※120話ifの後の話


寒い。

針が高い鼻先をツンツンと刺すような寒さに七海は目を覚ました。普段はタイマー設定した暖房が部屋をとっくに温めているはずだ。なぜこうなったか考える前に、隣にいる温かく柔らかい人が震えていないか伸ばした手が空振って、七海は眉を少し顰めたあと、すぐにそれを緩めて1人で笑った。
なぜ彼が幸福を感じたかは複雑に絡みあっていた。
みょうじがいないと今までは心配が勝った。彼女が任務先で嫌な思いをしていないか、無事に帰ってくるか。みょうじの行動は信用しているが、周囲の人間は信用できないから。
しかし今日は、みょうじは昨晩から実家に荷物を取りに行っていて、安全な不在である。結婚して初めての安全な不在の夜から七海は目が覚めて、自分が真っ先に彼女のいる方へ手を伸ばしたのは、彼女がいる生活がもう自分に深く染み込んでいて、そして彼女の帰宅する先が自分のいるこの家だということを考えて、幸福に包まれた。
それからぼんやりと、七海はなぜ今朝は寒いのか考える。頭が回らない。億劫で意味もなく寝返りをうつと、見慣れない目が彼を見下ろしていた。触ると、たっぷりとした綿の柔らかさを久しぶりに感じた。

それは「もらいました」と言ってみょうじが家に持ち帰って来たものだった。
「ポムポムプリンですか」
「え!?知ってるんですか?」
「小学校なんかで同級生が持っていましたよ」
「もちもちやわらかビッグサイズなんですよ。狗巻くんが部屋の掃除をして、ゲーセンで取ったぬいぐるみがたまってるからって、みんなにくばってくれて」
私がいない間、七海さんと仲良くねと、普段みょうじが寝ている枕の上にポムポムプリンのぬいぐるみを座らせて行ったのだ。

『昨晩は眠れなくて……随分遅くまで本を読んでいた』
みょうじの存在は七海にとって安眠剤に近い。独身時代は酒でほろ酔いにならないと眠れない日が多かったので、彼の体は実に健康になった。
なので1人になると眠れなくてダラダラと酒を飲み、本にふけり、うたた寝をして、ふと目が覚めたときにベッドに入ったから、いつもの暖房の予約を忘れていたのだ。
意を決してベッドから起き上がり、早歩きで壁にあるリモコンに近づき、強設定でスイッチを入れる。ぼんやりとした頭で時計をみると、みょうじが帰宅予定の15時にもう後15分もない。怠惰な格好をみせるのは気が引ける。
ふたりで怠惰に過ごすのと、ひとりだけ怠惰な格好をしているのは七海の中で意味がかなり違った。急いで着替えを出してバスルームに向かう途中で、ポムポムプリンと目が合う。七海が起きた反動で転がった彼は、今にもベッドから落ちそうになっていた。
昔はもっと黄色くて、頑丈そうに見えたのに、この薄いふわふわとした色合いはひどく弱々しい。七海はなにも考えずにポムポムプリンを自分の寝ていた枕に、その頭と体の境界のわからない体を寝かせると、羽根布団をかけてやった。

▼ ▼

「おかえりなさい。荷物はそれだけですか」
「これだけでした。ほとんどあっちで捨てたので」
家に帰ると、実家から持ってきた荷物の入ったダンボールを七海さんが引き取ってくれた。両親が実家を売却しマンションに引っ越すので、私物の回収と実家へのお別れをしに行ったが、進学で上京したときに整理していたので持ち帰るものはほとんどなかった。母からお下がりでもらったいいコートと、七海さんにお土産と父から渡された焼酎と果物の方が私物より重い。

「寝てる……」
部屋では七海さんが普段寝ているスペースに、ポムポムプリンが横になっていた。ちょうど3対7、てっぺんから3の部分が頭判定されて枕に乗っている。なんだか私がベッドに置いていった時より、ご機嫌そうに見えるのは気のせいだろうか。ぬいぐるみを優しく扱ってくれる人……好きだ……七海さん……好きだ……。言ったらたぶん恥ずかしがってベッドから出してしまいそうなので言わないでおく。時間は15時を過ぎたところで、これから何をしようかと考えているとスマホに新田ちゃんからメッセージが届いた。
『当分使わないんで、いいときに高専まで乗ってきてください!せっかくなんで遠出とかに使ってやってください。走らせないと駄目になるんで』
両親が荷物を運ぶというのでレンタカーを手配する予定だったが、新田ちゃんが最近使っていないという彼女の車を貸してくれた。東京に帰ったので返しに行くと連絡を入れていたのだが、急いではいないらしい。

「七海さん、今日予定ありますか」
「なにも決めていませんよ」
「荷物を運ぶのに新田ちゃんの車を借りたんですけど、まだ借りてていいみたいで、せっかくなんでどこか行きませんか」
七海さんは父からもらった苺をザルにあげながら「海に行きたいです」と答えた。
「日本の海に行く機会は、もう無いでしょうから」
「どこか行きたい海あります?」
「……車で1時間半ほどかかる上に、私は昨晩飲んだので行きの運転を頼むことになってしまうのですが」
「任せてくださいよ、行きましょう!」
「帰りは運転しますので。すぐ用意して来ます」
「なら下でエンジンかけときますね」
私は出ていた格好なのですぐに出られる。すぐに戻れば、車内もまだ暖かいだろう。

駐車場に降りて来た七海さんは、さっきまで着ていた濃いグレーのカットソーと黒のスラックスに、暗めのキャラメル色のチェスターコートを羽織って、任務用とは違う淡いブラウンレンズのボストンメタルフレームサングラスをかけていた。オフのモデルみたいだった人が、たった数分で現場入りする俳優みたいになってしまった。スマホ、後ろのバッグだ。後で撮らせてもらうしかない。
「よろしくお願いします。新田さんらしい車ですね」
オレンジのハスラーは持ち主の新田ちゃんによく似合っていた。カーナビに沿って走り出してすぐ、七海さんはバックミラー越しに後部座席でシートベルトをしめられたポムポムプリンを2度見して「少し苦しそうですね」と呟いた。

「駐車場があるってことは、昔は車を持ってたんですか?」
「いえ。賃貸に自動で入っているだけです。購入も考えましたが、乗る機会と維持費が釣り合わないので。ただ、マレーシアに行ったら買わないといけませんね」
「欲しい車とかあります?車の購入についても冥さんに聞いてみようかなと」
「特に好きなメーカーは無いですが、とにかく安全で頑丈なものが……」と七海さんは言って考え込み「唯一、ベンツはイヤな思い出が多いので避けたいです」と続けた。嫌いな上司が乗ってたのかな。
この時期に海に行く人は少なく、目的に向かうにつれて車がどんどん減っていく。音楽を流すこともなく、ぽつぽつと雑談を交わした。楽だ。沈黙が全然苦じゃないし、何よりさっきみたいに七海さんが遠慮なく好き嫌いを言ってくれるのが嬉しい。七海さんは私のことを優先してくれたがりだから。

▼ ▼

駐車場に車はなかった。車から降りても波打ち際は遠く、潮の香りと波の音はするのに海自体はひどく遠い。吐いた息が残さず白く風に流れて行くのに、水平線を背景にウィンドサーフィンのセイルがいくつか見えた。寒くないのだろうか。
少し温まりましょうと言う七海さんに案内された先には、シンプルな黒いキッチンカーが停まっていた。そしてその周りを囲むように設置されたベンチや椅子には、ワンカップ酒を片手にホットドッグを食べているおじいさんが1人。店員さんはこの気温に慣れているのか、それともキッチンカーの中は温かいのか、Tシャツ1枚にエプロンという薄着で私達が頼んだホットドッグとコーヒーを用意してくれた。
2人がけのベンチに座る。海の匂いにふかふかしたパンの匂いが混ざって、お腹が空いていることに気がついた。コーヒーを飲み、ウィンナーが弾けるできたてのホットドッグをかじると体が芯から温まってきた。

ふと視界の端に動く影があった。視線を向けると、猫だった。まっすぐな瞳でこちらに向かってくるトラ猫は足が太く、全体的に丸く大きく、ずんずんと進む姿は貫禄があった。私はスマホを出して「猫 パン 食べる」・「猫 ウィンナー 食べる」と検索ボックスに入力した。
「食べさせるな」という簡潔な検索結果を七海さんと読んで猫と目を合わさずにいると、猫は私達の足にまとめて体を擦りつけ去っていった。ホットドッグをもらうことにも、もらえないことにも慣れている。
「美味しいですね」
「えぇ。ここに来た時はよく食べていました」
「都内からは少し離れてますけど、なんでここに?」
「……後ろを見てもらってもいいですか」
私の斜め後ろを七海さんは指差した。そこは住宅地なのか、周囲にある年季の入った住宅や商店とは違い、比較的新しい屋根が見える。
「あそこは高級別荘地です。会社員時代は夏になると、あそこに別荘がある客達に資産の相談に呼ばれて、よくここまで車を走らせました。打ち合わせが終わると大体嫌な気分になるので、ここでこのホットドッグを食べながら海を眺めると、思考がまとまるんです」
七海さんは大きなため息を吐いた。白く吐き出た息は私のより広く長く流れていった。

「海の広さを見てると、自分の悩みがちっこいってか?」
知らない声の主は1席あけて座った先客の、おじいさんだった。七海さんは彼に視線を向けると、いえ、と首を振る。
「近い将来このクソみたいな仕事は全部投げ捨てて、すべての客や業務や上司とは無縁の、あの水平線の向こうに行く。と考えていました。そうすると気分が落ち着くので」
声と物腰に似合わない、荒っぽいクソの発音におじいさんは吹き出した。
「兄さん、顔に似合わずいい言葉遣いするな」
「どうも」
「隣は嫁さん?彼女さん?」
「妻です」
七海さんが答えるとおじいさんはお酒を置いて、私達が今いるコンクリートの上とその先の砂浜の境界にある白い岩を指さした。岩の下からはこの寒さにも負けず植物が生えているから突き出た岩ではなく、置かれたもののようだが、重機を使わない限り持ち運べない大きさだった。
「そこに白い岩があって、ずっと行ったら海辺に灰色のでかい岩あるだろ」
岩から直進し砂浜に降り、ずっと行った先の少し海水に入った所に、飛び込みに使われそうな大きな岩があった。その岩の側に人がいることは分かるが、何をしているかは全く見えない。そのくらい距離がある。
「あそこにも白い石があるんだ。だからな、こっちの石からあっちの石まで、旦那が嫁さんを1回も降ろさずに背負って歩ききれたら、一生別れないって伝説がある」
「あそこにいるふたりはチャレンジしたってことですかね?」
「してたんだけどな、やっぱ途中で力尽きてたな。ここ毎日散歩するからよく見るが、まあ成功するのは10組にひとつくらいだ。ここの砂は細かくてよく水を吸うから、体幹がしっかりしてないと沈むんだわ。旦那さんいい体してるからできんじゃねえか」

七海さんは黙々と食べていたホットドッグを平らげると、口元を拭って頷いた。
「……そうですね、やってみましょうか」
「マジですか」
「マジです。なまえさんが嫌でなければ」
そう答えるとおじいさんは手を叩いて見送ってくれた。どうぞ、と私の前にしゃがんで背中を差し出す彼の腰の上に座り込む。パンツ履いてきてよかったけど、七海さんの広い背中にまたがるのは罪深いことをしている気分だし、呪霊に向かうより緊張した。がっしりとした肩に抱きつくと刈り上げている後ろ髪が柔らかく私の耳を撫でて、こそばゆかった。

一気に目線が高くなって視界が変わる。足は宙ぶらりんなのに、自分で立ってるよりも安定感と安心感があった。白い石を越えて砂浜に入ると、細かい砂に沈む感触が七海さんの体を通して伝わってくる。
海には私達と同じふたり連れが数組いるだけで閑散としていた。波打ち際に近づくにつれて潮の匂いも風も強くなる。反射的に身をすくめると、七海さんの耳が私の頬にあたった。耳は火傷痕に覆われてつるりと冷たくて、これはダメだとそのまま頬を寄せていると、七海さんも頭をこちらに傾けてくれる。耳以外の頬や首はちゃんと温かくて安心した。
しかし風には抗えず、前髪はすぐにあおられて額が冷えた。うつむいて薄目で景色を見ていると急に視界が薄茶色に色づく。七海さんが、彼のサングラスを私にかけてくれたのだ。
でも彼が1歩踏み出すたびにサングラスはズレていく。七海さんの鼻が高すぎて、鼻パッドの位置が合わないのだ。高い鼻筋を盗み見て笑ってしまう。

もう半分は来ただろうか。振り返ると教えてくれたおじいさんの姿は遠く、小指の爪よりも小さくなっていた。なにもない砂浜には七海さんの深い足跡だけが続いている。先程まで目的地の岩にいた人もいなくなっていて、波打ち際を歩くのは私達だけになっていた。
海の中に入る。足首まで浸かってざぶざぶと波をかき分けて、しばらくして教えられた岩場に到着した。話し通り、大岩の下には、まるで楔のように白い石が差し込まれていた。その表面や色合いから察するに、この白い石は開始地点にあった岩が半分に割れたものだろう。
「ゴール、ですかね」
「そのようですね」
地面に降りると足首まで海水に浸かる。濡れていい靴で来てよかった。潮の香りが1番強くなって、海水は風より暖かい。その代わり胸からお腹にかけてあった、熱の残りが抜けていくのを感じた。
「ひとつの石がふたつに別れて置かれて、いい感じの言い伝えがついてしまった……みたいな?」
「でしょうね。この足場が不安定な中で女性を背負って歩くには、ある程度鍛えてなくてはいけません。海沿いなら基本は漁業ですから、あそこからここまで女性を背負って歩ければ体の丈夫さが見込めて家族を養えるという、1種の体力テストみたいなものが派生した伝承かもしれませんね」
呪術師は仕事柄、こういう口承伝承・口承文芸を重要視する。地域に根付く強い呪霊の大元が、人によって語り継がれた話にまつわる呪いだったりするからだ。幸い、ここには呪霊はいなかったが。

海水を出て砂浜に上がると、さっきまで眩しかった空は薄曇り、日没が近づいているせいか灰色の空は薄い青とオレンジが混ざる柔らかな空気に包まれていた。
足元まで来た波は白く泡立ち、消えた頃にまた新しい波が来る。濡れた足が冷たくなって来てぶるりと体が震えると、七海さんのコートの中に招かれた。寄り添っているとまた熱が共有されていく。
波が寄せては引いて、雲の隙間から日差しが細く落ちる。コートの中は温かいが、外に出ている足先はやはり冷たい。七海さんが保湿に使っているデンマーク産のボディローションの匂いがする。シダーウッドの甘さとスパイシーさを持つドライな香りらしいが、彼の匂いと混ざってスパイシーさの角が取れて、丸く柔らかで温かい香りだ。それと潮が、海の静寂の中で調和していた。七海さんにもたれると、彼のコートの前が視界を半分遮る。この匂いがなければ、洞窟の中から外を見ているように錯覚しそうなほど、景色は幻想的に見えた。

「私が背負ったことがあるのは怪我人か遺体だけでした」
七海さんがぽつりと、水平線に視線をやったまま呟いた。
「今の私は、今まで考えたどの将来とも違う。なまえさんみたいな人と出会えることも、自分が結婚するとも、海で生きた人を背負って自分がこんなことをするということも、考えたことはありませんでした」
「背負って歩いたの、よかったですか?」
「えぇ、とても。いい思い出になりました。……最近考えるんです。次に目が覚めて、今までのなまえさんとの出会い、すべてが夢だったとしても私はそれを受け入れると思います。そのくらい想像できなかった日々なんです」
「……同じことを考えたことがあります」
「なまえさんも?」
「きっと、1度でも非術師の生活を送ったことがある人は、あるんじゃないですかね」
私達は普通じゃなかった。だから平穏な日々を取り戻そうとするほどに、それを失った。今までは海なんて行く気にならなかった。人が多いと呪霊がいるから。でも今からは違う。

「夕日を見て帰りませんか」
私に目を合わせるためうつむいてくれた七海さんの鼻先は赤くなっていた。クォーターの彼の肌は、私なんかよりずっと敏感に気温に反応する。セットされていない髪は彼のおでこを隠していて、いつもより幼く、穏やかに見えた。もし呪霊がいなかったら、ずっと普通に生きられたら、こういう表情で七海さんはずっと暮らしていたのかもしれない。
これからの生活は、もう呪霊に立ち向かわなくていい。穏やかに過ごしていける日々を増やしてあげたい。温かい所に入れてもらったおかげでぬくまっている手で、その頬に触れた。七海さんは目を少し見開いたが、私の手の甲をやわく掴んで、彼の鼻筋に移動した。やはりそこは冷たかった。
「あの海の向こうに、ふたりで行くんですよ。あっちでは毎日、海が見られますから」
はっきりと伝えると、指先に彼の細まった目尻が触れた。

2021-11-18
- ナノ -