報告書を書くにあたり、ことのはじまりを整理しようと思う。
始まりは、窃盗や強盗を行う式神使いの呪詛師捕縛に向かった学生2名が、同士討ちをして怪我をしたことだった。単純なフレンドリーファイヤだと思われていたが、殴った学生は「相手が自分の中学の同級生を攻撃しようとしたから、仕方なく戦うしかなかった」と話した。
もちろんそんな人間は現場にいない。詳細を調べた所、その現場には件の式神使い呪詛師(学生により捕縛済)、学生2名の他に、もうひとつ残穢があった。そしてそれと同じ残穢が殴った学生からも発見された。

式神使いの呪詛師を尋問すると、出てきたのは不沼という男の話だった。この男の術式は対象の記憶にある特定の人物の顔や姿を、不沼の顔や姿に差し替えることができるというものらしい。つまり殴った学生はその術式にかかり、不沼が中学の同級生に見えていたということになる。
そして呪詛師は不沼と組んでいたわけではなく、彼がずいぶん昔に別れた恋人の外見記憶が、不沼の外見に差し替えられ、不沼を元恋人と信じ込んで唆されるまま罪を犯していたらしい。術式から開放された後に残ったのは、自分が知らない男を元恋人として扱っていた記憶。精神的なダメージは大きく、不沼のことを吐かせるのに数日かかったそうだ。そりゃめっちゃ嫌だ。

術式を解いて学生にかけたあたり、術式の対象は1人まで。そして準2級学生を倒せる実力もないので不沼は上級呪詛師には認定されなかった。だが、呪力で体は強化できても精神は守ることはできない。偶然に術師が遭遇した場合に同士討ちを起こされると危険なので、早急な捕縛が決定された。私を含め、準1級術師3名がアサインされた。1人が術式を受けても、残り2人で制圧する流れだ。
そして今日の昼に、じゃんけ……1番無害そうという理由で私が最初に不沼と接触することになった。窓がマークしていた不沼は報告になかった女子高生と腕を組んで歩いていた。向かう先はホテル街。
不沼が暗がりに入ってすぐ、私はその肩をつかんだ。すると隣にいた女の子が私を突き飛ばそうと体当たりをした。普通の子どもが出せるはずがないパワーがあって、おそらく術をかけた人間に自分を守らせるための操作もしているようだった。
彼女をいなして地面に転ばせ、逃げようとした不沼に脚払いをかけた。瞬間、不沼が不自然に体をねじり顔面をこちらへ向ける。その顔には特殊な図形が浮かび上がっていた。術式発動の掌印や詠唱の省略のために、札や呪具に施して用いるものを、不沼は顔面に施したのだろう。私はできる限り速く、その顔面に拳を入れた。骨ごと図形が歪み、不沼は数メートル先に飛んで気絶し、倒れていた女の子は体の痛みに泣き出した。転がった不沼は報告にあった本人にしか見えない。術式を私にかけようとして女の子を解放し、そして印の変形により術式は不発で終わったのだと結論づけ、任務は終了した。

ここまでが今日の任務のあらましである。
なにもせずに済んだ術師2人は次の任務へ向かい、私は不沼の移送に付き添った。高専に無事送り届け、意識が戻るのを待つあいだは事務処理をしようと自室に向かう途中で肩を叩かれた。
振り返ると男がいた。髪は白く、目の周りに包帯を巻いていて、腰の下まで隠す丈の上着から出た長い足。彼は落ちてるものを見るように私のことを見下ろした。デカい。2メートル近くある。

「お疲れー。任務、思ったより早く終わったじゃん」

彼は私のことをまるで前から知っているように、彼自身の任務について話してきた。禪院の当主や今年入学の東堂くん、その師匠の九十九さんみたいに、呪術師の中にたまにいる初対面なのに距離感バグってる人か?
そういうタイプは話をあわせるしかないので適当に頷いていると、彼は足をとめて首をかしげた。
「なーんかさ、変な匂いしない?いつもと全然違う。香水でもこぼした?」
見上げるほど大きい背が、想像していたより上で曲がる。正しい体の動きなのに足が長すぎて私の頭もバグった。窓に映った彼の姿で、人間から餌をもらうキリンを思い出した。
彼は私の首に顔を埋めて匂いをかいだ。そこは被害者女子が泣きじゃくって顔を埋めていた場所で、その子の香水がうつったのだろう。
「やっぱ変な香水の匂いがする」
頬まで擦り寄せてくる彼からたまらず距離を取る。事務室にかけこんで、ぎょっとした顔で私を見た伊地知くんに聞いた。
「あの白い髪のデカいひと誰?!京都の人?」
伊地知くんは廊下に突っ立ったままの白いデカい人を見て、私の顔を見て、うつむいて、たらたらと汗を額から流して言った。
「みょうじさん。不沼の術式にかかってます」
そして私はこの空き教室にデカい彼と隔離されたのである。





以上のことを当たり障りのない文章に書き変えてサーバーのフォルダに提出し、差し入れでもらったサンドイッチの袋を手に取る。食事中も仕事しなきゃいけない時によく食べるサンドイッチだ。中身はハム、たまご、辛子入りマヨネーズ、レタス、トマト、ツナ。サンドイッチの具なんていう些細なことは、ひとつも間違い無く覚えている。それなのに隣の席でノートに視線を落とす彼だけが記憶にまったくない。

「え?僕のこと忘れたの?……あっちゃー…………じゃあ、初めましてだね。僕は悟。苗字は嫌いだからあまり名乗らないんだ。そのまま悟って呼んでください」
私が彼を忘れているということは冗談にできないほどおかしなことらしいのに、彼はひどく軽く挨拶をした。
「記憶はあるよ。記憶を消すなんて大業なこと、早々できやしないから」
悟さんは呪力の動きが見えるらしい。じっと私の顔を見て言った。
恐らく不沼は術式で悟さんになろうとしたが、印が歪んで術式失敗。悟さんから不沼に入れ替わる一瞬の隙間の空白に、悟さんの記憶は脳の奥に落っこちてしまったらしい。
それから彼の提案で、彼と共にこの空き教室に隔離された。不完全な術式は予想外を生むことが多いので、不沼の目が覚めるまで一時的に彼以外の刺激をシャットアウトするのだ。殴った感覚からして、不沼は数時間後にはきっと目が覚めるだろう。それまでの辛抱である。

彼のペンがノートにこすれる音がする。この業界に新しく入ってくるのは圧倒的に学生が多くて、日々会うのは顔なじみの人ばかり。だから知らない同世代がそばにいるのは、靴を左右逆に履いているようで落ち着かない。苗字を嫌うってことはきっと家系術師。一般社会では見られない奇抜な外見は、あっちの世界に縁がない根っからの呪術師だろう。そういうタイプは若手の育成を考えない人ばかりなので、彼が教師というのは意外だった。
「みょうじさん。どう?疲れてないですか?」
日が落ちた窓の外を見ながらサンドイッチを食べていると、彼はペンをおいて話しかけてきた。
「元気ですよ。悟さんは学生のノートチェックですか?」
「そう。僕はそろそろ終わりです。みょうじさんは」
「私はあと1時間くらいですかね」
最初こそ距離感は異常だったが、もう適切なパーソナルスペースを取ってくれてるし、目が隠れているものの顔の表情も、声の抑揚も、日々学生を相手にしているだけあって、とっつきやすい。私をこの部屋につれてきた時も「この部屋のことは覚えてる?そこ段差あるから気をつけてください。パソコン用のコンセントはそこです。覚えてるの?それはよかった」と世話を焼いてくれた。呪術師は変な人が多いから、これは学生から人気あるだろうな。
もう日が落ちちゃったな、と彼も同じことを言って、大きく伸びをした。

「もしよかったらみょうじさんの仕事が終わった後、僕の部屋で少し飲みませんか?部屋といっても自宅代わりに高専の寮を借りてるものですけど」
「……いいんですか?沖縄から帰ってきたばかりでは」
最初に会った時に、一昨日からの沖縄出張から戻って来て、すぐに授業で疲れちゃったよ。と彼は愚痴っていた。
「いいんですよ。不沼は腕が悪い。もしかしたらこの状況が1時間後に終わるかもしれないし、1年続くかもしれない。だからお互い息抜きと、もしもの時の自己紹介も兼ねて」
腕の悪い呪詛師の悪巧みが暴走して、たびたび任務となって私たちの元にやってくる。術式が解けるまでは高専にいるつもりだし、その間はひとりか彼としかいられない。それなら飲んだ方がいい。
ね?と彼は首をかしげる。体格に似合わない可愛らしい動きだった。頷くと彼は口角を上げて「下まで行ってつまみとか買ってきます」と楽しそうに出ていった。男性と2人で飲みなんて久しぶりだな。前はたしか伊地知くんの愚痴を聞く会を硝子ちゃんと企画したけど、彼女に仕事が入って、伊地知くんと2人で夜中まで飲んだ……あの仕事ができる伊地知くんがなんの愚痴を言っていたか、思い出せなかった。


▼ ▼


職員寮に使われる建物は本館から少し遠いが、高専所属の術師がホテル代わりに使うので学生寮より広めだ。
彼の部屋はきちんとしていた。ベッドとソファは体格に合わせて大きいが、あとはローテーブルやテレビという一般的な家具が配置されている。物は少ないが寂しげではなく洗練されて見えるのは、家具の材質がレザー・ステンレス・同じ種類の木材と、統一されているからだろう。雑貨がほとんどなくて部屋も片付いていて……いや散らかすほどものがないんだろうな。彼の背丈ほどありそうなコートスタンドに大雑把に引っかけられている黒いジャケットだけが、人が住んでいるということを示していた。
「そこ、座っててください」
「敬語はいいですよ。元々私にタメ口だったんじゃないですか?」
彼は冷蔵庫のドアの向こうに隠れてしまった顔を出すと「バレたか」と笑った。片手でビール2缶持ってるよ。手もでっかい。
「うん、その通り。だけど今の僕らは一応初対面なワケだし。今まで通りに振る舞うのはちょっとね」
「気にしなくていいですよ」
「そう?じゃあ、お言葉に甘えて。でもみょうじさんも僕にタメ口だったよ。だからみょうじさんもよろしく」
「悟さんはいくつ?」
「みょうじさんのひとつ下。だから悟さんは違和感すごいから、いつも通り悟くんがいいな。はいどうぞ」
手渡されたビールは私の好きな銘柄だし、冷蔵庫から次々と出てくるおつまみは宅飲みの時に必ず買うものばかり。本当にこの人、私のことを知ってるんだな。
そして彼の前にはビールは無く、コーラとオレンジジュースが並んでいる。
「悟くんはお酒飲まないの?」
「そ、下戸で飲めないの」
「かなり飲めそうな雰囲気なのに」
「よく言われる。みょうじさんが滅茶苦茶飲めるのは知ってるけど、冷蔵庫には8本しか入ってないからね」
「どうも。お酒とおつまみでいくらでした?」
「いつもみょうじさんの部屋で飲んでたから、今日は僕のおごりで」
この話は終わりと言わんばかりに、彼は自分のコーラを私が持つビールにぶつけた。そのまま缶を開けると、一気にコーラを飲み干してしまう。500mlの缶だぞ。
「僕ね、下戸だけどすごい甘党なの」
悟くんはマカダミアナッツチョコを口に放り込む。すごい自己紹介された。

私はビールを開け、悟くんはコーラとオレンジジュースを交互に開けていく。
1発目の自己紹介でキメたとおり、彼のつまみは甘いものばかりで、私のために用意してくれたチーズや缶つまをたまにつまむ程度。彼の話し相手になれるか心配だったが、同じ高専にいるので話題は共通のことばかりで会話も弾んだ。
「悟くん、ビールのおかわり貰います」
「どーぞ。僕のオレンジジュースも取って」
手元のビールがきれたのでキッチンへ残りの全部をいただきに向かう。冷蔵庫の中も今日のつまみや飲み物以外は空っぽ。彼もまた激務の人間だなぁ。部屋に戻ると、彼はソファで横になっていた。
「お酒の臭いで気持ち悪くなりましたか」
「それは大丈夫。すこし頭が痛くて」
「……薬もらってきましょうか?」
「いや、さっき飲んだから平気。すぐに効いてくると思う」
弱々しい声とは逆に、彼の口元はにんまり笑っていた。
「どうしたの」
「いやなんでも」
「……頭あげて。クッション入れるから」
彼を見下ろす。会った時とは真逆の位置になってしまった。ソファ端で私の肘置きになっていたクッションを頭の下にさしこむと、髪の毛やソファに挟まれて目を隠す包帯はもみくちゃになっていた。彼が片手でそれを雑に引き上げて取り払うと、思ってもみなかった色がそこにあった。
「びっくりした。キレイな色だね」
「でしょ?この目くらいしかいい所がない」
「えぇ?顔はすごく整ってるし、スタイルもいいのに?」
彼は私をじっと見て数秒黙っていたが、声を出して笑い始めた。モデルみたいに決められた角度の笑い方なんてない、顔をくしゃくしゃにした笑顔はとても幼くみえた。顔が小さいのに目は大きい。まつげもバサバサで、でも四肢はびっくりするくらい長いから、かっこよさの中に可愛さがあるアンバランスさだった。
「そういってくれるのすごく嬉しいよ。好み?」
「モテる人の言い回しだ。かっこいいよ。でもよく言われるでしょう」
「いや?」
「え、えぇ?いやいや、そのへんの通りを歩けば、鯉に餌やったみたいに群がってくるでしょ、スカウトマンが」
「されたことないなあ」
世の中狂ってるのか……?ビールをひとくち飲み、ソファの下のラグに座り込む。やっぱ世の中おかしいわ。私がソファに座らないと察した悟くんが体をずりあげた。横を見ると、黒革を背景にしたせいでシャープな顎がはっきり見えた。
「本当にかっこいいよ」
そう言うと悟くんの頬はじわじわと赤くなっていく。嘘じゃなくて本当に言われ慣れてないんだな。……あんまり人の外見に言及しすぎるのも良くないな……。部屋を見回して、別の話題を探す。
「家具のセンスがすごくいいけど、悟くんの家ってここだけなの?」
「ん?どういう意味?」
「高専の寮室をもらってる人って、別に家がある人が多いから」
「あぁ……ナルホド」
別に家があるけど、激務で帰れなくなって寮室をもらうというケースが多いのだ。悟くんは少し体を起こすと、スマホを取って1枚の写真を見せてくれた。平屋建て日本家屋。柱は黒ずみ、玄関引き戸の格子は所々折れて、ガラスはくすんでヒビが入ってる。その家の前にはウニのようなツンツンとした黒髪の少年が満身創痍という感じでしゃがみ込み、周りにはポカリのペットボトルが彼を取り囲むように置かれていて、地域猫がそれを見ている。
「情報が多い……」
「この人間の子は僕の知り合いの子だから気にせず。後ろの平屋が使ってる家。実家の持ち物だけど誰も使わないから」
「そっちの家具もこんなかんじ?」
「ここまでは揃えてないけど、好きなのは何個かあるよ。どうして?」
「この部屋のはバウハウスデザインっぽくて、いいなと思って」
「あたり。ドイツのブランド」
「じゃあこっちの平屋がメインハウス?」
「いいや、こっちがメインハウス。高専でできないことだけ、こっちでって感じかな」
それって何?と聞こうとしてやめた、が。彼はもう構えていたようで「僕とみょうじさんはそういう関係ではなかったよ」と笑った。それは構えすぎだ。しかしうっかり踏んで気まずくなりそうな話題だから、言ってもらえてよかったけど。
不沼は、対象の記憶の中で自分と入れ替える人物を自由自在に記憶から選んで……なんて不沼の腕ではできない。家族・恋人・初恋の人・親友など、大枠の要素だけ決めていて、その人と自分を自動で入れ替えている。けどその条件が分からない。式神使いだと元恋人。学生は中学のときの恋愛関係になかった同級生。その2つに共通する要素なんて今の段階じゃ思い浮かばなくて、早々に彼が私にとって何者なのか考えるのをやめていた。

「みょうじさんが誰とも付き合わない理由は教えてもらった。そのくらいは懇意にしてたからね」
「そっか……悟くんは付き合ってる人は?」
「いないよ。なんで?」
「いたらこの状況はパートナーに失礼だからさ」
「なんだ。僕に興味があるのかと思った」
それはないけども。と、切り捨ててしまうのはそれはそれで失礼だ。どう言うのが上手い返しなのだろうか。こういうやり取りをしてこなかったせいで、今ここで困るなんて。記憶喪失なんてなるもんじゃないなぁ。彼はまた大きな青い目を瞬かせてこちらを見てくる。
「ゴメンね、困らせる気はないんだ。ただの冗談だから気にしないで。ちなみに、みょうじさんってどういう人が好みなの?」
「……そうだなぁ」
悟くんが投げた球を自分で拾ってくれたおかげで助かった。なら好みくらいは答えたほうがいいだろう。あんまりないんだけど。
「穏やかで優しい人かな……」
「……それって僕はひっかかりそう?」
なんで拾った球をまた投げてくるんだよ。
今日の彼を見ていたら、引っかると言えばひっかかりそう。でもそれを答えたら記憶が戻った時にすごく気まずいのでは?言葉を濁すために飲もうとしたが、もうすでに8缶全部飲んでいたので返事も待たずに悟くんのコーラを1缶もらって飲み干す。500mlはやっぱ無理だなと思いつつ、今日1番の一気飲みをする。その途端、強烈な甘さが脳にエネルギーを運ぶ。糖は脳の栄養だ。ぐらりとめまいがして、今日はすごく疲れていたことを自覚した。

そうだな、糖は脳の栄養だ。
コーラ缶をおいたと同時に彼はソファから起き上がり、出会った時のように私を見下ろした。
「みょうじさん。どう?」
「……まあ、五条がずっとそうなら、私は本当にひっかかっていた、かもしれない」
五条は吹き出して、大笑いした。


▼ ▼


なまえ先輩はラグに倒れ込むと「記憶喪失、怖すぎ」と言ってコーラの缶を握りつぶした。
「そんな怖い?」
「記憶が無かった自分に記憶が戻って、今日の五条とのやり取りが地続きになる瞬間、得体が知れない感覚が襲ってくる。それが怖い」
先輩は起き上がるとソファに座って大きくため息をつき、「記憶が戻って、よかった」と低い疲れ果てた声で吐き出した。
「今日、記憶が消えたのって偶然だよね?五条が計画したわけではないよね」
「あれは本当に偶然。驚いたよ。でも、不沼はホントに残穢からすぐ分かるくらい腕が悪いから心配なかったし、実はどのくらいで術式が切れるか分かってたんだよね。だから前からずっとやってみたかったことをやれた」
「……それって?」
「僕さ、先輩との初対面、最ッ悪だったじゃん」
「自覚あったんだ……」
学生の頃の僕はまあまあやんちゃで、先輩のことを最初は談話室に漫画や雑誌を置いてくれる人としか思ってなかった。珍しい構築術式が使える人と傑から聞いて、アイツが高く評価するもんだから、ちょっとした競争心と、初めての先輩という存在へのナメた態度があって、必要以上に大きな態度で会いに行ったら、予想よりいい意味で普通の人間だったので拍子抜けした。だから八つ当たり的な気持ちもあって必要以上に態度を悪くした。その失敗がこんな将来まで自分の中で後を引くとは、当時の僕は考えてなかった。
「だからやり直したいなって思うこと、結構あったんだよね」
「それでか……。あのキャラ作りはそれのため?」
「そう。先輩って優しくて、礼儀正しくて、まともなヤツが好きじゃん。僕は覚えてるよ、先輩の親戚のこと。だから大人になったこのGLGの本気のなまえ先輩落とし特化型振る舞いで、悟くん大好きッ!惚れちゃう!って気持ちにさせようとしたんだけど。時間足りなかったね」
「突然記憶喪失になった人間に、瞬時にその振る舞いをすると決めて実際するのが怖い……。騙すな先輩を」
「こんな機会そうそう無いんだから、やるでしょリメイク。後輩の好奇心くらい許してよ」
「コレはリブートじゃん。しかしあの頃も、今も、好みなんて強いて言えばって感じだよ。もうあってないようなもの」
確かに。先輩の好みからしたら学生の僕って1番先輩の好みから外れてる。それなのにこんなに可愛がってもらえてるのは、本当に特別って感じがして気分がいい。

「頭痛は?まさかのホント?いつもの仮病?」
「仮病。僕もう反転術式で体調不良ないってバレてるからさ。心配されるチャンスも今しかないなって」
「逆に清々しい……」
ピースサイン2つ作って見せたらデコピンされた。甘んじて受けた。
最初から恋人設定で先輩の様子を見ようとも思ったけど、それやったら不沼と同類だからやめた。頭痛と言った時に、目に見えて眉尻が下がった先輩のあの顔は久しぶりだった。まだ反転術式が使えなかった頃に、派手に体調崩して看病してもらった時以来の、先輩の僕の体を心配する顔。最強になった後の僕に向ける心配そうな顔とはちょっと違う、もう見られない表情。
思い出しているとスマホが震えて、硝子の名前が表示された。勿論、硝子には先輩にかけられた術式は時限式だと伝えてある。不沼は1時間前に目を覚ましていて、やっと記憶を差し替える相手の条件を吐かせ終わったという連絡だった。
「……なまえ先輩、記憶を差し替える相手の条件が分かったよ」
硝子からのメッセージを画面ごと見せると、視線が画面を泳いで止まった。
「……自分のことを、忘れてほしくない人!? あー、だから呪詛師が元交際相手で……あの子は……中学の頃の同級生……。片思いしてたのかな」
「いやいやいや、そこじゃないでしょ。なまえ先輩が、僕に忘れてほしくないって思ってたことにエモさ感じてよ」
「悪いな悟くん。エモいの意味、まだウマくつかめてないんだ」
なまえ先輩はすっきりとした顔で「まぁ、そう。そうだね。忘れてほしくないね」とあっさりと言って頷いた。叫んでガッツポーズキメたら、冷ややかな目を向けられた。色々やったけど、この反応が今日イチ嬉しかった。最高。抱きしめたら先輩は抵抗せずに、疲れた……と体をだらりと弛緩させた。
硝子でも歌姫でも、家族や僕の知らない友人知人でもなく、“僕”に忘れて欲しくなかったのを認めるのはかなりの告白だってこと、まだ疲れてるのか理解してない。いや、先輩は自覚があるほどこういう話に不慣れだから気づいてないんだろうな。僕にズレてるって良く言うけど、なまえ先輩も結構ズレてるんだよね。僕に得なことが多いから一生指摘はしないけど。
なまえ先輩からは、もうあの知らない香水の臭いは消えていて、酒と僕の部屋の匂いがした。おかえり。

2021-10-17 リクエスト作品
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