私に好意を寄せたのは、振られた元カノに似てたからということ。
綿渡さんは地元に帰るらしく、もう私の前に姿は現さないとのこと。

「……聞いてるか?」
「あ!?は、はい聞いてます!」
「……経緯をまとめた書類を準備しておいた。……デカい封筒がいるな」
彼は立ち上がって部屋の奥に行ってしまう。清水さんは「これで安心できますね」と微笑みかけてくれた。
「ストーカー……300時間ってどこから?」
「この前のみょうじさんの話を元に、話に出てきた職場向かいのカフェ、コンビニ、前のご自宅のマンション付近を聞き込みして割り出しました。ざっとですけど、具体的な数字を出すことは相手にプレッシャーをかけられるので、日車がやろうって」
「わざわざありがとうございます……」
「うちは刑事事件担当が多いので日車も色々気にしていたみたいです。ホント早期解決してよかったー……あ、そうだ。安否確認で電話してたじゃないですか。あれ、心配した日車に指示されてしてたんですけど……これからも電話していいですか?」
みょうじさんと話すの楽しくて、照れくさそうに清水さんは笑う。
彼女とは対照的に相談を聞いてくれたときと全く同じ表情の日車さんが戻ってきて、しっかりとした紙質の茶封筒をくれた。
「あの、費用は?」
「だから夕飯を君からもらった」
「い、いえ、あれって相談だけですよね。ここって相談料1時間5,000円で、内容証明を送るのに5万円で、多分今回の代理交渉?で20万くらいかかりますし、色々調べていただいたみたいで」
「よく調べたな」
「お金用意をしたかったので……」
バッグには銀行から引き出してきた月の手取りより多い額の現金が入っている。大金を持ち歩くことに慣れてなくて、ずっと隙間風に当たっているような気分だ。早く渡したい。
しばらく日車さんは私の顔を見た。見たというか、眺めた。いやむしろ、私の向こうにある壁を見ていたのかもしれない。
「……私は事前に今回の件について費用提示をしていない。代理交渉も、聞き込みも、私が勝手にやったことでみょうじさんから依頼料はとれない。それこそ問題になる」
そう言われてもだ。300時間を算出するために日車さんはかなり時間を割いてくれたと思う。前の家はここからまあまあ遠いし、付きまとわれた場所として伝えたのはコンビニ、カフェ、商店街など様々だ。だからそれ全部に行ってもらったとなると、もし1時間5,000円で動いてもらったとしても相当な額になる。
……でも確かに、法の素人の私でも説明なしにやったことにお金を払わせるのはまずいと分かる。聞いてたことにして払わせてくれないだろうか。私はお金でしかお礼ができないから。お金を払いたい……。1時間、5,000円……。1時間、5,000円。

「1回で、5,000円」
「だから受け取れな……」
「私、副業で1回5,000円もらって、大体大人ふたりの1週間分の夕食を作り置きする仕事をしています。材料費は別途もらってますが、私と日車さんの分でつくれば材料費が浮きますから、日車さんへの依頼料ですと材料費込で約40〜50週の費用になります。その回数分、日車さんの夕飯を作らせてもらえませんか」
早口でまくしたてるように喋ってしまった。日車さんのあまり動かなかった眉が、初めて大きく動いた。
「作るのは私の家でやって持っていきますから。私も、日車さんと同じで当たり前以上のことをしてもらったので。……あ……いえ、そもそも料理が口にあわないとか、ご迷惑であれば……できませんが」
「日車さん、賞味期限3日すぎたお弁当とか普通にたべますよ」
「清水」
「いやでも1週間分の量を日車さんの部屋まで持っていくの大変じゃないですか?部屋で作ってもらったらどうですか」
「……みょうじさんの家は俺の部屋の隣の隣だ」
「じゃあ考える余地無しじゃないですか。頼んだ方がいいですよ。日車さんいつもコンビニとかで同じものばっかり食べてますから、そのうち体を壊しますって」
「いや、しかし……」
清水さんが日車さんへ耳打ちをする。日車さんの目がきゅっと大きくなって、ふたりは連れ立って奥に行くとしばらくして日車さんだけ戻ってきた。

「……わかった」
いつでも夕飯を家で取るわけではないから、欲しい時は連絡する。と言って、彼は私が1度置いた茶封筒をまた差し出してきた。


▼ ▼


この部屋で最も変化があるカレンダーを眺める。機械メーカーのロゴが堂々と入って、写真もイラストもない予定を書くだけのカレンダーは、年末は裁判官が休暇を取るために11月に比べてさっぱりするらしい。
日車さんと出会ってから1年が経った。忘年会を日車さんの部屋でしようという清水さんのアイディアで鍋を作った。2時間ほど楽しんで清水さんが帰った途端、日車さんはお酒がまわったのかテーブルでウトウトしはじめ、肘をつき、こめかみを押え、考え事をする姿勢で眠り込んでいた。

「料理おいしいって言ってたし。そもそも印象わるかったら、あの人多分最初からオムライスもらわなさそう」
清水さんと隔週で仕事帰りにするカフェおしゃべりで、日車さんが私のこと迷惑に思ってないかと相談したときに彼女が教えてくれた話だ。
夕飯を作るという恩返しを初めて2ヶ月くらいは、週末に自宅で自分と日車さんの分の夕食を作り、月曜の朝にまとめて渡して先週分のタッパーを引き取っていた。洗わなくていいといったけど日車さんは洗って返してくれた。
最初は本当に会話が少なくて「どうぞ」「ありがとう」しかお互い言わなかったけど、回数が増えるにつれて、「鯖の煮付けが美味しかった」「いや、全部美味いが」とぽつぽつと感想をくれるようになった。
なんとなく彼の好みの傾向がわかって来た頃「この前、天ぷら屋の前でメニュー表をガン見してた」という情報を清水さんからもらって、このまま行くと計算上50週でも費用が使い切れないので、ちょっと高い食材を天ぷらにするのは費用調整の意味でもよかった。ただ天ぷらはできたてが美味しいからダメ元で「日車さんの部屋で天ぷら揚げたいですがどうですか」と提案のショートメッセージを送ると既読後1時間して「可能です」と返事がきた。
事務所から帰ってきてジャケットを脱いだだけの彼の前で、持ち込んだフライヤーで天ぷらをあげた。美味い、と言ってくれたが、表情はあまり変わらないし、仕事のことを聞けば順序立ててわかりやすく教えてくれるが、基本は無口な人だ。でも今ならわかる。

彼は弁護士として表情を切り捨てても、作っているのでもない。私の料理が口に合わなかったわけでもなく、この少ない表情と口数が普通なのだ。
彼や清水さんに出会ってから、ニュースやドラマで見かける弁護士に目がいくようになった。ひどくにこやかだっだり、ムスッとしてたりクセが強い。テレビに次も呼ばれるためのキャラ作りかもしれないけど、取材された弁護士さえそうだ。
日車さんはやはり少し違うらしい。いつも何かをずっと真剣に考えていて、それ以外には無頓着なのだ。真逆のことが絶妙なバランスで存在している。きっと私が料理ロボでも同じように私の後ろの壁を見ているような目つきで、ありがとうと言うだろう。その温度が、ストーカーで疲れ果てていた私にはとても心地よかった。

ストーカーが解決してからしばらくして、元気になったなと彼に言われた。清水さんにも「すごく話しやすい人でびっくりした」と。
最初に事務所を訪れた私はガチガチに固まって、緊張して、押したら折れそうな雰囲気だったらしい。ストーカーに怯え暮らしていたせいだが、あんな案件、いや、更にひどい刑事事件を聞いて、犯人と会って、調べて、向き合っているのに、ふたりともとても自然体だ。
天ぷらを部屋で揚げたその後から、できたてのものをタッパーに入れずにそのまま持ち込むことが増えた。部屋に向かうとちゃんとドアを開けて出迎えてくれることもあったが、ほとんどは鍵がすでに開いていて、職場からそのままもってきたような机に向かっていた。でも彼はいつも同じ表情で、同じトーンで話してくれた。いろんな事件と向き合っているのに。


がこん、と机上の湯呑が倒れる。中身は空だったが、日車さんは弾かれたように起きると落ちる前にそれを捕まえて静かに机上に立て直した。
「悪い。寝ていた」
「わかってますって。そのままどうぞ」
日車さんはネクタイを緩めると、まだお酒から冷めないのかぼんやりとした視線で湯呑を眺めていた。
私はバッグに持参した鍋や皿をしまいながら忘れ物がないか、日車さんの事務所の延長のような部屋を見回す。片付いてはいるが資料や本が積み上げられた机、そして簡素なソファとテーブルしかない部屋だ。部屋を飾る装飾はおろか、趣味ひとつわからない。転がっているボールペンでさえ、貰い物なのか何かの会社のロゴが入っている。他の部屋は行ったことないがきっと同じ雰囲気なのだろう。1年夕食を作ってわかったのは、彼の好きなおかずだけだった。嫌いなものはわからない。ひとつも残さず食べてくれたから。
「今日の費用で夕食代金をすべて使い切りました。食事はバランスよく取ってくださいね」
「……そうか」
「最初にいいましたけど、覚えてらっしゃいますよね」
「そうだな」
まだ寝てる?いや、ちゃんと忘年会始まる前に伝えたし、15分くらいその話題で話したから大丈夫だろう。
部屋を出ようとすると「待ってくれ」と呼び止められた。日車さんは緩めていたネクタイをしめなおし、ジャケットを羽織って、私の荷物を持ってくれた。
「戻るのは部屋ですよ?」
「今日は荷物が多いからな」
大鍋、清水さんがくれたプレゼントのお酒、カセットコンロにボンベもあるから、たしかに結構重い。
「……寂しくなるな」
日車さんの声がやけに大きく響いた。声量はなかったけど、日常に訪れるふとした音の隙間にある静寂。私が立ち止まり、エアコンがお掃除モードに切り替わり、加湿器の水が切れた。それらが上手く重なったところに彼の言葉が落ちて、ひときわ大きく聞こえたのだ。なにが?と私が聞くより早く日車さんは俯いていた顔を上げると、天井を一気に見上げる。
「いや、ない。ない」
まるでさっきまでぼんやりしていたのが嘘みたいに、舞台俳優がここにいるかのように、強く、強烈な輪郭をもって「ない」が続く。
「何がないんですか」
「いや……違う。違うんだ」
日車さんは手のひらでごしごしと顔を洗うようにして「ストーカー被害に遭った相手に、向けていい言葉じゃなかった」とつぶやいた。彼は足早に部屋を出ると、私の部屋の前までバッグを運んだ。それを私が受け取ると、今日はありがとう。と、目も合わさずに部屋に戻ろうとする。
「だ、男性全員が怖いわけじゃないですし……日車さんなら大丈夫です。日車さんが!大丈夫です」
振り返った日車さんは、目を見開いて驚いたように口を薄く開けていた。見てる。今は私の後ろの壁じゃなく、今抱えている裁判のことでもなく、私を、今、見ている。

「これからも、料理、持って行ってもいいですか」
心臓は跳ね回っているのに、声だけは妙に冷静だった。彼の喋り方がうつったのかもしれない。日車さんは視線を泳がせ、しばらくしてスーツの内ポケットから細長い茶封筒を取り出した。
「来年1年、同じサービスを頼もうと思っていた」
中に入っていたのは、結構な厚みのお札と、1枚のチラシだ。私が勤める料理教室に置かせてもらっている副業の家事代行サービスの申込書。夕食作り置きサービスに丸がつけられて12ヶ月コースが選ばれていた。
「個人的にやらせてください」
「やめておいた方がいい、雇用元とトラブルになるぞ」
「じゃなくて!友達とか、恋人とかからはお金はとらないでしょう。そういう感じで、個人の、プライベートでつくらせてください」
「……なら材料費として、とりあえず。使ってくれ」
そう言うと彼の革靴が忙しない足音を立てて部屋に戻っていった。最後にチラリと横目で私を見た視線とぶつかる。その途端、肩の力が抜けた。ふらふらと部屋にもどり、鍵をかける。多すぎるお金は明日返す。忘れないために部屋の鍵とスマホと、店の鍵をまとめて茶封筒の横に置いた。ベッドに倒れ込んで目を閉じる。

さっき私を見つめてくれた目は、あの日、階段の下で倒れていた私を落ち着かせてくれた目と同じだ。
心は治りつつある。だけど完治はなかった。未だに物陰、エレベーター、窓の向こう、電車。そんな日常の中で一瞬、体がこわばる。
だけど日車さんのあの目を思い出すと、私はなんとか踏み出せるのだ。

2021-12-05
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